goo blog サービス終了のお知らせ 

名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

アレクシエーヴィチ 『死に魅入られた人びと』

2016-11-12 23:55:05 | 読書
Зачарованные смертью
Светлана Алексиевич,1998


いずれの写真も著書には関係なく、tumblr投稿から選んだものです



『死に魅入られた人びと ソ連崩壊と自殺者の記録』2005


スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの著作は、当事者のインタビューをそのまま読者に差し出す。敢えて自身の印象や所感を述べない。
ある事態に直面した本人の、感情に直結する生の言葉を通して、あるいは言語化される過程そのものも通して、受け手個々にリアルに考えさせることが目的と思われる。

現在、日本では絶版となっているこの本を、ようやく手に取ることができた。
これは、自殺に失敗した本人、または自殺した当人の関係者による、「その死」を検証する書である。

副タイトルからは、ソ連崩壊に失望した自殺を連想するが、自殺に至る理由は必ずしもそれだけではない。しかし、いずれも変化する社会の分断や歪みがその死の遠因にあると考えられる死である。
自殺した身近な者の、その死によって、残された者がソ連崩壊の中に自身が呑み込まれている姿をまざまざと見るのである。自己の存在を否定することも肯定することもできない。否定されたのは『偉大な思想』、かわりに突きつけられたのは自由放任、結果として、世代間の断絶と差別化。思想も人生も変えさせられる不自由さが、具に記されている。


この本でインタビューを受けているのは17人。
ロシアの大きな転換は、ロシア革命→レーニンやスターリンの時代→第二次大戦→冷戦期→ペレストロイカを経たロシア連邦。およそ80年の間の社会の振り子の振れは大きかった。どのタイミングで生まれ、どんな教育を受けたかによる世代間の相違が、社会や家庭で亀裂を生み、自死に逃避する。その葛藤は戦勝国でありながら、戦敗国日本よりも、重く暗い複雑な社会関係をもたらした。

例えば、公園で若者に取り囲まれ、「どうして戦争に勝ちやがった」と袋叩きにされた初老の元軍人。悲惨を生き抜き、苦しんで勝ち、祖国を、身を粉にして復興させてきたという誇りや価値観は、若者には共有されないどころか、消したい歴史にしかならない。人生の終わりを迎える頃になって、存在を全否定されることの絶望感はいかばかりか。ただし、これを、若者の単なる無理解と言い切ることもできないのである。

ロシア帝国最後の皇帝ニコライ二世
ロシア革命後に処刑された


ヴラジーミル・イリィチ・レーニン(本名ウリヤノフ)

ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(本名ジュガシュヴィリ)




87歳、ヴァシーリィ・ペトローヴィチ(「1 ゲートル、赤い星、夢みていたのは地上の楽園」より」も、首吊り自殺に失敗した。
ヴァシーリィは1920年から70年間、共産党員。1917年のロシア革命からの内戦に赤軍兵として戦った。その後は共産党員として、勤倹に党に貢献した。一度、逮捕され、党を除名されたことが人生最大の苦しみであったが、のち名誉回復された。そのとき、同時に妻の死も知らされたにもかかわらず、喜びのほうがまさったことに、驚きとかすかな罪悪感を抱くも、正当だと思っている。
時代は変わった。
すでに老齢の彼にとっては、新しい社会への驚きはあっても、抵抗も絶望もさほどではない。むしろ、老いと孤独のなかで、一心不乱に生きてきた過去を振り返るとき、なぜだかカシャッという音とともにいくつかの場面がよみがえり、心に引っかかってくる。

白軍の少年将校の遺体、
セミョーンおじさん、
最初の妻の写真‥


「‥もう忘れたと思っていた。不可解なことだ、実際に覚えていなかったのだから。白軍の将校がころがっていた‥少年だ。はだかで。腹が切りさかれ、そこから肩章がつきでている、腹に肩章がつっこんであった。しかし、以前なら、あなたにこんな話はしなかっただろう。私の記憶もどうかしてしまった。頭のなかでカシャッカシャッと音がする、カシャッカシャッと。カメラのように。私はもう棺おけに片足つっこんでおる。去りゆく者の目でみる時には、うそやごまかしはもう許されない。時間がないんだ。
いいや、私たちの人生、それは飛翔だった。革命の最初の数年間は、私にとって最高の年月で、すばらしく美しかった。レーニンがまだ生きていた。私は誰にもレーニンをわたすまい、この胸にレーニンをいだいて死んでいこう。‥」


死んだ少年将校の映像がフラッシュバックでよぎる。それを告白しつつも、すぐさま、人生を曇りなき美しきものだったと肯定する。
しかし、語りの続きでもう一度問い直される。

「アイスキュロスのことばだったかエウリピデスのことばたったか、最近みつけた。「もし神々が人間に忘却という力をさずけなかったら、人間は生きることができなかったであろう」。私はこの力に見放されてしまった。ふと自分に問うてみる(昔は一度も問うたことがない)。なんだっておまえは、切りさかれた腹に金色の肩章をつっこまれていたあの少年が不憫じゃなかったのか?そりゃあ、たしかに白衛兵だ、ブルジョワのせがれだ‥それでも、おまえと同じ少年じゃないか‥。いやいや、理屈や科学で私たちを裁いちゃならんのです。私たちを裁いていいのは宗教の法だけだ。私は不信心者ですがな。」

その遺体を見たときからずっと、本当に忘れていたのだろうか?その場で感情を、底の方に押しやって消したつもりになっていただけ。それが、70年もたってふたたび浮かんだ、ということだろう。死体が水底から時間をかけて浮かび上がってきたようだ。

肩章は絢爛豪華な帝国時代の象徴として赤軍派には嫌悪された。逆に白軍兵士の誇りでもあり、それを遺体の腹に突き刺すというのは侮辱行為を表わす。

セミョーンおじさんは、ヴァシーリィ自身がコムソモールの頃に密告したために銃殺された人だ。自分の密告のせいで、初めて人が銃殺されるところを見た。同じ村の住人だ。ヴァシーリィは父親に追い出された。

「私は眠れずに‥明け方、眠りにおちた。夢をみた‥赤ん坊はもう大きくてずしりと重い。私は赤ん坊を抱っこしている。楽しい。赤ん坊の顔をまぢかで見る、イコンの聖母がおさなごの目を見つめるように。私の腕のなかにいるのは、セミョーンおじさん‥。さけびだしたような気がする。夢のなかではいつも声をあげずにさけぶ、戦闘の時のように。戦闘の前のように。自分の声は聞こえない。私は軍刀で戦ったこともある、‥」

話はすぐに武勇伝やスターリン崇拝に切り換えられる。
あとは、老人の孤独。

「みな死んでしまった。ボリシェビキ世代は大理石の墓石のしたに横たわっている」

「二度目の妻が死んだ時、私には自分以外にだれも残っていないことを悟った。私の友は自分、私を裁くのも自分、私の敵も自分だ。
信じていたんだ。頭から信じていた。私たちは革命の熱狂者だった、私の世代は。すばらしきわが世代よ!ただ、夜ごと眠れないのが‥。いや、わが世代には感服する、その熱狂ぶりには、感服する。死ぬことができるのはだれか。死を覚悟している者のみだ。もしわれわれの熱狂がなかったならば、われわれは耐え抜くことができただろうか。やめよう。たまにふっと考えるんです、私は自分を相手に語っているのではなく、いつもだれかの前で一席ぶっているんだと。そんなとき自分にそっとささやくんですよ、「さあ、演壇からおりな」。きっと、いまも、演壇からおりなくちゃならんのです。そうですな?」


過ぎ去った時代はほんとうに、過ぎ、去った。
演説をぶちたい衝動、おりねばならない敗北感。歴史のまわりの寂寥。

「年をとりすぎた。私には身を守ってくれるものがない。私の時代は終わった。時代というのは宿命なんですよ、古代ギリシャ人が言ったように。」


怒濤の人生を邁進してきたなかで、捨ててきた、あるいは消してきた記憶の、底に沈んでいた片鱗を再び見る。否定してきたものと肯定してきたもの、それを人生の終わりに天秤にかける、そして自死。


「先日、死のうとしたとき‥。古い写真を、破りすてた。最初の妻の写真だけは破ろうにも破れなかった。ふたりで写っている、若くて、笑っておる。そうそう、日が照っていたんだ‥森の草地、妻のひざ枕。妻の腕のなか。そうそう、日が照っていたよ。」

美しく幸せなひとコマ。
時代も社会も問わない、幸福が止めた時間。
ここに生きる。ここに生きていたかったのではなかったか。

ヴァシーリィはこのあと再び自殺し、今度は完遂した。遺書があった。


「私は兵士だった、私は一度ならず殺した。私は殺した、信ずるままに、未来のために。過去を擁護するはめになろうとはおもいもよらなかった。わが老いた心臓をもって過去を閉じよう」


革命で荒らされた冬宮殿内部

革命では教会の破壊や聖職者の虐殺も横行した

赤軍兵の誇りは赤い星のバッジ

第二次世界大戦、独ソ戦の熾烈を極めたスターリングラード




55歳、建築家アンナ(「17 羽ばたき一回とシャベルひとふりのあいだ」より)はある日、ガス栓をひねって自殺した。
その日は朝早く起き、あえて片時も手があかないようにさまざまな仕事をした。ハンバーグを焼き、洗濯、繕い物、生活用品の始末、部屋に花束を買ってきて、香水も香らせる。

「私は、部屋のガス栓をあけた‥
ラジオをつけた‥。
私は自由だった。自分にこんなことができるなんて思ってもみなかった。
生きるのがいやなんだろうと、そう思ってらっしゃるんでしょう?とても生きたいの。まだ人生を心ゆくまでながめて楽しんでいませんから。」


アンナは自殺に失敗した一人だ。過去を振り返ってインタヴューに答えるなか、突然、幼児期に克服したはずの吃りが始まる。自分の誕生日のとき、少女時代の思い出を話し出したところで、息子に言われたことを言及し始めると、吃りが止まらなくなった。

両親は第二次大戦期に逮捕され、アンナは収容所で生まれ、孤児院で育った。10代後半になってようやく母が出所、母や姉と暮らしたが、一緒に暮らした経験のない者どうしでは、家族らしい関係を築けなかった。
やがて家庭を持ち、息子と娘が生まれたが、夫は家を出て別の女性のところへ行った。夫は去ってもまだ愛しているが、息子や娘には自分は必要とされてないと感じていた。
誕生日に息子が彼女に浴びせた言葉はこうだ。


