どうしても、今日、1月17日は、震災のことを思い出してしまう。
12年前・・・・
私は、まだ今の家ではなく、播磨町のアパートで暮らしていた。妻とまだ4ヶ月足らずの娘との3人暮らしだった。
虫の知らせだったのだろうか、震災発生直前頃、私はウトウトとしていた。
そして、5:46。もの凄い突き上げる縦揺れ
「うわぁーー!」っと思わず叫んでしまった
続いて、大きな横揺れ、台所では、食器棚の扉が開き、中のコップ類が落ちて割れる音がする。
そしてやがて揺れが止まった。妻も目を覚ましていた。
すぐさま、テレビをつける。大きな地震が発生したことをしった神戸の震度は”7”
外の様子をうかがうため、外に出た。まだ日の出前、暗い。
アパートのどの部屋も電気がついていない・・・たいしたことは無かったのか?
実家に電話する。実家も両親ともケガもなく、わが家のような食器の割れもない
そう、わが家は食器棚を南向きにしていたので、揺れをモロにうけたようだ
ただこの間、まだ何もわからずぐっすり寝ていた娘、
大きくなった今、「地震の時、お前はぐっすり寝ていたんだよ」と話をしたら驚いているが・・・
妻は割れた食器の片付けを始めた。結婚して嫁入り道具として持参してきた食器だけに、その片付けは妻にとっては辛いものだった。
やがて夜が明け、私は早めに会社へ出かけた。
会社への道中、倒伏した家は、私たち加古川市、播磨町には無かった。
でも、屋根瓦が落ちている家はあったような・・・
会社に到着した。
「店は大丈夫かな?」と裏口を開けた瞬間、私の目に飛び込んできたのは、倒れ崩れたお米の袋の山だった。
そして事務所である2階にあがってみると、引き出しが全部空いて、机の上に立てていた書類は倒れ、朝からこれらの整理作業になった。
やがて、今度は取引先から電話が入る
「神戸の本社へ海上輸送で、炊き出しをするので、緊急にお米を納品して欲しい!」
次の日も次ぎの日も、お米の納品の予定が入る。そのため、仕入れの手配を行うが、神戸の米卸しとは連絡がとれない・・・
やっとの事で連絡を取れても、倉庫のシャッターが開かない、道が寸断されているので輸送が出来ない・・・何しろ仕入れ先は、東ばかりだから
翌日より、お客様の来店数、注文が一気に増加してきた。無理もない、量販店が品薄になってきたため、我々米屋に来る・・・勝手なものだね
みるみる在庫が減ってくる、仕入れが出来ない日々・・・
やがて、迂回ルートで何とか仕入れが出来るようになるが・・・
「あの時は、本当にパニックだったね。」と今日も社員たちと談笑した。
現在、仕入れ先が東や西の産地、営農業者を持つようになったのも、この時学んだ教訓の結果だ。
「もう一度、思い出してみよう、あの時を!」今日、一日は、そんな日にしたい!
50秒の揺れで、阪急沿線から南はほとんどぺしゃんこでした。
王子競技場の近くで自衛隊がいてくれたので結構たすかりました。
王子体育館が遺体安置場で、遺体を運んできたのに棺おけも無いといっている人の話、市の職員でいきなりかなづちを渡されて棺おけを作らされた人、両方とも悲惨な話です。
親戚は例の御蔵菅原や、三宮周辺など被害のひどいところにすんでいました。
とても寒い冬でした。
私も、炊き出しボランティアで、長田区や葺合などに行きました。本当にもの凄い惨状、今でも、脳裏に焼き付いています。
悲惨なお話はたくさんあります・・・子供達に伝えて行きたいですね。
決して忘れないように・・・
素晴らしいと思いました。
災害は辛い思いばかりが出てきますが、そこから学んだ事を大切にしなくちゃと常に思います。