玄文講

日記

メモ:ホッブス

2005-07-17 23:51:31 | メモ
自然権や社会契約論を作ったのはホッブス、ロック、ルソーらである。
しかし、同じ「自然権」「自然法」という言葉を使いながらホッブス、ロック、ルソーはそれぞれ異なるものを考えていたようである。

そもそも「自然法」とは「人間の本性」を出発点として、そこから論理的に導かれる法である。
だから彼らが「人間の本性」をどのようなものとみなしているかで、その内容がまるで違うものとなってしまう。

政治思想を理解するには彼らの生きた時代や、人生を細かく検討すべきなのだろうが、私にはとてもそこまではできない。
ここでは彼らがどのような人間観を持っていたかということのみに注目して、彼らの思想を追ってみたいと思う。(これ自体も難しいことであり、非常に荒っぽい考察しかできないでいる。)

ホッブスは「自己の生命の保存を究極目的」とする生物が人間であるとした。
現代風に言えば、自分の遺伝子を保存するように適応している、となるであろう。
自然の中における個人というものを確立したという点が重要なことである。

この自己中心的な目的をまっとうする権利が、ホッブスの言うところの「自然権」である。
エゴ(自己中)というと人間性悪論に聞こえてしまうが、「切に生きたいと思う気持ち」と言えばそれを悪とののしることはできないであろう。
つまり人間は理性のない野獣ではなく、理性的に自分の利益を最大化する生き物であると考えているのだ。

あとは有名な筋書き通りの展開になる。皆が自分勝手に自己の保存を望めば、自然状態は「万人の万人に対する闘争」になってしまう。だから人々はそれから抜け出すために社会契約を作り、自分の権利を特定の誰かに譲渡して統治国家ができる。

ちなみにホッブスは「人間本性が起こす闘争」の原因を「第一は競争、第二は不信、第三は誇りである」としている。
スティーブン・ピンカー「人間の本性を考える」の17章では、このセリフの内容を社会生物学的に検討している。
そこでは人間が確かに容易く暴力的な存在になることを認め、その上で対策を取るべきだと論じている。

ところで自然法には「伝統的」と「近代的」があり、伝統的とはキリスト教的とも言い換えることができる。
つまりそれは神の摂理が支配するのが自然状態で、そこから出発する考え方である。
それで王権神授説ができて、権力の根拠になっていたわけである。
ホッブスはそれに反発して、神様とは独立に世俗権力が確立される道を説明してみせたのである。
これが彼が無神論扱いされる理由となった。

ところがロックやルソーは、キリスト教的な人物であった。
そんな彼らが考えたのが近代市民像「権利主張のみならず、その自己抑制が可能な独立自治の人間」である。
彼らは人間の理性を信じていた。そして私がいかがわしいと思う「自然権」は彼らの言うところの「自然権」なのである。

(参考文献)
「政治思想の基礎知識」

仕事完了

2005-07-14 23:26:38 | 個人的記録
仕事が無事に終わる。
4万部の商品の袋詰めと仕分けと搬送が終わった。
給料にもらった2万円は本代に使ってしまった。

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社長と今後のことについて相談する。

短期的なことについては、経営を黒字にするための社員解雇について話し合う。
解雇対象者は未成年の扶養家族がなく、解雇されても他に収入源のある人間を選んだ。
しかし長い間、一緒にやってきた人物なので社長は解雇しづらいそうだ。

甘いと言えばそれまでだが、他人に酷薄になることが冷静な判断だと勘違いしている人間よりはましである。
もとはと言えば彼らに与える仕事を十分に確保できないでいる私たち経営側の責任もあるのだから。

だから私は社長に段階的に彼らを解雇することを勧めた。
私の給料はますます下がるばかりである。
零細企業なんてこんなものである。

長期的には、いつまでも今の業務にこだわることはないと言われた。
何かしたいことがあるときは2千万円まで用意してくれるそうだ。
しかし何かをしたくなる時なんて来るのだろうか。

「俺はやるぜ」「なにを?」「なにかを!」という頭の悪いセリフが思い浮かんだ。

近況

2005-07-09 19:42:17 | 個人的記録
(近況)

