
戦争においては、まず人を殺すということ。
合法的に、強制的に人を殺させられるということ。
戦争においては、敵を殺すことに従事する反面、自分も殺されるおそれがあるということ。
そしてもう一つのリスクは、味方を殺すおそれがあること。
戦友を、部下を、直接手を下すわけではなくても、殺めてしまうことになるおそれがあること。
では、一体、戦争では何を守るのか?
命を一方で殺めつつ、どんな命を守るのか?
第二次大戦中、日本は何も守れなかった。
いや、皮肉にも守れたのは天皇だけ。
あとは壊し、失われた。
敵によって、自らの手によって。

生きている間は辛辣だった自然 遺体となれば海が抱き、土が抱き、消してくれる 生き残った者は死者を羨ましく思うことすらあったという
戦犯として裁かれた軍部指導者にのみ、責任があるわけではない。彼らの苦悩を想像することなく安易に蔑んではならない。もちろん、彼らの中には万死に値する、心底憎むべき者もいる。そういう奴らに限って裁かれることなく、戦後をのうのうと生きた。しかし、負け戦の将として、生涯をかけて十字架を背負った人たちがいる。
前回の記事で山下奉文の言葉の中に、こうあった。
「若し私が戦犯でなかったなら皆さんからたとえ如何なる恥辱を受けませうとも自然の死が訪れて参りますまで生きて贖罪する苦難の道を歩んだでありませう…」
山下の果たせなかった苦難を、精一杯背負って生きた陸軍の将、今村均についてをここに書きたい。

開戦当初のマレー作戦(山下)、フィリピン作戦(本間)、香港作戦(酒井)に続いて行われた蘭印作戦を指揮したのが今村均であった。
今村は現地オランダ軍を抑えたあとは、現地住民へも、居留のオランダ人へも配慮し、善政を以って統治した。現地の産業や文化を尊重し、オランダ軍人には軍人のプライドを尊重して佩刀を許したため、現地では大変感謝されていたが、しかし日本の大本営はそれを良しとせず、今村は太平洋南洋の戦線、ニューブリテン島のラバウルへまわされた。
ラバウルは太平洋上の作戦展開の一大基地に位置付けられており、海軍と陸軍とで共有していた。兎角、海軍と陸軍は無用に対立するものであったが、陸軍トップ今村の温順な性格と、海軍側トップ草鹿任一の、短気だが大らかな性格で、見事な協力関係を築いたため、配下の将兵も自然と良い関係を維持し、協力、共存しえた。兵卒を守るために、地下に堅固な施設を造り、食糧自給を目指して、今村自ら率先して畑を耕した。今村は妻への手紙で、なるべくたくさんの野菜の種を送るように頼んだ。
ラバウルは米軍、豪軍によって制海権、制空権を抑えられ孤立させられたため、上陸される被害もないまま終戦を迎えた。米軍とて、ラバウルにこだわっては無駄に兵力をすり減らすことはわかっていたからだ。
今村は草鹿を伴って、降伏調印した。
今村は、部下の兵達をいち早く帰国させるべく様々に手を打つ一方で、帰国までの間は引き続き飢えさせないよう食糧自給を進め、帰国後の兵士の生活のために、帰国を待つまでの間は一般教育を施す段取りもした。
部下の戦争犯罪を裁く裁判では、各人に有利になるよう便宜を図った。同様に、草鹿も、部下の裁判では全て自分の命令のもとでのことだと証言し、罪を自ら被った。草鹿は、旧日本兵が殴られているところに割って入り、自分がめちゃめちゃに殴られたこともあった。
草鹿は裁判で無罪となったが、今村はオランダによる裁判では無罪、オーストラリアによる裁判では10年の禁固刑となった。1949年より、東京の巣鴨拘置所で服役し始めたが、かつての自分の部下たちが環境の劣悪な南方のマヌス島で服役しているのを心に病み、自分を巣鴨でではなく、マヌス島で服役させてほしいと、妻を通じてマッカーサーに願い出た。マッカーサーは今村の部下を思う心に感服し、許可を与えた。
熱風吹きさらしの、砂の上でのみじめな拘留に耐え、かつての部下を励ましながら受刑し、帰国。
帰国後は、自宅の片隅に建てた離れの謹慎部屋で過ごし、拘留中からちびた鉛筆で書きためた手記をまとめて回顧録として出版。印税は全て、帰国後の部下の生活を支えるための寄付とした。ひどい者は部下を騙り金を無心したが、今村は気づかぬふりをして応じた。

