ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

「ジャンヌ・ダルクの生涯」藤本ひとみ

2019-06-08 07:19:03 | 

f:id:gaerial:20190608070958j:plain

昨日書きました「ジャンヌ・ダルクの生涯」現在#KuTooに寄せすぎて本著でのレビューにほとんどなっていなかったので今回は内容からもう少し突っ込みます。

藤本氏のジャンヌ探求は実際に存在したジャンヌを考えていく、ということでとても興味深いものでした。

ここで参考にamazonレビューと読書メーターというのを見たのですがこの二つでかなり本著への印象が違うのが面白かったです。

amazonは男性レビューが多いのか、藤本氏の「女性の目から見たジェンダー論」に対して反感を持つ人が多いのですが(そうではない方もいます)読書メーターでは女性の書き込みが多いようで本著にかなり高い共感が得られています。

男女だから必ずどうこう、と言うだけではありませんがしかしやはり男女の感想が違ってくるのは当然かもしれません。

歴史書(だけではありませんが)と言うのはこれまでほとんど男性が作ってきたわけです。どうしても男性から見た人物批評からできあがってきます。

特にジャンヌ・ダルクのような呼び名に「ラ・ピュセル=処女」とつくような美少女が若くして処刑された、という場合はより強い印象が良い方へも悪い方へも動かされてしまいます。

 

例えば同じく「ジャンヌ・ダルク」を題材にしたマンガで安彦良和「ジャンヌ」(原著・大谷暢順)でのジャンヌは彼女を主人公にしないことでより彼女をシンボリックに表現していきます。ジャンヌ以後の少女(エーミール)を主人公にしてジャンヌに憧れを抱かせる、という描写でジャンヌはここで特別な存在となります。「女性とは?」というジェンダー論はあまり描かれず「考えすぎるな。ただ一途に神を信じて平和のために戦え」という思いが少女を動かします。

 

一方山岸凉子描く「レベレーション」ではジャンヌの生い立ちから細やかに描いていきます。ここではジャンヌは農家生まれの一少女でありその彼女が何故神の声を聞いたのかが示唆されます。

山岸ジャンヌは明らかに「女性とはなにか?」という疑問から神の声を聞き行動をおこしていくという展開になっています。女性にとってはジェンダーを抜きにしてジャンヌは語れないのです。

ジャンヌが神の声を聞いた最初の場面が、父親から「結婚しない女なんか俺は家におかない」という言葉を聞き「女は結婚しか道がないのかしら」と疑問を抱いた直後に神を見、声を聞くのです。この時ジャンヌは子羊を抱っこしていることは彼女が「迷える子羊」であると暗示しています。

 

ジャンヌ・ダルクに興味を持つ男性の多くは彼女に他の女性とは違う聖性を感じ、女性たちは自分と同じ悩み持つ女性として感じてしまう。それは当然のことなのでしょう。

 

そしてジャンヌの抱く悩みは今の女性と何ら変わりなく思えてしまうのです。

 

藤本氏は本著でシャルル七世が聖別式を終えた後ジャンヌの功績に彼女を貴族に任命したことを「断るべきだった」としています。

「貴族になればもうジャンヌは神だけに仕えるのではなく国王の下の身分制度に組み込まれてしまう。ジャンヌは高位聖職者としての地位と待遇をもとめるべきであった」

なるほど素晴らしい考え、と思いますがまだまだ続く戦いがあるのに若きジャンヌがこの時点で賢く聖職者につくとは考えられない気がします。

山岸「レベレーション」ではこの場面はジャンヌは何の迷いもなく王からの賜りものを受け「正直今パンをこねる自分は考えられない」と描いています。

学問をしてきたわけではないジャンヌが聖職者につく、という選択は考え付かなかったのでは、と思います。藤本氏は「ここに私がいたらジャンヌを救えたのに」とまで嘆いていますが彼女が藤本氏の助言を受けたかどうか、受けたとは思えないのですよね。

これはやはり文筆家のような頭脳労働者の思考と思えます。とはいえ私もジャンヌを救う道はなかったのか、とは思います。

 

