玄文講

日記

陰鬱日記5

2005-10-08 05:58:10 | 個人的記録
当たり前のことなのかもしれないが、世の中は思い通りにならないことが多く、いろいろなことがうまくいかないでいる。

願えば、かなわず。
求めれば、失い。
努力は、無駄骨になり。
挑めば、挫折し。
約束は、守られず。
成功は、遠のき。
希望は、ない。

人生で成功したことのない人間、何かをやり遂げたことのない人間には負け癖のようなものがつきまとっている。
自信がないせいか、顔色はいつも沈んでいて、行動はどこか投げやりだ。
何かをしようとするたびに、なぜかいつも悪い道、冴えない手段、見込みのない計画の方を選んでしまう。運が悪いと言うより、自らすすんで不運を呼び寄せているようにさえ見える。

私も今はそういう感じだ。

過ぎた時を思えば全てが無駄だったような気になって情けなくなる。
来るべき時を思えば、その困難さと不確かさに恐れを抱く。
今を思えば自分が何をしているのか分からなくなる。

どうせ人生はなるようにしかならないのだから、過去を後悔したり、未来に悩んだりするだけマヌケである。
だから今の私はマヌケだ。悩む必要のないことで悩んでいるマヌケな暇人だ。

具体的に今の私が陰気なのは、実家の経営状況がかんばしくないからだ。
それは仕方がないことなのだが、不安だ。

印刷屋に戻れば、今の研究はやめないといけない。
残念なことに、この研究は私がいなくても代わりにやる人間は五万といる。しかも私より優秀な人たちばかりだ。
仕事のために止めると言えば聞こえはいいが、実際は無能ゆえにあきらめ、挫折しただけなのだ。
そもそも去年には既に私はやめることに決めていたのだ。秀才と天才しかいない世界で生きていくのは無理だと考えたからだ。
結局、私はまた失敗したのだ。これで人生何度目の失敗だろうか。

「貴様は今まで食べたパンの数を覚えているのか?」

そんな感じだ。

生きるための道は先行きが不安で、夢は破れて、人生は壁に突き当たってばかりだ。

「後姿が立派な野郎なんてものは間違った野郎なのかもしれない」と言ったのは徳川夢声であった。
それは確か、誰しも自分の人生を振りかえればその成したことの少なさ、数々の失敗に落胆し、胸などはれず、必然的に後姿も寂しいものになるという意味で語られたセリフだった。

そして自分の周りを見てみれば、誰もの背中が寂しげだ。

だがそれでも私は、これからも何かを願い、求め、努力し、挑み続けるつもりである。
それはあまり格好のいいことではないだろう。
神田森莉氏が言うように、「死ととなりあわせの狂気とゆうべきものが、夢とゆうものなのである
夢を追うのは醜く無様なことなのだ。

それでも私には夢がある。
夢の一つは個人的なものだ。この世界は実に興味深い。
私はこの世界のことを全て知りたい。

もちろんそれは不可能なことだ。しかも私は残念なことに記憶力が人一倍弱く、バカだった。
下手の横好きというやつだ。

しかしこの失敗した5年間は私に些細な数理能力を残してくれた。おかげで私は物理学の膨大な分野の一部だけは理解できるようになった。

失敗し、挫折はしても、自分の中に残るものはある。それは私を次の段階に押し上げてくれる。
私にとって失敗しない人生なんて、成長しない人生と同意義語だ。

私には知りたいことがたくさんある。
理論物理学はスタンダード・モデルを超えて、より深い世界を私たちに教えてくれるだろう。
物性は技術の進歩により、高エネルギー物理学の理論を応用すべき段階に迫りつつある。
分子生物学の発展は進化論が持つ自然淘汰と遺伝の溝を埋めてくれるだろう。
大脳生理学は今や哲学と心理学の役割も果たし始め、人間とは何かについて教えてくれる。
認知心理学は最近では人文系の学問にも応用されている。
歴史は人間同士の相互作用の仕組みを実験した膨大な量の観測記録だ。
経済学は人類が幸福になるためには必要不可欠な学問だ。
私は工学を何も知らない。せめてマニュピレータくらいは自力で作れるようになりたいものだ。
他にもいくらでも知りたいことを並べ立てることができる。
それらを私はまだ何も知らない。

こんなうまそうな餌を目の前にぶら下げられて、諦めるなんてできるものではない。
知るためならば、私は何回でも失敗を重ねよう。


そして、もう一つの夢は、もはや個人的なものではない。
私たちが自分の道を自分で切り開けない弱者だったとき、弱者は死ぬまで弱者のままではないのかと怯えていた時、私たちは私たちの夢を決めたのである。

その実現のためには、成功しなくてはいけないのだ。
成功に至る道は一つではない。だから多くのやり方を試す必要がある。
そのためには何度でも失敗をしよう。

既に成功している何人かの仲間に追いつき、欠落した必要な部品を補い、私たちの醜い夢を実現させるために。