第6章 「英国直観主義と功利主義」の問題
私は、西田哲学も求道の道だと思っている。それは一人深い渓谷や孤高の尾根道を行くようなものだとイメージしている。その道を私は個人倫理と言っている。そこでの世界を記述し、人に伝えようということは極めて難解である。一つには道を歩み、道を得ること、二つにはそれを表現すること、三つにはそれを伝えること、以上の難しさがある。それらは一人の道である。もちろん彼を産んでくれた人、彼の生活を世話する人、彼に導きを与える人、彼を愛で支える人、等がいるので彼は全く孤独であるとは言えない。しかし求道の道はそうした御蔭に恵まれながらも個人の道なのである。誰もその中に立ち入ることはできない。それを個人倫理と言う。しかしその孤高の世界は欧米個人主義とは違う世界である。
その道は西田だけが歩んだ道ではない。日本人はみなこの道を志、この道を歩んでいるものと思う。少なくともそれを分かり、その尊さが直観できる人達だと思う。次の第1節冒頭で学習指導要領(道徳)を持ち出しているのはそこにこの個人倫理が日本的倫理性として位置付けられていると思えるからである。
ところで、私は倫理問題には個人倫理と社会倫理の2面性があると考える。この2つの倫理は相容れないもののように歴史的にお互いにその立場を主張し続けている。その現象は英国では直観主義と功利主義に表れている。ここではこの2者を念頭に置きながら、個人倫理を考えていきたい。と言うのは西田哲学の求道の道は、つまり個人倫理として日本的倫理性を代表するものであり、意義があるかどいうかということではなく、我々の倫理性がそこにあるということは動かしがたいことであり、そのように我々はあり、諍えないところであるからである。
ところがこの自分の求道の道は利己主義でしかないのではないかという問題が出てくる。この問題は以下に論ずる直観主義と功利主義の妙な絡み合いを見せる。直観主義は個人の直観に根拠を置く理想主義である。一方功利主義は社会の幸福を中心に置く社会主義であり(コミュニズムではない)、社会全体の幸福をテーマとし、直観主義の個人主義に対する。しかし功利主義には個人主義の問題もある。功利主義の原理「最大多数の最大幸福」のベースは個人の「幸福」である。そして幸福の追求は個人のエゴイズムの問題でもある。そこで直観主義が個人倫理の問題であり、功利主義は個人倫理ではないとは言えないのである。こうしたことを踏まえて、いろんな意味でエゴイズムを諮問し、我々の倫理性を考えてみたい。
第1節 個人倫理と社会倫理
「日本の学習指導要領 道徳」では内容は次のように4つに大別されている。
1 主として自分自身に関すること
2 主として他の人とのかかわりに関すること
3 主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること
4 主として集団や社会とのかかわりに関すること
その1は自分個人に関することであり、2は他の人とのかかわりに関することである。それぞれの内容については、1には5つの説明があり、2には6つの説明がある。それらの説明からは多くの道徳的価値が見いだせる。しかしこれらの道徳的価値が1に含まれているものは自分自身に関することであり、2に含まれているものは他の人に関するものであるかといえば必ずしもそうとは言えない。例えば1-(1)に掲載されている「望ましい生活習慣」は、それらが個人の行為の現象であるから自分に関することと言われるのであるが、同時に家庭や学校、社会などの場面で展開されているのであるから社会的なものでもあると言える。また例えば2-(2)の「人間愛」は他の人に向けられるものであると同時に自分の気持ちの持ち方であるから自分の問題でもある。
そこで1と2は自分の領域で捉えるか他の人の領域で捉えるかという捉え方の問題として一応受け止めたものと考えることにしたい。従って自分自身に関することは他の人とは無関係であるということにはならなく、他の人に関することも自分自身には一切関係していないということではない。
また1の個人倫理の問題は3の「自然や崇高なものとのかかわりに関すること」に、2は4の「集団や社会とのかかわりに関すること」にそれぞれ延長していると言える。
このように、「学習指導要領 道徳」が自分と他人に関することに着目したことは大変意義深いことである。ただ自分と他人との区分けはタイトル通りにはなっていない点は気になるところである。つまり区分けの原理が不透明な点が気になるところである。この不透明性を検討することは倫理・道徳問題の大きなポイントになると思われる。
個人倫理ということには曖昧な面がある。例えば倫理は、結局は個人が受け止める問題であり、社会的な規則や共通の在り方などということになると倫理とは言えないという受け止めや、逆に倫理とはそもそも社会的なものであり個人に限る倫理ということはあり得ないという主張などがある。そうした不分明が学習指導要領にも表れていると言える。そこでまず個人倫理について私の考えるところを検討しておきたい。
1)個人倫理と利己主義
志賀大学の安彦一恵氏の、「個人倫理に対して社会倫理や公共倫理が対比される。この対比において倫理とはどういう位置にあるのだろうか。プラトンやソクラテスにおいては魂の利益を求めるのが「倫理」であるが、これは公共倫理の観点からすれば本質的に個人倫理でしかありえない。それは自分自身の魂を良くしようとすることで一種の利己主義だと言うことができる。」(筆者要約)(いかなる倫理が「私」を超えうるのか――公共性と倫理――「DIALOGICA 第8号2005年」滋賀大学教育学部倫理学・哲学研究室)という主張では個人倫理は利己主義と受け止められている。
しかし私は、個人倫理は利己主義と基本的な領域を分けていると考える。利己主義は他とのかかわりの中で言われる倫理的態度である。個人倫理的姿勢が他とのかかわりの中で利己主義と共通するならその場合は利己主義であると言えるであろうが、それでもカテゴリー的には別領域の概念である。
利己主義問題は公共倫理(社会倫理)の中での他者などとの関係上の心理的現象である。個人倫理は社会倫理とは関係しないで、自己を高めることを目的とする倫理である。この点を見るために利己主義について見てみたい。
2)利己主義
私は先に道徳的価値「望ましい生活習慣」や「人間愛」が自分に関することでもあり人とのかかわり関することでもあるといっているが、この自分に関することとした場合は利己主義と考えられ、人とのかかわりに関することとした場合は公共倫理的であると分断することは難しい。たとえ自分に関することであってもその当該の道徳的価値は同時に他人とのかかわりに貢献するものであれば自分だけを利するものではないからである。
学習指導要領(道徳)の「1 主として自分自身に関すること」の視点は個人倫理を扱うものと思われる。「2 主として他の人とのかかわりに関すること」の視点と影響関係にあるが、論理的には分けられることである。一方、利己主義は視点1が視点2と影響し合う場面で発生する問題である。利己主義と個人倫理は混濁しているのが現状であり、以下の諸問題もこの混乱を免れない。そこでできるだけこの混乱を整理しながら利己主義について述べる。
① ボランティアは利己主義であるか:利己主義は私達においては道徳的なブレーキを招く。ボランティア活動をしている時に「結局は自己満足のための行為である。」と言われることがある。そうするとボランティアに没頭する意欲をそがれるようになる。観世音菩薩が衆生を救うまで悟りの世界に行かないというのも自分の満足のために他ならないということになる。芥川龍之介のカンダタ物語は本来悪人の救済にも囚われない境地にあるお釈迦様がカンダタの救済に気を奪われる短編である。芥川のお釈迦様は人間の救済に心を囚われる物語であるという意味でこれは芥川の限界を物語っているということになる。つまり芥川はお釈迦様に隠れた利己主義の要素を混入したのだということである。