「なんのためにママはぼくらにそんなことを話すんだ?なんのためか白状しろよ。恥ずかしいったらないよ。ママたちは、非人間的な実験の材料にされたんだ、カエルみたいに。屈辱的な。いいかい、屈辱的な実験なんだよ。それなのに、ママたちは耐えぬいたことがご自慢なのかい?生き残ったことが?死んだほうがましだったんだ。こんどは同情を期待している。感謝を。なんに感謝しろってんだよ?昔の人たちはなんていった?人間は考えるアシである‥。考えるどころか、肥料なんだ、堆肥なんだ。砂粒なんだよ、共産主義を建設するための資材なんだよ。ぼくは奴隷制度のなかで生みおとされ、奴隷制度のなかで生きろと教わった。収容所の塀のなかで。まわりじゃ生きることを楽しんでいたのに、ママたちはそこに加わろうとしなかった。ママの世代は‥。ママたちは、檻だかコンテナだかに閉じこめられていたんだ。ままったら、ぼくにそんなことを覚えておいてほしいのかい?ママはけっして自由な人間になれっこないんだ。ぼくのなかにもママの奴隷の血が流れているとのを感じるよ。輸血で家をいれかえたいくらいだ!細胞だってそっくりとりかえてしまいたいよ!ここから逃げだすチャンスがあったって、ぼくはこんなじぶんをつれていくしかないんだ。ママの血もいっしょに。ママの細胞もいっしょに。虫唾がはしるよ!」


息子のなじりには社会への憤りが半分だとしても、母親を傷つけるには余りある暴言だ。苦労して育てた、その結果は残酷。
ほんとうは生きたい。けれど死をえらぶ。
自死に直面してのみ、自由を感じられたというのはなんたることか。ただ、ほんとうは生きたい。それでも、「自由に死ぬ」ではなく、「自由に生きる」ことが、彼女にできるのかはわからない。










ペレストロイカを経てロシアが最終的に獲得した自由。その自由は、万能でも明るくもない。

27歳、パーヴェル・ストゥカリスキィ(12 アエロフロートの窓口で航空券を買って行った戦場」より)は傭兵。自殺した彼のことを語るのは、傭兵仲間の親友。アフガニスタンで知り合い、意気投合したという。

「そうだよ、おれは傭兵だ、殺しという自分の能力が売りものだ。‥かつてわが国には傭兵はいたためしがない、われわれは祖国の守り手を誇りに思っていた、なーんて、そんな高学年むきのおとぎ話なんかよしてくださいよ。男というのは戦争が、気に入ってるんです、ただそれを正直に言わなかった、秘密にしていただけだ。」

傭兵とはいえど、彼らはお金のためにやっていたのではない。

「あのぴりぴりした感覚、撃ってるのはおれじゃねえ、おれが撃たれてるんだというときの。この世とあの世にいっぺんに足をかけているんです、両方に。」

やがてアフガンから国に戻った彼らは、ユスリ屋をやったが、再び今度はナゴルノ=カラバフの戦場に行く。アエロフロートのチケットを自分で買って。
戦場では強い者、すなわち武器を持っている者が全てを手に入れる、と彼はいう。
人の妻を幾人も犯し、殺した。花摘みしていた少女も犯した。悪びれることなく、強者の当然の実力行使であると。

とうとう国へ帰る。戦場の喧騒に疲れたため、身近だった人のもとへ、あたたかい言葉を期待して帰る。アエロフロートに乗り、ソチなどの保養所帰りの人に席を囲まれ、ともに日焼けして満ち足りた顔をしての空の旅。
空港で二人はそれぞれ家族へ花束を買った。

「あいつが服を脱ぐとき、おれは、初めてのガキのようにブルブルするだろうぜ」
と、パーヴェル。
しかし、帰宅したパーヴェルは銃口を口にソファの上で自殺した。女はべつの男のもとに走り、家はもぬけの殻だった。

彼らは、強制ではなく、自分たちの意志で戦場に行き、自由に撃ちまくり、略奪しまくった、犯しまくった、殺しまくった。
他人の命をさんざん自由に始末してきたものの、自分のオンナの心は自由にならなかった。
自由とは何なのか。壁も天井もわからない空虚な部屋に置き去りにされるような心地だろうか。


アフガニスタンでのソ連兵スナイパー
アフガニスタン難民




14歳、イーゴリ・ポグラゾフ(「2 紺色の夢のなかへ消えていった少年」より)は自宅のトイレで夜中に首を吊って自殺。父母と3人暮らしだった。

幼い頃から、友人たちと戦争ごっこするときはいつも死ぬ役をやっている、と祖母が心配した。墓地にいると落ち着く、と。端っこ、へりに立つのが好きで、母を冷や冷やさせた。
インタビューで彼の死を語るのは、哲学専門の講師でもある母である。母は、戦争に勝利した経験のある母に育てられ、国家の理想を体現して生きてきた自負のある人だ。
息子イーゴリは、新しい時代の空気の中で、特に不都合なこともなく、思うように生きてきた少年である。ただ、詩作を愛し、死の世界に魅入る傾向があっただけだ。

私にはよくわかる。特別、不自由なことがないにもかかわらず、少年期は死に憧れたものだ。
自殺こそ、もっとも理想的な死と信じて疑わなかった。
死の、その先にはなにが見えるか。
のぞいてみたい。
美しい世界、陶酔、透明性、静謐‥
しかし、その先になにかがあるはずもなく、何も見えず聞こえず触れず、つまり世界は無い。
どんなに底を覗いても、塵ひとつも無い、
そう思い至り、憧れの死の夢は一遍に色を失ったのだが。

それでも、イーゴリの遺した詩の断片には、当時の私の心が共振する。


「だれかが死んだ、音楽が聞こえる
窓のした、運ばれていくのはぼくじゃないのか
最後の審判へむかう道で
揺れているのは、ぼくの頭じゃないのか」



「銀色の雲よ、ぼくはおまえたちのものではない
空色の雪よ、ぼくはおまえたちのものではない」


「ああ 底からのほうがぼくにはたくさん見える
高みからよりも。ぼくには昼間、星が見える
草のにおいも井戸の底のほうがかぐわしく
そのなかでは音もはるかにやさしい」



母が語る。
あの子は海や川や井戸が好きだった。水のとりこだった、と。


「水をのぞくと、そこは闇」
「そして水だけが流れている、静寂」



一方で、イーゴリはある少女と恋をし、その後別れたようだった。そのせいなのか、突然、髪を丸坊主にしたという。


「あなたは見ることができない
ぼくが白いおおいに身をかくし
たそがれのかすかな光を身にまとい
紺色の夢のなかへ消えていくのを」


「そして緑の夜は神秘的に遠のき
そして庭の場所を占めるのは昼」



イーゴリは14歳になったばかりで自ら消えた。
しかし、母の苦悩はここから始まり、永遠に続くことになるのである。
母は夢を見る。

「雨が降りはじめる。でも、私は、それが雨じゃなく土がぱらぱら落ちているように感じるのです。砂だわ。雪が降りはじめる。でも、さらさらという音で私にはわかる、これは雪じゃなくて土なんだと。砂だと‥。墓掘り人のシャベルが音をたてる、心臓のように、ざっく、ざっく、ざっく。‥」

あるとき、ヒステリーを起こして母(祖母)をなじる。
「かあさんはクズよ!クズのトルストイ主義者よ!自分そっくりのクズをつぎつぎに生んだのよ。かあさんのこどもたちは一生クズで、できそこないだったのよ。だって、かあさんったら教えてくれなかったじゃないの、自分のために生きろとか、自分の人生のために生きろとか。だから私だって同じようにイーゴリを育てたんだわ。かあさんが教えてくれたのはなんなの。ささげよ、全身全霊を祖国に、偉大なる思想に!みんなクズよ。かあさんだってわかってるくせに、まわりでなにが起きてるか。ちゃんと見えてるくせに!なにもかもかあさんのせい、かあさんが悪いんだわ!」


思うに、イーゴリが死んだのは誰のせいでもない。彼は自由に生きて、死んだ。
たとえ、母親自身が自由な思想に生き、息子に偉大な思想をまとわせようとはしなかったとしても、息子はまるで自然に巣立つようにして自死しただろう。死の世界に魅せられたため。

時代のせいではない。しかしせめて時代のせいにしたかっただろうか。むしろ過去の時代のせいというより、今の時代の自由のせいとみなすべきか‥。

自由とは、実は寄る辺なく、孤独で、気がつくと置き去りにされることに恐々としていなければならない側面を持つ。白霧に立つような。




(所感)
世界、社会が変われば、自分の人生の解釈も価値も一変、誇りは踏みにじられ、略奪され、場合によっては逮捕、処刑の列に並ばされることもありうる。
また、どの時代でもどの世界でも、家族間の慈しみは不変だと思われるだろうが、それも憎悪に変わることもある。その点では、社会変革は戦争よりも辛辣な分断を起こすおそれがある。


今、グローバル社会は遠のき、そろって右傾化しつつある世界。この先を考えるのはとても恐いが、絶望してはいられない。子供達をどうしたいのか、真剣に考える必要がある。






Pueri Continite

アレクシエーヴィチ 『チェルノブイリの祈り』

2016-05-04 14:25:50 | 読書
「僕らが失ったのは町じゃない、全人生なんだ」
チェルノブイリ原発事故で被害の70%を被った
ベラルーシの10年の軌跡


30年後の現在 廃墟となっている家屋

2015年ノーベル文学賞を受賞したベラルーシの作家スベトラーナ・アレクシエーヴィチが、チェルノブイリ原発事故から10年後の1996年に、事故の影響を受けた市民へのインタビューをまとめた著作「チェルノブイリの祈り 未来の物語」を読み直しました。
チェルノブイリ原発事故は、1986年4月26日午前1時23分の発生から30年が経ちました。アレクシエーヴィチによるインタビューからでも既に20年が経ち、その間、福島の原発事故も起きました。
福島からは5年。
チェルノブイリの軌跡は、福島の未来において同じ轍を踏まぬよう、よくよく検証していかねばなりません。

4号機で、外部電源喪失を想定し出力を下げて運転する試験中、原子炉が不安定化して爆発。炉心はむき出しになり、火災が続いた。国際原子力事象評価尺度レベル7、史上最大規模。レベル7は福島第一とチェルノブイリの2件。
写真は事故直後 建屋が完全に崩壊した4号機


