いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(122)「闇の中に光を」

2014年01月30日 | 聖書からのメッセージ
 イザヤ書9章1節から7節までを朗読。

 2節に「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」。
 今日からアドベント(待降節)に入ります。この季節になると、夕暮れも早くなり、だんだんと夜の時間が長くなってきます。同時に、街の中にはクリスマスのイルミネーションが輝き始める。教会でもクリスマスツリーを飾ったり、外に電飾を飾ったり、夜になるとにぎやかな彩を添えて、心うきうき楽しい時になってきます。

 この2節に「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た」とあります。確かに暗い中にいますと、不安になります。そこは決して居心地のよい所ではありません。昔は停電があって、訳もなく突然電気が消えてしまって、真っ暗闇ということがありました。ことに台風のときはそうでしたが、一瞬にして闇の中に閉ざされると不安を感じます。しばらくして停電が復旧し、明かりがつくと、「やったー」と子供のころは拍手などしました。そのように明るいことは安心です。

 先日もいろいろな話から、最近は全てのものが便利になり、また豊かになって、昔のように夢を描けなくなった、という話から、若い人に尋ねました。「あなたにとって、夢というのは何なの? 」そうしますと「さぁ、夢と……。あまりない」との返事です。日本の社会は戦前、戦中、戦後、この百年近い一世紀、あるいはそこまでいかなくても、戦後六十年を過ぎる年月を考えてみても、これほど世の中が変化した時代は、恐らく人類の歴史の中でほかになかったと思います。

思いだしますが、私は子供のころお正月に新年の新聞がくる。そのころはそれが唯一の娯楽、楽しみです。テレビはありませんし、せいぜいラジオです。ラジオで紅白歌合戦を聞きながら、その状況を巧みに想像する。ラジオで聞く紅白歌合戦は野球の実況放送のようでした。「今誰々さんが右手から出てきました」「手を振っています」とか、解説付で聞いていました。そのうちテレビが登場しました。そのような時代の流れを先取りする形で、新年の新聞には「夢を語る」という、それぞれ五部くらいに分かれて、いろいろな特別企画がある。スポーツであるとか芸能であるとか、その中に『将来の夢を語る』と題して、「鹿児島本線、電化計画立てられる」との記事がありました。よく読むといつか分からないが、将来電化されるらしい。それを聞いただけでうれしくなる。蒸気機関車で博多に行くまで、目にばい煙が入って痛かったことを思い出します。電気機関車が、戦後初めて東海道線に通った時、うらやましくて仕方がない。それが九州にもくるらしい。博多と北九州の間が初めて電化されるという時、夢が広がった。そのうちテレビが出ましたね。テレビだって、初めのころは四角で、白黒で、小さなテレビ、みなして街頭に出かけて電気屋さんの店先に飾っているものを見て、びっくりしました。こんなことってあるだろうか。今遠くでしていることが、目の前に、目で見ることができる。ラジオで耳で聞くことはできていましたが、目で見ることができる。これはすごいな!

 そのころの新聞に出ている、何十年後か分からないけれども、将来の家はどのようになっているのか? 電化された家庭という、そのころはまだ薪でご飯を炊き、七輪でおなべを温めて、井戸水をくんでという生活でしたから、電化なんて夢のまた夢です。電化されるとテレビが各家庭に一台ならず二台、三台になる。そして大きな箱型のテレビが、薄っぺらな平面になり、壁に映されて見るようになる。そのような夢を語る記事を読んで、私は「あるかいな、こんなことが」と、いくら考えても無理だろうと思いました。そうしますと、今はどうですか。平面テレビもいいところ、大きな画面で壁に掛けて見ています。私どもは幸いだったと思います。あるはずがない、出来るはずがない、と思ったことが、実現して驚きを体験することができました。