別の理屈では、そもそも慈善行為は作為的で不自然であるからやらないというケースがあるが、その判断は自己利益に従っていると言える。つまり他人を利する行為は嫌いであるということではなく、「心から慈善行為をしようという気持ちがないのに慈善行為をするということは自分に不正直だ」という言い分であるが、要するに自分の心情を大切にしたいというエゴイズムであるということには変わらない。ボランティアを利己主義だと批判する利己主義者の詭弁的言いわけである。
ボランティアを行う利己主義の心理には、ⅰ他人からの賛辞を得たい。 ⅱ他人の救済=他人の不幸に痛める心を直したい。 ⅲ困窮者を見て見ぬふりをする罪悪感から逃れたい。ⅳ他人を救済することからの喜びを得たい。ⅴ自分の行動に一貫性を持ちたい。ⅵ道徳的価値を守りたい。ⅶ正義や善を実践したい。ⅷ教義に沿って生きたい。ⅸ自己利害になることをしたくない。ⅹ他人の利益になることをしたい、等々があり、利己主義から逃れ得ない限界を示しているといえる。
① 死は利己主義を排除するか:利己的でない状況は死を連想させる。死ということはこ
の世への興味を失っていくということである。また死に向かう肉体の衰えへの関心も失っていくということである。つまり自己利害への関心も希薄になっていくということである。しかし逆に我々はそんな死を恐れる。そんな死についての我々の不安と恐怖は実は死にまつわることに関する不安や恐怖である。ここには利己主義の希薄化と濃厚化とがある。
ⅰ先ず、死に先立つ身体の苦痛へのそれがある。身体の苦痛は生者の苦痛である。苦痛を感じていることは生きているということである。死体には苦痛はない。苦痛は自我の中心である自分の身体の苦痛である。そこは逃れえないエゴの世界である。死に臨む身体の苦痛は死への門である。その門は最もエゴから逃れ難い世界である。苦痛を苦痛と感じないことはできない。一方では、死の門を前にして我々は来るであろう苦痛に恐怖する。エゴはピークに達する。ただ苦痛に恐れを感じないということはあり得る。しかし生から解放されているなら。先人たちはそこを解決しようとして「心頭滅却すれば火もまた涼し」(恵林寺住職快川の偈)とした。但し身体の苦痛それ自身は個人倫理の問題であり、それをエゴイズムだとすることはできない。
ⅱ次に、苦痛には心の苦痛がある。
喪失:死に赴くものは生者の世界の一切のものを置いていかなければならない。肉親や財産、富・名誉・地位・名声などを失う。しかし死に行くとはこれらのものへの関心が薄く、弱くなっていくということである。肉体の感覚や認識への力が弱まると共にこれらへの認識は断続的で現実感を失っていく。真に悟りとは、自我を滅するところにあることになる。
死はこうした利己主義性を希薄にしていく過程である。利己主義とは自己意識そのものに由来している。菩薩行も自己利害に端を発しているというのは妥当である。自己意識の発生が利己主義の原点である。自己犠牲でさえ利己主義である。完璧な非利己主義というものは成立しない。その故に貴い善行も利己主義の非難を避けることはできない。
死はそうした利己主義を共に無の世界に連れ去って行く。しかし我々の利己主義は解決したわけではない。解決しないまま解答期限が尽きただけである。そのまま後継者に引き継がれていくのである。しかしここでの利己主義の分離は間違っている。我々はこれを利己主義とは考えない。これは個人倫理の問題である。個人倫理はこうした自我を滅し自己を脱却しようとするのである。
② 利己主義と欲求:我々は欲求を利己主義と混同する。上記①のように利己主義がブレ
ーキになるという受け止めをすることは、欲求に叶うことは利己主義であると受け止めることから来る。この混乱を整理すると、ⅰボランティアは動機的には他を利することを欲求している(他利の欲求)が、ⅱ他を利したいという欲求は、自己満足という自分を利したいという欲求から来ている(他利への自利の欲求)、という2つの欲求が混在しているものである、ということである。すると結局は自分を利することになり、自分を利することはしたくないということになる。
ⅲここには隠れた問題がある。それは欲求そのものの受け止めである。欲求そのものも利己主義(欲求=自利)と見なせば、上記のⅰもⅱも利己主義の範囲を逃れられない。ボランティア精神にはこうしたことが混在しているのである。総じて動機的観点から見ているのである
欲求は動機と言えるであろう。しかし欲求を持つことそのことが利己主義であるということは一種の詭弁である。かといって利己主義観は一掃されないであろう。人は動機(欲求)を持たないでは生きてはいない。我々の身体そのものが生きるという欲求の営みであろう。従って動機的には我々から利己主義感を一掃することは難しい。
しかし、利己主義と思っているのは個人倫理の問題と錯覚しているのである。スリップしているのである。このことに気付く必要がある。スリップの原因は欲求が他の人とのかかわりの場面で影響し合うことが多いからである。もちろん個人倫理の中心の一つはこの欲求の克服である。
③ 「欲求しないという欲求」というジレンマ:上記ⅰ~ⅲでは、結局はスリップ状況で
は利己主義を逃れ得ないと受け止めるので、ⅳ欲求そのものを廃する(欲求抹消)ことを望む(欲求抹消の欲求)しかない。そうすると自己を利することを望まないということを望むというジレンマが自己の中で共存することになるのである。ⅴ極端には自己の欲求することをしたくない(欲求非欲求)という欲求へと発展する。これは無限後退になる。ⅵもっと極端には自分の欲求することを妨げたいという欲求(欲求逆欲求)へと発展する。このジレンマを逃れる必要やこの論理が間違っているということを検討する必要が何故あるのかという問題を抜きにはできない。このジレンマを逃れることは、自己の意志によって行為するという環境下では不可能である。これは近代ヒューマニズムの限界と言える。近代ヒューマニズムは自我が中心だからである。さらにこの問題は後述する功利主義の本質的な問題にと展開し英国直観主義での焦点的問題である。
④ 自分を利さない結果への欲求
さらにここにはもう一点隠れている問題がある。結果的観点からの欲求の問題である。上記ⅲ以降の問題は動機的観点としてこれと併記される問題である。ⅶ非利己主義者は結果的にであっても自己を利することを好まない。「他利」や「他利への自利」、「欲求=自利」という動機面には関係なく、結果的に自利をもたらす、そしてもたらしたというようなこと(結果的自利)を良しとしない、という姿勢である。
自分を利さない結果への欲求:上記④の動機(動機的自利)に対する問題である。ここでは動機についての如何は問われない。動機には心理的情緒がある。予測ではない。この結果的自利は自覚している場合(自覚的結果的自利)と無自覚な場合(無自覚的結果的自利)がある。動機とはまた別に検討すべきである。つまり予測問題で、予測できるのか予測できないのか。さらに予測すべきであるのかどうか判明なのかどうか等々と極まっていく問題である。これは功利主義の「功利の原理(最大多数の最大幸福)」が政治的・法律的問題から倫理問題にと深まる問題である。また倫理問題が個人倫理から社会倫理へと応用されていく問題である。つまり結果について非利己主義者は結果的自利を拒否するということである。つまり
ⅶ結果が自分を利する結果にならないようにという欲求、である。
⑥ そうすると結果的自利になることを望まないという欲求についての命題が出現してく
る。ここでは欲求するという意味では動機的だが、それが結果的に自分を利することを拒否するということも含んでいるので結果論である。つまり結果に向けての動機である。
ⅷ結果が自分を利するようになることを欲求しないという欲求
である。
ⅶは結果に対する欲求で、ⅷは欲求に対する欲求であり、欲求対象が異なっている。後者は欲求を抱くことそのものを拒否する欲求であるという自己矛盾的な状況である。なぜなら「欲求」はそもそも自己を利することを目的とするからである。