コントロールルーム

アレクシエーヴィチの著作では、事故の規模や被害状況、原因、責任などの追及はありません。あくまでも被害者の心情に耳を傾け、そのまま伝えるのみです。何が真実か、ということよりも、直面した人間の心に否応なく投影されるものはどんなものかを重視しているようです。
等身大の自分が、その事実に直面すればどう生きることになるのか、例えば自分の幼子が髪を失い、衰弱し、自分の運命に驚いたような顔をして死んでいくさまを目前に見る、その自分を想像する、そして考える。何をすればいい、何をすればよかったか?
運命だなどと言って諦めない。未来を少しでも残すため、考え、判断する力を各人が持つことが大切だということが、この本から伝わってきます。




被曝の実態
冒頭は、事故直後にメルトダウンの現場で生身で消火活動した消防隊員の、死に至る14日間の壮絶を、付き添った妊娠6ヶ月の妻が語ります。

放射能の危険性に対し、なんの認識もないまま消火活動に駆けつけ、大量の被曝をした隊員28人は、飛行機でモスクワの病院に運ばれます。致死量400レントゲンのところ1600レントゲンを浴び、彼ら自身が既に高度の放射性物質となり、のちに病院のスタッフもほとんど亡くなりました。
初めは頭痛、吐き気ていどだったのが、目も開けられないほど顔が腫れてきます。
中枢神経系も骨髄も完全に侵されます。
「私は毎日違う夫に会った」
青、赤、灰色がかった褐色‥
火傷が表面に出てくる。粘膜が層になって剥がれ落ちる。1日25~30回の下痢、手足の皮膚がひび割れ、全身が水泡に覆われ、髪が抜ける。朝替えたシーツが夕方には血だらけになる。手足を持ち上げると骨がぐらぐら揺れる。口から内臓の欠片が出てくる。そして死。

遺体はセロハン袋、木棺、袋、亜鉛の棺に入れられ、墓地では上にコンクリート板。
2ヶ月後、妻は28レントゲンの女児出産。肝硬変、先天性心臓欠陥、4時間後に亡くなる。
目に見えず、匂いもなく、音もなく、人体深く貫く放射線に、人がどう屠られるか。
このストーリーは最初に、こんな残酷極まる事実を突きつけて始まります。





事故現場近くの行政施設は処理作業員待機に使用されていた。捨てられた大量のガスマスクは、冷戦期に毒ガス攻撃に備えて用意されたものだった



自身へのインタビュー/取材と著作の目的
続いて、アレクシエーヴィチ自身へのインタビューという形で、見落とされた歴史を語ろうとする意志が述べられます。
「あの夜、この未知なるもの、謎にふれた人々がどんな気持ちでいたか、なにを感じたか」
「なにかが起きた。でも私たちはそのことを考える方法も、よく似た出来事も、体験も持たない。私たちの視力も聴力もそれについていけない、私たちの語彙ですら役に立たない。‥なにかを理解するためには、人は自分自身の枠から出なくてはなりません」
ベラルーシはこの事故と、巨大だった社会主義国の崩壊をほぼ同時に受けました。

ここで、先立って、巻末に添えられている事故の情報を元に確認します。
当時のベラルーシは旧ソ連邦に属する一国であり、独立は1990年。チェルノブイリ原発は旧ソ連内にありましたが、ベラルーシ、ウクライナ国境に隣接しているため、被害は南風によってベラルーシに偏り、大気中に放出された5000万キュリーの放射性核種の70%がベラルーシに降ってきました。1平方キロメートルあたり1キュリー以上の汚染は国土の23%(ウクライナは同4.8%、ロシアは0.5%)。
長期にわたる低線量放射線の影響で、がん、知的障害、神経・精神障害、遺伝的突然変異の患者数が毎年増加しています。

ベラルーシ(ベラルーシ共和国)は、苦渋の歴史を持っています。大国ロシア、ヨーロッパ列強の狭間に位置するだけに、世界大戦での被害は悲劇そのものでした。ドイツにより619の村を焼き払われ、4人に1人が死んだベラルーシは、このチェルノブイリの事故によって485の町村を失い、そのうち70は永久に土の中に埋められたのです。そして5人に1人が汚染地域に住んでいます(当時)



汚染地に暮らす住民
放射能による被害とはどのようなものなのか、事故当時、知る人は少なかったのは当然でしょう。「汚染されている」として禁じられた井戸水は、以前と変わらず澄んでいるし、牛乳も野菜も果物も、見た目も味も変わらない。「除染のため」として、住民は3日間だけ住まいを空け、森でキャンプをせよとの指示により慌ただしく村を出されました。しかし、決して帰ることはなかったのです。村は埋められるかあるいは廃墟になり、荒れた土と墓だけが残ることとなったのです。
「ぼくらが失ったのは町じゃない、全人生なんだ」
その「全人生」とは過去だけではなく、未来も含んでいたのです。


プリピャチ市

プリピャチ市民プール
原発城下町として、また旧ソ連の都市計画を具現化した街として1970年に建設されたプリピャチ(ウクライナ)は事故現場から3キロ。事故翌日には約5万人の市民全員が避難。現在、人口0人、郵便番号も登録削除されたゴーストタウンと化した


ゴーストタウンの遊園地


居住が禁止されている地域に住み続ける人、戻って住む人、移住してくる人達がいます。
住み続ける人には、代々その地で育ってきた老いた農民が多いようです。戦争を生き抜いた経験のある人達にとって、放射能との戦いは目に見えず、理解できないものではありますが、過去の過酷な戦争に打ち勝ったという自負もあり、放射能を恐れないのです。

「あのとき、えらい学者さんがきなさって、薪は洗って使えと集会所で演説しました。もう、おったまげたよ!布団カバー、シーツ、カーテンを洗いなおせというんですよ。家の中にあるのに!タンスや長持にはいっているのに。家の中に放射能があってたまるもんかね。窓ガラスもドアもあるんだから。放射能なら森や畑でさがしなってんだ‥」
「私の妹は亭主と村をでていったよ。ここから、20キロのところに。2ヶ月おったが、となりの奥さんが走ってきていったんだとよ。「あんたらの雌牛からうちの雌牛に放射能がうつっちまった、死にそうだよ」「どうやって放射能がうつるのかね?」「空中を飛んでさ、ほこりみたいに。放射能は飛べるんだよ」

一度避難したにも関わらず戻る人には、補償金目当ての場合もありますが、移住先の新しい暮らしに馴染めないことが原因となっているようです。



他方、そもそも住民ではなかった人が空き家を求めて移住してくる場合があります。当時、ソ連邦内部で紛争中だったタジキスタンやチェチェン、キルギスから来るのです。

「私は、ここはあそこほどこわくありません。ここには銃を撃つ人はいない。それだけでもましです」「土地や水がこわいなんて考えられない。恐ろしいのは人間です」
「私はいろいろ質問されたり、驚いた目で見られるんです。ある人は、面と向かってわたしにきいたわ。「ペストやコレラがはやっている土地でも子どもをつれてきますか?」ペストやコレラたったら‥。でも、ここでいわれているような恐怖を私は知らないのです。私の記憶にありませんから」

今日死ぬかもしれない、という恐怖と、目に見えない先が見えない恐怖とでは、その肌感覚が違うことでしょう。しかし、銃による恐怖は保護されればただちに解消されるもの、解決しうるものでありますが、放射能の恐怖は持続的に増幅するブラックホールであり、認識しにくく、解決しにくいものなのです。



除染に駆り出された兵たち
町、家から追われた住民らに変わり、予備役兵が任務を知らされずに召集され、除染作業にあたらせられました。上司は「名誉」「昇給」をちらつかせ、挑んだ若者は次々に発病しました。
彼らの目に映った現場はどのようであったかが語られています。そこには素朴な驚きがあります。







「すてられた家。ドアに貼り紙。「親愛なる方へ、貴重品を探さないでください。私たちの家にはありません。なんでも使ってください。でも盗っていかないで。私たちは戻ってきますから」。ほかの家でもいろんな手紙を見ました。「私たちを許してね、私たちの家!」。「朝、でていきます」「夜、発ちます」日付、何時何分まで書いてある。ちぎった学習帳に書かれた手紙もあった。「ネコを殺さないでね。ネズミがぜんぶかじっちゃうから」「うちのジュリカを殺さないでね、いい子なんだよ」

「家に帰った。あそこで着ていたものはすっかり脱いで、ダストシュートに投げ込んだ。パイロット帽だけは幼い息子にやったんです。とてもほしがったから。息子はいつもかぶっていた。2年後、息子に診断がくだされた。脳浮腫‥このさきはあなたが書いてください。ぼくはこれ以上話したくない」

「アフガンから帰ったときには、これから生きるんだということがわかっていた。でも、チェルノブイリではなにもかも反対。殺されるのは帰ってからなんです」

「上空から大量の兵器が戦いをいどんでいた。大型ヘリコプター、中型ヘリコプター。MI-24、これは戦闘用ヘリコプターです。戦闘用ヘリに乗ってチェルノブイリでなにができるんだろう?」



住人のいなくなった村や町では、日々、盗難がありました。放射能に汚染された建具、家財は持ち出され、転売されていたのです。それらはそのままどこかで別荘として建っているらしいと。除染作業に使用され、廃棄処分されたトラックさえも姿を消していました。金属は特に強い放射性物資と化していたというのに。村に残っているのは墓だけだったと‥。


破壊された自然
現場に立った者にしか実感できなかった事として、人間が自然に対して施してしまった罪悪感があります。

「森を葬りました。樹木を1メートル半の長さに切り、シートにくるんで放射性廃棄物埋設地に埋めたんです。夜、寝付けなかった。目を閉じると、なにか黒いものがゆらゆらしてひっくり返るんです。生きもののように。地層は生きているんです。甲虫、クモ、ミミズといっしょに。‥だれかの詩で読んだことがあるんです、動物は別個の世界の住人なんだと。ぼくは彼らの名前すら知らずに、何十、何百、何千となく殺した。彼らの家、彼らの神秘さを破壊し、ひたすら葬ったのです。一番印象に残っているのは彼らのことです」


ドイツにより村ごと焼き払われ虐殺されたハティニ 以前の記事カティンと名前が似ていることから、ソ連はカティン事件の追及を受けたときわざとハティニとすり替えて報告したらしい 写真はハティニ記念公園

「がらんとした村。ペチカだけが立っている。まるでハティニだ。ハティニのまんなかにばあさんがふたり腰をおろしている。ばあさんたちは恐ろしくないんだ。ほかのやつなら気が狂っただろうに」

「ぼくが撮ったチェルノブイリの映画を子供たちに見せたんです。‥じつにいろんな質問が出ましたが、ひとつだけ脳裏に刻み込まれている。おとなしくて口数の少なそうな男の子でしたが、赤くなり、くちごもりながら聞いたのです。「どうしてあそこに残っている動物を助けちゃいけなかったの?」。ぼくは答えられなかった。‥ぼくらは動物や植物のところ、このもうひとつの世界におりていこうとしない。なのに、人間はあらゆる生き物にむかってチェルノブイリをふりあげてしまったんです」



