名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

『ジョーカー・ゲーム』の時代① 陸軍中野学校

2017-04-22 21:00:39 | 読書
TVアニメ『ジョーカー・ゲーム』の時代背景を俯瞰する

第一回
陸軍異色の情報機関『D機関』
その成り立ち、活動のストーリーと
実在した「陸軍中野学校」との対比




アニメ『ジョーカー・ゲーム』公式ホームページ
http://jokergame.jp/introduction/


原作
『ジョーカー・ゲーム』柳広司
『ダブル・ジョーカー』柳広司
『パラダイス・ロスト』柳広司
『ラスト・ワルツ』 柳広司




参考文献
『証言 陸軍中野学校 卒業生たちの追想』斎藤充功
『日本スパイ養成所 陸軍中野学校のすべて』斎藤充功ほか
『日本のインテリジェンス工作』山本武利
『ジョーカー・ゲームの謎』 KADOKAWA・柳広司 編
ほか


1.『ジョーカー・ゲーム』作品について

柳広司原作小説『ジョーカー・ゲーム』及びそのシリーズ全四巻の19本のストーリーは、架空の陸軍スパイ組織「D機関」諜報員らの、昭和12年機関設立から昭和16年大平洋戦争突入までの暗躍が描かれている。
小説では必ずしもD機関員がストーリーの主体というわけではなく、時にはストーリーの端を横切るだけの影のような登場もある。「もしや…」と気づいてもなぜか顔を思い出せない、というふうに。それこそが粗漏のない完全な任務成功の場合であって、逆に、機関員の派手な立廻りが主軸のストーリーは、諜報活動が想定外の事態に直面した一大危機状態なわけである。

痕跡もなく、記憶にも顕われないのが「正しい」諜報活動ならば、いわゆるスパイ映画のような後者のストーリーは本来あってはならない事態であり、そうとなれば諜報員が、自身の持てる能力を最大限に駆使して切り抜けねばならないのである。安易に殺すことも殺されることも、極力避けねばならない。

この小説の持つリアルさは、実在した「陸軍中野学校」をモデルにしているからだろうか。
陸軍中野学校では帝国陸軍に所属する組織でありながら、自由で柔軟な思考を是とする異色の教育が行われていた。
国の命運をかける重い任務を秘めて世界に密かに派遣されていった卒業生機関員たち。
すぐれて斬新な教育を受け、難しい実習を体得した、有能な選ばれし陸軍中野学校(当時の校名は後方勤務要員養成所)第1期生19名(1名は中途退学、卒業生18名)への期待は高かった。
しかし、まもなく日米開戦を迎え、中野学校の教育は、諜報活動よりも工作活動重視、やがてゲリラ作戦や前線の遊撃戦図上演習へとシフトしていき、卒業生の戦死も当然のことながら多くなっていった。

小説『ジョーカー・ゲーム』は全話が開戦前までの物語であるため、陸軍中野学校の目指していた本来目指していた諜報活動が描かれている。

「スパイは平時においてこそ活躍する存在だ。
いったん戦争が始まってしまえば存在意義そのものが失われる…。」

(『アジア・エクスプレス』より)

これは小説中、機関員の心中の言葉として語られるものだが、肯ける。しかし彼らの活躍は時すでに遅く、昭和14年〜16年、国際情勢の悪化に追いつけなかったのは、「情報は集めるより使う方が難しい。」(同作品中)の語りのとおり、「苦労して手に入れた情報がうまく機能していない」からであった。


小説シリーズのうちの11話が、第1期生8名のD機関員と所長結城中佐を登場させてのアニメ作品化されており、昨年の今頃に放映された。
本来、任務中のスパイは、個性やキャラクター性はあえて後退させるはずではあるものの、アニメとして描かれる以上、登場人物の個性が綿密に設定されていることに関しては、むしろ意外に現実的だとも思えるのは面白い。後述するが、それは中野学校の、個性をつぶさない教育方針とも合っている。
日頃アニメを見ない方でも、クールなストーリー展開と昭和戦前期の時間空間のこの作品は、硬質な情緒も味わえて鑑賞しやすいと思う。
また、全話が通奏低音でつながっているような小説の方も、読み進むうちに思わぬ方向にたどり着かされ、緊張感に毎度思わず息を吐く凄さがある。

これまでここでフィクションを取り上げたことはないが、かねてから関心を持っている年代ということもあり、作品の紹介と、多少深く鑑賞するために作品の時代背景を追って書くつもりである。(ただしネタバレしすぎないように)