「欲求」が、このジレンマを逃れる対策は自己以外の第三者からの強制による行為に寄れば回避出来ると考えられるかもしれない。例えばa.奴隷制における行為者の意志を無視した、あるいは逆行した強制行為や、b.絶対服従の信仰的行為、c.封建制社会における行為者の意志を排除した忠君の行為、等々がそれである。ここでは自分を利したくないことを他者によって強制されることをOKとする、つまりそれが自分の利となるということである。OKしなければそこには自己利益への欲求が発せられているということである。いずれも自己利益である。我々は自己利益主義から逃れられないことになる。その極限はカントの定言命法に関わる。d.自分の欲求からではなく道徳法則だから実施するというスタンスはこのジレンマから逃れるものであるように思われる。しかし上記いずれも、カントのこの立場でもこのジレンマから完全に逃れているとは言えない。つまり道徳法則に従うということも欲求の一つと言えなくはない。道徳法則の尊重とは一見すると欲求とは異なって見える。しかし尊重もまた好意的気持ちの強いものであり、欲求もまた好意的気持ちを前提としているものと言う意味で同類である。つまり自己利益から発していると言われても反論し難い。
⑦ 利己主義と(我?):上記④のⅰ~ⅶ結果が自分を利する結果にならないようにという
欲求は自分に「害となるとまでは求めないが、利となることがない結果」を求めるものである。しかしこの場合でも行為者はその環境下での行為を欲求するものであるなら、やはり決して利己主義を逃れているものではない。これは自分を「利したくない」ということを利とするという自己矛盾にあることである。つまり自分を利さないことが自分の利であるというのは矛盾である。と言うのは利さないことが自分を利することなのだから、自分を利さないことによって自分を利しているからである。従って利さないことと利することが同時に成り立つので矛盾することになる。
こうした矛盾的な展開は人間の考え方や行動を鈍らせる。これを「矛盾サイクルの幻惑」と言ってもよい。これは個人的にも社会学的にも解消しておかなければならない問題だと考える。この矛盾のトリックは利するものと利される自分との分離観から来る。自他不離の世界では利を受ける私はない。ここにあるのはデカルト的な西欧近代的自我観である。デカルト的「我」は、(我?)によって見直されるべきであることは第1章で述べてある通りである。そこでこうした利己主義観は公共倫理の問題としてではなく個人倫理の世界で克服されていくべきである。
⑧ 欲求するorしない場合:上記④や⑤は欲求するということを巡る問題であるがこれに
対する設定を検討する。欲求しないを欲求するのは行為者の内面現象である。内面の制御によって同じ道徳的テーマが欲求するものであったり欲求しないものであったりという具合に変わる。
たとえば、「私は自分の財産を貧しい人に寄付する」ということについて、ⅰ貧しい人への哀れみを満足させたいとか ⅱ善い評判を得たいとか ⅲ税制上の優遇を得たいとか という動機(欲求)が抱かれることがある。ⅳ更にカントの定言命法に従ってそれが道徳法則を尊重するが故に、ということも言える。尊重とは先に見たように欲求と同類で自己利害に関わるものである。これに反して「私は自分の財産を貧しい人に寄付する」というということについて a.欲求を持たないケースや、b.それに反する気持ちを持っている場合がある。
a.欲求を持たないケースはそれへの関心が全くないということであり、それにまつわる上記ⅰ~ⅳのどれにも関心がないというケースである。これには⑤に関わる内的に重要な問題が考えられたり、他方では単なる無自覚ということも考えられる。
b.「私は貧しい人に寄付する」に反する気持ちとは、ア.貧しい人への哀れみを否定する、あるいは憎む。イ.そうしたことで善い評判を得ることを良いとしない。ウ.税制上の不正とは言えないが正当性のためにその手段を良いとしない。エ.道徳法則を尊重するという欲求を否認する、などが考えられる。
⑨ 欲求しないことは可能か:人は欲求しないということに基づく行為をできるのであろうか? できるとすれば不可能性に基づく原理を堤唱できる。「あなたの善行は、結局はあなたの利害の気持ちから発しておりそれ故結局はエゴイズム以外の何ものでもない。」という詭弁的な善行への否定的ブレーキを解除することが可能である。このブレーキで私たちは結構社会的にマイナスを得てしまっているのであるから。
孔子は「七十にして心の欲するところに従えども矩を踰えず(のりをこえず)」と言い、欲求と道とが一致することを良しとした。これはカントの言い分と同じであるようだが少し違う。カントは道徳法則への敬意が先にあり。道徳法則にかなうことを欲求している。ここにはまず自我が先にある。孔子は欲求が先にあり、それが道に外れないというのは、欲求そのものが道となっているということである。従って欲求と道とは矛盾対立にはなく、西田流に言えば、孔子においては絶対矛盾の自己同一が実現しているのである。
孔子の「心の欲するところに従えども」は「心の欲するところのないところに従えども」と言い換えることができる。実はみずからは欲すところはないが、「欲する」が自らの欲求を先行するのである。「我々が長く孔子を愛するのはこうした境地を理解しているからであり、また目指しているからである。しかしそれが欧米的な自我主義と微妙に接触し、迷いを生じているのが我々の実情であり、それとは峻別して道を歩むことを可能としたいものである。つまり、ここには(我?)が働いているのである。こうした問題は個人倫理の問題であり、利己主義の問題ではない。ここに錯覚があり悲劇を生む原因になっていると言えるのである。
3)利己主義は逃れられるか
① 利己主義の彼岸へ:しかしそれでも私達は生きていく中で少しでも自己を利しようとする気持ちがあるとその行為を道徳的に肯定できないと感じるところがあるが、これはどうしてなのであろうか?その理由を知るため個人倫理と利己主義を峻別する必要がある。以下にその区別を試みながら叙述する。
欲求とは自己の生命やいのちの原点であり、自己存在を促進しようとする(我?)の領域である自己を超えた先験的な作用である。これは自然の働きである。従って欲求の原点は自己を超えた生でありそこから発生しているものであり、これは自己を凌駕しているものである。我々はそれを自己の認識の中で自己意識として受け止め、その行為を自己から発している行為として捉えているのである。利己主義への感覚は自然の生の営みの流れを自己のものとするところに発生する。従って利己主義の問題は認識問題として見直す必要がある。
自然の営みとしての行為を自我の営みとしてしまうのは認識媒体が自己の感覚や意識に置かれていると考えるところから発生する。つまり自分の身体や感覚や意識であるから、などというところに誤解が発生しているのである。
そもそも言語や言葉は身体表現が個人に起こっているので個人的なものと錯覚するのである。こうした自覚によれば自己利害とは無縁のところで行為することが可能である。この境地は自己を離れるという境地であり、自己の利にも害にも頓着することはなく、そもそも自己を離れている。
② 彼岸への欲求:しかしこの場合でもそうした境地がそもそも自己の利害にかなっているから成り立つのではないかという後退が起こり、道徳的な責めを負うことになるのではないか、と考えられる。
私達には純粋に欲求はない、むしろ拒否することを実行することは可能なのであろうか? そもそも人は何故自己を利することを恥としたり良いとしたりしないのであろうか? これは文化的な責任なのであろうか?仏教や儒教によって社会的有機的作用で刷り込まれているものであるだろうか。それとも人間本性に先験的に備わっているものであろうか?
