もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

八重山毎日新聞の社説に思う

2023年07月23日 | 報道

 八重山毎日新聞の社説が波紋を広げている。

 事の顛末は、同新聞が社説で《自衛隊員と家族は人口に含まずに公表すべきではないか。そんな意見があってもおかしくない》と述べたものの、批判を受けて謝罪したというものである。
 未だに前時代的な主張がなされることにも驚いたが、それ以上に驚いたのは、引用記事中に赤太で表記した個所である。
 社説とは、新聞社の主張であり紙面全体の編集・記事の根底を成すものであると思うので、そのように他者の意見を借りる形で責任を逃れるべきでは無い様に思う。書くとすれば、《自衛隊員と家族は人口に含まずに公表すべきである》と新聞社(主筆)の意見を主張すべきではないだろうか。閑話休題
 記者が取材対象に質問する場面が放映されることが多いが、記者が「一部には○○のような意見もありますが・・・」と他人の意見を借りる形で質問する場面が多い。そのたびに自分は、”誰がそう主張するのだろうか”、”本当にそういう主張があるのだろうか”、”記者の個人的意見では”と常々疑問に思っている。かって石原慎太郎(当時東京都知事)氏の囲み取材で、同様の問いかけをした記者に石原氏が「誰が?」と問いかける場面を見たが、記者は「いえ、一般論で」と不得要領の答えをしていた。
 何故に記者は「自分は○○と考えますが」とか「××社の世論調査では○○ですが」と前提を明らかにして質問しないのだろうか。
 メディアの取材や編集に暗いので憶測の域を出ないが、日本のメディアには、「記者に害が及ばないように一般論として取材」したものを「責任が曖昧な編集で色付けする」ことが常態化しているのではないだろうか。
 近年は聊かに改善されたようであるが、日本の報道には署名記事が極めて少ないと聞いたことがある。ウオーターゲート疑惑を明るみにし、ニクソンを辞任にまで追い込んだ取材記者は、疑惑が疑惑で終わった場合にはメディアでの居場所を失うとともに社会的にも抹殺されるであろう危険を冒してでも署名記事で報じ続けた。

 八重山毎日新聞の社説では、《自衛隊員と家族は人口に含まずに公表すべきである》とすれば、主張の是非はともかく社説としては成立したであろうと思うし、批判に対しても毅然と対応できたであろう。
 「この程度ならウケル・許されるだろう」「書いてしまってゴメンナサイ」で済ませる八重山毎日新聞社は、社説と云う重みを理解されていないのだろうし、ジャーナリストとしても未熟の誹りを免れないように思う。


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