いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(120)「時を知る」

2014年01月19日 | 聖書からのメッセージ

 ローマ人への手紙13章11節から14節までを朗読。

 14節に「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」。
 11節に「なお、あなたがたは時を知っているのだから」とあります。時という言葉は、聖書にしばしば出てくる言葉ですが、私たちが用いる「時」は、大抵今は何時かな、今日は何日だろうかという、暦であるとか、時計の上での時間のことを考えます。しかし、聖書の中には「時」という同じ言葉は使われますが、二つの意味が込められています。その一つは、日ごとに繰り返される「時」です。日曜日の朝の10時、礼拝が始まる「とき」は、これは繰り返してくる。朝の10時は毎日あります。これはいつ果てるともなく繰り返されます。朝になり夜になり、また朝になり夜になる。そのような「時」を考えながら生きている。今日できなかったから明日しようと、明日の何時にお会いしましょうと、また来月のこれこれの時間に、それが駄目だったから次のこの時間にと、同じ時がくると考えて生きています。時計の針を見ていますと、12時までの文字盤の上を回って、同じ所にくるから、そのような意味では、繰り返されて続いていく時です。

もう一つ大切な時があります。それは二度と返ってこない「時」です。生まれた時は返ってこない。私は昭和17年10月10日生まれですから、この「時」は戻ってきません。昭和17年という時はもう二度と返ってきません。また結婚した「とき」もそうです。結婚したその時は、それで一回限りになります。繰り返しはできない。そのように人生の中には、絶えず繰り返される時と、二度と返ってこない時という、二つの時の中に生きているのです。

 11節の「なお、あなたがたは時を知っているのだから」という、この時は繰り返される時ではなくて、二度と返ってこない時です。しかも、その時はどんどん進んですべてのものが終わりに向かっている。今私たちはどのような時に立っているのか。すべてのものに始まりがあり、終わりがあるとするならば、人生も含めて、人類の歴史、あるいは宇宙の創世から終末に至るまでのどの時期に、今きているのか? このようなことを自覚しないままに、ただ今日があり、明日があり、またあさってがある。同じことを繰り返していると思って、ただそれだけに生きているならば、気がつかないうちに大変な目に遭います。だからこの11節に「なお、あなたがたは時を知っているのだから」と言われます。それは、もっと身近に自分自身の人生に置き換えて考えてみると分かります。生まれたときから今に至るまで、60年70年80年90年の年月を生きてきました。生きてきた日々は繰り返され、繰り返されてきたのです。これからも繰り返されていくように思われるが、私たちはどんどんと、今も二度と返ることのない時間の中に生きていることの自覚が、どれほどあるか。あまりない。

 「まだ若い」、と思います。時々そのようなことを如実(にょじつ)に感じる。若くないことを教えられることがある。それは若い人と話しているとき、自分は同じレベルで、同じ年齢、同じとは言わないけれども、少し上ぐらいの気持ちで話をする。しかし、相手はえらく緊張している。そんなに緊張しなくてもいいのに……。ところが、私が二十歳前後のころ、六十歳くらいの人と話をするときに、どのように感じたかなと振り返ると、この人はだいぶ年だなと思いながら話していた。だから、相手が私を見る目は、よく生きたなぁ、という驚きの眼(まなこ)をしている。こちらは気安く話しかけるが、考えてみたら、四十年も上だなと、ふっとそのようなことを思わされます。だから、できるだけ自分の時を自覚しなければいけません。返ってくることがない時間の中に生きている。そう思ってみますと、私どもは終わりの時に向かって着実に進んでいる。

ときに古い写真を見ると、私にもこんなに若いときがあったかと思うことがあります。そういうとき、「年を取ったな、もう老い先短いな」と分かるけれども、すぐに、「まぁ、明日がある」、またこの日は繰り返されると思って、そこに逃げ込んでしまう。直面すべき現実は厳しいけれども、すぐそのように「だって、まだしばらく生きる。あの人よりも私は元気だし、この人よりも」と、同じ年代の人を見て思う。だから、年を取って同窓会が盛んになるのは、お互いにあの人より自分がどのくらい元気かを確かめ合う場ではないかと思います。だから、ちょっとでも病気をした人は出たがらない。元気な人ばかりが集まって、自分がいかに元気であるかを誇り合う会ですから、私は行かないようにしている。がっかりしますから。そのように私どもは、常に自分がまだ長く生きると思いやすい。

