玄文講

日記

メモ;J・ロック

2005-07-24 16:55:53 | メモ
「自然権」批判のために以下を調べています。
何も知らないので、まずは初歩の初歩からやっています。

1)ホッブス

「メモ;ホッブス」
ピンカー「人間の本性を考える、暴力の起源」

今回はロックについて簡単に調べました。

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ロックもホッブスと同じように王権神授説を批判し、神によって保証された王の絶対権力を否定した。
そして臣下のものは全て君主の所有物であるという考え方を否定して、「私有財産の不可侵性」を唱え、政府はその保護と管理を行う為に存在することを論理的に導こうとした。

ロックもその論理の出発点を自然状態に求めた。
しかし彼の考えたそれはホッブスのそれとは異なる。

ロックの自然状態において、人々は平等であり、各自が自由に自分の財産や身柄を扱うことができる。
その状態で闘争が起きないのは、人間が理性によって生きているからである。つまり人間は生来的に他人の生命、財産、自由を侵害すべきではないという自然法の中で、自然状態で生きているから、世界は平和そのものなのである。

これはホッブスが自然状態を純粋に外生条件として捉え、その中で生きる人間の生存権として自然法を考えたのとはだいぶ異なる。
ホッブスの方では自然状態と自然法は明確に区別されている。

それに比べると、ルソーの方では自然状態で生きるのが自然法であり、自然法を守ると自然状態になる。
この2つがどう違うのか分かりにくい。

個人的な意見を言えば、理性的な人間なんてあまりにも空想的過ぎると思うのである。
しかし、ここではルソーの意見に沿って、いかにして人類はその自然状態から政治社会へと移ってしまったのかを見てみる。

そのような変化が起きた原因は、私有財産が発生したから、貨幣が発明されたからだとロックは主張した。

自然状態で人は自分の肉体の「労働」により自然から恵みを得る。
彼らは自分に必要な分だけを所有し、消費するので、所有権には限界がある。
食べきれない食べ物や大量の道具を持っていても、腐らせたり無駄になるだけなのだから。

しかし貨幣が発明されたことにより、貯蓄性という貨幣の性質のために、所有権に限界がなくなってしまった。
つまりお金はあればあるほど自分にとって有利になるということだ。

貨幣の発明により、各自の労働量によって貧富の差が生まれる。すると財産をめぐる争いが生じ、人々は自分の財産を守るために自分の権利を公共の手にゆだねて、私有財産と自由の調停をするという契約のもとで政府が生まれるのである。


ロックの思想の背景には1640年から20年間続いたイングランドの政変「ピューリタン革命」がある。
ピューリタン革命は統治の主権を誰におくかをめぐる争いであった。
その議論に答えを出すためには、そもそも何故「主権者なるものが必要とされたのか」を答えなくてはいけなかった。

そこでホッブスが「リヴァイアサン」による社会契約論、平和のために主権者に強制権力を渡すことが必要だと主張したわけである。

しかしそれは主権者の権利を強調するものであり、制度や法の下で主権者を管理するという視点に欠けていた。
そこでロックは立法部たる議会(国王、上院、下院)に最高権力、主権を与える市民政治理論を考えた。
国王の権利は議会の制定する法や議会自体により制限されるとしたのだ。
やがて19世紀のイギリスでは議院内閣制が確立され、議会が国王を抑えて主権者として定着することになる。

そしてロックは暴政に対する抵抗権、革命権を考えた。財産と自由を守るという契約を破った主権者には従う必要がないとした。
まずは国を良くするために抵抗し、専制支配が改良を受け付けなければ「神に訴えて」革命を起こしてもいいとしたのだ。
こうして社会契約論はその礎を完成させたのである。

(参考文献)
「政治思想の基礎知識」

(05/07/29追記)

ピューリタン革命について

1640年から20年間続いたイングランド政変。

それは官僚たる宮廷に対する金銭的にも宗教的にも抑圧されている側、地方の反抗である。

絶対主義国家はその維持に莫大な経費を要し、それを負担したのが農村の有力地主と都市の商業資本家たちであった。
彼らは議会を通して宮廷を管理し、出費を抑えようとした。
やがて、その運動には社会の下層者も参加するようになり、宮廷と癒着した国教会制度の改革要求にまで発展した。
その改革の要求者が「ピューリタン」である。

1640年11月3日 長期議会開会

1649年1月30日 国王チャールズ一世処刑

1660年5月1日  王政復古

長老派(保守派)議会を政治的基盤とする。46年5月頃まで主導権を握る。

独立派(中道的革命派)議会軍を政治的基盤とする。49年以降に主導権を握る。指導者はO.クロムウェル。

平等派(急進的革命派)ロンドン中層市民を政治的基盤とする。革命後期前半(50年代)に主に活動した。指導者はJ.リルバーン。

「平等派の啓蒙主義」

教会を国家機構の一部に組み込み、国民全員を強制的にそれに加入させるシステムへの反発。

教会への自由加入制。教会のメンバーたらんとする者は教義を自発的に承認し告白し、信仰告白にふさわしい道徳を実践する者でなくてはいけない。教会はそれを審査し、入会を許すか否か(教会契約への参加)を決める。

良心(実践理性)の所有者としての個人の主体性を重んじる。

「人民協約」

平等派が47年10月、48年12月、49年5月の三回にわたって発表した政治綱領。

1)人民主権 
2)人民から選挙で選ばれた者からなる議会権力の最高性 
3)信仰の自由、法の平等を侵害できない議会の限界性

を主張した。社会契約を含む新憲法草案である。
全国民から署名を集めて議会に協約を新憲法として批准させようとしたが、署名を集める段階で失敗した。

「ルネサンスの啓蒙主義」

ルネサンスとは合理主義であり、合理的な理性の所有者としての個人の主体性が考えられた。
ホッブスもルネサンスの個人主義的立場から当時の王権神授説を批判している。

しかしルネサンスはルネサンス国家たる宮廷に好意的だったので革命を傍観した。
そのためルネサンスは国教会の改革を行うことができなかった。