もう一つ、本著第四章「エクスタシィを感じるか」の項に興味を持ちました。いきなりエクスタシィが出て来てなんだろうかと思われたでしょうか。

これはジャンヌが神の声を聞く時に「恍惚の状態」にはいることを説明した、ということなのですね。

これをある研究家がこれを性的なニュアンスを読み取っている、というので藤本氏はまたもやここでジェンダー論を持ち出し「ジャンヌが顔を赤らめて告白したからといってすぐに性的なものと考えるのは勘繰りすぎだ」ということで説明を終えています。

しかし私としては「エクスタシー」=「恍惚」=「脱魂」という言葉を目にしてもう少し考えてみたいと思いました。

 

時間が来ました。

 

 

to be continued


現代女性の苦痛と「ジャンヌ・ダルクの生涯」藤本ひとみ

2019-06-07 20:57:20 | 

この本を読んでいる時ちょうど世間では#KuToo問題が騒がれていました。ジャンヌ・ダルクと現在のハイヒール問題、なんの関係もないようですが実は女性にとって服装とは自由と権利を象徴するものであり、時代に反する装いは異端視される、ということからこの二つは苦悩を同じくするものであったのです。

 

1400年代初めに生きたジャンヌの苦しみと2000年初めの女性の問題、600年の時を経て女性の苦悩があまり変わっていないように思えるとはいったいどういうことなのか、よく考えてみなければなりません。

 

1431年フランスで、19歳の少女ジャンヌ・ダルクは魔女であるとされ火あぶりの刑に処せられました。いったいどういう理由でそんなに若い彼女が火あぶりという怖ろしい処刑をうけたのでしょうか。

一介の女性しかも無学な少女の身ながらジャンヌは神の声を聞き、いまだ不安定な立場の国王シャルルの元へ走りました。神のお告げにより馳せ参じたジャンヌの言葉は王の心を確固たるものにする力を持っていました。

そして彼女が神の声を聞いたことの証しとしてイギリス軍に包囲されたオルレアンを解放する戦いの先頭に立ち勝利を収めてしまいます。

この時ジャンヌはまだ17歳です。彼女は男と共に戦うために女性として長い髪が当然の時代に髪を短く切り男の服を着ました。女性は成長すれば嫁ぎ子供を生むことだけを求められる時代に、ジャンヌは男以上の業績を上げて名声を高めていったのです。

しかしすぐにジャンヌは男たちにとって邪魔な存在となっていきます。彼女を疎ましく思う男たちはジャンヌを傲慢になったとして咎めだしたのです。

神の声だけを頼りに女の身一つで戦い続けてきたジャンヌはほどなく投獄され味方の助けで逃亡を図るも失敗に終わってしまいました。

ジャンヌは教会裁判にて大勢の神学者(もちろん男性ばかりだと思われますね)から幾度も審問を受けなければなりませんでした。

ジャンヌが戦いのために髪を切り身に着けた男装は異端の印とみなされたのです。教会から男装をやめるように言われたジャンヌはいったんは女装します。

しかし牢獄での男たちからの性的暴行から逃れるために再び男装を続けたことでジャンヌが魔女であることの証明とされ、火あぶりの刑になったのでした。

後にジャンヌの名誉は回復され聖人としてあがめられています。

 

現代に戻りましょう。

 

2019年日本で働く女性たちは強制されるハイヒールは苦痛で足を変形させ後遺症にも苦しむ為、靴の自由を認めて欲しいと訴えましたが政府から言い渡された言葉は直ちに社会に対して女性の足を自由にしてくれるものではありませんでした。

 

ハイヒールだけではなく学生時代の制服のスカートの強制=なぜズボンをはいてはいけないのか。化粧やムダ毛うんぬんは置いとくとしても肉体的苦痛を強いられるものに関してだけでも改善してほしいという問題がいまだに解決しないのです。

 

現代のジャンヌたちも火あぶりになるまで抵抗し続けねばならないのかもしれません。

後に聖人としてあがめられることを信じて。

 などという世迷言を言って誤魔化して済ませてはいけません。

それぞれに応じた好きな靴を履く権利を求めるのは大切なことです。

自分の体を心地よくしてくれ守ってくれる衣服や靴を選ぶ権利を誰もが持っています。

火あぶりにする権利は誰も持ちません。


「元報道記者が見た昭和事件史」石川清ー歴史から抹殺された惨劇の記録ー

2019-06-06 20:49:25 | 

殺人事件報道など気になってしまう人間ではあるのですが、統計数などは気にしたことがなかったのでなんとなく怖ろしい殺人事件などは増えているように思っていたのですが(何しろ初めてそういうことを気にして見ているので勘違いしているのかもしれませんが)この本を読んで殺人事件と言うのは年々少なくなっているのだということを初めて知りました。