人々の消えた町には野生動物が住んでいる
オオカミ イノシシ シカ ウシ ウマなど大型動物が多くいるため危険




事故後、人々の迷走
この本の中で、原発事故発生の原因を追及するところはありません。ただ、事故後の指導者側の行動や一般者の動向の関連性を、ベラルーシという国の社会体質として暴くことを、インタビューを通して丹念に提示しています。そこをつぶさに観察する事で、未来を見ようとしているのだと感じられます。


「事故処理作業に投入された部隊はぜんぶで210部隊、およそ34万人です。‥彼らは屋上で、燃料、原子炉の黒鉛、コンクリートや鉄骨の破片をかき集めたのです。‥無線操作のマジックハンドはしょっちゅう命令を拒否し、とんでもない動きをしました。放射線が高いところでは電子回路が故障するのです。いちばん頼りになる〈ロボット〉は兵士でした。軍服の色から、〈緑のロボット〉と呼ばれた。崩壊した原子炉の屋根を通りすぎた兵士は3600人です」

余談ですが、上空からの放水活動は福島でも行われていました。チェルノブイリでのこの作業に従事したパイロットはほとんどの方が犠牲者となりました。福島の時点ではこの危険性は明らかだったはずなのに、この方法をとらざるをえなかったのです。その後、高圧ポンプ車に変わりましたが、一時的にせよ、リスクの非常に高いことがわかっている手法をとるはめになったのは、前例に学んで備えておくことをしなかったからでしょう。安全神話を語るより、事故対応マニュアルを完備すべきです。それぞれの対応をだれが実行するかまで明確に決め、訓練が必要でしょう。軍事演習よりも重要です。

指導者たちは兵士だけでなく、市民の命さえも軽く見ている。当初から、事故の詳細を市民に告げず、避難も限定的にしか支持しませんでした。予定されていたメーデーの祝典のために、一日中屋外で子供たちを予行練習に駆り出してもいたのです。
市民の中でも知識のある人は、その危険性を承知していながら、『なにか』を信じて従い、口を閉ざしていました。そのなかで、ベラルーシの作家アレーシ・アダモービッチだけが演説を通して警鐘を鳴らしたのです。ところが被曝地の大人たちは冷ややかでした。

「環境保護監督局の上役たちが、騒然としだしたのは、わがベラルーシの作家、アレーシ・アダモービッチがモスクワで演説をし、警鐘をならしはじめてからです。アダモービッチに強い反感を抱いたんです。ここでくらしているのは彼らの子供や孫なのに、「たすけて!」と世界に向かって叫んだのは彼らじゃない。1人の作家でした。‥思い上がっているんだよ!ちゃんと通達があるじゃないか!上には従わなくちゃいかんよ!物理学者でもないくせに!このとき、わたしは、はじめてわかったんです、1937年がいったいなんであったか。いかにして起きたか」

1937年にはスターリンによる大粛清があったのでした。
上に従う、通達に従う。でなければ、党員証を取り上げられ、永遠に蔑まれることになります。
人々は自らすすんで、思考停止するのです。
それは昇格を望む人々だけではなく、市民も同じでした。

親しい主婦3人は、教師や医師といったインテリでした。みな子供がいます。1人が、明日、ここを離れると言い出しました。
「「もし子供たちが病気になったら、ぜったいに自分を許せないもの」
「新聞には数日後には正常に戻るって書いてあったわ。あそこには軍隊がいるし、ヘリコプターや装甲車もあるのよ。ラジオで聞いたわ」
「あなたにもすすめるわ。子供を連れて避難するのよ。これは戦争じゃないの。私たちには想像もつかないことが起きたのよ」
「みんながあなたみたいなことをしていたら、私たちはどうなるかしら?戦争にだって勝てっこなかったでしょうよ?」
「母性本能はどうしたの!狂信者よ!」

翌日、1人は子供を連れて町を出て、もう1人は子供を連れてメーデーに参加しました。いずれも自分の意志で、です。

「運命を信じていた。心の奥じゃぼくたちはみんな運命論者なんです、合理主義者じゃない。スラブ的な思考法です」
彼は放射線病を発病し二級身体障害者となった、と。

「わが国の人間は自分の事だけを考えることができないのです、自分の命のことだけを。ひとりでいることができない人間です。わが国の政治家は命の価値を考える頭がないが、国民もそうなんです」

「私たちの子どもたちは旗を持ってデモ行進に行くのよ。退役軍人、年老いたつわものたちも。
でも、これもやはり一種の無知なんです、自分の身に危険を感じないということは。私たちはいつも〈われわれ〉といい〈私〉とはいわなかった。でも、これは〈私〉よ!〈私〉は死にたくない、〈私〉はこわい」


事故から10年を経て、ソ連崩壊を経て、ようやく見つめた〈私〉。そのあり方を考えることを始められたとして、実際、まっとうに考え出せば次々に疑問が生まれ、判断に大いに悩むことにもなるでしょう。通達に従っていれば楽だった、という思考停止の時代に逆戻りしたくなるのでしょうか?
それは旧ソ連圏だけの問題ではなく、〈おかみ〉にしたがい安穏と過ごしてきたわが国の多数にも、私にも、あてはまらないとはいえません。



「ぼくが記憶していること。事故がおきて数日のうちに放射能やヒロシマ、ナガサキのついての本、レントゲンの本までもが図書館から姿をけしてしまったことだ」

ベラルーシの事故対応においては、上層部による情報操作がありました。例えば、毒ガスマスクやヨウ素錠剤の配布は、住民の不安を煽るおそれがあるからとして、倉庫にしまわれたままでした。
通達、公式見解。
日本の報道が最近陥っている危険をここに感じました。

子どもたちの記憶
最後に、アレクシエーヴィチが子供たちにインタビューしたものをいくつか上げます。

「ぼくは家に置いてきたんです。ぼくのハムスターを閉じ込めてきた。白いの。2日分のエサを置いてやった。でも、ぼくらは永久にもどれない」

「1年後、私たちは全員疎開させられ、村は埋められてしまいました。まず、大きな穴が掘られる。深さ5メートル。‥クレーンで家を引きはがし、穴に入れる。人形や、本、びんがころがっている。シャベルカーでかき集める。砂と粘土でおおい、平らにならす。村のあったところに原っぱができる。そこにライ麦がまかれた。そのしたは、私たちの家があるんです。学校も、村役場も。私の植物標本も。切手帳も2冊。取りに行きたかったわ。私は自転車も持っていたんです」





「兵隊さんたちが木や家や屋根を洗っていた。コルホーズの雌牛も。私、思ったの。森の動物はかわいそう。だれにも洗ってもらえないんだもの。みんな死んじゃうわ。森も、洗ってもらえない。森も死んじゃうわ」

高濃度汚染地域出身者の甲状腺がん発病率が有為に高いことが認められている 除染作業従事者はさらに白血病も多い PTSDや自殺の多さにも深刻に向き合わねばならない


ベラルーシでは、原発がこれほどの事故を起こし、被害は半永久的に続く重荷を背負っているにもかかわらず、現在、新たな原発を建設しています。チェルノブイリ原発も、実は完全に停止したのは最近でした(事故を起こした4号機以外。ただし、チェルノブイリはウクライナ領内)
日本でも、震災後に全ての原発は停止されたものの、5年と待たずに再稼動しています。他国への輸出もすすめています。輸出したプラントが事故を起こした場合、どうなるのか。
リスクと電力需要の天秤。経済発展との天秤。
人間の能力には限界があり、何もかもを欲しがることはかなわない。神話は、人間のものではないのです。

石棺と呼ばれたシェルターは30年を経て老朽化が著しい

現在は100年耐久を見込んだ新シェルターを建設中 既存の石棺ごと覆う形状で、構築後にスライドして設置する仕組み



メモ
・この事故では、広島の原爆250個分のプルトニウムが降り積もった

・現在、ベラルーシでは国内初の原子力発電施設2基を建設中である。リトアニアとの国境付近で、2018年、2020年完成予定。「どのみちベラルーシは周辺国の原発に囲まれている」
エネルギーの経済性と多角化がねらいのようだ

・昨今はチェルノブイリ見学ツアーがある。1日1人160ドル。立ち入り禁止区域に入る前に署名。地面に座らない、物を置かない、飲食しないなどの決め事がある。最近はドローンを使って現地の様子を見ることもできる。


2016年 30年目追悼式




以下、最近、廃炉になったベルギーの原子炉。




独ソ戦下を生きるイワン

2016-01-04 13:40:50 | 読書

キャサリン・メリデール「イワンの戦争」より
独ソ戦を生きた一兵卒イワン
“記憶の拷問”


独ソの戦い ウクライナ

イワンは特定の誰かではなく、ソ連の無名の赤軍兵士を総称するものである。
1918年の革命から21年、共産主義国として歩んで来たソ連はドイツファシズムに対峙した。
徴兵されたソ連のイワン達のうち、年長者のなかにはまだ帝国軍として第一次大戦を経験した者もいた。
対するドイツ第三帝国のフリッツ。
フリッツらは西部と東部の二方面で戦っている。
イワン達も広大な国土の東西で戦っていた。
東では日本と対峙していたが、諜報活動により日本は太平洋方面へ軸を移すことを知り、ソ連はドイツとの戦いに大兵力を投じた。
ドイツから見たいわゆる「東部戦線」(独ソ戦)は、第二次大戦のあらゆる戦場のうちで破格に多大な犠牲を出した、凄惨極まる戦場になった。

イギリスの歴史家キャサリン・メリデールの「イワンの戦争 1939-45」は、当時の記憶を元ソ連兵らにインタビューし、彼らの語る事、語らない事に歴史的事実を加味しながらまとめたもので2005年に出版された。
独ソ戦とはどんな戦いだったのか、簡単に経過を追ってから「イワン」の姿を追いたい。