第1回として今回は、陸軍中野学校を踏まえてフィクションのD機関を探り、第2回と第3回は欧州で活動した機関員のストーリー『誤算』『柩』(『ワルキューレ』含む)の背景としての仏独英事情を探る予定。以後、可能であれば、当時世界各国の最大懸念事項であった暗号技術に関わるストーリー『暗号名ケルベロス』や『ロビンソン』も紹介したいが、目下勉強中であり、書けるレベルになるか模索中。

はじめに、アニメの予告編から雰囲気をご覧ください⬇︎

『ジョーカー・ゲーム』予告編第2話〜第6話

『ジョーカー・ゲーム』予告編第7話〜第12話

予告編は公式ホームページ中にもあります。



2.スパイとは

スパイの仕事は、諜報(intelligence)、防諜(counter intelligence)、謀略(propaganda)など、情報を収集して明確な意思決定するもの、敵からの諜報探知さらに逆利用して偽情報で混乱させるもの、宣伝や情報操作によって思想誘導するものなどがある。新聞や放送などの公的な情報を分析することも含む。
全てを一人で行う場合もあるが、現地協力員とのネットワークを構築することも重要な仕事である。
得難い情報を得るためには工作が必要な場合もあり、そのためにはときに失敗の許されない破壊工作も行う。独特なツールが種々必要となるし、知識、判断力、演技力、ときに色仕掛けも重要なツールである。

スパイといえば、極秘人物が見えないように動くのが通常であるが(長期任務の場合はなりすましで別人(カバー)として周囲に溶け込むこともある)、あるべき地位を確立した著名人がスパイであることもあり、その場合、二重三重のスパイであることも多い。
欺く行為だけでも労苦を要するが、そこから真の情報を読みとって、さらに秘密裏に発信する技術や能力は、相当高いものが要求されるだろう。



3. 日本の特務機関

各国の諜報機関が、互いの国家の諜報機関についてを調べ上げるのは勿論である。参考文献『日本のインテリジェンス工作』(山本武利著)にて、オーストラリア軍が日本の特務機関についてまとめた報告書が紹介されている。実態と完全に一致するわけではないが、大変わかりやすい。

Australian Military Forces General Staff Army Headquarters, The Japanese Secret Intelligence Services Part 1-2, 1947

「日本陸軍インテリジェンス機関は、

陸軍、海軍、外務省それぞれが独自機関を持つ
外務省は連絡目的のみ、大本営が統括者
中国、満州、東アジア、シベリアで工作

平時
(ⅰ)潜在的敵国や侵略予定圏でのスパイ行為
(ⅱ)上記国家でのプロパガンダと破壊活動の準備

戦時
作戦中
(ⅲ)スパイ行為
(ⅳ)プロパガンダと第五列
占領地域
(ⅴ)国内の防衛上のスパイ行為
(ⅵ)地域住民の宣撫
(ⅶ)日本軍と地域住民あるいは地域政府との連携

情報活動に関係する諸機関
1 陸軍将校による特務機関
2 文民軍属
3 現地工作員
4 陸軍中野学校
5 昭和学校」


国内では当時あまり知られていなかった中野学校の存在が把握されていた。
たとえ拷問を受けても、防諜が本業の彼らが自白するはずはない。
中野学校についてはこうレポートされている。

「陸軍出身の場合、性格、自己犠牲の精神、高度の知性、勇気と忍耐、そして体格の強靭さに応じて選抜された。所属部隊長によって注目された者がこの組織に推薦され、通常訓練期間中、何人もの将校たちか彼を注意深く観察した。これらの将校たちが、必要とする資質を持っていると見なすと、その人物は東京にある中野学校(特務機関)の入学試験を受けさせられた。この厳しい試験を通過すると、彼は名前を変え、家族から遠ざかり、市民の服を身につけた。三年〔誤り。多くは1年以内で、例外的に1年半〕の課程を終えて卒業すると、工作員はいくつかの特別地域に送られ、そこで特務機関のためのスパイ行為を遂行した。学校での3年間に、生徒はスパイ行為、爆発物、全ての型の無線セットの操作、プロパガンダ、政治学、そして外国語の特訓を受けた。訓練のために、生徒は憲兵によって厳しく守られている工場地域に送られ、いくつかの建物への進入路を見つけるようにと指示された。生徒はいつも持ち歩いていた携帯ラジオセット(報告書によると、サイズはたったの4インチ×6インチだった)で司令部と接触するように指示された。」

正しくない部分もあるが中野学校についてをざっとつかむことができる。
陸軍将校による特務機関つまり大使館附武官や、外交官員は公的な諜報員であり、外交的な身分保証がある。それに対し、極秘のスパイ養成機関の中野学校出身者はNOC(Non Official Cover)と呼ばれるもので、身分も命も保証されない非公式の諜報員だ。
大使館附駐在武官とは、陸軍大学校をトップクラスで卒業したいわゆる軍刀組が配属されるのが常で、このブログでも紹介した山下奉文、今村均のほか、東條英機、永田鉄山、石原莞爾、本間雅晴、硫黄島で果てた栗林忠道、古いところではロシア革命に助力した明石元二郎。海軍では、山本五十六、米内光政、古賀峯一、山口多聞、源田実らが有名か。



