少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
広島原爆ドームの目先に牡蠣船料亭が移転し市民が撤去運動を広げる
牡蠣船かなわは写真右下から外れて100m下流の位置です
ブログを移転したため、投稿日と記事の日時・状況と整合性がありません。
追記2018.9.19/広島地裁は、国の許可の判断に「看過しがたい過誤があるとは認められない」として、被爆者や近隣住民ら原告側の請求を退ける判決を出した。
広島を流れる元安川は、原爆ドームや平和資料館、川岸には原爆を悼む数々の建築物や碑が並んでいます。私も何度か行きましたが、厳粛さや独特の緊張感を持ちます。しかし原爆ドームや爆心地から200m、原爆犠牲ヒロシマの碑の目の前に、牡蠣船(かきふね)形式の料亭「かなわ」が移転・新築され、遂に2015年9月から営業を始めたのです。市民は「被曝地の心を逆なでする」「追悼・鎮魂の場に、なぜ酒食店を営業するのか?」「世界遺産のバッファゾーン(緩衝地帯)なのだから、景観は守られるべき」と、撤去へ向けての運動や抗議の署名活動を行っています。
牡蠣船とは川辺に係留した和船のことですが、「かなわ」HP(下記参照)の通り、建物の形は一般の料亭と全く変わりありません。「かなわ」の営業は案外歴史が古く、半世紀以上前の1963年から経営しています。元々は同じ元安川沿いでも、現在より400m南の下流の位置にありました。しかし治水上の問題で、国交省・中国地方整備局から移転を求められ、広島市が河川法に基づき、現在の位置に許可を出した経緯があります。そのため市民は真っ先に認めた広島市を批判し、世界遺産条約違反として国に提訴したのです。今後も、裁判の成り行きに注目していきたいと思います。
投稿者が地図に一部地名を追記しました
改めて、電子地図で確認してみました。「かなわ」の場所は、灯和の径(とわのみち)沿いには原爆犠牲ヒロシマの碑の他に、平和祈念碑・「平和の祈り」句碑など、特に多くの碑や原爆の悲惨さを物語る記念物が残っています。よりによって、何もこんな場所に作らなくてもと思いました。ご存じのように原爆ドームは、多くの大切な命が奪われ世界の恒久平和実現の願う場です。広島市民だけでなく、全国から亡くなった方への鎮魂の思いが込められています。役人の感覚はどこでも凡そズレていますが、許可した広島市側も問題です。あなた達は、ドコの役人ですかと言いたいですね。
この一帯に新たな物を設置する場合は、世界遺産委員会の同意が必要です。広島市は、こんなことも知らないのでしょうか?世界遺産の登録に決定的な影響力を持つイコモス・その国内委員会は、「景観を規制するだけでなく、この遺産の持つ鎮魂と平和の祈念が深く繋がりを持ったエリアとして認識されるべき」と、広島市長に懸念を表明しました。広島ユネスコ協会会長も、「原爆ドーム界隈は、景観保護エリアに指定されている」と指摘しています。京都を始め各地で、歴史ある建築物の近くに高層マンションやビルを作る日本人の感覚は、世界から物笑いになっています。
この場所になった経緯は分かりませんが、しかし「かなわ」は普通の感覚ではないと思います。先程からのように、店のすぐそばには「天がまっかに燃えたとき/わたしのからだはとかされた」と刻まれた、原爆犠牲ヒロシマの碑が建っています。にも関わらず「かなわ」では、犠牲になった学童が持っていた黒焦げの弁当を、再現するメニューを作る動きがあるそうです。学童を偲ぶことにはならず、愚弄するものです。とんでもないことです。原子爆弾投下から70年以上経ちましたが、広島市民のみならず日本人全体として、「2度と戦争をしない」「平和の重要性」を世界に訴えていきましょう。
料亭かなわHP
広島原爆ドームの目先に牡蠣船料亭が移転し市民が撤去運動を広げる
牡蠣船かなわは写真右下から外れて100m下流の位置です
ブログを移転したため、投稿日と記事の日時・状況と整合性がありません。
追記2018.9.19/広島地裁は、国の許可の判断に「看過しがたい過誤があるとは認められない」として、被爆者や近隣住民ら原告側の請求を退ける判決を出した。
広島を流れる元安川は、原爆ドームや平和資料館、川岸には原爆を悼む数々の建築物や碑が並んでいます。私も何度か行きましたが、厳粛さや独特の緊張感を持ちます。しかし原爆ドームや爆心地から200m、原爆犠牲ヒロシマの碑の目の前に、牡蠣船(かきふね)形式の料亭「かなわ」が移転・新築され、遂に2015年9月から営業を始めたのです。市民は「被曝地の心を逆なでする」「追悼・鎮魂の場に、なぜ酒食店を営業するのか?」「世界遺産のバッファゾーン(緩衝地帯)なのだから、景観は守られるべき」と、撤去へ向けての運動や抗議の署名活動を行っています。
牡蠣船とは川辺に係留した和船のことですが、「かなわ」HP(下記参照)の通り、建物の形は一般の料亭と全く変わりありません。「かなわ」の営業は案外歴史が古く、半世紀以上前の1963年から経営しています。元々は同じ元安川沿いでも、現在より400m南の下流の位置にありました。しかし治水上の問題で、国交省・中国地方整備局から移転を求められ、広島市が河川法に基づき、現在の位置に許可を出した経緯があります。そのため市民は真っ先に認めた広島市を批判し、世界遺産条約違反として国に提訴したのです。今後も、裁判の成り行きに注目していきたいと思います。
投稿者が地図に一部地名を追記しました
改めて、電子地図で確認してみました。「かなわ」の場所は、灯和の径(とわのみち)沿いには原爆犠牲ヒロシマの碑の他に、平和祈念碑・「平和の祈り」句碑など、特に多くの碑や原爆の悲惨さを物語る記念物が残っています。よりによって、何もこんな場所に作らなくてもと思いました。ご存じのように原爆ドームは、多くの大切な命が奪われ世界の恒久平和実現の願う場です。広島市民だけでなく、全国から亡くなった方への鎮魂の思いが込められています。役人の感覚はどこでも凡そズレていますが、許可した広島市側も問題です。あなた達は、ドコの役人ですかと言いたいですね。
この一帯に新たな物を設置する場合は、世界遺産委員会の同意が必要です。広島市は、こんなことも知らないのでしょうか?世界遺産の登録に決定的な影響力を持つイコモス・その国内委員会は、「景観を規制するだけでなく、この遺産の持つ鎮魂と平和の祈念が深く繋がりを持ったエリアとして認識されるべき」と、広島市長に懸念を表明しました。広島ユネスコ協会会長も、「原爆ドーム界隈は、景観保護エリアに指定されている」と指摘しています。京都を始め各地で、歴史ある建築物の近くに高層マンションやビルを作る日本人の感覚は、世界から物笑いになっています。
この場所になった経緯は分かりませんが、しかし「かなわ」は普通の感覚ではないと思います。先程からのように、店のすぐそばには「天がまっかに燃えたとき/わたしのからだはとかされた」と刻まれた、原爆犠牲ヒロシマの碑が建っています。にも関わらず「かなわ」では、犠牲になった学童が持っていた黒焦げの弁当を、再現するメニューを作る動きがあるそうです。学童を偲ぶことにはならず、愚弄するものです。とんでもないことです。原子爆弾投下から70年以上経ちましたが、広島市民のみならず日本人全体として、「2度と戦争をしない」「平和の重要性」を世界に訴えていきましょう。
料亭かなわHP