独ソ戦



1939年8月、モロトフ-リッベントロップ協定、すなわち独ソ不可侵条約がドイツとソ連で交わされたが、同時に結ばれた秘密議定書に基づき、ポーランド分割だけでなく、両国の近隣国への勢力拡大を互いに干渉しないことで東ヨーロッパを二国で欲しいままにしようとしていた。
ソ連には資源があるが技術はなく、ドイツには技術はあるが資源はなかった。両国と枢軸国の日伊とで四国同盟を結ぼうという案もあったが、ヒトラーは東方侵攻にこだわっていた。その上、イギリスを打倒するためにはソ連を倒す必要があると考えた。
ポーランド分割で国境を接するようになった両国は、すぐに関係があやしくなった。1941年6月22日、ドイツは条約を破り、ソ連領内に侵攻する。スターリンは日本による仲裁やルーマニアを介しての休戦も検討したほど、この開戦は全く本意ではなかったようだ。リッベントロップも半狂乱になった。
そもそも「反共」の急先鋒を自負するナチス。
ヒトラーは『わが闘争』において、「東部におけるドイツの生存圏の拡大」を明言していたし、「反共」を掲げるイデオロギー闘争以前に、スラヴ人を劣等民族とみなし、ユダヤ人同様、絶滅を目指していた。他方、ソ連はナチスドイツのファシズムを共産主義の敵としてイデオロギー的に潰滅すべきと狙っていた。事実、敵はドイツ国防軍だけではなく、SSや親衛隊によっても構成されていた。
対峙した両国は、領土奪取などではなく、互いの殱滅を目的とした「絶滅戦争」を始めたのである。当然、周辺の東欧諸国は巻き込まれていった。



当初、有利に展開したドイツ軍は予想外の数のソ連兵捕虜や投降者を、即時銃殺や確実に死に追いやる強制労働により500万人を死亡させた。そもそも殱滅させるべき民族なのだから、捕虜に対する国際法を守る考えは毛頭ないのだ。

国土がせまく資源のないドイツは電撃戦と搾取による方法にしか勝機がないのはわかりきっていたのだが、ロシアの大地は余りにも奥深く、前線は伸びに伸びて補給は困難だった。加えて広大な土地の情報不足、未舗装道路であるために泥道での行軍困難、ドイツ技術の誇る精密機構の戦車の厳寒による故障など、ドイツはロシアの地理を大幅に読み誤っていた。そしてドイツは、ソ連人という集団も読み誤っていた。ソ連の資源生産力、尽きぬ人的資源、自国民を締めつけるような焦土作戦も躊躇なく実行すること。
全軍事力の3/4を投入してモスクワ近郊まで迫ったドイツ軍は、ナポレオンの教訓を生かせず、寒さに疲弊していった。また、内陸に攻め込むほど補給に割かれる兵力も多くなり、補給を妨害するパルチザンの暗躍もあり、前線を維持するだけでも苦慮していた。
南の戦線でスターリンの名を冠したスターリングラードを多大な犠牲を払って死守した赤軍は、これを起点に士気を取り戻し、内陸部に移設した生産施設も稼働をし始め、ソ連は前線を西に押し戻していく。ロシアの大地に適した無骨な戦車T-34の量産が赤軍の背中を押した。

スターリングラードをあとに避難する市民

スターリングラード市街戦


更に、ファシズムとの戦いに対して実戦に出ることを躊躇する米英はソ連へレンドリース法として武器貸与などのソ連軍の正面装備、工業製品提供による民間の下支えを行った。しかし、米英の、実戦に加わらない消極的な態度は独ソ両国の消耗を狙っているのではないかとスターリンは警戒していた。

エマニュエル・トッド『帝国以後』によれば、「第二次世界大戦の戦略的真相は、ヨーロッパ戦線の真の勝利者はロシアであったということである。スターリングラードの以前、最中、以後のロシアの人的犠牲がナチスの軍事機構を粉砕することを可能にしたのだ。1944年6月のノルマンディ上陸作戦は、時期的にはかなり遅い時点で実行されたもので、その頃にはロシア軍部隊はすでにドイツを目指して戦前の西部国境に到達していた」と見ることができる。
ヨーロッパをナチズムの恐怖から解放したのは米英仏ではなく、共産主義国のソ連だったのは事実である。
ヨーロッパの世界大戦を終わらせたのは、東方からのソ連兵と北方からの米兵がエルベ川で握手をしたとき。その後、世界の中心はヨーロッパではなく、米ソの二大国に取って代わられたのは周知のとおりである。


イワン
当時、閉ざされた国であったソ連には謎が多かったが、国外に出ることを許されないソ連人民にとっても周辺国のことは知らされず、資本主義の貧しい国だと聞かされていた。
ソ連に投入されたドイツのスパイのおかしな苦労話がある。
ソ連のスパイになると、

・40~50度のウォッカ1オンス半を一気に呑む
・タバコの吸い口はボール紙
・ウォッカに咳き込み、紅茶に手を伸ばすと、安物のコップが熱くて指にやけどをする

そしてもしも失敗すれば即刻命が危ないという、大変ご苦労な任務だったようだ。ロシア人は追い込まれると必死でいくらでも嘘を言うので諜報にならず、結局諜報はフィンランド経由だったそうだ。
開戦当初の1939年、徴兵年齢は19歳。志願兵は多すぎるくらい集まったが、何分広い国土ゆえに字の読めない者、ロシア語がわからない者、スターリンが誰かわからない者までいた。そこで兵役に就くための試験や政治教育が行われ、成績の良い者がNKVDに採用された。NKVDは秘密警察組織であり、戦後のKGB、現在のFSBに繋がる。
各軍には政治将校が党のスパイとして派遣された。ポリトルクと呼ばれるそれには、教育水準の高いユダヤ人が多かったらしい。イワンたちは敵だけでなく、軍の内部のこうしたスパイやNKVDによる粛清の恐怖にも耐えねばならなかった。いっそ投降した方がましだと、戦争初期には集団でのドイツ側への投降が相次いだ。実際、ドイツ側は想像以上に辛辣だったのだが、スターリンは命令270号を出し、冷酷な締め付けを行った。
それは、
・逃亡者(遅れた者も含む)は射殺してよい
・逃亡者の家族も逮捕する
・逃亡者とその家族は以後、年金支給なし、物質面の権利なし、子供の教育も受けさせない

例えば、河川で戦死、爆死などで身元確認が出来ない戦死者は逃亡者とみなされてしまう。兵本人だけならともかく、家族とその将来にも制裁が及ぶとなれば兵は従うしかなかった。それに、ドイツ兵の、ロシア兵捕虜にたいする残酷な仕打ちも次第に耳に入っていた。
「もしドイツ人が捕虜を大切にしていたらその話はすぐに伝わってきただろう。彼らは捕虜を虐待し、飢えさせ、殺したことで我々を助けたのだ」と元兵士は語った。
「今や相手はゲシュタポやSSなのだ。奴らにとっておれたちはアカ以外の何者でもない」
兵士らも、ドイツの目的はボリシェビキの抹殺であることを承知したのである。実際、ドイツ兵は赤軍の捕虜や民間人を容赦なく殺した。処刑ならまだしも、射撃訓練の的、犬に喰い殺させた。ときに、犬が勝つか人が勝つかの賭けも楽しんだが大方は犬が勝つ方に賭けたそうだ。そうして残虐に殺されなくても、じきに飢えや赤痢で死んだ。ポリトルクやユダヤ人は即刻射殺された。

子猫を可愛がるソ連兵

ドイツ兵と犬

鳩を飼っていたためにドイツ兵に銃殺されたソ連兵 伝書鳩だったのか?


冬のフリッツとイワン
戦争初期、イワンにはいろいろなものが不足していた。ドイツの侵攻で工業生産がストップしていたためだ。民間のイワンも含め、とりわけ困っていたのが長靴の不足だった。破れた靴底に当てる革を、擱坐したドイツの戦車の座席から剥がして使った者もいた。戦死した兵の死体からはあらゆる物を取った。冬外套、上着、帽子、綿入ズボン、セーター、手袋、長靴、フェルト長靴、そして武器。フリッツも死体から冬服を取った。イワンもフリッツもロシアの寒さに凍死寸前あるいは事実、凍死した。長靴を凍った死体から脱がすのはかなりのコツが要りようだった。下手をすると脚ごと取れてしまう。慣れた者は脚ごと切って山ほど持ち帰り、ストーブで脚を融かしてからそっと引き抜く技を身につけた。ロシアが初めてのフリッツらは気の毒に、新聞紙まで体に巻きつけたが、多くが凍死した。戦闘死と同じくらいの被害だった。盗んだ老婆のズロースまで身につけた「冬のフリッツ」という喜劇まで作られた。

厳寒の地ロシア 冬は大地そのものが要塞と化す
凍死したSS隊員たち


レニングラード近郊に凍死して放置されたドイツ兵の死体
埋葬するにも土が凍っていて穴が掘れない


ドイツの疲弊に勢い付いたソ連は、プロパガンダでさらにイワンを煽る。
「一歩も引くな」
「最後の血の一滴まで戦え」
「死ぬまで退却は許されない」
新たに封殺部隊が各隊に送られ、臆病者と見なされれば囚人同様、懲罰大隊送り、つまり前線の捨て身の作戦で捨て石にされるか、強制労働にやられた。
戦争初期の頃の兵はほとんどが既に死んでおり、戦争中期には10代の新世代の兵が、たった3ヶ月の育成期間を経て派遣された。彼らは生まれながらにソ連人であり、少年期を戦時下で過ごし、その間ピオネールなどの組織で政治教育も受けているため、彼らにとって軍務は神聖な義務であり、死の運命も受け容れる覚悟があった。ファシズム下のヒトラー・ユーゲント隊員とそっくりである。
ドイツに蹂躙された経験も経てきた彼らは、報復を煽るプロパガンダを身に染み込ませ、前線を西に押し返していく。

報復を煽るポスター

「報復」?
共産主義のイデオロギーはどうしたのか。
国や民族を超えた共産社会を目指すはずの戦いが、首脳部は本性剥き出しで頭を「報復」にすげ替えた。
イワンたちはドイツの地に脚を踏み入れ、その豊かさに驚き、祖国を嘆き、怒り、プロパガンダに示されるまでもなく、体の底から湧き出る「報復」をした!