日本に限らず他国でもそうだが、敗国の帰還兵はときに市民に蔑むような目を向けられる。今村が手記を発表したのは、やんわりとだが、戦地で戦ってきた兵士たちの味わってきた苦難を知ってもらおうとしたためではないか。また、今村の回顧録の中には軍部の人間についても、同じ空気を吸っていた者の目線で書き残している。戦犯として死刑にされた将校たちの素朴な一面も記されている。それは決して擁護しようとするものでも、批判しようとするものでもなく、ごく普通の人間としての交わりであり、率直な感情なりとして記されているのみである。
軍人のイメージからは程遠い今村の、ほんわりとした日常ばかりでなく、ほかの軍人も富に人間的で、全くごく普通の人々だったのだろうと思わせられる。軍人の多くは農村出身であり、優秀でありながら家計が苦しく、学問の道に進むことのできない者が軍のエリートを目指した。
私は今村の著作は数多く読んだ。もちろん、回顧録に登場する中には警戒すべき人物もおり、恐ろしい事件もあり、策略もあり、今村自身が翻弄され我を失う目にもあったが、今村の大きな包容力が、困難を乗り越える力を生み出したようだ。余談だが、母の死をみとる話などは涙を誘った。
今村は、著作を通して、生き残った部下の生活を支え、亡くなった部下の名誉をも守った。トップの責任を重く自らに課し、実行したものだと思う。
しかし、そんな今村だが、自害しようとしたことが一度だけあった。マヌスでの拘留中、おそらく夜に、ひとり離れた場所で服毒自殺をはかったが死ねなかった。あるとき突然のことだった。
失われた死者の命を思うとき、急に耐えられなくなったのだろうか。
負け戦なしの今村は、指揮官として手腕に優れていたが、関東軍にいた頃には忍耐を強いられた戦いもあった。
恐怖、悲しみ、それはどの兵にも重くのしかかっている。しかし、それらの兵士を束ねる将には、なお重くのしかかるものがある。
決断。
誤れば、自分の死以前に、配下の多くの命を奪うことになる。そんな決断が容易にできるか。
配下の命に責任がある。
しばしば、決断するのは東京の大本営の作戦部だったりする。いや、多くの場合がそうだ。実地を知らず、現地の意見具申を突っぱね、机上で作成した、単なる願望のような作戦を命令する。その密室の机上に、故郷を離れ目を潤ませた兵隊はいない。国民もいない。まるでこの国には、彼らと陛下だけが存在するとばかりに。
本営にいた者は、玉音放送のあと自害するものが多かった。生き恥を晒してでも救いたい命を持たなかったからだ。
戦場では、山下や今村ほどのトップクラスではなくても、師団長、隊長クラスでももちろん、部下を最後まで守ろうとした人は枚挙にいとまがないはずだ。
南洋の作戦の一環で生じた1943年のギルワ撤退においては、豪雨と暗夜の中、約1000名が渡河するとき、わずか2週前に配属されたばかりの指揮官小田健作少将は、渡河できない負傷兵らとともに残り自決した。
自らが死ぬことで誰かが助かるのとはこれは違うが、戦場ならではの感情があるものと思われる。
後生の者の多くは、なにも省みずなんでも言う。誰かを悪者にして、議論は終わる。それでは歴史からなにも学べない。先人の血を垂れ流しにしてそのままだ。
そうしているうちにいよいよ今度は自分が殺し、殺されないよう、少なくとも殺さないようには気をつけねばならないだろう。
子供に言い聞かせるようなことでしかないのだが、
そのときの、その人の状況を知って、
その上で自分だったらどうするの、
自分ではなくて他の人だったらどうすると思うの
というところを忘れずに考えるべきなのである。

2015/12/3
先日、漫画家の水木しげる氏が93歳で亡くなりました。水木しげる氏は今村均にラバウルで会い、直接言葉をかけられたことがあったそうです。戦地にあって、その優しい印象に大変驚いたとか。水木しげる氏も長い生涯において、壮絶な戦争を眼にしていました。少なからず、作品に残して下さったことに感謝します。
どうぞ安らかに。ご冥福をお祈りします。