本著による殺人事件の認知件数というものは昭和29年の「3081件」がピークで平成25年では「938件」と4桁を割っている、とあります。

ネット検索して確認しようかと思ったのですが検索下手なので上の統計とは少しずれる次のような資料しか見つけきれませんでした。

 

殺人事件被害者数

 

 殺人 認知件数・検挙率の推移

 

後にあげたリンク先が本著に書かれた殺人事件認知件数とかなり合致しておりますね。

認知件数ではありませんが次のグラフを表示できます。

f:id:gaerial:20190605051516j:plain

これを見ると他殺による死亡者数は減ってきているのだけれど自殺による死亡者数が圧倒的に増えていて2003年など他殺が700人余りなのに対し自殺が3万人を超え2015年では双方減ってはいても他殺者313人に対し自殺者は23000人以上もあるという数字が見て取れます。

ここでは一応自殺者はさておくとしても、日本における殺人事件の被害者数は年々減少していることがわかります。

なのになぜか、年々殺人事件が凶悪化し増加しているような印象があるのはどうしてなのでしょうか。

無論、殺人事件など「減ってきている」ではなく「一件もない」のが理想なのは当然です。それを社会が目標とするなかでなお起きてしまう殺人に以前より強く感情が反発し反応してしまうからでしょうか。

そして「数百人」という他殺に対し「数万人」という自殺者の数は見逃がせられるものではありませんね。

 

先日の事件で「他人を殺すなら一人だけ死ね」という発言がありました。この意見に賛同する人も多かったようです。これは「自分の苦悩は自分で解決すべきだ」という意見なのでしょう。

しかしこれに反論する意見が現れました。

「苦悩を持つ人に「自分だけ死ね」と言っては行き場がなくなる。そんな苦悩を持つ人に呼びかける言葉は「苦悩を自分だけで抱え込まないで。私たちはいつでもあなたを助けたいと思っていますよ」というものだろう」

確かにこれら統計を見ると今の日本での問題は数字の上だけで語るのなら他殺よりも自殺のほうなのです。

(これは無論他殺を促すものではない。任意を願います)

つまり日本社会は他殺をかなり抑え込む尽力をしてきたのでしょう。それは他殺をしなくてすむような社会を目指してきた表れなのだと思えます。

だけどそれに反比例する、そして数としては比較にならないほどの割合で自殺を増やしてしまった。

他人を殺すくらいなら自分が死んだ方がまし、という性質を持っている国民なのか、もともと人間がそういうものなのかはわかりませんがそれが「良いこと」ではないのは明確です。

他人も殺さず、自分も殺さずにいられる社会、それが理想であるはずですね。

 

さてさて、前置きが長すぎてしまいましたが本著の内容に触れていきましょう。

吐き気を催すような怖ろしい記述をしてしまうかもしれませんのでご注意を。

 

 

 

 

著者石川清氏は猟奇殺人事件や凶悪殺人事件というものは上の統計からしても現代より昭和30年代かそれ以前のほうが圧倒的に多いとしています。1950年ころということになりますからいまから70年ほど前でしかありません。

どうしても昔の事件より今の事件に興味が動くことは当然ですがここに記された過去の事件の壮絶さは現在の私たちの感覚では異質とも思えるものです。

 

好きになった女性を殺して切り刻んで持ち去っていた、不遇な生活を強いられた男児が赤ん坊を猟奇的に殺害した、農村で差別的な待遇を受けていた次男三男らによって家庭内の殺人事件が連続して起きた、そんな話が続く。

特に家庭内の殺人事件という話は状況は違うがどうしても先日の長男殺しの父親の事件を思い出してしまいます。

豊かな農家であった、というのは現代の事件にも重なります。筆者はここで「一連の肉親殺人の背景には、家庭内の不良を成敗するための、一種の“私刑(リンチ)”という側面があったのかもしれない」と書きます。

