さて、昨日はいきなり宇宙開発非難なんてことをしてしまったが、私はSFで語られる宇宙開発が嫌いなわけではない。
私は宇宙そのものがゴキゲンな場所であることを知っているし、その宇宙に空想を寄せるのは楽しいことだ。
ジュール・ベルヌの「月世界旅行」を読んだ少年がロケットの開発者になったように、子供時代にSFを読んで宇宙に行きたくならなかったガキなんていないに決まっている。
しかし現実の世界では、理由もなく莫大な資本を用いて宇宙へ行くわけにはいかないのだ。
だからこそSFの世界では宇宙開発や宇宙へ人を送り込むのに様々な切実な理由を与えている。
プラネテスやムーンライトマイルでは木星や月に眠るエネルギーが宇宙へ行く理由だ。
ムーンライトマイルは「公共事業系」SFだ。
営利活動としての宇宙開発を国家と組織の力を使って実行していく。
宇宙への憧れと、ビックプロジェクトに参加するという興奮感が同時に味わえてお得だ。
重機を操縦して、戦闘機を乗りまわして、女を抱いてと非常に汗臭いSFでもある。
プラネテスは、、、愛なのだろうか?よく分からない。
ただロックスミス博士のキチガイ振りが愉快だった。
そして機本伸司氏の「僕たちの終末」ではエクソダスが理由である。
人類が太陽の異常活動のために滅亡しそうになったので、宇宙へ逃げ出すために主人公たちは惑星旅行可能なロケットを作るのである。
共済組合を作ってお金を集めて、発注会社を作って、受注企業を探して、規制をクリアして、宣伝をして、妨害工作を切り抜けて、最後は人工知能と対話する。
このSFも公共事業系だが、営利活動ではなく生存をかけての宇宙開発なのでわびしさがある。
変わったところではヴァーリーの「へびつかい座のホットライン」では人類は宇宙人から強制的に地球からの立ち退きをせまられて、スペースコロニーで暮らしている。
今は理由がなくても、遠い未来には人類は必ず宇宙へ行くだろう。そんな時代を空想させてくれるSFは無数にある。
宇宙船レッド・ドワーフ号ははるか未来の宇宙、たった一人生き残ってしまったリスターと、人外の愉快な面々との宇宙旅行の物語だ。
これはコメディというか、バカSFなのだが、こんな未来と技術が欲しいと思わせてくれる。
マン・アフターマンでは宇宙へ行き、500万年後におよそ人とは思えない生命体になって帰還した元・人類なんかが描かれていて興奮した。
私が今読んでいるキム・スタンリー・ロビンスンの「レッド・マーズ」「グリーン・マーズ」では、人々は火星へ移住し、火星のテラフォーミングをしている。
冗長なところもあるが面白いSFだ。
私だって火星に人を送り込むのは楽しいことだと思っている。
ただ今はまだ有人宇宙開発に全力で取り組む時ではないと考えているのだ。
石油はまだまだたくさん残っている。代替エネルギーの開発、燃費やエネルギー効率の改良も進んでいる。
食糧の生産性も上がり、資源の再利用は進み、大気はきれいになり、生存可能圏は広がっている。
人類と地球の未来はまだまだ安泰だ。慌てて宇宙に目を向ける理由はない。
それと同時に地球上には多くの問題が山積みでもある。
宇宙を見る前に片付けておかないといけない課題はいくらでもある。
そして現在の技術では費用対効果が低すぎる。
莫大な予算をかけてもできることは少ない。せいぜい人を数人、数カ月程度送ることができるだけだ。
今はまだ技術を蓄える時期である。
私は知人たちと、どうやって宇宙へ行くか議論したことがある。
まず問題なのは人間の身体が宇宙用にできていない。
重力の秘密を解明し、少しは制御できるようになるといい。
もしくは人が無重力に適応できるように自分自身を改造するのだ。人類が人類のまま宇宙に行くことにこだわる必要はない。
不便ならば、人間なんてやめてしまえばいい。
すると人類派の知人は「人のままで行くべきだ」と反論してくる。
ロケットエンジンも今のような液体燃料を爆発的に消費する効率の悪いものでは長期間の飛行は不可能だ。
使い捨てでなく、かつ整備が簡単なスペースシャトルも欲しい。
私は「反物質派」で、「核融合派」からは非現実的だと言われ、「ワープ派」からは原始的だとののしられる。
反物質ならば少ない質量で大きなエネルギーを出せて、燃料の重さを運ぶために更に燃料を必要とするなんて無駄がない。
そして私は核融合は長年の研究にもかかわらずまるで成果を挙げていないと反論し、反物質を保存する技術の現実性を挙げてワープ派を非難する。すると彼らも再反論してくる。
現在、民間が宇宙観光旅行を企画しているが、あれが普及すれば政府の科学予算を食いつぶさずに宇宙開発ができるようになるかもしれない。
政府は金にならないが有意義な無人宇宙探査や国益のための人工衛星に予算を使えばいい。