2. 陸軍中野学校の時代背景

昭和13年(1938年)7月に陸軍中野学校は設立される。当時の海外、国内の情勢はどうだったか。

ヨーロッパは1936年にスペイン内乱勃発、反乱軍にドイツ・イタリア、共和国軍にソ連が加勢した。翌年、史上初の都市無差別空爆がゲルニカを襲う。その爆撃を行なったドイツは、1936年3月に非武装地帯ラインラントへ進駐している。さらにズデーテン併合。11月、日独防共協定締結。1937年11月に日独伊の三国防共協定。1938年11月は水晶の夜事件。ドイツの暴走にどの国も手を付けられないでいた。この間、ソ連ではスターリンによる大粛清、数百万人の処刑。

世界はヨーロッパ側だけで傾きはじめたのではない。大陸の東端にも動きがある。
昭和11年(1936年)2・26事件後、対テロ対策として軍部大臣現役武官制導入により、軍国主義体制強化。国際社会のなかでは、日本はこの事件に先立ち、第2次ロンドン軍縮会議にてワシントン海軍軍縮条約廃棄を通告しており、孤立状態のところをドイツに取り込まれた形で日独防共協定を結んだ。さらに、昭和12年(1937年)の盧溝橋事件から日中戦争に発展、忽ちのうちに『挙国一致、尽忠報国、堅忍持久』といった国民精神総動員運動が日本政府によって推進された。文部省による《国体の本義》「現人神たる天皇に絶対随順することが日本臣民の唯一生き残る道」、といった朦朦たるプロパガンダに国民は取り囲まれていった。昭和13年(1938年)、徐州作戦が日中戦争の戦線拡大と長期化を招く。
昭和13年7月、陸軍中野学校第1期生の教育が始まったのはこういう状況下だった。



3. それまでの諜報組織と中野学校設立の経緯

昭和12年当時の陸軍の諜報活動は、陸軍参謀本部第二部の四課で行われていた。ちなみに第一部は作戦課で、情報部門の第二部は比較的に軽視される傾向にあった。
四課は以下。

第五課 ソ連・独・仏・伊
第六課 米・英
第七課 中
第八課 謀略課

この謀略課はこの年に班から課に格上げとなったもので、国際情報の収集、機密情報の収集分析、宣伝工作、謀略活動、諜報活動などを行う。
これは軍の首脳部においても、諜報防諜活動が重要だとの認識が高まっていたことによる。
さらに、阿南惟幾が、国内及び国外防諜の強化を図るために科学的防諜機関の設立を命じ、当時、対ソ情報の第一人者であった秋草俊、田中新一、福本亀治によって、秘密戦実行要員養成機関として『情報勤務要員養成所』の開設準備が行われる。
昭和13年、1938年7月、陸軍省分室として『防諜研究所』が東京・九段下牛ヶ淵の愛国婦人会本部別館に開所し、第1期生19名が選ばれて入所した。翌年4月に東京・中野の陸軍電信跡地へ移転。学生は参謀本部付の扱いとなる。5月に『後方勤務要員養成所』に名前を変え、8月に『陸軍中野学校』となった。
ただし、極秘の機関であるから、施設の表札は陸軍通信研究所であり、部内での呼称は軍部調査部あるいは東部三三部隊であった。隣りの憲兵学校の出身者も戦後になってようやく陸軍中野学校とは隣りのあれだったのかと知ったそうで、平服の人たちが度々出入りするその施設の中で何が行なわれていたのかさっぱり知らなかったのだ。勿論、存在自体が極秘事項であったため、「中野学校」名は表向きには使用していなかった。
昭和20年になると東京は空襲にさらされ、中野学校も群馬・富岡中学校へ疎開した。この頃にはもう、卒業生は本土決戦要員として全国の軍管区司令部に派遣され、ゲリラ戦指揮など最前線で戦う準備にあてられていた。