ここでの問題となる「次男三男問題」は村の近くに自衛隊基地が誘致されたことで徐々に解決されていく、とあります。

ここでの連続殺人が次男三男の貧困から起きたものである、という理由があるからでこうした原因を意図された解決策なのかどうかは判りませんがこれも殺人事件を減らす解決策の一つが貧困をなくすこと、生活できる仕事が発生することなのだということでしょう。

現在のひきこもりたちにもこうした「救助することができる仕事」というものがあり得ないのでしょうか。

考えてみる価値があるように思えます。

 

しかし次の「人肉鍋事件」「子食い事件」になるともう話は目を覆い耳を塞ぎたくなってきます。時期は終戦直前・直後の逼迫した状況の中での事件です。これから考えられることはやはり殺人事件というのは時代背景があり、その時代に応じた殺人が発生する、ということです。

戦争や貧困で飢えていた時代はどうしようもなく殺人をして人肉を食うしか生きることができない。経済的に満たされ戦争がない社会でも様々な要因で人間は苦悩しやはり殺人を起こしてしまう。人肉を食う必要がなくても殺人はおこしてしまうわけです。どちらが酷いのか、ということではない気がします。

 

他人の子供を養子にしたいと引き取ってその際、養育費をもらい子供は殺害する、という事件、「人間の生き胆は一番健康に良い」というビジネスで殺人を繰り返す、同じような人肉黒焼きが体に良いという事件は「スターウォーズ」が公開上映されていた頃のことだとか。

今でも移植手術のためにどんな事件が起きているのか想像するのも怖ろしい、という現実があります。

人体がビジネスになるがための殺人事件、昔だけのことのようでこれは今でもありうることでしょう。

そして宗教による殺人事件。正直言ってこれは未来でもなくなることはないように思えます。

宗教という口実があればそしてそれを行わなければ神が怒る、不幸がある、と言われれば何が起きても不思議ではない。人間は何をしでかすのか、全くわからない生物です。

 

 

 上に書きましたが、他殺も自殺もない社会、そんなことをしなくても幸せになれる社会、そんな社会を目指すことが理想であることは間違いないでしょう。

他殺をしてしまう原因は様々にあり人は好い社会を作り上げることによってそれを少なくしてきました。

貧困・無知、それらほど怖ろしいものはないのです。

衣食住が満ち足りていて情操豊かな教育が成される。そうした社会を目指すのは人間として当然です。

それでもやはりその道は困難なのですね。

他殺をどこまで食い止められるか、そして自殺者を救うにはどうすればいいのか。

私は子供を不良品とみなして殺害した父親の事件を「共感」したりはできません。

躾と称して虐待する父親とどこが違うのでしょうか。

家父の権力を使って性暴力を行う父親と変わりはしないのです。

勿論育児教育は難しく、私自身どうしようもできない迷い道の中にいます。

でも殺人はいけない。

自分を殺人することもいけない。

どうにかして道を探し出す工夫をし、社会に生きる者たちはみなそれを手伝う助力をしなくてはならないのだと思います。

歩むのが困難な道ですが、私たちは手探りしながらその道を見つけ出していかなければならないのだと思います。

 


「平成史」佐藤優・片山杜秀 その12

2019-03-23 06:46:28 | 


さてさてこの「平成史」も今回で終わりです。といっても平成自体が終わったわけじゃないから、終わった時点で何か書きたくなるのかもしれません。
佐藤優氏、片山杜秀氏による対談は「日本型社会主義から脱皮できるか」という項で終わっていますが、内容がなんともやるせないものになっています。佐藤氏曰く「早朝に警備員を配置する図書館がある。リタイアした60代の男性同士で小競り合いを起こすケースがあるからなんです。だらが一番最初に日経新聞を読むかでケンカになる。これも競争社会がもたらした深刻な影響なのではないかと思います」
実は私の夫が言ってたことがありまして。地元の図書館の男性トイレに「使用後は綺麗にしてください」という張り紙がでかでかと貼られていて「そんなに書かないと綺麗に使用できないのかとあきれた」と。
競争社会、というより新聞を奪い合いうことも含めて他人を思いやらず自分のことしか考えきれない、ということなのではないかと思うのです。後に使用する人のことを思えば綺麗にする、自分が新聞を読みたいように人も読みたいのだからお互い譲り合う、そういう気持ちがあればケンカになどならないはずですよね。これは綺麗ごと、というよりも当たり前にできることだと思うのですが。

