忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす

原体験を道徳教育にどのように生かしていくかを探求する。

私のここで言っている「純粋な思考」とは

2013年01月09日 | 無意識の働きをめぐる対話
 いつもながらNoboru氏は、議論全体からいま焦点となっているところを整理して示され、具体例も挟んでの展開は大変わかりやすく、気づいてみると私の議論はNoboru.氏のそれに依存して進めているようなところがあり、だから私の議論は部分に片寄ったように見えるのではないかと思いました。それに、私の議論は具体例にも乏しく不親切なものになっているなと反省しているところです。反省はしても難点を克服した議論ができるかは心もとないですが、出来るだけ努力していこうと思います。
 さて、議論が噛み合わないと感じさせる点は私の説明不足によるのは明らかですが、「純粋な思考」というもののとらえ方に齟齬を来していることも大きいのだと思われます。それではまずその点から説明していこうと思います。

 Noboru氏は、思考が純粋に行われる場合というのは数学や論理学を除いては考えられないと言われます。思考が「個人の欲望や感情や利害や無意識に多かれ少なかれ影響される」からだというわけです。実はその点では無意識を除いてですが私も同じで、具体的な思考のプロセスにおいては思考に欲望や感情等が絡んで影響され、常識的に見たらゆがんだ認識や判断に行き着く場合も多かろうと思っています。同じ講演を聴いても人によってその理解に違いが生じるのも、それぞれの欲望や価値観、それにともなう感情の違いからきていると言えます。そうした理解では両者はほとんど違っていないと最初から思っていました。違っているのは次の点です。

私が言っている「純粋な思考」というのは、利害関係などのバイアスがかからずに展開される思考のことではありません。実際には思考に欲望や利害関係その他が影響しないことなどほとんどないのです。と言うか思考はそれらに影響されるのが当然なのです。しかし、そうなるのは思考が不純なわけでも、思考そのものがゆがんで機能してしまうからでもないのです。どのような思考結果・思考内容が導き出されるにしろ、思考そのものはいつも本来の働きを営んでいるのです。思考は数学を解くときも、自然科学の特定の研究をするときにも、あるいは社会科学を学ぶときにも、変わらず働きます。その本来の思考そのものの働きを、私はたまたま「純粋な思考」と言ったわけです。(ネーミングの仕方はよくなかったかもしれませんが。)

 この点をもう少し具体的に述べてみることにします。思考はもとより言葉だけでなく、イメージ思考もありますよね。何か機械を発明する場合、たとえばエンジンの機能強化を図ろうと工夫しているエンジニアなどの場合、言葉で考えるというよりは改良されるべき所のあるべき形が次々とイメージされ、それと関連か所との望ましいあり方をイメージさせながら考えていくというケースは多いのだろうと思います。
 シュタイナーによれば概念は思考にもともと備わっているといわれ、思考を働かせると同時に概念が獲得され、思考対象に概念が結びつく。思考が展開されているところでは思考によって原因と結果、客観と主観、物質と力、大小、上下、遠近といった様々な概念のうち適切な幾つかの概念が思考対象に結びつき、事柄の関連性や本質が認識されていきます。2つの異なる現象の関連や異なる体験の相互の関係性は思考抜きにはつけられないのです。こうした思考本来の働きを「純粋な思考」と言ってきたのですが、その思考は次のような場合も当然働きます。

 ある悪い心根の人がお金を手に入れたいと思い、その手段として老人からお金を巻き上げることを思いつきます。詐欺の手順が練り上げられます。その人の思考はそうした悪い目的にも働きます。もちろん思考が悪いのではなく、その人の目的が悪いのです。しかしこの場合の思考は、その悪い目的のために奉仕させられているわけです。
 巨額の内部留保を抱えている大企業が、少し景気が悪いからといって人件費を削る算段をし、不当な理由をでっち上げて派遣社員法のギリギリのところで首にしたり、正社員にしなければならない勤続年数3年間の直前で一端やめさせ、その上で新たな派遣社員として採用し低賃金でつなぎ止める、といったことが行われています。ここでも人件費を削るという目的に会社経営者の思考が働いた結果です。思考そのものは能動的で純粋な働きをするのですが、会社の歪んだ目的のために言わば思考は奉仕させられていると見ることができます。

 もちろん当然ながら思考は前向きの様々な目的のためにも働きます。先ほどの優れたエンジン発明のためや、ips細胞の応用によって心臓疾患等の難病を救う研究も、その目的を自覚する人の思考として働くことによって成し遂げられていくことでしょう。
 Noboru氏も社会科学的な学問上の思考を取り上げて、利害関係のバイアスゆえに研究結果が恣意的にゆがめられる例を上げておられますが、そういうことはいろいろあって、たとえば今日日韓両国の歴史認識の問題で対立が深刻になりつつありますが、「これではいけない!」ということで認識の齟齬を出来るだけ払拭する必要があるという意図を持った場合には、両国の学者が丁寧に事実を調べて出し合うことである、と考えるのもまたその意図所有者の思考の働きの結果であるわけです。
 また、言葉としての概念の理解にズレがあるために議論が進展しないことがわかれば、概念の定義づけを再検討するといったことも、議論を交わす人たちに建設的な目的が共有されているのであれば進められていくはずです。思考は人間に備わった資質・能力であり、それをどう使うかはその人によるわけです。