4. 選抜方法

第1期生への応募は600名、選ばれたのは大学卒3名、高等専門学校卒11名、中等学校卒4名、大学中退者1名の計19名。倍率は約30倍。陸軍エリート畑の士官学校卒がひとりもいない。全員が学生あがりで、社会人経験者もいた。婚約者がいる者もいた。選考の際、妻子のある者については任務を考え除外した。入学前は、徴兵されて兵卒として軍隊を経験し、在隊中に幹部候補生を教育する予備士官学校、歩兵学校、戦車学校、騎兵学校、通信学校などに選抜入校し、教育期間が終わると原隊に戻され、そこで新兵教育に携わっていた者たちだ。
昭和13年7月から翌年8月までの1年を修了したのは18名、1名は「学業修習上不適任」として中途退学している。
2期以降は陸軍兵務局長から各校長へ候補者選考依頼、推薦候補者を書類選考、二次選考は口頭試問、憲兵司令部での身元調査。
ここで、各校に推薦を出してもらう場合、後方勤務要員についてや卒業後の任務など質問されても機密のためあまり詳しく答えられず、推薦する側も要領を得なくて困惑したという。
学校は1941年10月に陸軍省から参謀本部に移管された。
この後、太平洋戦争が始まると、防諜員へのニーズも変容し、教育内容も任務も変わらざるをえなくなった。
全体を通して、採用された者の出身は大学卒が多く、その中でも東京帝国大学(現在の東京大学)が最も多かった。早稲田や慶応も多く、海外大学卒もいた。教官も務めていた創立者の秋草中佐による、一期生修了後の振り返りとして、学生の成績は大学卒が優れ、中等学校卒は学問領域で理解が追いつかない部分もあり、1名を除きあまり良くなかった、さらに文系学生には理系知識をもっと体得させる必要があると報告している。
終戦までの7年間に卒業生2131名、そのうち戦死289名、刑死者8名、行方不明者376名。諜報員という任務上、行方不明者が多いのは当然かもしれない。やはり戦争となればこれほどの犠牲が出るものか。投入された優秀な人材が惜しい。




5. 教育内容

戦争勃発前の教育内容は秋草中佐のソ連での諜報工作の功績を生かして入念に計画された。
以下は第1期生の教育内容である。

一般教養基礎
国体学、思想学、統計学、心理学、戦争学、日本戦争論、交通学、築城学、気象学、航空学、海事学、薬物学

外国事情(軍事政略、兵要地誌)
ソ連、ドイツ、イタリア、英国、米国、フランス、中国、南方地域

語学
英語、ロシア語、中国語

専門学科
諜報、謀略、防諜、宣伝、経済謀略、秘密通信法、防諜技術、秘密兵器、破壊法、暗号解読

実科
秘密通信、写真術、変装術、開繊術、開錠術

術科
剣道、合気道

特別講座・講義
情報勤務、諜報勤務、満州事情、ポーランド事情、沿バルト三国事情、トルコ事情、支那事情、フランス事情、忍法、犯罪捜査、法医学、回教事情

『陸軍中野学校のすべて』より


その他
自動車実習、忍術、破壊(爆発物使用)、毒薬毒ガスの使い方、機密文書の試読、盗聴、暗号文作成と解読、送電線切断、金庫の開け方、手錠の外し方、スパイアイテム(ライター型超小型カメラ、万年筆型破壊器(先端に毒針)、秘密インキ、缶詰型爆薬など)

課外授業
通信学校、自動車学校、工兵学校、航空学校など
府中刑務所からスリを招いて実技指導をうけたこともある。
殺人法についても学ぶが、スパイの身上、秘密裏に瞬殺する必要があるため、毒殺が中心となる。大抵は青酸カリが使用された。


神奈川・三浦半島合宿では、水泳や爆破演習があり、共同演習を通して、それぞれ全国各地から集まった所員たちの親睦も深まった。
後期には満蒙研修旅行で1ヶ月強の時間と多大な費用をかけた訓練があった。これは、卒業後はそれぞれが単独で任務を遂行することを勘案し、旅のスタートから訓練になっている。
集合場所の新潟港の爆破を各自で立案して、集合時間までに答案提出するところから始まる。さらに、新潟では乗船する船舶の爆破とシージャックの課題、下船前に停車場の見取り図、夜行列車に乗り継げば今度は兵要地誌調査の課題、と気が休まる暇がなかった。
一般的な軍隊の作戦用の兵要地誌と異なり、地形だけではなく、諜報、謀略的観点での調査も必要になる。車窓の風景からもいろいろな状況を読み取る必要がある。学生らはこうしたハードな訓練にかなり参っていたらしいが、のちに卒業して任務についた時、こうした演習が非常に重要であったと実感したに違いない。

こんな話もある。
第2期生(教育期間10ヶ月)の実地教育では、ある日、秋草所長の演習があるとのことで集まると、「予定を変更したからお前たちは遊んでこい」ということで、9時半ごろに外出し、15時ごろに戻ってくると、自由時間で何をしてきたか行動経過を書け、と言われ、ひとりずつ質疑が行われた。デパートに行った、となると、何売り場か、売り場にどんな女がいたか、と質問されると、さてどんな顔か浮かばない。意外に覚えていないことが多いと実感、これには諜報における情報整理能力と記憶力、それを伝えることの難しさを教わった、とのことだった。


