どうして私がこの小説にこだわるのか自分でも分からなかったが、
あえて言うのであれば
タイトルであろうか。
タイトルがもたらす雰囲気というか、タイトルから類推する内容というか。
はっきり言って ピンボールというものは余り知らない。
少なくとも作者のようには。でも何回かしたことはあると思う。
だけどもそれにのめり込むほどのプレイはしていないし、
専門的なことも分からない。
今回読み返してみて思ったのは
ピンボールは別にして
設定の奇抜さということだろうか。
主人公が居て (google 画像より ピンボール)
その主人公が双子の女性と同居しているという点である。
ほぼ現実的にはありえない状況を持ってきているところに
この作者の特徴があるような気がした。
そしてこの小説のクライマックスである
見知らぬ倉庫に眠ってあるピンボールに会いに行く場面で、
ピンボールのマシン自体が擬人法で描かれていて印象に残った。
ずいぶん長く会わなかったような気がするわ、と彼女が言う。(ピンボールが彼女である。)
僕は考えるふりをして指を折ってみる。三年ってとこだな。あっという間だよ。 (小説のなかの双子)
僕たちはお互いに肯いてしばらく黙り込む。喫茶店ならコーヒーをすすったり、レースのカーテンを googleより
指でいじったりするところだ。
こんな風にピンボールとの会話が4ページほど続くのであるが---。
私はピンボールマシンの言葉をそのまま
何かの拍子で別れたガールフレンドに置き換えて読んでいた。
作者がピンボールマシンをこの上なく愛しているということを
知らしめるために(?)マシンを女性に置き換えて表現している
ということなのだろうが、
結構幸せな別れ方をした部類の女性との会話である気がした。
ピンボールマシンに置き換えて
作者はピンボールの中に自分の理想とする 例えば
過去の女性を入れ込んだのではあるまいか
と思えた。
まあ ピンボールを女性に置き換え
それとの対話を描いたのは普通である。
ただ 解釈としてその会話を別れた女性との再会として
捕らえるのは読者の自由である。
少なくとも読んでいて 私は ピンボールと作者のやり取りの擬人法の会話は
別れた恋人とのそれを連想させた。
小説の中に
少しだけ 自殺したガールフレンドの話が出てきたり
鼠と呼ばれる男の物語が差し込まれていたりして
この物語の雰囲気をかもし出しているが
ストーリーとしてはほんの僅かである。
この小説の雰囲気作りには役に立っているとは思うが、
作者がどんな意図で持って来たのかは分からない。
最後の場面はどうだったろう?
私はこの小説の最後のページを確認した。
双子の女性と分かれる場面である。
甘く切ない描写ではないけれども
作者が設定に双子の女性を持ってきたのは
正解だと思う。
ただ
双子の女性を持ってくる発想はそう簡単には
出てこないと思う。
ほぼ SFに近いような発想である。
小説は発想ではないだろうかと
村上春樹を読んでまたも考えてしまった。
その発想に違和感を覚えさせないのは
表現力を抜いては考えられない。
バスのドアがバタンと閉まり、双子が窓から手を振った。
何もかもが繰り返される-----。
僕は一人同じ道を戻り、秋の光が溢れる部屋の中で双子の残していった「ラバーソウル」を聴き、
コーヒーを立てた。そして一日、窓の外を通り過ぎていく十一月の日曜日を眺めた。
何もかもがすきとおってしまいそうなほどの十一月の静かな日曜日だった。
(小説最終部分)
双子との別れ、
ありえないと思います。
でも違和感がないです。
この最終章の部分が容易に
長編 ノルウエーの森 に続くのでしょうか。
ビートルズの「ラバーソウル」が出ていますものね。
ピンボールへの愛情がこの小説を書かせたのでしょうか?
それとも?
*作者を批評しよう、裁断しようという気など当初よりまったくありません。 googleより
あくまでも一読者の正直な感想です。ご了承ください。
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