ドイツ兵に殺された市民の遺体を見ているソ連兵
老人、女性、子供が容赦なく殺された



酒、略奪、レイプ
あるソ連兵が家族へ宛てた手紙。

「‥多くの英雄的行為を目撃したのは事実だ。でも、赤軍の恥辱も数多く目にした。残虐行為すれすれの無慈悲な仕業が自分にできるとは、考えてもみなかった。自分は善良な人間だと思ってきた。だけど、こんなときにならないと頭をもたげない性質を、人間は奥深くに長い間隠し持っているものなのだ

「祖国の人民の正義の裁きを体現している。ドイツ人がわが国でしたのと同じように‥」

「酔わずにはいられない。俺が体験している現実は、言葉では説明できない。酔ってしまえば、すべてが楽になる」

ドイツに破壊された国境付近の町を通過してきたイワンたちは、ドイツの領土に入り、住民と相対し、膨らんだ憎悪を爆発させた。そこには報復という美名があり、あらゆる蛮行を正当化する拠り所となった。町に火を放ち、略奪し、女性や少女を集団で繰り返しレイプし、時に思うままに殺し、溺れるほど酒を飲んだ。レイプは性欲を満たすに止まらず、敵国に対するあらゆる憎悪を弱者にぶちまけるような残虐極まりないやり口だった。

あまりのひどさにスターリンは取り締まりの法を発令した。レイプや略奪はその場で射殺することになったものの、黙認された。
また、荒ぶる感情に任せて町ごと焼き尽くしていては、物資面で勘定が合わなくなる。食料、毛布、衣服、薬品などを無駄にはできない。1944年、「戦利品の捕獲と搬送に関する諸諸の規則」により、戦利品は全て国家と赤軍の財産とし、兵は階級によって定められた範囲内(小包一個何キロまでというような)のみ所持が許される、とした。人気があったのは、ソ連では所持が認められなかった腕時計、自転車。自転車は初めて乗るので、フラフラとこぐ練習をして転んでは笑っていた。腕時計がソ連兵を喜ばせるというのは広まっていたので、ドイツ人は聞かれる前に用意し、すぐに差し出した。ソ連兵は腕にびっしり腕時計を着けて見せびらかし、指差してもっとよこせと示す。こんなもので気をよくするソ連兵に、ドイツ人は首を傾げた。
使えもしないタイプライターを面白がり、家に小包で送った兵もいたらしい。キリル文字ではないから使いようがないことはたぶん考えなかったのだろう。
赤軍はまた、ドイツの工場ごと手荒く解体して自国に持ち帰った。自国での組み立てや稼働の仕方は、ドイツ人捕虜にやらせればよかった。


「焼け焦げたドイツの町を行く時は心が躍ります‥」

修羅と化したソ連兵に、再び酔いの冷める攻防が待っていた。ベルリン攻防戦である。1945年4月。ベルリン市民は絶望と恐怖のどん底にあったが、ソ連兵もまた多くの損害を出した。


ベルリン
すでに大方の兵力を失い、少年兵や老年兵が経験の乏しい将校のもとで決死戦に挑むドイツは、倍の数のソ連兵と敵対することになる。米英もまたベルリンを目指していたが、ソ連の方が早く到着した。それはベルリン市民にとっては悪い方の目が出たことになった。

ロケット砲カチューシャが火をふく ベルリン付近

「市街戦は火力の勝負だ」。
ソ連は圧倒的な火力を放つ。スターリンのオルガンと言われた独特なカチューシャの音が恐怖を煽るように鳴り渡る。
懲罰大隊のイワンはここまで来て、凍るような恐怖に立たされる。ベルリン付近の地雷原の前に立たされ、後ろから銃を向けられる。

ベルリン市民は地下室で息を潜めていた。
ライラックの花の香りが春爛漫を告げている地上の戦地は、
「子供たちが右や左で死んでいた。
老人は動物のように草を食べていた」
と身元不明のある女性の日記に記されていた。

ベルリン ドイツ兵を捕らえるソ連兵

ベルリンの街でのソ連兵



この攻防戦の最中にヒトラーは自殺し、幹部は逃亡し、ドイツは数日の後に無条件降伏する。降伏を表明してから調印までの間も赤軍はベルリンを執拗に攻撃した。このような態度が日本の降伏時にも繰り返されたことは誰もが知るところであろう。

音楽を奏でる指と略奪する指と
人の手はあらゆるものを生み出す作用点だ


ドイツ兵と比較するならソ連兵は子供には甘かった
ポケットにはいつもお菓子を詰めていて飢えたドイツの子供たちに与えていたという



戦後のイワン
戦争によって西側諸国を初めて見たイワンは、勝利後には、西側世界との接触が増え、読みたい物が読め、学生の交換留学が進み、外国旅行も可能になる、という未来を思い描いた。
しかし指導者スターリンが変わらない限り、ソ連が戦前と変わるはずはないのだった。兵士たちは祖国に戻り、再び集団農場に縛り付けられた。
再び暴力による取り締まりが始まった。

かつて初めてポーランドの農場や農家の佇まいを見た兵は、驚きを隠さず言った。
「生まれてから腹いっぱい食べたことがなかった。どうしてポーランドには文化的できちんとしたくらしがあって、俺たちにはないんだろう」

このつぶやきにフランス、ベルギー、オランダを見てきたウラソフ派の兵士たちはせせら笑っただろう、と書かれている。
資本主義は罪悪だと言葉で教わり、その社会の人々は自分たちよりひどい生活をしていると知らされてきたが、目で見てきたことは否定しようがなかった。

最も悲運だったのは、闘いの末捕虜となり、解放されて来た元捕虜の兵たちだった。祖国に戻るや否や、スパイとして処刑されるか収容所送り、強制労働に連行された。
スターリンは、強制労働に向かわせる必要のない者たちに対しても、「自発的無償労働」を強制した。

本書にはこう書かれている。

「兵士は多種多様だった。一人ひとり違うイワンがいた。しかし、願いは一つだった。独裁を倒すために戦った揚げ句に、それを上回る独裁が残る結果は本意ではなかった。スターリン主義の台頭を認め、体制を守るために自ら戦い、辛酸をくぐり抜けた人々が、戦後も暴君の君臨を容認した。不幸なことだ。祖国は隷属を免れたが、自らを奴隷化したのだった。」

苦しんで勝った戦後のイワンに残されたものはこのような笑えない事実の他にもう一つ、「記憶の拷問」だった。多くは、戦友を救えたのに救えなかったこと、家族を守れなかったことだろう。
殺してきたドイツ人たちのことはどう感じていただろうか。また、前に記した資本主義社会への羨望も記憶の拷問に加わるだろう。

「記憶の拷問」‥これこそが戦争の果実だ。


ソ連の女性兵士
女性兵士はスナイパーとして優秀な腕前を持っていた




「‥問われているのは、大悪人とその罪ではありません。邪悪でないごくふつうの人のうちに、特別な動機がなくても、無限の悪を為す能力があることが重要なのです。‥」
ハンナ・アーレント『責任と判断』で述べられています。真剣にこの問題を考えたいと思います。


写真はtumblrなどの投稿から引用

革命下を生きた マリア・パヴロヴナ・ロマノヴァ

2015-10-05 23:13:46 | 読書
革命前後を生きたロシア大公女
ドミトリ・パヴロヴィチの姉マリア
Maria Pavlovna Romanova 1890~1958




最後のロシア皇帝ニコライ2世の従妹マリア・パヴロヴナは、以前の記事に上げたドミトリ・パヴロヴィチの姉であり、ウラディミル・パーレイの異母姉です。
ロシア革命時に亡命して生き延び、1930年に「Education of a Princess」を、1932年に「A Princess in Exile」を上梓しました。そのうちの前者の日本語訳「最後のロシア大公女」(平岡緑訳)を抜粋しながら、マリアの生涯を辿ります。


「1890年にこの世に生を受けて以来、私は激動の時代を生き抜いてきた。私の最も旧い記憶に残る日々は、今こうして執筆しているニューヨーク市内のアパートメントの周囲に輝くばかりに林立する摩天楼、そしてその下に流れる膨大な交通量の織りなす世界からは、まったく想像もつかないほどかけ離れた異質のものであった。今にして思えば、あの頃私が住んでいたのはいわば中世にも似た世界だった。‥」
(序 半生記より)


1890年、当時皇帝アレクサンドル3世の弟パーヴェル大公の長女として生まれたマリアは、のちの皇帝ニコライ2世の父方の従妹であるとともに、現在のエジンバラ公フィリップ王子の母方の従姉でもあります。
1891年、妊娠7カ月のマリアの母アレクサンドラ(ギリシャ国王ゲオルギオス1世の二女)は事故から妊娠中毒症を起こし、6日間意識不明ののち早産しそのまま他界しました。
そのとき生まれた弟ドミトリはもちろん、マリアも母の記憶はなく、日に2度、父に会える他は「赤の他人に育てられてきた」と回顧しています。





弟ドミトリ

大好きな優しい父と過ごすクリスマスの、微笑ましいエピソードがあります。

「父宛の贈り物が溢れんばかりに満載されたテーブルには、想像を絶するほど珍無類な、しかし愛情のこもった品々が並んでいた。弟と私は何カ月となく針仕事に没頭しては恐ろしく悪趣味のクッション、紙挟み、ペン拭い、本の表紙掛けを縫い上げた。私達が少し年長になり、父が裁縫はもうやめてくれと懇願するようになってからは、クリスマスに備えて貯金を始め、その日が近づいてくると、勇んで店に出かけていっては非実用的なくだらない物をしこたま買いこんできた。がらくた類は、子供達からの贈物という感傷のレッテルが貼られるお蔭で屑篭行きこそ免れたが、年々衣装箪笥の暗がりでぞっとするほど無駄に増え続ける運命にあった。‥」

マリアの語り口はこのように忌憚ないストレートな調子であり、歯に衣着せぬ物言いが散りばめられています。生後数カ月の皇女オリガを、「胴体が小さい割に頭でっかちの、ひどく醜い赤子」と書いています。

伯父セルゲイ、伯母エリザヴェータ、父パーヴェルと

伯父セルゲイと

イリンスコエ

マリアとドミトリは夏の間、イリンスコエの伯父セルゲイ夫妻の下で過ごすのが常でした。イリンスコエでは近隣の知人宅にお茶に呼ばれることがあり、ユスーポフ家には度々招かれ、少し年上のニコライとフェリクスらとともに過ごしていました。

子供のいない伯父は二人に愛情を傾けてくれましたが、伯母エラ(アレクサンドラ皇后の実姉エリザヴェータ)は姉弟に無関心であり、冷酷であり、その言葉に傷つけられることが度々あったようです。しかし、当時ヨーロッパで最も美しいプリンセスと言われていたエラの美しさは、マリアも驚嘆しつつ認めています。夫妻はともに自尊心が強く、内気で冷淡、柔軟性に欠ける一方、特にセルゲイは独占欲が強く、姉弟はなじめなかったようです。のちに、父パーヴェルが貴賎結婚で国外追放になり、皇帝はセルゲイ夫妻を姉弟の後見人としたため、父を非難し愛情を押しつける伯父に、マリアたちは縮み上がる思いをしたそうです。
9月下旬にはツァールスコエに滞在、皇女オリガやタチアナの遊び相手として子供部屋に通され、数え切れないほどのおもちゃで存分に楽しみましたが、訪れるたびにマリアは、皇帝夫妻と皇女たちの素朴な家族愛に触れ、傍目に羨ましく感じました。