こうしたユニークな総合的な教育を受けた卒業生は、それをどう感じていたか。
第1期生の牧澤氏によれば、

「あの時代、日本人は「天皇や国家に忠誠を尽くす」ということが至誠とされていましたが、中野の教育で学生に求められたものは、国体イデオロギーよりも「個としての資質」を求められました。資質とは、「生き延びる諜報員は優秀である」ということなのです。それが中野教育の基本であったと、私は理解しています」


中野学校の教本『謀略の本義』にはこうある。

「謀略の意義 三
謀略は本質的に人道に反する性格であるがゆえに、絶対的必要のある場合以外は用いるべきではない。道義を基調とする制度を完備し秩序を確立した国家、社会においては個人、国体に関係なく、その生存発展に何ら不安がなければ必要ない。…」

「謀略の内容 一
国家間の闘争は単に武力に依るのみならず、政治、経済、思想等いわゆる総力戦の全部門にわたり行われるものである。したがって国家闘争の裏面的行為である謀略もまた、これら諸部門にわたって実施されるものである」

ここから読み取りたいのは、武力のみに頼らないで対外施策に取り組むことが、平時にも戦時にも求められている、ということである。これは謀略云々ではなく、国家社会一般の論といえる。そしてひとえにこのことを支えるために、諜報謀略の存在意義があるということが記されている。


『陸軍中野学校破壊殺傷教程』(昭和18年草案)という工作関連の教本に、こうある。

「第四章 破壊殺傷要員の戒律
一、略
二、秘上の隠密のうちに黙々と行動し、隠密のうちに、時にその屍を路傍にさらすべきをもって、あるいは青史を飾り、あるいは人口に膾炙するがごとき、一般武人の名誉のごとき、もとより望むところにあらず。
三、略
四、これを要するに感情を抑制し、冷徹、水のごとき理性にもとづき行動する他面、火のごとき熱誠を包蔵し、人に接する人間味豊富にして、自己を修むるには、神のごとき修練を目途とすべし。」

四はまるで忍者の訓戒のようだが、スパイの任務の難しさを考えれば、おおげさな話とは思われない。任務失敗、その場合のリスクは計り知れない

「破壊工作は必要以外に必要なし」
大きな工作には動員する人数も多く、時間や費用もかかる。情報もれ、連絡ミス、タイミングのロス‥人員を束ねるリーダーの力量に依存する。
必要以上に敵方にダメージを加えることも避けるべきだ。例えば、破壊する施設は基本的に生産、交通、頭脳部などだが、病院や学校、歴史的記念物などを破壊すれば、いたずらに敵方の感情を刺激して士気を高めるし、対外的な評価にも逆宣伝として影響する。計画にも実行にも細心の注意が払われねばならない。

諜報戦、防諜戦、器物や組織への破壊工作。
『音のする戦場』の戦いではなく、『Unsern War』、即ち、見えざる戦争によっても戦いが支えられていたという視点の存在に気付かされる。

加えて、上記教本の第十四章「ニ、工作要員の教育」には、陸軍に所属する機関とは思えぬ自由な発想が表出しているので記す。ここに工作要員とあるのは、中野学校生のことばかりでなく、現地で働いてもらう工作要員についてのことと考える。現地要員を選び、動かす能力も必要となる。

「二、工作要員の教育
選定せる工作要員に対し所望の教育を実施し、各人の特長を助長せしむるとともに、しかして指導員たる人物と、被指導員たる者とは、みずからその素養を異にすべくは当然なり。便宜上、集団教育を実施すること多き、個人教育を理想とすべし。何となれば、人間として個人差に応じ、その特色をますます助長せしむること、最も重要にして、画一せるところは、むしろ害なるをもってなり。何々式として一定の型に入ることは、この種隠密工作に暴露の端緒をなす恐れあり。…」

最後の一文、「一定の型に入ることは…」にあたる事が『ジョーカー・ゲーム』(『アジア・エクスプレス』)のなかでも触れられている。

因みに、この項の前の「一、工作要員の選定」には適性検査の項目があげられている。

「適性検査により威力謀略要員の具備すべき機能強度

1. 機能検査/作業速度検査
2. 知能検査/記憶力検査
3. 選別力検査
4. 構成力検査
5. 運動機能検査/握力機能検査、背筋力検査
6. 感覚、知覚検査/視触学弁別検査
7. 空間弁別検査」