③ 親の愛は利己的か:こどもの幸福を願う親の欲求は自分の幸福ではない。その意味で利己主義とはみなせない。この場合、親は自分の不幸をもってしても子の幸福を求める。しかし子の幸福が己の欲求であるということではやはり己の幸福であるから利己主義であるということは変わらないとも言える。自己犠牲が自分の欲求であるという点では似た見解があったが、その見解とは区別される。
しかし自分の幸せ以上に人の幸せを求めるという点では基本的には同じである。ここでは快楽を基準とするところに先に論じたエゴイズムの論点がぼやける原因があるのであり、欲求を重視するとか好感を持つとかに置き換えて論じるべきである。以上は個人倫理の問題で考えるべきである。
① 利己主義の区分:しかしこの④は利己主義問題で考えられるべきである。ホッブスの
リヴァイアサンの主張は、「人間は自然のままでは利己主義によって行動する。そのために法律が必要である。」という説であり、これは所謂性悪説である。ホッブス説では自然のままでは人間は自滅するしかないので規制が必要とされるのである。
この規制ということは人間の本性を制約するものであり、人間は基本的に自由奔放に生きられないことを意味する。そうでなければ人間は種としての絶滅あるいは争いや憎しみがはびこる不安社会という不幸な運命を背負っている。本能か規制かどちらかを選ぶしかないということになる。
このホッブスの見解に類するのが、人間は利己主義でのみ行為するという主張である。先に見たように、この主張を反論することは難しい。ただし人が利己的に行為するにはどの行為をも一律に考えることは正当ではない。他人を全く顧みない利己的行為と他人の幸福のために自己犠牲的に行為する行為とは、利己主義説から見ると同様に利己的行為であったとしても、区別されるべきであろう。そこでその区別を幾つか試みよう。
⑤気付かない利己主義のズレ:道徳のテーマの一つに、これは対人態度の方法と言えるが、またそれは道徳的主張の根拠ともなることであるが、人は自分の主張と考えていることとは別な原理によって動いているということがある。これは第1節2)③で述べたボランティアにおける(他利の欲求)と(他利への自利の欲求)という2つの欲求のズレなどが該当する。
この場合どちらがその人の道徳原理であろうか? 利己主義原理を主張する場合、自己犠牲は行為者にすれば自己利害とは受け止められない。しかし利己主義説者は自己犠牲も当人の自己犠牲の気持ちを満足させるという当人の自覚していないという利己主義の原理によって行為していると主張する。この葛藤については該当箇所ですでに述べたことであるが、そこでは欲求の抹消等ではこのジレンマは逃れ得ないという中間的結論であった。ここでは別な観点で見てみる。
① 心理と論理のズレ:ここにある原理のズレは、他人の幸福を願っているという心理と
それによる自己満足という自己利害の深層心理であるが、これらは同領域に並べられるものではないので葛藤原理ではない。つまり深層心理的に、実行されている自己犠牲が利己的であるというのは実は心理的問題ではなく論理的な問題であるということであり、自己犠牲の心理の問題とは領域が違っているのである。自己犠牲が結果的に自分の利益になるかどうかは意図的な問題ではなく別の次元の問題である。
確かに、自己犠牲によって額面通りの自己犠牲ではなく、その及ぼす効果を目的とし、しないまでも意識していることはある。その時は我々の行為の目的は自己犠牲の自己利害的な効果にあるのであり、自己犠牲に寄る他人の幸福にあるわけではない。両方であったとしても当面の議論の自己犠牲の自己利害的効果は対象に入っている。
一方、逆説的に自己利害がないと思い込んであるいは装って他者の幸福の実現を目的とするという錯綜した行為も十分にある。こうした場合の行為は純粋に他者の幸福を目的とする行為といえるであろうか。利己主義者の主張ではそれでもその行為者の目的が行為者個人から発生しているものであればそれは自己利害的なものと考えられるということになる。この場合行為者は自己利害を自覚していないであろう。こうした場合の自己利害は心理的に位置けられるより、論理的な帰結と考えられる。論理的な帰結を個人の心理的な責任に追わせることは正当ではない。第1節2)の⑤の問題を論理的に考えてみるというものである。
② 論理的自己利害:しかし論理的にであっても自己に帰するということはなんとなく行
為の純粋性を保てないようで不本意であるかもしれない。論理的帰結を予測してそれを求めるのであれば心理的領域に入ってとしても公共倫理的なので利己主義といえるであろう。第1節2)⑤の結果的自利の問題である。ここでは結果的自利に対する心理的負担は必要かどうかということを問題にしている。
問題として浮かび上がることは、こんなに入り組んだ考えをせず単純に受け止める人の場合である。自分の自己犠牲が純粋に他者に利益を願うという以外に自覚しない行為者の場合、論理的に自己を利することになることに関して、これを自覚できないということには別の問題があるが、論理的に自己を利することになるということを道徳的にどう理解するかという問題が残る。
③ 情けは人のためならず:もちろん「情けは人のためにならない。」という誤った解釈
は慮外として、「人に掛けた情けは何時か自分に返ってくる」というものであるが、これは「自己利益を目的としないで慈善事業をする」と「論理的に自分の利益になる」いう意味を含んでいる。論理的に自己利益になるから人に情けをかけなさいという道徳的な経験法則的機能を持っている。論理的と言える。これに対して、利己主義を良いとしない行為者は自己利益を想定して他人に情けをかけることはしたくないから他人に情けをかけるのを良いとしないというケースがある。これは論理的帰結に対しての心理的な反応である。つまり論理的利己的帰結に対して心理的に自責を感じるというものである自責の念は心理現象である。この場合は逆説的に論理主義を良いとしないという心理主義に基づいていると言える。
④ 論理的帰結への態度:こうしたケースは多くある。つまり動機説だけでは道徳原理は
充足できないのである。人のために良かれと思ってやった行為がその人たちに思わぬ不幸をもたらすということがある。そうした論理的帰結に対しても我々は責任を受け止めるのである。一方、予期しない幸福を人に与えることができた行為もある。こうした時、人によっては「偶然で自分の功績ではない」と謙遜することがある。これも論理的結果に対する行為者の態度である。不幸に対しては責任を感じ、幸福に対しては功績を感じようとしない、という矛盾した態度がこの時には見られる。
論理的帰結とは現実的帰結ということである。先の学習指導要領では「他の人とのかかわりに関すること」に相当する。現実は人の希望や目的・意図から独立しているケースがある。しかし現実を分析すればそうした帰結になることは論理的に辿れるという意味で論理的と言える。
論理的に結果した不幸な結果については自責の念を感じるのは、何に対して心理的に感じているのかというと、その結果を予測できなかったという自分の論理的能力に対してであり、そのために当該の他人を不幸にしてしまったということである。ここには自分の論理的能力と他人の不幸(心理問題)という2重の自責の念がある。
ところが「塞翁が馬」という諺によれば、他人を不幸した結果の延長上においてその結果が当該の他人に幸福をもたらすということがある。この時、人はそれを自分の功績とは感じない。つまりここでも自分の論理的能力の無さによって自分を責めることになる。