最後にも少子化の話があったのですが、これも前に書きましたが皆が思いやりをもっていて母子や父子に優しくできればもっと子供を生みやすくそして育てやすくなると思うのですが、連日ネットで書き込まれるような意地の悪いこと(電車の中にベビーカーを入れることや泣き声に怒る)を読んでいるととてもこの日本で出産育児ができると思えません。
「子供は国の宝」という言葉がありましたが、この言葉も現在の日本では何の意味も持っていないどころか反発する人が多いのかもしれません。
昨日も記事に書きましたが現在の日本では夫婦二人で子供を育てるのは不満と苦悩が多すぎるように思えます。子供を生むのは二人の男女(少なくとも今は)ですが育てるのはもっと多数の人間であってもいいはずです。
特に少子化してしまってるのですから多人数で一人の子供を育てていけばかなり余裕も出て幸せになれるのではないかと思うのです。

最後の言葉は佐藤氏の「恵まれてはいたが幸福感はない。そして平成を生きた私たちが大変なツケを次の世代に背負わせてしまた。私たちはそれを自覚しなければなりません」で終わっています。

昨日こんな報道を見ました。


「幸福度」日本は58位に後退 「自由度」「寛大さ」評価低く

国連による数値化なのだそうで報道は様々にされていますから、それを読み比べるのも面白いでしょう。
NHKニュースでは
「健康に生きられる年数が2位だったのに対し、▽社会的支援が50位、
▽社会の自由度が64位、
▽他者への寛大さが92位と低迷しています。」
ということから幸福度が58位に後退していると判断したようですね。


他の報道では「これは自覚での幸福度だから謙虚な日本人は他人に遠慮したのだ」とか「宗教によるものだ」とかいささか弁解じみた解釈が書かれているようですが実感として日本人の幸福度は確かに2014年度の46位から58位になるほど後退もしくは失墜していると私は感じてしまうのです。
ネットでのやり取りはぎすぎすとして思いやりがなく可愛い動物たちの写真だけに癒しを求めていると見えてなりません。
「いや違う。日本人は幸福だ」と思える人はもうそれでいいのではないでしょうか。
私は幸福でない、と感じている人が多いように思えるのです。それはむしろ「他人に遠慮する」ことばかり求められてきたために自分を大切にできなかったことでの不幸感のように思えます。

そして幸福度というのは自分だけのことばかりでなく周囲の人に対しても感じることであるはずです。
上に書いた母子に冷たい世間、というのは私自身はもう関係ない話です。それでも母子に冷酷だという話を聞くと心が痛みますし、幸福を感じられなくなりますよね。
逆に人から思いやりを受けた話を読んだり聞いたりすると自分の事ではなくても嬉しくなるし幸福になれるのではないですか。
そうしたことも含めての他者への寛大さ、社会の自由度、社会支援に対しての不満、絶望感があるのではないでしょうか。

平成という戦争のなかった平和であるはずの時代はそうした人への思いやりを減少させてしまった時代のように思えます。多くの災害がありボランティアなどの良いことが多かったことに対する反面なのでしょうか。まるで副作用のようにその他の場所で闇の部分が露出しているようにさえ思えます。

次の時代は良い方向へ進むことができるのでしょうか。
それともそんな時代の魔法などはなくこのまま日本の幸福度は落ちていくばかりなのでしょうか。


そんなことはない。
他の人への思いやりが持てる寛容な社会になり、自由な発想・行動ができる社会支援が受けられる日本社会になりますよ、と願いたいのですが。



旅を続ける人々は

いつか故郷に出会う日を

たとえ今夜は倒れても

きっと信じてドアを出る

たとえ今日は果てしもなく

冷たい雨が降っていても




中島みゆきさんの「時代」です。



「平成史」佐藤優・片山杜秀 その11

2019-03-22 07:12:24 | 


第七章 天皇は何と戦っていたのか 平成28年(2016年)⇒平成31年(2019年)