これらの教育には莫大な金額がかかる。
学生のスーツだけで600着、満州への研修についても一回につき当時の旅費は相当な額ごかかるはずだが、陸軍ではしっかり予算をつけていた。ただし詳細は機密扱いなので、説明には苦慮したものと思われる。それほどこの学校に期待をよせていたことがわかる。
『ジョーカー・ゲーム』の

6. 卒業後の派遣先と任務

卒業後の第1期生に求められていた任務、それは「交代しない駐在武官」、つまり数年で任期を終える単なる箔づけの陸軍エリート駐在武官ではなく、永年、任地にあって現地情報ネットワークを操るスパイマスターになることだった。
「一期生は派遣国で生涯を終えることを命ぜられていた」

第1期生の任地は、省内のほか、コロンビア、アフガニスタン、英領インド、メキシコ、中国、ソ連、ドイツ、蘭領インドネシア、ブラジルなどたった。
先の牧澤氏の派遣地はコロンビア、次いでエクアドル。アメリカ班だった。しかし日米開戦後、ようやく1942年8月帰国。メキシコやブラジルに派遣されていた同期の卒業生らも船で帰国してきた。ただし、極秘事項なので彼らがどの地に派遣されていたかなどは互いに知らなかったという。しばらくは国内のアメリカ班で活動していたが、1944年7月に、台湾かフィリピンへ転属するよう命ぜられ、台湾を選んだ。フィリピンをえらんでいたらマニラ攻防戦で命を落としていたかもしれない。
卒業生の一部は海外に派遣されず、スパイ用のツール開発などに従事するため、登戸実験場で研究にあたる。勿論、国内での防諜任務もある。
登戸では対支経済謀略実施計画(杉工作)のための贋札印刷もやっており、中野の卒業生が工作員として搬送を秘密裏に行っていた。贋札の大量発行で蒋介石の政権下で経済的な破綻すなわちハイパーインフレを起こすことで転覆をはかる、それが杉工作だ。ナチス諜報機関のラインハルト・ハイドリヒが、イギリスに対して計画していたアンドレアス計画がヒントになっていた。アンドレアス計画は実行されなかったが、杉工作は機能した。ただし、所々の状況の変化から、戦況を転覆するほどの効果は得られなかった。




7. 暗号名『A3』

以下は『証言 陸軍中野学校 卒業生たちの追想』から。著者の斎藤充功氏が存命する中野学校卒業生を訪ね、インタビューを重ねながら明らかにした実話の一つである。

六丙 佐藤正
1944年1月〜7月 中野学校生
満州の予備士官学校卒業後、関東軍司令部参謀部第二課(情報部)に所属していた。
命令により中野学校へ。
卒業後、ハルビン情報本部奉天特務機関に所属
満鉄職員になりすまし、対ソ情報収集と抗日勢力把握に従事する。
ハルビンで手なづけていた白系ロシア人と接触中にメモをとるところを憲兵に見つかり、尋問と拷問を受ける。
中国服を着ていた上、全裸の身体検査にて満鉄の名刺と小型ブローニングを所持していたため厳しく追及を受ける。このとき、普段は使用をしないよう定められていた自分のコードネーム『A3』を告げ、身分照会を依頼。危うく拷問死を逃れ、解放された。コードネームは奉天を出るときに上官から授けられたものだった。
このあとも佐藤は満州内の各地を転々としながら情報収集に務めている。拷問で受けた傷のために、現在も歩行に難がある。




8. 創設者秋草俊の運命

当時、関東軍情報本部長は、中野学校創設に功績のあった秋草俊少将であった。秋草は、学校の設立、第1期生の教育に携わり、独自性の高い中野学校のオリジナルを形成した初代校長であった。『ジョーカー・ゲーム』の結城中佐のモデルと考えられる。
しかし、1940年に、中野学校職員と第1期卒業生3名が共謀して神戸事件を起こし、秋草は引責辞任となった。
秋草が中野学校校長を辞任したあと、中野学校は陸軍省付から参謀本部付になり、開戦も経て、秋草の構想したような秀れたスパイ学校とはかけ離れたものになっていった。
話が逸れるが、昭和19年には静岡に二俣分教所も開設されている。ここはゲリラ戦に特化した学校で、1974年にフィリピン・ルバング島から生還した小野田寛郎少尉も二俣分校第1期卒であった。昭和20年には極秘に泉工作が編成され、「地下より湧き出ずる泉のごとく」、全国に地下潜伏して、尽きないゲリラ戦を行う計画があった。