「何故ならそこでは、飾り気のない平和な静けさに満ちた家庭そのものの雰囲気を味わうことができたから。」

そのあと姉弟は伯父伯母のモスクワの住まいに移って行きました。


前列中央にドミトリ、後方中央にマリア、その左にエリザヴェータ

ドミトリとセルゲイ

左ドミトリ


1905年、社会に不穏な気配がたちこめ始めた頃、セルゲイが爆殺されました。葬儀出席のために一時帰国を許された父パーヴェルと久しぶりの再会をしました。父は姉弟を引き取りたいと願い出ましたが、伯母は伯父の遺志に則りたいとして父の申し出を断りました。その後まもなく、伯母エラはプロシアに嫁いだ妹イレーネを仲介して、17歳のマリアにスウェーデンのヴィルヘルム王子との結婚を勧めてきました。

Prince Wilhelm of Sweden
Duke of Södermanland
マリアとの結婚は1908~1914年
その後結婚はしなかったが平民の愛人と暮らしていた



マリアは状況に流されるままに婚約しました。結婚に向けて準備を進めていく中で、まだ大人に成りきれないマリアには不安がときどきに湧いてきます。

「かなり自由な教育を受けたはずの王子も、自主性に欠けるという点では私と似たりよったりだった。私の周囲と瓜二つの周囲が、彼の生き方を考慮して諸事万端に決定を下していた。こんな二人が結婚したら先々どうなるのだろう?共に手にする独立と自由に二人してどう対処したらよいのだろう。この若々しい、見るからに自信に溢れた男性が、私との家庭を作ることに人生の幸せを見出す心づもりでいるのには、つくづく良心の呵責を感じた。私は彼に向かってまるで空っぽの心を差し出しているうえ、自らの自由を獲得するために、ある意味では利用しようとさえしているのだから。」

マリアにとっては、結婚への不安よりも最愛の弟ドミトリと離れねばならないことへの不安の方が大きかったようです。

1908年の結婚後、スウェーデンでは王宮でも国民にも温かく迎え入れられ、充実していたマリアでしたが、海軍の任務でほとんど家をあける王子にないがしろにされていると誤解し、次第に仲がこじれていきました。







スウェーデンの民族衣装

Lennart王子



二人の間に王子レナートが誕生しましたが、タイ国王の戴冠式にスウェーデン国王代理としてヴィルヘルム王子と参列するため、子供を置いて長期旅行へ。関係は修復できず、体調を崩してナポリの保養地で療養していましたが思い余ってパリの父のところへ身を寄せ、結婚解消を申し立てました。離婚成立後、マリアはロシアへ帰り、ドミトリのそばに住まいます。
1912年、エラが修道院を設立してから院内に住まうことになったため、ドミトリは皇帝一家とともに暮らしていましたが、自由を求めてその頃にはセルゲイの遺産であるイリンスコエに移っていました。
1914年、第一次大戦が始まるとドミトリも出征し、前線へ派遣されました。





弟が従軍したのならば自分もと、マリアは看護婦になり戦場の病院で看護に携わり、経営もし、様々な困難に直面しても真摯に立ち向かいながら、自らの力量を次第に高めていきます。マリアは戦時下にありながら自分に「目覚め」がおとずれたことを幸福に感じていました。



皇族の立場を離れて、様々な階層の人々と生きるうちに、ロシアの置かれている状況、その病を知るに至り、マリアの中でますますロシアへの愛が深まっていきました。
そんな中で、ドミトリとユスーポフ公らによるラスプーチン暗殺事件が起こったのです。

マリアは弟からこの件で自分に相談がなかったことを、弟に自分が切り離されてしまったように感じて、驚くとともに悲しみました。ドミトリは姉には相談せず、伯母エラには、皇后の心理状態を図るために相談していました。
ラスプーチンの皇帝皇后への束縛ぶりはロマノフの親族たちはそれまでにも面会を重ね、説得を重ねていました。パーヴェルは皇帝の最後の叔父としての立場から、ドミトリも息子同様の寵愛を受けていた立場から、皇帝に意見具申してきたものの聞き入れられることはありませんでした。

逮捕後に自宅軟禁されたドミトリとユスーポフ公の様子が、この著作のなかで詳細に書かれています。
この一件に関するマリアの見解が記されています。

「頑愚なうえ、自分だけの殻に閉じこもってしまい世間の動静にまったく無知な皇后の差しがねによって、信頼に足る人物は全員宮廷から締め出されていた。その中で、不実と虚偽に取り巻かれた両陛下は、一般に蔓延している非難の声も聞こえないありさまだった。
国会が反抗的態度を明らさまにする一方で、議員たちは宮廷内の腐敗した秩序を言いたい放題あげつらう弁説に熱中していた。‥しかし、すべては決断を伴わない果てしない饒舌の域を出ず、一人としてその実現に手を貸そうとする者はいなかった。人々は小人物の集団になり下がっていた。‥弟はラスプーチン事件について終始沈黙を守っていたが、こうして私に話す言葉の端々から、彼の殺害に参画した心情が窺われた。彼は、怪物に心臓を一突きにされて悶えているロシアを、その元凶から解放しようとしただけでなく、国内諸般の事情に活を入れ、無気力で無定見で低級な舌戦にとどめを刺し、ひと思いに模範的行為に打って出ることで、人々の奮起を促したつもりだった。」


ドミトリはペルシアに送られる前に父と電話で一言だけ話す。これが親子の最後の会話になりました。

やがて1917年2月、皇帝は退位、臨時政府が立ち上がるも、脆弱な体制は綻び、あっという間にボリシェビキに呑み込まれ、10月革命を迎えました。マリアはツァールスコエの父の下で暮らし、異母弟ウラディミルの友人プチャーチンと結婚しました。生活はどんどん制約されて苦しくなりましたが、マリアは恋愛結婚に充足していました。やがて息子ロマンが生まれ、1918年7月18日に洗礼式をしました。奇しくもその日は、遠いシベリアの地で伯母エラやウラディミルが殺害された日でした。ウラディミルは前年3月に流刑になっています。
マリアは1919年にルーマニアへの亡命を遂げてから、父パーヴェルの処刑、伯母と異母弟の処刑、息子ロマンの病死を知ることになります。


ボリシェビキによる政権はいよいよロマノフを圧迫にかかり、父パーヴェルが連行されます。妻オリガ・パーレイが奔走し、父は戻ることが出来ましたが、マリアに及ぶ危険を避けるため、マリアと夫は我が子を夫の父母に預け、ドイツが実質占領しているウクライナに逃亡します。スウェーデン公使館発行の身分証明書を石鹸の中に隠し、身分を偽っての逃亡を数々の危機を乗り越えて奇跡のごとく成し遂げました。
その後、ドイツは帝政崩壊しウクライナにもボリシェビキが迫ることが予測され、マリアは夫とその弟と、従姉妹のルーマニア王妃の導きでルーマニアへの逃亡を目指します。スペイン風邪で発熱しながらも、王妃によって派遣された大佐に導かれ、ロシア人士官にガードされた列車に乗り込み、ベッサラビア国境へ向かいました。

「その日、汽車がベッサラビアとの国境がそこから始まるベンデレイに差しかかる頃、日はとっぷりと暮れた。何本かの空瓶に立てた蝋燭が客車内をほの暗く照らしていた。私は発熱と悪寒で、頰が焼け付くようだった。ベンデレイに到着する直前、私は警護についてくれた志願兵達に礼と別れを述べ、彼らを通してロシアに別離を告げようと思った。重い冬支度、毛皮の帽子、ライフル銃が弾丸ベルトにぶつかる音。やってきた男達は客車をいっぱいにした。彼らから、ロシアの秋の野の匂い、燃え盛る薪から上る煙の匂い、革長靴の匂い、弾薬の匂い、軍服の匂いが立ちのぼってきた。蝋燭だけの点る狭い車内で、彼らの輪郭だけがはっきりと認められた。
私は感極まって言葉が出てこなかった。見知らぬ、今まで会ったこともなかったこの男達が、急に身内よりも身近に感じられた。彼らは心情として私が後に残していくものの一部であり、同時にそのすべてを具現していた。
彼らの顔を永遠に記憶に焼きつけようと、私はテーブルの下から蝋燭を取り上げ、一人一人の顔を順番に照らしていった。
刈り込んだ髪に濃い口髭を蓄え、日焼けした顔が一瞬ごとに、一筋の細い黄色い光の中に浮かび上がった。私を永遠に彼らの心の中に留めておくためにも、その場にふさわしいことを言いたかったが、辛い、救われようのない涙が頰をとめどなく濡らすばかりで、言葉にならなかった。
こうして、私はロシアに永遠の別れを告げた。」



マリアは以降ロシア(ソ連)に戻ることは生涯ありませんでした。ロシアという大地との空間的別れであり、失われゆくロシアという国との時間的別れでもあり、自分の存在と祖先の喪失でもあり、残してきたもの全てが失われていく、それをどうすることもできない無力感‥。
それが、ただはらはらと流れ落ちる涙。
落剥してゆく感情のかたち、かもしれません。


この本はここで終わりです。亡命後のことは1932年出版の作品に書かれているのでしょう。日本語訳のものがあるのかどうか?

マリアは1932年以降、26年間生きました。亡命後のマリアの足跡を簡単に記します。




1918年ルーマニアへ
のち、パリへ
1919年息子ロマンの死
ロンドンで弟と再会、弟と夫は合わない
1920年夫と二人でパリへ
義母オルガ・パーレイや異母妹と暮らす
ドミトリもパリへ
1921年レナートにドミトリとともに会う
パリにレースを扱う店Kitmirを出店
弟の招きでココ・シャネルと取引
1923年プチャーチンと離婚、その後も経済的援助を続ける
有名なファッションデザイナーJean Patouと恋愛
1928年店を売ってロンドンへ
香水の店を出すがふるわなかった
1929年アメリカへ
ニューヨークのデパート店員
出版本が成功し大学でレクチャー
仏語、露語、西語に翻訳される
1937年ドイツのマイナウへ息子レナートを訪ねる
この年、アメリカがソ連と同じ連合で大戦に参加することに失望し、アルゼンチンへ
1942年結核療養中のドミトリがスイスのダボスで死去
1947年息子レナートがマリアを訪ねる
1949年ドイツのマイナウへ
レナートの邸宅に同居
1958年肺炎により死去、68歳
マイナウの墓所で弟ドミトリの隣に埋葬された


レナート


元夫ヴィルヘルムと息子レナート

弟ドミトリと








画像はお借りしたものです




遠い戦地で斃れて 「In Flanders Fields」

2015-09-19 23:08:13 | 読書

In Flanders fields,The poppies blow
Between the crosses, row and row,
That mark our place;
and in the sky
The larks,still bravely singing.,fly
Scarce heard amid the guns below.
We are the Dead.short days ago
We lived,felt down,saw sunset glow.
Loved,and were loved,
and now we lie in Flanders fields.
Take upon quarrel with the foe;
To you from falling hands we throw
The torch;be yours to hold it high.
If ye break faith with us who die,
We shall not sleep,
though poppies grow in Flanders fields.