私たちの人生もそうですが、もっと広く言うなら、日本の社会も含めて世界が、今やイエス様の語っている終わりの時、終末の時に差し掛っていると思います。日々見聞きするニュースは、将来に展望、望みを与え、夢を与えてくれる事態や事柄があるでしょうか。つい先だっても、北朝鮮が核実験を行ったと。やがてイランも核兵器を持つでしょう。やがて世界中が核兵器を持って、考え方のおかしな指導者がそれを握ったら、一気に核戦争になるでしょう。事実、北朝鮮がその核をどう使おうと自由ですよ。いつ何時それが起こらないとも限らない。もし、今そのようなことが起こったら、世界の終わりです。一気に破滅になります。しかし、聖書にははっきりと終わりの時がくることを語っています。もちろん、それがいつ何時であると、そのようなことは言えません。「戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。また地震があるであろう」「そして人の心が冷えて愛が失われていくときがくる。それは終わりのときの前兆、しるしだ」とマタイによる福音書24章に語られています。私たちの人生も終わりに近づいていると言えますが、同時に若い人はまだ先がある。あと40年はある。先生の年になるには、30年40年は優にあると思っている。しかし、40年後があるとの保証はない。あと5年、あと10年、どれだけか分かりませんが、いつ何時どのような事態が起こって、一気に世が終わりに至ることは確かです。だからどんなものでも、初めがあるものは、必ず終わるときがきます。その終わりに対して、私たちはどうあるべきなのか、それを絶えず自覚して生きていく。

ですから、11節に「なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている」。「眠りからさめるべき時」、言うならば、私たちが終わりの時を忘れて、自分の好き放題な身勝手な生き方に没頭している。それに熱中して過ごしているとき、これは眠っている状態です。「早く目を覚ましなさい」と、神様は警告しています。この世の終わりのときが近づいて、何とかして破滅を防ごうと、多くの人々が努力をしています。何とか平和を作り出そうではないかと。その努力は確かに貴重なもの、掛け替えのないものです。しかし、決してそれで平和がくるわけではありません。聖書にははっきりと終わりの時が必ずくると言われています。私たちの人生が終わるのが早いのか遅いのか、これは分かりませんが、いずれにしてもすべてのものが終わるときがくる。それをいくら防ごうと、人の力で努力しても、これは防げない。神様が裁くべき時がくる。では、その中にあって、終わりがくるからどうにもしようがない。やけになって、自暴自棄になって、後は野となれ山となれ、私は好き放題にしますと、それでいいのか。その終わりの時、終わりのラッパの響きと共にイエス様が、神の右に座し給う主が、再びこの世に来てくださる。それは何のために? 裁き主として、すべてものを裁くために再び来ると言います。イエス様がすべての業を裁くために来られる。私たちはその終わりの時に備えておくのです。そのことを自覚して、絶えず、いつどのようなときに主が来られても、終わりの時が来ようとも、大丈夫、と言えるように、今与えられている信仰を確かなものとしておくこと。これが「眠りからさめるべき時」です。自分の日々の生き方、あり方を、そのような終わりの時を知って、そこから振り返って、今私の生き方はこれでいいと言えるかどうか。ここを絶えず考えていかなければ、今というときをどう生きていいのか分かりません。いつも終わりの時をはっきりと知ることです。

40年ぐらい前ですが、学生時代に「実存主義」という哲学がもてはやされました。サルトルというフランスの哲学者がいましたが、彼が実存主義のさきがけでもあります。何を言ったかといいますと、すべてのものが必ず終わる。終わってその先があると考えては駄目です。これが実存主義、今あるということが大切。終わった先がないというのが、彼らの言い方なのですが、逆にそこから教えられることがある。彼らは終わるときが来て、その後が無くなるのだから、その終わりをしっかりと見据えて、それを自覚して、今生きていることを大切にしなさいという。終わってからあとのことは心配するな、無いのだから、終わることを自覚して今を生きる、そこに存在していることをしっかりと考えて生きなさい、という哲学です。私はある時期、それにかぶれまして、しばらくそのように思ったことがあったのですが、この哲学から私が教えられたことは、終わりをしっかりと知った上で、今を考えていく。この考え方は正しいと思います。私たちは終わることを考えたくない。終わるときを考えるのはやめとこう、目隠ししておいて、今だけを楽しもうとしやすい。それでは本当に今という時を生きることができない。それは正しい考え方です。

だから、イエス様がそう言われる様に「すべてのものは終わるときがきて、その日その時はだれも知らない」、「だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである」(マタイ25:13)と。イエス様は十人のおとめの例えを語っています。花婿を迎えに行った五人は思慮深い者たち、ほかの五人は思慮の浅い者でした。花婿が来るのが遅れたために、みな居眠りをしてしまった。突然、花婿が来ましたと言われて、大慌てで、ともし火を明るくした。油が切れた人たちは買いに行きましたが、戻って来たときには、もう扉が閉められていた。