ロンドンのテロのニュースで、ブレア首相の後ろにズラリとG8の大統領や首相が並んでいるのを見て

「わー、ロウ人形館みたいだ」

と思いました。
ほら、ロウ人形館って、ああいうふうに偉い人がむやみやたらに沢山並んでいるじゃないですか。

ちなみに一番ロウ人形度が高かったのはシラク仏大統領でした。
照かり具合、表情、立ち姿、全てにおいて絶妙でした。

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急な夕立に降られて、なんとなく
「♪夕立そこまで来ている。雷ゴロゴロピカピカ。情け容赦ないみたいだー」
と井上陽水の歌を歌っていたら、女学生に見られて笑われました。
恥ずかしかったです。

あさがお市

2005-07-08 23:47:32 | 個人的記録
午後8時頃、あさがお市に行く。
鮎の塩焼きと缶ビールを1000円で購入。少し高いが、鮎の腹わたをつまみにしながらの氷で冷やされたビールは、家で飲むのとは段違いのうまさだ。

その後は近所の公園で盆踊りを見物し、夕立ちに降られながら帰宅した。

陰鬱日記3

2005-07-07 13:45:14 | 個人的記録
さて、私はバカなのであるが、どういう種類のバカなのか説明したい。

まずバカには社会的なバカと能力的なバカがある。
この2つは明確に区別できるものではないが、「仕事はできるけど、性格が破綻している」というのが社会的なバカである。
もっとも多くの場合、能力があり、教養もある人は、社会性にも優れていることが多い。
教養は自信となり、スタイルとなり、他人に対して余裕を持てるようになるからであろう。

ところで、二極化と言うべきだろうか。私の知る限りでは、頭が良い人は性格も良く、かつ体力もあり、ケンカも強かったりする。一方では、頭も性格も悪く、かつケンカも弱いというグループがいる。せめて後者はケンカだけでも強くていいはずなのだが、不思議である。

ちなみに、私の社会的なバカさは「共感能力」の欠如である。
だが、今回は私の能力面でのバカに話を絞りたい。

まず私は記憶力がない。
記憶にも様々な種類があるが、私の場合エピソード記憶能力、思い出を維持する能力が低い。
つまり他人の顔、名前、自分とのかかわりが思い出せないことが私にはよくある。
たとえば高校時代、夏休みがあけると私は同級生のほとんどの顔を忘れていた。
ある日、家の中に知らない女の人がいたが、それは私の姉だった。一年くらい会わないと肉親の顔さえ忘れてしまうのだ。笑ってしまう。

知識記憶力もそれほど高くはない。たとえば、この玄文講の昔の記事を私は書いた覚えがない。なにせ私の知らないことが書いてあるのだから。
私は自分で自分の文章を「へー、知らなかった。勉強になるなー」と思いながら読んでいたりする。バカである。

記憶力の欠如は、つまり知識を豊富に必要とされる仕事に私が向かないことを意味する。
膨大な知識の土台があってこそ成立する職業、弁護士や医者には確実になれない。

また私は頭の回転も早いとは言えない。記憶力のように異常に低いわけではないが、私の周囲の秀才たちと比べると圧倒的に低い。
噛んで含めるように説明されないと、何事も理解できない。
講演会やセミナー、講義に出ても話の速さについていけない。私にものを教えてくれるのは、いつも本だけである。
本は私が何時間考えていても、その場で私を待っていてくれる。

頭の回転が遅いということは、迅速な判断が求められる仕事に私が向かないことを意味する。
知識の吸収効率の悪さも問題だ。入力に時間がかかり、その上忘れてしまうので出力もできない。

他にも細かい欠点は多いが、私の無能の大部分は記憶力の欠如と頭の回転が悪いことに由来する。
ただ能力面に限れば、(バカ=仕事ができない)とはどこまでも相対的な概念である。
たとえば同僚の院生は、プログラミングにおいては優秀だが、営業なんかをさせれば間違いなくバカになる。
自分のバカが目立たない仕事をすれば、バカにならないですむ。
私の場合、それは多くの知識が要求されず、納期が十分にありゆっくり腰を据えて取り組める仕事である。

他にも色々書こうとも思ったが、自分のことを延々と説明するのもバカバカしいのでやめにしたいと思う。
たかが自分のことに文字を浪費することもない。
要は私はこの致命的な欠陥をとりつくろいながら生きていけばいいということである。

(追記:明日から急ぎの仕事で実家に戻るので、来週まで更新できないかもしれません。)