 そこで、ひとまず上に述べた意味で、思考の働きそのものを「純粋な思考」とし、しかしその思考はそれぞれの人の目的(悪い結論を得るための場合もあるが)に向かって働くわけですから、私はその目的のもとに紡ぎ出された思考結果を「思考内容」として、「純粋な思考」と区別してきたわけです。

 ところで無意識は別として、思考がその人の抱く欲望や利害関係やそれらにもとづく感情にも影響されて具体的に展開していくというのが、思考展開の現象的姿です。しかし、私がこれまで述べてきた思考というのは、その人自身がはっきりとした思考対象を持たなければ、何となく自然に目的もなくはじまっているというものではないと思っているわけです。気分や感情の流れであればそういうことはあるでしょう。いや、たいていはそのようであるのではないでしょうか。
 しかし思考はそうした気分や感情とは違い、大変に能動的な作業であって、思考し続けるにはかなりの集中力が必要で、結構しんどい作業であるわけです。それだけに、どのような思考内容が紡ぎ出されようとも、自我(私)は明確な意識のもとに逐一そこでの思考に立ち会っており、すべてを把握していると言えるのです。だからこそ、自分の思考が何者かによって知らぬ間に遂行されていたなどということはありえず、思考内容は自分が生み出したものと言えるのです。それゆえ思考内容、すなわち思考して生み出した結果については思考主である私が責任を持たなくてはならないし、また持てるのだと思います。

 思考は集中を要する精神作業なので、日常生活においては苦手とする人が多いのです。日常の生活意識においてはあまり考えることはしていないもので、他人の考えに何となく耳を傾けて理解していたり、直近で起きた生活上の出来事の印象をぼんやりと引きずっていたり、もちろん心配事でもあれば、その心配な気分が通奏低音のように心を支配しているといった案配で、全体に日常生活での心のありようは受け身的と言えるものではないかと思います。無意識の働きもそういうところに忍び込むのかもしれません。

 そこで、ここで思考と無意識・潜在意識との関連にふれたいと思います。すでに述べているように、私は思考に無意識が入り込む隙はないと思っています。ですが、そう言う前に、無意識を私がどのように理解しているかについて述べなければなりません。
 さしあたって私の理解する無意識は、意識内容がないという意味ではなく、現在意識に現れていない意識内容ともいうべきもので、つまり記憶です。幼いころからの体験や様々なことで多く学習してきたことの大半は必要に応じて意識化されますが、普段は意識下に沈んでいます。それらは自分の必要に応じて思い浮かべることが出来るものです(この頃はそうもいかなくなってきていますが・・・)。
 それと、フロイトの精神分析学でいう心の中の無意識的なしこり、ヒステリー症状などは抑圧された性欲が原因とされていて、そうした無意識的しこりが人間の行動に影響を与えるというものです。 もう一つ仏教でいう阿頼耶識といって、過去からの業を貯えている深層意識をさすものと、潜在的な自我執着心を意味する未那識のことを、私には無意識というときには気になるものとなっています。しかし、それらが現実に生きる人間にどのようにかかわるのかについては私にはわかっていません。

 それで、そうした無意識が、人間の意識生活だけではなく人生の道程において運命をもともなって作用するようにも聞いていますが、私はこと思考においては、思考の土俵の中に限っては意識されないままに思考そのものに作用することはありえないと考えているわけです。それはおまえがたんに認めないだけで、現実には無意識の作用が及んでいるのだということが真実であるとすると、それはNoboru氏の仰ることでもあり、そうすると、私は自分の思考内容や判断に責任が持てないことになります。自分の言っていることが実は自分が言っていると思っているだけで、実際には自分のその時点で意識していない何らかの作用を受けて、あるいは自分が意識できていない何かの作用に促された結果ということになり、それを自分の考えのように思わされているに過ぎなくなるからです。

 こうしてNoboru氏との議論も、Noboru氏の主張にしたがえば、この議論が真剣であればあるほど、氏の説得力を持った論調の部分でさえ、それを氏自身が私に対して真剣に主張する意味合いが薄れることになりはしないかということです。もしかすると氏が意識できぬ何らかの作用によって思考が展開されているかもしれないからです。そうすると自分の思考に確信が持てず、責任を持って、あるいは信念を持って人に何かを説得することができないことにも、理論上はなるのではないでしょうか。その点をNoboeu氏はどうお考えになりますか。(Takao)