イエス様が私たちに求めているのは、しっかりと自らの終わりのときを自覚して、それに対してどう今日を生きるべきか。いつだか分からないけれども、その終わりの時を知った上で、「今」を振り返ってくるとき、はじめて人は真剣な生き方ができる。それなくして人は真剣に生きることはできない。終わることがあることを知らなければ、今、命が与えられて地上に生きる者とされている喜び、その使命、その大切さがはっきりしてこない。そのうちに終わるかも知らないけれども、それはもう考えまい、今を楽しもうという考え方は、決して内容がある、充実した生き方にはつながらない。

12節以下に「夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。13 そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて」と。「やみのわざ」、それを更に言い換えて「宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて」とあります。今申し上げたように、終わりの時をはっきりと自覚して、今という時がどういう時であるかを知って、生きることをしなければ、まさに「宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみ」に満ちた、世の中の姿です。そのような中にあって、私たちに救いを全うしてくださるイエス様の救いがきていることを知らなければならない。だから、この終末は、クリスチャンにとっては本来勝利の時なのです。世が終わるときに、私たちの信仰が具体化する。今、私たちは主の約束を信じて生きています。イエス様が十字架に命を捨てて、私たちの罪のあがないとなってくださいました。私たちを神の子供としてくださいました。しかしこの地上にある限り、肉体を持って生きているから、どこにも神の子らしい姿も形も見えません。しかし、神の子としてくださったと、聖書に神様は約束していますから、その約束を信じて生きている。その約束は、いつまでも約束のままで具体化することがないわけではない。

人との約束でも、約束は必ず具体化します。来週の何日には、秋になったから紅葉でも見に行きましょう。そのためには何時の列車に乗ってどうしましょうと約束をする。そうするとそれに向かって、自分のスケジュールを調整する。旅行に行くから、あの人との約束は断っておこう。このことは先に延ばそうと、そのように準備をしている間は、約束は約束であって、まだ実現はしていない。実現はしていないが、それに向かって備えをしていきます。これが目を覚まして生きることでしょう。約束しているが、実現するかどうか分からない。その日になってみなければ分からないからと、何にも準備もしないで、当日の朝になって「今日は、あなたといくのだけれども大丈夫? 」「え!あれは本当の話だったの?」と、そのようになったら大変です。旅行ぐらいはキャンセルしてもいいけれども、人生、あるいはこの世の終わりの時に、そんなこと知らなかった、いや、聴いてはいたが、まさか、そうなるとは、あれ本当だったの? と。私たちも信仰によって今は神の子とされています。そうだったら、神の子として具体化される時はいつか? それは世が終わる時です。すべてのものが、その眠りから呼び覚まされて神様の前に立つ時がくる。そして、神の子として、主が約束してくださったように、「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう」(ヨハネによる福音書14:2、3)。イエス様は迎えに来ると言われました。そして「わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」と。私たちを共におらせるためと約束されています。イエス様と永遠に続く住まいへ、永遠の家に、引き入れてくださる時はいつであるか? それは世が終わる時です。ですから、「主イエスよ、きたりませ」(黙示録22:20)、これは私たちの祈りと願いです。早くすべての世が終わって、約束された信仰が具体化される時を、私たちは待ち望みます。

ヨハネの黙示録22章18節から20節までを朗読。

この20節に「しかり、わたしはすぐに来る」。主が再び来てくださるとき、それはいつであるか分からないけれども、しかし、そう長くはない。それどころか主は「わたしはすぐに来る」と言われる。それに対して、私たちは「おお主よ、もうしばらく待ってください。遅くしてください」と言うのでしょうか。そうではない、私たちにとって、この地上が終わって、すべての世が消え去って新天新地、新しいエルサレムが創り出され、そこへ入れていただけるならば、これにこした大きな幸いはない。そこまでイエス様の救いを確信しているでしょうか。イエス様が「わたしはすぐに来る」と言われて、「え!もうそんなに早くいらっしゃるのですか。もうちょっとお待ちください。私はまだ用意ができておりません」。あれもしたい、これもしたい。これも楽しみたい、ああしたい、こうしたいとそんなことばかりやっていて、眠りこけていて、アッと気がついてみたら、イエス様がそばに来ている。そうなってはならないと警告されている。終わりの時を知っているのだから、「わたしは速やかに来る」、「そうです。主よ。速やかに来たりたまえ」。これがクリスチャンの祈りです。そのような思いで生きているでしょうか。明日この地上の一切のものが消え去るとき、終わりのラッパと共に天から主が再びこの地上に来てくださるときに「待っていました!イエス様、来てくださったのですね」と飛び出して行けるのか、あるいは「これは困った、急がなければ・・・」と、どちらに私たちは今立っているのか。