ともかく現在の私たちには火星や外の惑星に行く理由も技術もない。しばらく人類は衛星軌道で遊んでいればいいのだ。
私は宇宙そのものがゴキゲンな場所であることを知っているし、その宇宙に空想を寄せるのは楽しいことだ。
ジュール・ベルヌの「月世界旅行」を読んだ少年がロケットの開発者になったように、子供時代にSFを読んで宇宙に行きたくならなかったガキなんていないに決まっている。
しかし現実の世界では、理由もなく莫大な資本を用いて宇宙へ行くわけにはいかないのだ。
だからこそSFの世界では宇宙開発や宇宙へ人を送り込むのに様々な切実な理由を与えている。
プラネテスやムーンライトマイルでは木星や月に眠るエネルギーが宇宙へ行く理由だ。
ムーンライトマイルは「公共事業系」SFだ。
営利活動としての宇宙開発を国家と組織の力を使って実行していく。
宇宙への憧れと、ビックプロジェクトに参加するという興奮感が同時に味わえてお得だ。
重機を操縦して、戦闘機を乗りまわして、女を抱いてと非常に汗臭いSFでもある。
プラネテスは、、、愛なのだろうか?よく分からない。
ただロックスミス博士のキチガイ振りが愉快だった。
そして機本伸司氏の「僕たちの終末」ではエクソダスが理由である。
人類が太陽の異常活動のために滅亡しそうになったので、宇宙へ逃げ出すために主人公たちは惑星旅行可能なロケットを作るのである。
共済組合を作ってお金を集めて、発注会社を作って、受注企業を探して、規制をクリアして、宣伝をして、妨害工作を切り抜けて、最後は人工知能と対話する。
このSFも公共事業系だが、営利活動ではなく生存をかけての宇宙開発なのでわびしさがある。
変わったところではヴァーリーの「へびつかい座のホットライン」では人類は宇宙人から強制的に地球からの立ち退きをせまられて、スペースコロニーで暮らしている。
今は理由がなくても、遠い未来には人類は必ず宇宙へ行くだろう。そんな時代を空想させてくれるSFは無数にある。
宇宙船レッド・ドワーフ号ははるか未来の宇宙、たった一人生き残ってしまったリスターと、人外の愉快な面々との宇宙旅行の物語だ。
これはコメディというか、バカSFなのだが、こんな未来と技術が欲しいと思わせてくれる。
マン・アフターマンでは宇宙へ行き、500万年後におよそ人とは思えない生命体になって帰還した元・人類なんかが描かれていて興奮した。
私が今読んでいるキム・スタンリー・ロビンスンの「レッド・マーズ」「グリーン・マーズ」では、人々は火星へ移住し、火星のテラフォーミングをしている。
冗長なところもあるが面白いSFだ。
私だって火星に人を送り込むのは楽しいことだと思っている。
ただ今はまだ有人宇宙開発に全力で取り組む時ではないと考えているのだ。
石油はまだまだたくさん残っている。代替エネルギーの開発、燃費やエネルギー効率の改良も進んでいる。
食糧の生産性も上がり、資源の再利用は進み、大気はきれいになり、生存可能圏は広がっている。
人類と地球の未来はまだまだ安泰だ。慌てて宇宙に目を向ける理由はない。
それと同時に地球上には多くの問題が山積みでもある。
宇宙を見る前に片付けておかないといけない課題はいくらでもある。
そして現在の技術では費用対効果が低すぎる。
莫大な予算をかけてもできることは少ない。せいぜい人を数人、数カ月程度送ることができるだけだ。
今はまだ技術を蓄える時期である。
私は知人たちと、どうやって宇宙へ行くか議論したことがある。
まず問題なのは人間の身体が宇宙用にできていない。
重力の秘密を解明し、少しは制御できるようになるといい。
もしくは人が無重力に適応できるように自分自身を改造するのだ。人類が人類のまま宇宙に行くことにこだわる必要はない。
不便ならば、人間なんてやめてしまえばいい。
すると人類派の知人は「人のままで行くべきだ」と反論してくる。
ロケットエンジンも今のような液体燃料を爆発的に消費する効率の悪いものでは長期間の飛行は不可能だ。
使い捨てでなく、かつ整備が簡単なスペースシャトルも欲しい。
私は「反物質派」で、「核融合派」からは非現実的だと言われ、「ワープ派」からは原始的だとののしられる。
反物質ならば少ない質量で大きなエネルギーを出せて、燃料の重さを運ぶために更に燃料を必要とするなんて無駄がない。
そして私は核融合は長年の研究にもかかわらずまるで成果を挙げていないと反論し、反物質を保存する技術の現実性を挙げてワープ派を非難する。すると彼らも再反論してくる。
現在、民間が宇宙観光旅行を企画しているが、あれが普及すれば政府の科学予算を食いつぶさずに宇宙開発ができるようになるかもしれない。
政府は金にならないが有意義な無人宇宙探査や国益のための人工衛星に予算を使えばいい。
ともかく現在の私たちには火星や外の惑星に行く理由も技術もない。しばらく人類は衛星軌道で遊んでいればいいのだ。