秋草大佐はドイツに派遣され、星野の名前で星機関なる、ベルリンを中心にハンブルグ、ワルシャワにも連なる諜報ネットワークを構築して情報収集や工作計画を行っていた。のちの回でも書くつもりだが、同盟国内でのスパイ行動は相当の慎重さが求められるという。
その後、終戦近い1945年には関東軍ハルビン特務機関で情報部部長として活動、16のネットワーク機関を満州国内にて束ねた。そのポイントを渡り歩いていたのが先ほどの中野学校六丙卒、符牒『A3』佐藤であった。
当時秋草は少将。
自身が優秀なスパイであり、指導者でもあった秋草だが、1945年8月9日、ソ連対日参戦の日、部長室で執務中にソ連兵に連行される。スパイを蔑むソ連はまんまと日本のスパイマスター秋草少将のスパイ狩りに成功する。
モスクワに護送され、昭和23年12月にスパイ罪で重労働25年の実刑、昭和24年3月、ウラジーミル監獄病院で死去した秋草。

しかし、スパイであった彼がなぜ易々と拘束されたのだろうか。当時、参謀本部も関東軍もソ連が侵攻してくることは予想していたものの、時期は最も後になると楽観していたのだった。この時点で、有益な諜報がされてなかったといえる。あるいは楽観論に握りつぶされたか。一部の司令官は8月初めと推察し、上部に指示を仰いでも、軍全体としてその時期の対応はしないと一蹴された。

秋草や部下は当時何をしていたのだろうか。
先の『A3』佐藤は、情報収集活動中にソ連侵攻の情報を得て、急遽ハルビンから満鉄経由で奉天へ逃れ、そこから帰国している。身分が知れれば、当然拘束されただろう。
部下のこの動きを秋草は知らなかっただろうか。
知ったとして、逃亡できる立場ではなかったに違いない。それでも軍に情報を上げられなかったあるいはいかされなかったのは失態だと思う。どのような思惑があったのだろう。
秋草同様、中野学校卒の二千数名は全世界の各地でそれぞれの敗戦があり、保護され得ない身分のままいかに生き、いかに死んだか。行方不明者376名は、実名でも変名でもなく、何者として消えていったのだろう。(3.3人に1人が死亡または行方不明)

生き残って帰国した、今は老齢の卒業生らは、今、かつての任地を訪れることがある。救ってくれた恩人の中国人に会いに、別の人はロシアの地に墓参りに行く。現地の協力者だったロシア人達は裏切り者として銃殺されたのだった。犠牲になった第五列の人々。私達にも繋がりがある人たちだったと考えるべきではないだろうか。




9. TVアニメのD機関

アニメ作品には、8人の機関員それぞれの任務の話で8話と、陸軍から出向してきた中尉の話が2話、D機関と対立する新たな諜報機関の話、結城中佐の過去の話、以上全12話で、全て原作の小説から受け継いでいるが、結末が小説と異なるものもいくつかある。
アニメ作品では、機関員名と任務の時の名が対照できるが、それにはあまり意味がない。機関員名はそもそも偽名であり、経歴も互いに偽っている設定だ。中野学校では卒業後の赴任先も互いに秘密だった。
D機関で結城中佐によって叩き込まれるのは、
「死ぬな、殺すな、とらわれるな」
という教訓だ。
死体を晒す即ち痕跡を残すことがスパイの存在を明らかにしてしまい、そこから足が付いて芋づる式にスパイ網があばかれる。情報を失うだけでなく、国家の信用にもヒビを入れる事になる。
任務失敗となれば、死を覚悟。それは選べない道なのだ。何となれば死んでお詫びの似非武士道は、許されないのである。また、死んでお詫びの逃げ道は、安易な失敗を導きかねないともいえる。
心臓が動いている限り、生きて情報を持ち帰れ」というのが中佐の命令である。これは、中野学校の「生き延びる諜報員は優秀である」の教えに通じている。

「とらわれるな」というのは、「囚われない」即ち拘束されないという意味ではないようだ。原則や通則に「捉われない」ことで、発見したり発想したりする。急襲された場合、武器を探すのではなく手近な物品で即座に反撃する。固定されない多角的な視点で見直す。さらに、感情にとらわれないということも重要である。自分という存在にすらとらわれないことも必要である。この思い、この感情を捨てたらもう自分自身でいることができなくなる。その葛藤のすえに、スパイとなることよりも自分であることを選んでD機関を辞めた者の話が最終回だった。全話を公式のとおり年代順にすると以下。

1937(S12)秋 D機関設立

1939(S14)春
(1)(2)『ジョーカー・ゲーム』(日本)
1939(S14)春
(12) 『ダブルクロス』(日本)
1939(S14)夏
(6)『アジア・エクスプレス』(満州)
1939(S14)秋
(5)『ロビンソン』(イギリス)
1940(S15)初夏
(7)『暗号名ケルベロス』(太平洋上)
1940(S15) 夏
(10)『追跡』(日本)
1940(S15)夏
(3)『誤算』(フランス)
1940(S15)初秋
(8)(9)『ダブル・ジョーカー』(日本)
1940(S15)秋(11) 『柩』(ドイツ)
1941(S16) 夏(4)『魔都』(上海)