この年も、いよいよ終わろうとしています。カレンダーで12月31日があることを常に見ていながらも、「あら、もう12月なの? これはえらいことや。私は何もしないうちに過ぎてしまった。夢のようだったね」と、そのような状態で、ましてや世の終わりの時をどれだけ自覚しているか、と問われます。誠に心もとない状態です。どうぞ、「今は恵みのとき」、幸い、今日、このみ言葉に出会うことができたのは、大きな恵みです。

ですから、ローマ人への手紙13章12節に「夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。13 そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか」。これは、今という時をどのように生きるべきか。自分の欲望や、自分の感情や、自分の好き嫌いに任せて、今という時をわがままな自己本位に生きるのではなくて、イエス様の救いの約束、信仰に立ち返って、日々にイエス様の姿、形に似る者とされるように、生活の一コマ一コマ、一つ一つの業の中に、絶えずキリストと共に生きることを努めていく。これが私たちに求められていることです。

マタイによる福音書24章32節から39節までを朗読。

ここにいちじくの木の例えをイエス様が語っています。冬枯れになって、今は木々が葉を落とします。全く冬の景色にですが、やがて春先になりますと、木々が芽吹いてきます。吹く風はまだ冷たくても、春が近いな、と一つの予兆と言いますか、印(しるし)を見て、これから起こってくる事を期待し、喜びます。そのように、この時代の印を見ること、今の時代がどういう時代であるか、イエス様はそのことを語っている。そして、終わりのとき、36節に「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」。父なる神様が、その終わりのときを定めているから、私たちはうろたえ騒ぎまわることはいらない。時にそのようなことを言う人がいます。もう後何日で世の終わりのときがくる。そう言って人の不安をあおる人たちもいますが、そういうのは信じてはならない。確かに終わるときがきますが、それは、決して不幸な出来事としてではなくて、私たちの信仰が具体化して、神の子としての内実が具体化するときです。

そのことをイエス様は、ノアを例に挙げて語っています。ノアという人はまことに神様を畏(おそ)れる義人でした。しかし彼の時代は大変暴虐(ぼうぎゃく)に満ち、悪に満ちた時代であったと記されています。神様は人を造られたことを悔やまれたと、言われています。そして、それまで人間は長い年月生きる者であったのを、神様は人の生きる年齢は百二十年と定められました。だから今でもいくら人間が長生きしても百二十年で終わりなのです。もっとも、私たちは罪の結果、それまでに死ぬようになっています。しかし、寿命が短くなったとしても、イエス様の救いにあずかるとき、今度は喜びに変わります。地上の苦しみを長く味あわなくて済むのですから、こんな幸いなことはありません。

私どもの周囲のいろいろな方々の中には、長生きして苦しんでいる。家内の父もそうです。もう九十一歳を迎えようとしている。毎日、青息吐息です。それで死にたい、死にたいという。それを聴くだけでも胸が痛くなります。自分は死にたいと言いながら、生きなければならない。これほど苦しいことはないでしょう。それだったら、もうちょっと早めに何かほかの病気で死んだ方がいいかなと、ついそのようなことを考えます。長生きして、イエス様の救いにあずかって、罪を赦され生かされている喜びと、感謝を持って生きるのだったら、どんなに幸いか分からない。たとえ寝たきりであろうと、あるいは記憶を失うような事態になっても、神様の救いに入れられている生涯は幸いです。しかし、そうでない人生だったら、これはもう早く消えたほうが余程楽になります。私たちはそのような悪の時代の中に生きている。