つまり人は先ず第1に論理的能力に対して評価しているのである。決して心理的に自分を責めたり誇ったりしているのではない。ということは道徳原理とは心理的原理だけではなく論理的な原理を含めて成立しているということである。第2に論理的帰結によって他人の不幸や幸福が起こればそのことを喜憂する心理的反応をするのである。
以上のことは、人は決して利己主義だけで行為しているのではないということを示している。つまり論理的には自分を利することになっても心理的には必ずしも自己利益を感じているわけではないこともあるという点でそう言えるということである。
⑩ 利己主義の心理的自責:更に問題であるのは、こうした論理的問題とは別の問題とし
て以下の点が考えられねばならない。他人の幸福を願うということがそもそも自分の幸福であるという場合である。親が子の幸せを願い行為することには自分の幸福を願う隙間は無いかもしれない。自分の犠牲も喜びであると考えられるのである。しかしそのことが自分の生命の公認するところであり、自分の生命の良いとするところである、と考えられる。この次元では自己と子供の境界は外れているかもしれない。しかしそれでもたとえ宇宙全体の利害と一致したとしても自己利益を追求していることには変わりはない。所詮それは自己利害の範疇のことである。この点でギルバート・ハーマンの「利己主義は人間の唯一の動機ではない」という主張は利己主義者の説を論駁するものではない(「The Nature of Morality」哲学的倫理学叙説)G.Harman 大庭 健・宇佐美公生訳 産業図書 P.265)。
⑪ 利害に基づかない行為:自己利益に基づかない行為は心理的には自己存在者であれば
不可能である。我々は自己存在を失わなければ心理的に利己的行為をしないで済むことはない。しかし自己を失った者は、自己行為は不可能であるから、自己存在者である者、つまり全ての人間は利己的行為をしないわけにはいかないということになり、いかにして利己的でない行為ができるかというテーマはその設定が矛盾しているものであるということになる。自己存在者でありながら利己的でない行為は可能であるか?これは矛盾した設定・問いであろうか?
① 利己主義が他を利するということ:他を利するということと自己を利するということ
とはパラレルである。慈善行為が自己の欲求から出ているからといってその行為を中止するということは、パラレルである利己主義ということを混入して惑わされていることであり、慈善行為を中止する必然性はない。心理的には中止することも利己主義であれば、どちらも利己主義であるから論理的に利己主義にならない方(慈善行為は中止しない)に従うべきという結論に至る。利己主義を感じる心理的な面の問題解決と慈善行為という論理的帰結を切り離し、心理的課題は心理的課題として解決に取り組むことは問題がない。問題はこの心理的な課題を如何に解決できるかということである。この課題検討として以下の個人倫理の問題を考えたい。
これは心理主義に立つ直観主義倫理と論理主義に立つ功利主義倫理の論争に角解決方向を示している。功利主義倫理はG.E.ムーアによって自然主義的誤りで退けられたが、それは直観主義倫理という心理主義的な領域での話で、論理主義的倫理では上記慈善行為のように功利主義的倫理は妨げられないのである。皮肉なことにG.E.ムーアの功利主義に対する自然主義的誤りの指摘は功利主義の原理が自然主義的であるいうものであった。しかしG.E.ムーアは倫理学の原理は直観と言う心理的領域に置きながら社会倫理の部分は論理的倫理に従って功利主義に置く功利主義者でもあったのでもある。
しかし心理的倫理の問題は消えるわけではないし、時には心理主義的倫理問題が論理主義的倫理問題を侵すこともあり。両者は葛藤問題なのである。前者は心理主義的倫理の目的としているところの問題であり、後者は公共倫理との葛藤問題として分けて置くことが良いと思う。
そこで利己主義は公共倫理の中での心理主義的な受け止め方の問題であり、同じ行為が功利主義的には善とされる矛盾したことが日常茶飯事に起こっていることなのである。しかし個人倫理は論理的にはそうした公共倫理と区別される。個人倫理は公共倫理とは別なところでの問題である。したがって個人倫理が、それが利己主義であるかどうかという問題はあるが、利己主義と個人倫理は違うものである。
4)個人倫理
① 倫理用語の限界:A.J.Ayerによって倫理学の成立が打ち消された時、その倫理学概念は倫理用語の根拠に関わる問題であった。これは欧米の精神性というか、生きることへの態度から発生している問題である。先ず彼らは用語の分析整理を手掛けたのである。その中で倫理学の用語は科学的な事実について述べておらず、学としては成立しないというものである。欧米的精神態度とは用語をベースとしたというところにある。これには問題が残る。用語によって全てが網羅されるわけではないからである。また科学的対象のみで学を完結することは物質に還元できない世界を欠くことになり、ニヒリスティックな現象をもたらすことになる。
倫理用語は、言語文化が欧米や東洋や日本では異なるのであるから、欧米の倫理用語によるだけでは我々の倫理を網羅していることにはならない。日本においては倫理用語の対象はむしろ用語化されない世界にあり、俳句や和歌などは、直接はその対象や境地を示すことができないものをどう示すかという工夫なのである。そこでは用語は欧米的な対象言語ではない。言語より境地が問題なのであり、その境地は示されて捉えられるものではなく、捉えた者だけがそれと分かり、言語によっては対象化されないものである。この言語機能を日本では主とする。言語機能が欧米とでは全く異なるものであり、この点を踏まえて述べる。こうした倫理用語の表現する倫理課題は無意味だということはないと考える。
① 個人倫理と利己主義:基本的には個人倫理は利己主義とは領域を分けている。利己主
義は公共倫理の中で発生するものである。個人倫理は個人の内面的な問題で自分のいのちが盛んになる世界の問題をテーマとする。つまり西田や求道の道であったり、デカルトの自我の確立であったり、カントの道徳の格率論とかロックやライプニッツの自我観の形成などがそのテーマである。そこは個人の純粋直観による納得の世界である。その意味で心理主義である。しかし倫理的結果に対する自責感のように、論理的には関係しない結果についての心理的な反応などのように私たちは対他の問題を無視できない。これは個人倫理の問題ではないが、個人倫理の場である心理の場面で受け止めるので個人倫理の問題として受け止めるのである。例えば精神分析における対象喪失にはこうした事例が多く報告されており、深刻な心的障害をもたらしているということである(「対象喪失―悲しむということ―」小此木圭吾 中公新書)。
こうして西田流の求道の道に自責の念が個人倫理の中に侵入して、何時の間にか中心課題であるかの如く居座っているのである。利己主義問題は個人倫理の入口に立ちはだかって、塞いでいるが個人倫理の問題ではない。この弁別がきちんと区別されていないので病理現象に支配されてしまうのである。私たちは常にこの危険にさらされている。そこで世間から遮断されるように出家やそれに似た手段をとることがあるのは当を得ていると言える。
③ 個人倫理と直観主義:直観主義倫理は人間としての境地を目指すことが第一のテーマである。この場合の疑問点はⅰ人間としての境地の追求の問題は社会的な問題と関わらないのかということ、またⅱそのかかわりはどんなものであるのかということ、またⅲそれがどうして単独者(ケルケゴール)としての受け止めに留まるのかということなどがあげられる。これは功利主義倫理との葛藤の問題である。
