もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

新形肺炎と個人情報

2020年03月06日 | コロナ

 新形肺炎の拡大と個人情報の取り扱いが反比例している状況となっている。

 新形肺炎感染者の発生当初は、「〇〇県在住の**代の男(女)性」的な発表であったが現在では市区町村までは発表されるようになり、感染が疑われる場所についても「スポーツジム」程度の曖昧表現がクラスター感染なる言葉が定着するにつれ施設名まで公表されるようになった。それぞれに一長一短があり、どちらが正解と即断はできないと思うが、当初の発表は生活や自己防衛のためには全く役立たない情報で、かえって不安感を助長させるだけであると思える。例示すれば当初は神奈川県在住者とされていた感染者が相模原市の居住者であり、千葉県内のスポーツジムと発表されたのは市川市の某フィットネスクラブであることが後に公表された。両者ともに、曖昧表現がピンポイント表現に改められるまで1月近くが経過しており、その間に感染した人は「まさか相模原ではないだろう」「どこか他所のジムだろう」という希望的推測で生活し続けたことが感染拡大の遠因であったことは否めないと思う。一人の感染者が2人に2次感染させれば3次感染者は4人となり、将にネズミ算的に感染者は増加することになる。さらに曖昧表現の弊害として、静岡市の健康な60代男性が感染者としてSNS等で名指しされるという被害を受け、医療機関から収容先を手配するまで自宅待機を要請された蒲郡の感染者は氏名が公にされていないために飲み屋に出かけていることも報じられている。このような状況を考えると、感染拡大や風評被害局限を図る上からは、積極的に個人名や施設名まで踏み切んで情報公開する方が有効であるように思えるが、門扉にダビデの星をペイントされたユダヤ人と同じく、当該者にとっては差別に直結し白眼視に耐える日常を余儀なくされることになるだろう。古来から火事と葬儀の二分を除いて地域社会が個人を無視する「村八分」という風習があったが、新型肺炎感染者のそれは「村十分」の様相となるのではないだろうか。感染拡大にはピンポイントの情報公開が有効であるが、個人生活を守るためには情報をある程度オブラートに包む必要があり、この兼ね合いとジレンマは永遠の課題であるようにも思える。

 自分としては、公開されるのは市区町村名と判明したクラスターの名称程度で十分と感じており、それでも感染した場合には身の不運とあきらめようと覚悟している。しかしながら、誰かが感染者と云う噂が立った場合には、さりげなく避けようとするのではないだろうかという一抹の不安をも感じてもいる。


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