せせらぎせらせら

日々思うこと

難易の度合

2008-02-05 | せらせら
(もちろん例外のないルールは無いという考えのもとでだが、)

何かと物事の意味を見出そうとするのが人間の性質だと言える。

捉え方としては単純なことだが、その観点でいくと物事にはそれぞれ持つ意味に難易度があり、食料のようによちよちの子供でも意味を知っているものもあれば、鈍色の重さやそれを解放する倦怠に至っては杖をついた老人でも知らぬ人が多いだろう。老人については知る必要がないと言ったほうが正しいかもしれないが。

観点というものは、一種の娯楽とも言える代物で状況に応じて様々な観点を使い分けることが出来ればおそらく生涯の一時たりとも時間を持て余すことはない。

かなり手前にの時間軸上に投じられた石をその時点で別の何かへの布石だと分かるだけの観点と洞察力また推理力があれば、一石は読み尽くせぬほどの長さの小説であることが解るだろう。

それが僕の推奨する世の中の楽しみ方だ。

泥人形として

2008-02-05 | せらせら
中原さんも覚えたと思われる類の倦怠が解放するのはいつも鈍色の重さだ。

解放の原理によって、重さがあるべき場所に落ち着くまでの間に僕らのような軟弱を気取る若者たちはやはり鈍色の宙を彷徨うことになる。

それ以外に道がないのだから、と嘯いて。

重さが落ち着くまでの動きを好むのは、かなりくねった道程を越えていった少数の人間だけに限られる。


共有されるフォルダの中身と反抗勢力

2008-02-05 | せらせら
そこかしこに存在するどうも不確定な線が他の誰の目にも同じく一つの容姿をとって認識されることは決して無いのだろうか。



瞬間を同じくして全く同一角度で事象を切り取ることがどれほど困難なことかは、かつて当にうんざりするほどの思いを奥歯の奥に噛み締めてきたが、誰の口からそんなことは不可能だという言葉を聞いたところで、やはり私の脳裏にはふとした拍子に微かながらの光を見るということがある。

愚かな事だと一笑に付す輩に対しては全くだと笑みを返すしか手は無いが、全身全霊を投げ出して白旗を振るでもなく、密かには瞳の奥で反撃の好機を待つレジスタンスだけは失うわけにはいかない。

それが貪欲に生きようとする人間の形であり、レジスタンスまでもが笑いの中に身を投げ出すことは私にとって無意味が数々の仮初の希望を超えて再び出発点に立ち帰ることを意味する。

分かりやすい小石であっても、暗がりの中にあって穴の周辺が見えなくなろうとも、そこにあると認識することが出来なければ存在そのものが否定も肯定も出来ない特有のもやもやした霧に呑み込まれてしまう。

そうあるべきだとか、それが間違いだとかいう段階とは少し違うところで日を浴びることのない小人たちはやはりその霧を嫌悪し壁を食い破って外に出ようとするのだろう。

その度に軽い頭痛が私を襲う。