1941.12.8 真珠湾攻撃

(数字)は話数


それぞれの内容は公式に詳しいが、ストーリーから考えて順が逆ではないかと思う箇所が、『追跡』と『誤算』。『誤算』と『シガレット・コード』から、波多野はフランスでの長期任務を中止して帰国、帰国後に『ダブル・ジョーカー』の任務にも協力している。『追跡』での尋問にも加担しているので、これは帰国後と思われる。
もう一つ、小説の他の話と合わせて考える場合、もしかしたら1941年かもしれないと思うのは『柩』。『ブラック・バード』(小説のみ)の終盤、機関員が真珠湾攻撃について知る場面で、その頃結城中佐がドイツで事故の対応をしていることになっている。その事故があの列車事故のことならば歯車がうまくあうような気がする。

それはさておき、『アジア・エクスプレス』以降、教育期間が修了し、各機関員がそれぞれの赴任地で単独で任務を行っている。
不測の事態に即時柔軟に対応する。または予測されうる不利な事態については、予め二重三重に手を打って備えてある。自身の不慮の死には、死体をさらすリスクにも備える。完全にカバーされた架空の人物として死ぬことになる。
アニメ作品に登場する機関員8名のうち、作品中で死ぬのは1名だけだが、もし日米開戦後の行く末を考えたならば、戦争が終わるまでに機関員らは世界のどこでどう生きただろうか。無事でいられたか。中野学校生の命運に重ねるならば、たとえ「死ぬな、‥」を心に誓って活動したとしても、ますます困難な境遇に置かれただろう。高度化する銃火器の問題もある。戦時の諜報員は、敵側の占領地域や、まもなく占領される地域に潜入させられる(自国の占領地域で防諜を行うこともある)。リスクが高いため複数が置かれるが、連携はできない。互いの存在は知らされないことになっている。命の危険が迫ったとしてそんな地域から脱出できるはずはない。自力では無理だし、自軍もおそらく救出には来ないだろう。まさに捨て駒だ。
戦時下の暴力的な内容の情報を掴む虚しさ、無益さに心が折れないだろうか。命を危険にさらしてまで掴んだ情報を、活かせず、否、活かさず敗北した将は、日本に限らずたくさんいる。しかし、大戦の後半になるほど目に見えない情報戦を制したものが勝利するようになっていった。戦時下の外交においても然り。
見るべきものを見ず、聞くべきことを聞かない体制が破滅をもたらす。
第1話『ジョーカー・ゲーム』の場面で、彼らはゲームをしているようで、実は駆け引きの攻防をしている。その攻防がゲームとして平板に競われていながら、冷静な頭脳のどこかで先々の不安な空気に対抗しようと挑んでいるように思えて、象徴的な場面である。決して佐久間中尉が感じたような、自分の有能さにおぼれているというのではないだろう。一人一人のなかで帝国陸軍の未来は予見できていたのではないかと思う。

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10. スパイの生き方と名に思うこと

死んで姿を失ったとしても名前はその後にも歴として残る。そんなことを、過去のいくつかの記事で書いてきた。名はただの識別のためのものというのではなく、1対1の結びつきをちょっと神聖化して考えてみていたのだ。生きた証を名に託す、というつもりで。
ところがここでスパイの存在を考えてみると、彼らにとって名前は不特定な仮面のひとつでしかない。とある人物(カバー)として生きたり死んだりするが、それはそもそもだれでもない。誰でもない者として存在する、あるいは存在しない者として存在する。それでも人として成立しているのが事実だ。
多くの人は普通に戸籍を持つが、中野学校生では任務のために戸籍を抹消された人もいる。
それと比べるならば自分の名前のもとで死んでいくのは幸いといえる。
しかし、名前があろうとなかろうと、人として尊厳を失わない生き方もある。
名前に「とらわれるな」
事、自分に関しては、名前にそもそも拘りはなかったのだが、ここに書くようになってからそれは特別な意味を包摂していると考えるようになった。
でも底の部分で、ずっと変わっていない。
私の死体に名前はいらない。
最後には名前からも解放されていいではないかと。
「とらわれるな」といっても
芯の自分を捨てているわけではないだろう。
ただそれにとらわれない術を心得ている。
私は、スパイとして生きる「人生ゲーム」に加わっている人たちを理解できる。
そう思った。


「死してしかばね拾う者なし」
昔聞いた『桃太郎侍』の決め台詞。
なつかしい。




この次は『ジョーカー・ゲーム』の『誤算』から、ヨーロッパの混乱をざっとまとめて見返そうと思います。(予定‥)