直観主義倫理は個人倫理の問題である。個人倫理とは個人の心の問題をテーマとする。個人の心の問題には未整理な様々な問題が山積みされている。それらの分類が先ずは課題である。この分類を見ることでⅰの問題との関わりを検討することができる。
④純粋個人倫理:個人倫理の中でⅰのように社会的な問題が全く関わらない問題はあり
得るであろうか。この問題を純粋個人倫理と称する。職人気質という精神的態度がある。職人に限らないが高い精度の作品を追求する姿勢がある。プラトンによれば物の徳はその物の本性を最もよく生かす性質であるが、ナイフの特性はよく切れるということであり、人の特性はよく知性があるということである。なぜ人が高い精度の作品を追求するのかということについては、金儲けとか利便性とか幾つか理由をいうことができるが、高い芸術と評されるまでに高められる製品はそうした属性を超えた世界にあるものと言える。そうした製品は人の何によって制作されているのであろうか。
こうした他人が直接的には関われない個人の追求する世界は他人とは無関係に進行していく面がある。一方こうした個人の追求が他人に功罪をもたらすこともそれに並行して常に起こっていることである。これは論理的にはパラレルでありながら影響し合いながらうごめいている。それは縄文の縄目のように個人の道は鮮明に自動しながらきっちりと縄なった現象なのである。
⑤求道の世界:弓道でドイツ人のオイゲン・ヘリゲルが体験した世界は、弓の目的である敵を射るということを、計算から離れた境地に到るところで達するというものである。これらの境地によって人は何を求めているのであろうか。物事を追求する鬼の境地から神仙の境地に至ることが日本的な道徳性の特徴の一つであろうか。しかしこうした個人倫理の意義は、日本の精神性への昨今のクールジャパンへの評判に見るように、高い評価があることから日本的特性に留まるものではないと言える。欧米の建築技術や諸製品の技術の高さや弓術でもロビンソン・クルーソの子供の頭に載せたリンゴを射抜いた物語のように、日本人のみではなく人間に共通の志向性だと言える。これらの志向性は何を物語っているのであろうか。
⑥「心理と論理」と「個人倫理と社会倫理」:この心理的な利己主義に関わる領域を個
人倫理とし、論理的な領域を社会倫理とする。これは日本の学習指導要領道徳における1の「自己に関する内容」と2の「他人に関する内容」との分類の不透明性に明晰性を差し向ける案となるのではないかと考えられる。
また倫理学におけるこの心理的な領域と論理的な領域を論ずるために英国における伝統的な倫理学の対立、直観主義と功利主義のやり取りを見ることが有意義である。私はこの心理的な領域が英国直観主義や義務論を中心に追及され、論理的な面が功利主義を中心に論じられていると考えている。
5)社会倫理
人間の存在意義や目的性から顧みて個が優先されるか、社会が優先されるか、という問題がある。近代欧米人間主義の精神では個が中心であり、中世までの欧米では社会が優先され、近世までの日本では家族や村などの世間が優先されていた。しかし欧米での近代以降の個人主義はそれとは逆にコミュニズムや福祉社会という社会形成に取り組む働きが活発である。一方社会を優先とする欧米中世や近世日本では個への行き届いた配慮が見られる。この社会優先の社会状況においては個人の幸福や生活の保障への配慮がなされ、個人は案外と満足できていたかもしれない。
社会倫理の課題は個人に対する影響力をどれほどに持つべきか、あるいは個人からの要求をどれほど受け入れるべきかというところにもある。強制力か受容力かという問題は革命論と自然変化論とで反映される。個人倫理は心理的であり、社会倫理は論理的であると私は先に主張したが、社会心理学では個人心理とは別の集団心理現象があるので社会倫理はその意味での社会心理に関係すると考えられる。
いずれにしても社会倫理は個人倫理に影響をあたえることは否定できないが、それは制度的なものでしかない。個人が集団社会の中で個人としての倫理に従って生きようとすることをサポートする社会を維持するための規則がそれである。社会倫理が個人倫理の深みに関わってくることはできない。しかしたとえばハングリー精神のように社会が個人に働きかけているではないかという反論があると思うが、万人がそうであるかと言うと個人差がある。ということは個人の倫理的向上心によるものであって社会の影響とは分けられるべきものであろう。ここには教育に関する哲学的に重要な問題がある。すなわち道徳は教えられるかという問題に関わる。学校や家庭や地域社会がどこまで生き方についての教育力があるかという問題は今日の深刻な問題である。いじめや残酷な犯罪など少年犯罪は目に余るものがある。その哲学的問題とは正しく本小著のテーマに他ならない。
もし社会倫理が個人の深層にまで深く関わってくることがあり得るとすれば、それは倫理としての関わりというよりは法や制度としての関わりであろう。これには功利主義が多くかかわる問題がある。この点は以下の「第2節 直観主義と功利主義」で述べる。
第2節 直観主義と功利主義
ギルバート・ハーマンG.Harmanの「The Nature of Morality(哲学的倫理学叙説 大庭 健・宇佐美公生訳 産業図書)」での「Ⅲ 道徳法則」は「第5章 社会性と超自我、第6章 理性の法則、第7章 個人の原理、第8章 慣習と相対性」で構成されている。
ハーマンはこのⅢ部でこの論文のテーマである「直観主義と功利主義の問題」の領域内の問題を分析している。
第5章はダブル・エフェクトの問題から、我々の直観的な道徳的判断と社会的な結果との問題提起をしている。前者の個人が良かれと目指す目的と社会的に及ぼす結果との食い違いが発生し、「道徳性が命ずるものと、社会性が命ずるものとは、必ずしも同じではない。」(P.102)とする。この道徳性はフロイトの超自我のように親や社会によって植え込まれた個人原理であるが、普遍的道徳性となりうるものであるかどうかを問おうとする。
この問題は我々を奇妙な底なし沼に引きずり込む。直観に発する道徳性はそれが孔子の境地「我が欲するところを為して矩を超えず」とは言っても、それが自我に発すれば決して公的なものではないであろう。それ故に、普遍的なものとは見なされない、ということになる。ここには自己中心主義は良くないという道徳感がある。すると極端な非自己中心主義の原理が求められ、自分のためになることは一切求めないという姿勢が良いとされることになる。食べることやセックスや尊重されることや快楽なども否定される。
功利主義は社会的道徳とされるが、快楽主義という側面では心理的であり、個人道徳である。そこで功利主義と快楽主義は区別されるべきである。ただ万人の幸福を基準とするという意味で社会的である。こうした2面性が功利主義にはある。
功利主義と快楽主義を区別したり、G.E.ムーアが指摘した快楽主義の自然主義的誤りを避けたりして、功利の原理を「最大多数の最大善」=「最も多くの人が最も善である」という原理に変えたりすることで快楽的功利主義と善的功利主義とに分けることが可能である。
一方、直観主義は個人道徳とされるが認識レベルの個人性であり、必ずしも幸福を原理とせず、道徳法則の尊敬への直観という意味で個人的であるともされるのであり、普遍的であろうとする志向性においては個人性と普遍性とが合流するのである。