John McCrae 1872~1918



フランドルの野に、
ポピーが咲いている
僕たちの居場所を示す十字架と交互に重なるように。
空には雲雀、今もまだ勇敢に歌いながら、飛ぶ。
その下に轟く銃声で、その声はほとんどかき消されていたけれど。

僕たちは死者だ。
数日前は生きていて、地に倒れ、
夕日が赤らんでいくのを見た。
愛し、そして愛された、
そして今
フランドルの野に臥している。
僕らの、地に投げ出された手から
きみへ灯火を引き継ごう。
それをきみのものにして高く掲げ続けてほしい。
きみがもし、死んだ僕たちとの約束をないがしろにするなら
眠っていられない。
たとえフランドルの野にポピーが咲き亘っているとしても。




第一次大戦西部戦線最大の激戦地のうちの一つ、イープルでの第二次イープル会戦では、西部戦線で初めてドイツ軍によって毒ガス(塩素ガス)が使用されるなど、対する連合軍は苦戦を強いられた。このとき、前線を守っていたのはカナダから派遣された兵団だった。


上の詩は、イープルの戦場にいたカナダ軍人ジョン・マクライが、戦死した親しい友人を翌日に埋葬したときの思いを記したものである。


We are the Dead.
short days ago
We lived,
felt down,
saw sunset glow.

Loved,and were loved,
and now we lie in Flanders fields.



イープルの戦場近くのフランドルには、小さく粗末なにわか拵えの十字架が並び、それらと折り重なるようにポピーの花が咲き乱れている。
ポピーの種は地に落ちても発芽せずそのまま眠り続け、何かの拍子に地が掘り起こされると芽を出し、花を咲かせるという。
まるでそれは、むなしく死んだ兵士への慰みであるかのように、十字架を覆うように咲いていたという。

死んだ友や他の兵たちの思いを記憶するために、医師であり詩人であるマクライが書き記した詩。


「愛し、愛された、そして今、、、」



彼らの胸に勲章は無く、「愛し」「愛された」思いだけを胸に抱き、地に眠る。
祖国ではない土に眠ることを、彼らが生まれた日には、誰も考えなかったことだろう。






John McCrae 1872~1918はカナダの都市ゲルフに生まれた。家族はスコットランド長老派教会支持者で軍人の父、母、兄トーマス、妹。



ジョンは人や動物に深い愛情を持ち、地元のカレッジに通い、詩作を楽しむ一方、軍へも関心を持っていた。14歳からHighland Cadet Corps、17歳からMilitary field batteryへ。
16歳でGuelph Collageを卒業し、トロント大学へ進学。しかしこの間にひどい喘息を患い、生涯この病に苦しめられた。
のち、オンタリオ農業学校で英語と数学の教師をしているとき、友人の18歳の妹に恋したが、まもなく彼女は亡くなり、ジョンは心底悲しんだ。ジョンはこのあと生涯を独身で過ごした。
1893年にトロントに戻り、学士(文学士)の学位を取得。その後、トロント医科学校へ進学し、病理学を学ぶ。1898年に医学士の学位を取得、トロント医科大学に勤めたが、彼の兄トーマスが研修医として勤務しているジョンズ・ホプキンズ大学病院に惹かれ、そこで著名な教師に師事した。



1899年10月、南アフリカでボーア戦争が起きる。
ジョンは病理学研究を中断し、カナダ砲兵隊として従軍。12月にはアフリカへ。
戦争が終わり帰国するとき、彼は複雑な思いを抱いていた。自国のための戦争は必要であると認めるのだが、病気や重傷の兵士らが惨めな扱いを受けることに心を痛めた。



このあと1914年まではジョンは軍隊から離れ、医師としてのキャリアを固め、充実した私生活を過ごす。

1901年、モントリオールに戻り、病理学をまとめた。1902年は数ヶ月間イギリスのThe Royal College of Physiciansで研修も。
1905年以降は複数の病院での勤務や講義の他、自分の研究も続けている。
また、医学に関する執筆も幅広く手がけている。『Montréal Medical Journal and American Journal of Medical Science』に記事を書く。
1909年から1912年には、兄トーマスと共に病理学の教本も手掛けた。
ジョンは尊敬される教師であり、患者や同僚に対する熱意や責任感に優れた医師でもあった。
私人としては社交的であり、休暇にはイギリスやフランスなどへ旅行へ、そして日曜日には教会へ通うなど、公私にわたって多忙であった。
個人的に詩作を続け、他にも数々の芸術系クラブに参加している。また、彼の表現は言葉だけによらず、鉛筆スケッチも嗜んだ。



1914年8月4日、イギリスがドイツに宣戦布告する。
大英帝国のメンバーであるカナダも自動的に参戦することとなる。
3週間で志願兵45000人を募り、軍を組織。
ジョンは第1旅団砲兵隊から従軍する。
友への手紙にこう書いている。

It is a terrible state of affairs, and I am going because I think every bachelor, especially if he has experience of war, ought to go. I am really rather afraid, but more afraid to stay at home with my conscience.

ひどい情勢だね。でも僕は行く。全ての独身男性、特に従軍体験のある者たちは行かねばならないだろうと思うからね。良心に苛まれながら家で過ごすよりはいい。



ジョンは愛馬Bonfireを伴って戦地へ発った。



1915年4月、ジョンはイープル近く、フランドルの塹壕にいた。
4月22日、第2次イープルの戦いにて、ドイツ軍は膠着を破るために塩素ガスを使用、正面近くにいたカナダ軍は大損害を被るが、16日間前線を死守した。ジョンは塹壕で、何百という死者や死にゆく人々のなかで、重傷者の手当てを続けた。
母への手紙によれば、


The general impression in my mind is of a nightmare. We have been in the most bitter of fights. For seventeen days and seventeen nights none of us have had our clothes off, nor our boots even, except occasionally. In all that time while I was awake, gunfire and rifle fire never ceased for sixty seconds ..... And behind it all was the constant background of the sights of the dead, the wounded, the maimed, and a terrible anxiety lest the line should give way.

僕の印象としては、まるで悪夢です。僕らは戦場の最悪の戦いの中にいる。17日間、昼も夜も、誰一人、余程のことがない限りブーツはもちろん服も着替えられないのです。起きている間じゅうずっと、砲撃や射撃の音が60秒も途切れることはありません。その後方には、死者、重傷者、後遺症のある者、そして恐ろしい不安が常に存在しています。


こうした日々の中で、ジョンは最も親しかった戦友を喪う。フランドルの野に、友の間に合わせの埋葬する。十字架と、それを包もうとするかのように咲きわたるポピーの花。
虚しく戦地に果てることになった友らの、語れない言葉を代弁するべく、彼は詩を書いた。


「In Flanders fields, ー


彼の最後から2番目の作品となった。
この詩は1915年、イギリス『Punch』誌に掲載され、たちまち広まり、多くの言語に翻訳され、戦場の悲哀を伝える最も有名な詩となった。

一方、この詩を書いてまもなく、ジョンは転属になった。フランス北部の軍施設の病院のチーフに任命されたが、寒く、湿った気候のために持病の喘息を重くしてしまった。
この病院はテントでしかなく、1560床、26エーカーもの大施設で、常に扉は開け放しだった。ここには、名だたる激戦地ソンム、第3次イープル、パッシェンデールなどから続々と重傷者が運ばれてきた。

ジョンはイープルの戦い以降、精神的にひどく消耗し、喪失感に苛まれていた。
友人によれば、フランスへ行ってからは、ジョンの、人を惹きつけるような明るい笑顔は失われてしまったという。
彼の慰みは、愛馬に乗って散策することと、Bonneauという名の犬をかまうことだった。





塹壕戦では劣悪な環境と恐怖のために精神に異常をきたす兵がたくさんいた
この人は泥に侵食されそう
生きながらポンペイを体現しているかのようだ







1917年夏、喘息の発作から気管支炎を起こし悪化、1918年に入ると重症の肺炎になった。
そして1月28日、肺炎と髄膜炎により、ジョンは亡くなった。

ジョンの葬儀は、フランドルから遠くないBoulogneで、軍による正式な形式で行われた。Bonfireが葬列を率いる。その鐙には、ジョンのブーツが後向きに掛けられていた。
その日、Wimereux Cemetary(墓地)には春風がそよぎ、彼のまさに好んでいた風景のように、広野に陽光が満ちてあふれていたという。



ジョンは戦争に対する自らのモラルのために、自分の築いてきた経歴をストップして戦場に向かった。しかし現実の戦場は、その高いモラルの足場を崩すほどの、残酷な悪夢だった。
ぎりぎりの理性と優しい心で保っていた詩人の感性がひとひら輝いて、破滅の中に消えていく美しい世界を伝えている。
しかし、この光景はほんの一場面でしかない。
戦場の悲しみを美しく讃える一断面であって、この光景の裏には膨大な数量の、残酷極まる場面がある。それは忘れてはいけない。

ジョンは敢えて残酷な景色を読者から隠そうとしたのではないことは理解できる。彼ら死者は、人生の終わる直前のときまで悪夢の中を生きていた。
死んでなお、その苦しみを噛みしめることはない。死者の手は苦しみを照らす灯りを生者に差し出し、ようやく解放されて眠れる。その受け渡しのひとときを、精一杯人間的な静謐な心で迎えることはどうしても必要だったのだと私も思うからだ。つまり、生きる者としては生き地獄を正視する義務があり、死者=犠牲者は悪夢から解放され、人間を取り戻す瞬間を得る権利を授かる。その、過酷で優しい分断を描いているのだと思う。











『我ひたすらに眠りたし』

この言葉を思い出した。太平洋戦争で日本軍のある部隊が玉砕攻撃をして、最後に部隊長らが玉砕の報告を東京に通信し、通信機を破壊して自決する。多くそうした事例がある中で、この言葉で締めくくったものがあった。
この、素朴すぎる一言、軍人の最後の言葉にしてはあまりに卒直だからこそ強く心をえぐられるものがある。



John McCrae's War - In Flanders Fields - Documentary





写真や動画はお借りしています