平成28年(2016年)
2月元プロ野球選手、清原和博が覚せい剤取締法違反容疑で現行犯逮捕。
経営不振のシャープ、台湾・鴻海の傘下へ
4月「租税回避地」(タックスヘイブン)を利用する企業や個人についての機密文書{パナマ文書」流出で、世界的騒動に。
三菱自動車でデータ改ざん事件(その後、三菱自動車は日産ルノー傘下へ)
沖縄県うるま市で米軍軍属が女性を殺害
5月伊勢志摩サミット開催
オバマ大統領が広島訪問
6月ヘイトスピーチ対策法施行
イギリス、国民投票で「EU離脱」へ
7月相模原市の障碍者施設で元職員によって19人が殺害される
都知事選で小池百合子
8月天皇が「退位」を示唆する「お気持ち」表明
12月SMAP解散
釜山の日本領事館前に慰安婦像が設置される

平成29年(2017年)
2月アメリカ大統領にドナルド・トランプ
金正男がクアラルンプールで暗殺される
学校法人「森友学園」への国有地売却問題が報道され始める
3月韓国朴槿恵大統領罷免
6月天皇退位特例法が成立
共謀罪の構成要件を厳格化しおた「テロ等準備罪」が成立
自動車部品製造のタカタ、エアバッグ不具合による大量リコール問題で破綻
7月都議選で都民ファースト圧勝
稲田朋美防衛相、陸自「日報隠し」問題で引責辞任。
9月日産自動車の完成検査の偽装判明
10月神戸製鋼所のアルミニウムや銅製品の一部で品質データ改ざんが見つかる
民進党(衆議院)が希望の党と立憲民主党に分裂。衆議院で自民党圧勝
神奈川県座間市9人の切断遺体が見つかる
11月トランプ大統領初来日
モンゴル人力士への暴行事件で日馬富士引退
12月羽生善治が将棋界初の衛星7冠達成。

平成30年(2018年)
1月西部邁が多摩川に入水し、死を遂げる。
仮想通貨「NEM」が580億円分流出
音楽プロデューサーの小室哲哉、週刊誌報道を契機に引退を発表
2月秋篠宮家の長女・眞子内親王の結婚延期が発表される
平昌五輪で日本が歴代最多メダル数13個
3月黒田東彦、日銀総裁を続投へ
森友学園への国有地売却に関する「公文書の改ざん」を朝日新聞がスクープ。当時の財務省の担当局長だった佐川宣寿国税庁長官が辞任へ


【以降予定】

9月自民党総裁選
11月沖縄県知事選

平成31年(2019年)
4月統一地方選
30日、今上天皇退位
5月新天皇即位。改元(新元号)

本作記述ここまでとなっています。


ここでやはり無視できないのは沖縄問題です。
日本という国は長い間、沖縄に惨い仕打ちを行ってきました。その様子はNHK大河ドラマ「西郷どん」で改めて知らされました。そして今もなお日本政府は沖縄を国内のことのように見せかけながら甚だしい差別をし続けています。
両氏も沖縄で起きた米軍による強姦目的の殺害事件が東京で起きたことならまったく対応は違っていたはずだと言っています。私はこうした事件が東京などで起きないように沖縄に背負わせているのではないかと思っています。辺野古の海埋め立て反対を沖縄の人々が選挙で示しても何の対応もしない。「沖縄の人に寄り添い」という口をひねり上げたい衝動にかられます。

天皇の在り方も無視できないことですね。
見ていると日本政府と天皇は今現在非常に対立しているように思えます。
若い新天皇が今後どうなされるか。そして上皇のお考えや行動も私はとても気になっています。
加えてこれからの継承をどうされていくのかも。

そして未だ解決していない「森友問題」
まるで解決してしまったかのように政府がとぼけてしまっています。ここで佐藤氏が是非見て欲しいというのが映画「金環食」です。
ちょうどよく少し前にTVで放送されていたのを録画していました。すぐに見たのですがあまりにも嫌なおっさんばかりが出てくる映画でへこたれて途中でやめてしまっていたのですが、佐藤氏のお勧めで観ましたところ、本当にまるで「森友問題」を映画化したかのような内容でした。

神奈川県相模原市の障害者福祉施設で19人が殺される事件についての記述も興味深いものでした。
やはり時代を象徴する事件というものが起きてしまうのですね。
自己の背景はあるとしても。
ニュージーランドの事件とも重ねて考えてしまいます。