食品のカラクリと暮らしの裏側

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ビキニ被災70年⑤「西から昇った太陽(水爆)」第五福竜丸など1000隻に「死の灰」が/少数派

2024年03月24日 | 核兵器・原発を失くせ
Ns170minoritytp 少数派シリーズ/核兵器・原発を失くせ
ビキニ被災70年⑤「西から昇った太陽(水爆)」第五福竜丸など1000隻に「死の灰」が



■まず投稿者の文章|水爆の想定外の威力をまざまざと知って驚き慌てたのが当の米国
下記本文は、しんぶん赤旗の「ビキニ被災70年」の特集を活用しています(次号も続く)。若干、ストーリー性を持たせた文章なので、投稿者が調べた内容を補足の形で追記した。今号は図のように、マーシャル諸島ビキニ環礁と水爆実験を行った際の第五福竜丸の位置関係を説明する。当初、米国が設定した「危険水域」は、東西330マイル(約531km)、南北100マイル(約161km)=1マイル約1.61km。第五福竜丸は、爆発時、その東方たった30kmの地点にいた。しかし実験2週間後になって、「危険水域」を何と半径450マイル(約724km)に広げた経緯がある。つまり水爆の威力は想定よりもかなり強烈で、まざまざと知ったのが当の米国で一番驚き慌てたと言われている。そのため周辺にいた第五福竜丸や1000隻を超す漁船、事前に避難させなかったマーシャル諸島の島民が巻き込まれた。次号で説明するが、島民は死産・出産異常・先天性異常や後年にガンなどの身体的影響が多大だったことが物語る。結論を言えば、“冷戦”下の大国・米国のエゴと人権・生命無視の非人道性である。
投稿者として調べて分からないことの1つ。なぜ拡大した危険区域が完全な円形ではなく、上図のように”半円”に近いのか? 風向や海流の向き以前の問題として不自然であり、マーシャル諸島周辺は安全とする意図的な米国の「ニセ情報」(まやかし)と思えるのだが?実際に前述のように、マーシャル諸島の島民に甚大な被害が及んでいる。今後、勉強してお伝えしたい。

■ビキニ環礁のブラボー水爆実験は広島原爆の1000倍の威力15メガトン
本文/「太陽が上がるぞォー」「ばかやろう、西から太陽が上がるかッ!」。遠洋マグロ漁船・第五福竜丸(140トン)(※補足1)の甲板上で絶叫し合う声。1954(S29)年3月1日午前6時45分(日本時間同午前3時45分)、米海軍が太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁で「ブラボー水爆」を爆発させました。のちに、「ビキニ事件」と呼ばれる水爆実験です。同年、米国はこのブラボー水爆実験を皮切りに5月までに「キャッスル作戦」と称する原水爆実験を6回行い、現地島民や遠洋漁業などをしていた、のべ約1000隻(※補足2)の日本の船が被災しました。
投稿者補足1/全長28.5m、幅6m、高さ15m。現在、東京・江東区、夢の島公園の「都立第五福竜丸展示館」に現存保存されている。
投稿者補足2/他国を含むと約1400隻、被災者(被曝者)2万人と言われる。

静岡県焼津市の焼津港所属、第五福竜丸の乗組員は、18歳から39歳までの23人で平均年齢25歳。同年1月22日に同港を出発し、3月1日は最後の操業でした。午前6時半に、はえ縄の投げ入れ作業が終わり、乗組員の多くが船室に入って仮眠を取ろうと横になっていました。そのとき、ブラボー水爆がさく裂したのです。ブラボー水爆の爆発の威力は15メガトン。広島に投下された原爆の1000倍の威力でした。第2次世界大戦で使われた爆弾の総計が3メガトンといわれており、その5回分にあたります。第五福竜丸の位置は東経166度35分、北緯11度53分。水爆実験場から東に160km離れた洋上で、米海軍が設定した「危険区域」の外側・東側約30kmにいました。

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■乗組員にめまい、頭痛、吐き気、下痢、食欲不振、微熱、目の痛みなど急性放射能症に
夜明け前の西の空に大きな火の塊が浮かび、昼間のように明るくなりました。7、8分後、「ドドドドドー、ゴー」と海面を伝ってごう音と衝撃波が襲い、船は波間に大きく揺さぶられました。朝食をとり始めていた乗組員は驚き、とっさに床に伏せたり、食器を放り投げたり、近くのものにつかまったりしました。「エンジン全開、縄をつかめ!」と見崎吉男漁労長の声が飛びました。同日の当直日誌には、「身の危険を感じ只(ただ)ちに揚縄を開始(原文ママ)」と記されています。久保山愛吉無線長は「飛行機とか船を見たら知らせてくれ。焼津には知らせない」と大声で言いました。「無線で知らせればアメリカ軍に傍受され、福竜丸の存在を知られてしまう。ひっとしたら原爆実験を見たのかもしれないと疑われ、そうなれば攻撃を受けるかもしれない」と思ったからでした。

晴れていた空はやがて入道雲を重ねたような鉛色の雲で覆いつくされました。鏡のようだった海が荒れ始め、横殴りの風が吹きつけました。雨に交じって白い粉が降ってきました。強い放射能を帯びたサンゴの粉―――「死の灰」でした。雪のように降る白い灰を払いのけながら、6時間かけて揚げ縄作業(※補足3・4)が続けられました。白い粉は体じゅうに張りつき、首元から下着にたまり、チクチクと刺すように痛みました。目、鼻、口、耳から体内に入り込み、真っ赤になった目をこすりながら作業をしました。白い粉は甲板に足跡がつくほど積りました。久保山無線長は海図室にのぼり、「はたして今の輝きは何だろう。場所はどこだろう」と、筒井久吉船長と見崎漁労長とで調べました。「どう考えてもビキニのほかない。揚げ縄をしていけば距離はだんだん遠くなる」と判断しました。
投稿者補足3/揚げ縄(はえ縄)=マグロを獲るために数十m~100mおきに針を付け、海中に縄を張る漁法。一般的に、網の長さは数十kmから100kmにも及ぶ。
投稿者補足4/網は高価で、また切って海洋に放置すると船舶事故を誘発するためやむなくの措置。

縄を揚げ終わると、船はビキニ環礁に近づかないよう北上し、約5時間かけて「死の灰」から脱出。進路を焼津に向けました。その日の夕方から、乗組員にめまい、頭痛、吐き気、下痢、食欲不振、微熱、目の痛み、歯茎からの出血があらわれました。顔は黒ずみ、白い粉が付着したところは、やけどのように膨らみました。1週間ほどたつと髪の毛が抜け始めました。急性放射能症(※補足5)でした。<次回に続く>
投稿者補足5/当時は広島・長崎原爆の威力と症状は認識されていたが、現在のように情報網がよくなかったことから、実際の酷さまでは浸透していなかったと思われる。

Sankoub
次号/ビキニ被災70年⑥国民の原水爆反対の高まる“うねり”と補償を恐れ政府は早期決着へ
前号/ビキニ被災70年④原水爆禁止署名3200万筆超、原水爆禁止運動が広がり反核の原点に

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