こうした区別は功利の原理と快楽主義の区別を例として見ることができる。この議論に対する先駆的な主張はヘンリー・シジウィックの利己的快楽主義と普遍的快楽主義の区別に寄る功利主義とホッブス主義との決別に見ることができる。しかしH・シジウィックの区別は功利主義を快楽主義の範疇に置く意味では変わりなく、むしろG.E.ムーアにおける正義と功利主義の議論の方が良い。つまり「正しさ」についてのG.E.ムーアの見解は「正しい行為とは、その状況で最大の善さを生む出す行為」(「倫理学」G.E.ムーア 深谷昭三訳 法政大学出版局)だと定義される。これを帰結主義というがここでは快ではなく善さになっているところが、G.E.ムーアが快楽主義者ではなく功利主義者であるということを示している。H・シジウィックが規則功利主義というところでホッブスの利己的功利主義と闘い、G.E.ムーアは快楽主義と闘っていたと言える(「功利と直観―英米倫理思想史入門―」児玉聡 勁草書房)。
以上の直観主義と功利主義の区別は以下の表のように整理される。
直観と功利
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直観主義
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功利主義
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倫理的視点
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道徳法則
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個人の直観
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幸福・快楽
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万人の幸福
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個人的
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○
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○
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社会的
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○
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○
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1)直観主義
英国における道徳的直観主義は17世紀半ば、ホッブス主義に対してデカルト的理性的直観主義やロック的道徳感覚主義に基づいて反論したカドワースやシャフツベリーに始まる。スコットランド学派やケンブリッジ・モラリスト達がこの流れを継承し、19世紀には功利の原理を提唱したJ.ベンタムや、それに基づいてJ.ミルやJ・S.ミルが構築した功利主義を批判した。
功利主義の原点は「最大多数の最大幸福」であるが、この原理には2つの大きな問題が混合している。1つは幸福でありもう一つは社会倫理の原理である。功利の原理を2つの要素に分離して捉えると「最大多数の最大利益」とか「最大多数の最大救済」のように幸福のところは変数的に扱える。つまり「最大多数の最大X」となる。
直観主義者たちが功利主義批判で主に問題とするのはこのX(要素Xとする)についてである。このXが幸福であることを前提にしたのはホッブスに由来する。ホッブスは、人間は自然状態では利己的で快楽を追求することを前提とする。そこでそうした野放しの混乱状況には法の適用が必要であると主張したのであり、功利の原理はその法を具現していると言える。
これに対して直観主義者たちはこの要素Xに快楽以外の善意や正義、誠実などの他の倫理的課題を主張したのである。こうした要素Xの根拠を求められた直観主義者達は直観によって認識されると主張したのである。功利主義者たちが、快楽追求が自然状態における本能的な行為現象として自明化していることを疑問視して功利主義と直観主義を仲裁したのがH・シジウィックである。つまり幸福もまた直観に基づくものであるということにおいてである。これに追い打ちをかけて、快楽は自然主義的であり倫理的概念ではないと主張したのがG.E.ムーアであり、これによってH・シジウィックの仲裁は灰燼に帰することになった。G.E.ムーアの破壊活動によって実現したのは功利の原理が社会倫理の分野に限定されるということである。G.E.ムーアが主張した倫理の基本概念は「善」であるが、善は功利の原理から切り離され、社会倫理とはパラレルな位置に置かれることになった。
これ以降、直観主義は認識論的観点と規範的観点に分離し規範的観点からの義務論の様相が濃くなってくる。義務論は功利主義では行為の帰結によって善悪を判定するが、直観主義では行為の性質によるもので、良心や実践理性によって直観されるというものである。
行為の帰結は社会的な場面での評価により、一方良心や実践理性は個人の側のテーマとして問題視される。直観主義の系統が義務論に延長したのは欧米では日本的倫理性である求道の方向性の延長が見られなかったということを意味する。最近のクールジャパンの日本のこの求道の精神への注目にあると言われている。直観主義の復権には日本的倫理性が役割を果たすことができるかもしれない。こうして見ると直観主義理論と功利主義理論は個人倫理と社会倫理の問題に還元できるかと思われる。
一方、認識論的問題はA.J.Ayerの道徳言語の無意味性、C.スティーブンソンの情緒的意味、R.M.ヘアの指令説などによる道徳観念の実在性の否定によって衰退することになる。
この道徳観念に熟慮を経た信念に基づく反省的均衡理論によって一石投じているのがJ・ロールズの整合性の理論である。整合性理論は、功利主義が基礎的感覚に基づくのに対し、他の信念との関係による信念に基づくことで直観主義を補足している。しかし熟慮に寄る信念はやはり相対的である難は逃れてはいない。一方J・ロールズが投げた「功利主義は人格の個別性を尊重しない」という主張は、功利の原理には個人への配慮が欠落しているという指摘であり、功利主義の大きなダメージとなっている。J・ロールズは功利主義が個人倫理を無視していると主張しているのである。(「公正としての正義」J・ロールズ 木鐸社)
そこで常識の位置づけと直観の役割とを巡ってこの論争は続いている。
ロールズの主張は功利主義の不足している事実を明かしているものであるが、功利主義の不足を補うための個人倫理の道を担う直観主義は義務論に座を開けて閉塞してしまっている。私はここに役割を担えるのは日本的倫理性であり、西田幾多郎によってその一つが示されていると考える。
2)功利主義
J・ベンタムによって提唱された功利の原理は社会的原理である。その原理は社会を形成する原理を最大多数に置いたところに帰する。しかし最大多数の内容を幸福(快楽)としたところに直観主義者達からの意義が唱えられたのである。清教徒主義者たちは快楽や幸福より信仰や規律を重視する。安全や平和や清貧や希望や達成感などを重視する人たちも考えられる。しかし幸福概念はそれらの概念を包含するところがあるのであまり疑問がもたれなかったのであろう。