ノアの時代の人々は、神様を畏れず自分勝手なわがままな生活、38節に「すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた」。自分たちの生活を楽しんで、遊んで暮らして、神様を畏れないで生きていました。ところが、神様はノアに箱舟を造ることをお命じになった。そのとき「ノアはすべて神の命じられたようにした」とあります。時代に流されず、多くの人々が自分の楽しみを求めている中で、黙々とノアは神様に従う道を歩み続けた。「箱舟を造る」というのは、自分自身の救いを獲得していく。じっとしていたのではない。そのために努力したのです。今、私たちは入るべき箱舟がある。それはイエス・キリストの十字架です。イエス様の十字架が私たちの罪のあがないとなっている。そして主は死んでよみがえって、私たちと共にいてくださる。やがて終わりの時、その十字架のいさおしによって、滅びを免れて永遠の御国へと移していただける。そうなるために、今というとき、箱舟をしっかりと造る。言い換えますと、イエス様の十字架のあがないを、ただ題目として、頭に知っていることとしてではなくて、事実、自分のものとして、私たちの心の内によみがえり給うたキリストを着るものとなっていくこと。言うならば、ノアが箱舟を造るのに何年掛かったか分かりませんが、山から木を切り出して、製材して、そして自分の仕事も放ったらかして、家族も養わないで、ひたすらにあの箱舟を造った。周囲の人たちには気違いだとか何とか、あいつはおかしいとかいろいろなことを言われたでしょう。しかし彼はものともしないで、ひたすらに神様の約束を信じて、箱舟を造り続ける。今、私たちがしなければならないのは、その箱舟を造ることです。確かにイエス様が二千年前にあのゴルゴダの丘で十字架におかかりになられて、私たちの罪のあがないとなってくださった。次に、私はどのようにその十字架についていくだろうか。よみがえってくださった主と共に生きているだろうか。言うならば、箱舟を完成させる使命が与えられている。今、生きる目的は何かと言うと、イエス様の救いを自分のものとして、どこをたたいてもキリストのものです、と言える者になること。

ローマ人への手紙13章13節に「そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか」。世のことに心を奪われ、思いを支配され、世に流されて生きるのではなくて、はっきりといつもイエス・キリストを、よみがえってくださった主を、前に置き、右に置いて、主に結びついていくために絶えず努力する。これが私たちに今与えられている恵みの時です。14節に「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」。イエス様を着かけて、片手は入っているけれども、まだ片方が入ってないと、足まではいたけれど、まだ上着まで着てなかったら、外に出られません。早くしっかりとイエス様を着る者となって、イエス様に私たちを全部明け渡して、主の御思いに一つとなることを努めていく。それは毎日の生活の選択と決断、日々歩む中で主はどう願っていらっしゃるか、御霊は何とおっしゃっているか、キリストの霊に明け渡していくこと。私たちは、ある部分はイエス様に、これはイエス様にしかできない、けれどもこれだけはと、イエス様と言いながら、どこかでまだここは私がと、握っているところがある。この部屋はイエス様に見せよう。この部屋は私だけに、ここは主人と私、ここは私と子供たち、とそのようなまだらな状態では駄目です。右手はイエス様に従っているけれども、左手は私がやっている。そのような状態が、眠っている状態です。眠りから覚めて、どんなところでも、主を主としてイエス様のお言葉に従い、つつましく主を求めて生きる者でありたい。熱心になって、主を求めて、主の御思いに、私たちの心も手も口も聞くことも何もかも一切が主のものとなりきっていく。 

それが14節の「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」という事です。イエス様を自分のものとして、主を主として、全身全霊一切をイエス様のものになりきって欲しい。その思いが「イエス・キリストを着なさい」という言葉です。調子よくイエス様に倣(なら)いなさいとか、イエス様の求めるところに従いなさいという、そんな生ちょろいことではない。「キリストを着なさい!」。どうでしょうか。私どもは本当にそれだけ真剣になって、イエス様を求めて、自分の生活を、ここにも主がいらっしゃった、このことにも主がいらっしゃった、このことにも私は主に従った、と言えることばかりなりたいと思います。ここは従ったけれども、ここはちょっと私がした。ここは家内が言うから仕方がない、こちらにしとこうと、そのような生き方では、やがての時に主の前に立つことができない。

14節に「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」。「肉の欲」、人の世のさまざまな事柄があります。人がどうした、こうした。あるいは自分がどうしたい、こうしたいとか、いろいろなことがあります。そのようなことを離れて、ただキリストのみ、主を追い求めていく日々でありたい。そうでなければ終わりの時立ち得ない。やがて終わりの時がくる、その時をしっかりと自覚して、今、与えられているこの恵みのときを、全力を尽くして主を追い求め、主のものとなりきっていく。あのノアが箱舟に入ったように、私たちも箱舟に入ることができるように。入りきってしまうとき、箱舟の扉が閉ざされる。外から神様が閉ざしてくださる。やがて一瞬にして大水があふれ、天が開け、地の水源が開けて、大洪水の中に多くの人々がアッという間に死んでいく。その中で箱舟に入った者だけが、救いにあずかり、40日40夜雨が降った後、しばらくして新しい天と地が、神様の約束のごとく現れてくる。

今日「なお、あなたがたは時を知っているのだから」、このことを励まなければならない。何を第一にすべきか。残された地上の命を何に尽くすべきか、絶えず自覚して生きる者でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。