「最大多数の最大X」のXは個人心理の領域の問題である。このXがどんな内容であっても社会的には最大多数であることが社会を形成する原理であるというものである。そこではいかに多くの人たちがこのXを手に入れるかということが課題となるのである。その政策や法設定へと進行していくのである。功利主義はこれによって規則功利主義と行為功利主義に分けられるが、このXの定め方の議論であり、功利性の本来の問題に関わるものではなく、功利主義が直観主義の領域に侵入している議論といえる。直観主義の領域に侵入せざるを得ない事情があると言える。行為功利主義では個々の行為の功利性を常識によって推し量ったところにXをおき、直観を常識感覚に基づかせる直観主義に譲る形になっている。規則功利主義がこのXに関わろうとするのは、功利の原理におけるXが個人的ではなく、集団としての場面で位置付けられることに注目するからである。Xを実現する規則の定立によってXの個人性から集団性に基づいて功利原理を適用しようとすることが課題視されており、こちらの方が社会倫理としての規則に依るという意味で功利主義の役割に近い。
3)外在主義と内在主義
直観主義と功利主義の議論は価値の内在性と外在性を巡っている。道徳原理では内在主義と外在主義は次のように対比される。
①内在主義:情動主義、主観主義に陥りかねない。個人的な決断の単なる反映にすぎない
②外在主義:神授説、客観的道徳法の存在、一定の慣習の持つ社会的な強制力
外在主義は道徳性を客観的な実在に位置付けようとしている。内在主義は価値を主観的に位置づけようとするがそれでは道徳性の普遍性を考えることができない。そうすると道徳問題は個人主観でしかなく、社会的規約の根拠を得ることができないことになる。ところが私たちの社会では個人が個人の価値に従って行為することは混乱を来すし、互いに自分の価値を主張し合えば衝突と争いが起こることになる。個人の価値が例えば社会全体の幸福を願うところにあれば個人の価値と社会の価値とが一致するので問題は回避できるが、個人の価値には個人の幸福をしか考えないものもある。
内在主義の本質は個人の認識によって価値を実感するところにある。直観や情緒などによって個人がその価値に賛同したり公認したり納得したりできるということが原則とされている。これは実は認識の問題であり、価値の問題とは区別されなければならない。内在主義は価値が認識の中にあるという個人の自覚を第一に考えているのである。しかし価値と価値の自覚とは別の次元の問題である。
一方、自覚できないものを行為として実践することは賛成や公認やの自覚に寄らないものであるから困難なことであるというのが近代ヒューマニズムの姿勢である。
理性主義は価値の実在を個人の感情によって所有するという内在的立場から理性の対象として考える。理性が認識の一つの手段であると考えればデカルト的に個人精神活動として感情と同様に内在的なものと考えられる。
感情が内在的であったとしても感情の対象は外在的であると位置付けることもできる。Aという価値は好意の感情が抱かれ、個人の感情に起こっている現象であるから内在的であると考えるのが一般的である。この時好意の感情は生理的現象を引き起こし、笑顔や興奮や叫びや感嘆や抱擁など私たちの個人の身体現象に現れる。この故にAという感情は内在的で主観的で個人的なものであると考えられる。しかし好意の感情はこうした私たち個人の身体現象に直接的でない場合がある。感情のレベルとして深く内面で起伏するものもある。さらに深い内面に現象しているという現象は内面から遊離してほとんど客観的な対象と化するところにやってくる。
さらに道教の道の観念では個人の感情を超えた自然の法に当てはまる。また自らの感情の起伏を空しくして神仏の意志を観察する禅宗や神道の随神(かむながら)の境地では個人の内面に起こる客観的情緒である。ここにおいては、感情は個人的なものであるという境界は取り払われる。感情はエゴを離れて普遍化する。
カントにおいて道徳の外在性が定立されるのは理性による。エゴにおける感情に対して普遍性を理性対象に置き道徳価値や原理をその対象として位置付けている。しかし理性が個人的で内在的でないという保証はどこにあるのだろうか。デカルトにおいては、理性は自我存在の根拠として用いられている。「コギト・エルゴ・スムス」は思うという理性の現象に基づく自我存在を定立したのである。これは理性を内在的に位置づけながら外在的な存在を捉えるという内在性と外在性の和解を意図しているのである。
理性とは客観的な対象を個人的なレベルで捉えて個人化すると期待されて位置付けられている認識機能である。この理性に相当する認識機能が我々に備わっているかどうかをどうやって検証できるであろうか。それには理性で捉えられたとされる対象の普遍性を検証するしかないであろう。例えばカントの格率論「汝の意志の格率がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」(「実践理性批判」カント 岩波文庫)は個人的な道徳原理と普遍的な道徳原理との一致を理想としているが、この普遍性とは社会的道徳原理を意味している。ここでは個人の理性的道徳原理は個人的な内在的なものであり、社会的普遍性との検証が問われている。しかしカントのこの格率論ではこの2つの格率の一致性の検証法は示されることはなく、ただそれを願うということが重視されている。
ここでは理性は決して外在的のものではなく個人の認識機能として内在的なものである。
こうした感情と理性の内在性と外在性についての区分けは曖昧で相互に入り組みがみられ、明別されているとは言えない。
以上では個人倫理と社会倫理について述べたが、私の主張はこの2つの倫理観に線引きし、双方の役割を重視し、とりわけ個人倫理の重要性を強調しようとするものである。私達は、社会がどのようであろうが個人は個人の目的を持たずにはおれず、それに取り組まずにはおれず、達成していく者が絶えないのである。社会倫理はそうした個人の目的について深く関与はしないが全体としてその社会が良かれと思われる状況を作り維持しようとするところにある。結果的にそうした社会は個人の目的を達成することに貢献することになることが多いかもしれない。逆にそうした好条件は決して個人の目的を成就するためには有効でないかもしれない。この2つの倫理はパラレルでありながら連動しているという奇妙なところにある。私はこの連動を成し遂げているのが人間の能力ではないかと考えている。西田幾多郎が絶対矛盾の自己同一というところの人間の能力であると考えている。
しかしここで検討しなければならないのは、なぜ私たちは利己主義であることを、それが完全には叶わぬにもかかわらず、避けようとするのか、またそれを恥とするのか。ここには西田やソクラテスの示した道が人間の哲学的志向性にあるということがある。私たちは何者かであろうと志向している。あるいは何者かでなかろうと志向しているのかもしれない。ともかく向かっている。それは無の場所であろうかダイモンへのエロスであろうか。この時自我そのものがそこに消えることを志向しているのであり、それに反する自我の志向性は肯定されないのである。ここに私は日本的倫理性を見るのである。
功利の原理に象徴される社会倫理は個人倫理を踏まえて形成される。個人倫理が目標とするかくあろうとする人間への志向性が社会倫理の内容を満たしていく。個人の内面に培われていなければやがてかくあるべきとその社会が考える目標としての人間を育成しようとする社会倫理は消えていく。社会倫理が弱小化しても個人の倫理性は消えることはない。