また、月に人が行くということを、子供のとき考えたことがありますか。月にはウサギがいるだけだと、そんな人が行けるはずがない。いくら考えてもそれは無理だろうと。少年雑誌に『宇宙何とか』という空想漫画があり、宇宙服などを着て、イカか何かの変形のような火星人に会いに行く。そんなものを見て笑っていた。ところがどうでしょう。月にも人が行くようになり、宇宙ステーションという、宇宙に大きな大きな建造物を造っている。国際的に協力してやっていますから、日本も参加しています。何年か後にはそこに何十人かの人が生活できるようになる。このように考えますと、あらゆるものが良くなってくるでしょう。

そのように物事が明るくなり、希望に満ちてくる時代だったのです。ところが、最近若い人に「火星に人が行くと思う? 」と尋ねたら、「それは何とかしたら行くんじゃない」と言う。夢がないのです。思いきり不可能なことを考えて尋ねてみても、若い人は「そんなのは、何とかしたらできると思うよ。十年か十五年頑張ったらできるのではないか」と、可能性の方が大きい。そうなると夢がない。夢は不可能なことを考えて、夢みるわけです。頑張ればできる。今だってしようと思えばできるけれども、ただ経費がかかるとか何とか……。そのような話になると、若い人の方がさめている。夢がないのです。新しいものに向かって夢を描いていた時代は、まだ望みがありました。世の中が明るい話題に沸いたのです。

ところが、今は、そういう意味でも希望がない、望みがない。いうならば暗い、暗い世の中です。生活の中で聞くニュースは、どれをとっても、夢を与えてくれるものがなくなった。だから、最近の新聞は新年の初夢を語らなくなりました。一方、このようなことが心配だ。あのようになるかもしれない。もう世紀末だとか、環境が破壊されていく。資源も枯渇(こかつ)してくるなどと、夢のない話ばかり。闇に覆われた時代です。しかし、周囲の状況がどうであれ、消えることのない光、まことの光がないのが問題です。

この1節に、「しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる」とあります。紀元前七百年代ですが、アッスリヤの王様がナフタリの地、あるいはゼブルンの地、いわゆるイスラエルを攻めてきたときがありました。それによってイスラエルを滅亡させるためではなくて、そこからもう一度希望を与えようと、神様がなさった事です。列王紀下の15章にそのことが記されています。その不幸といいますか、災難に対して、神様はイザヤを通して預言をしてくださった。それがこの2節「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た」と。不可能と思える、絶望と思える中に、闇の中にある人々に、神様が新しい業をして光を与えてくださる。救いを与えてくださるというのです。また次に「暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」と。神様がその闇を追い払う力を持っていらっしゃる。

私たちは夢がない、暗い闇のような日々を送っています。だんだんと税金も高くなる。保険料も高くなる。それに引き換え、年金は先行きどうなるか分からない。いつまで続くか分からない財政状態で、日本の国家財政は何百兆円という借金を抱えている。もう破綻(はたん)しそうになっている。北海道の夕張市は市自体が破綻してしまった。そんな事、今まで想像もつかなかったことが起こっています。長生きしたら返って悲惨な目に遭いそうだから、早く死にたいけれども、死ぬに死ねない。医学が進んで死んでも生かしてくれるような時代ですから、どこにも夢がない。望みがない、安心がない。

神様は、イザヤを通してイスラエルの民に本当の救いを約束してくださった。それはアッスリヤに攻められて滅んだ町を、もう一度新しく興(おこ)してくださるばかりでなく、イスラエルの民が本当の望み、平安、喜び、光を受けることができるようになると約束をしてくださいました。その証しとして、6節に「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる」。ここに「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた」と。これが後に実現したイエス様の誕生の預言です。神様は全てのものを救う、光となる、まことの光をこの世に送ってくださる。暗闇に住んでいる者、闇の中に生きている者に本当に光となるものを与えてくださる。今申し上げたように、今私たちの住んでいる社会は、夢がありません。また希望がありません。現実に次から次へと心を暗くする、思いを沈めてしまう出来事が次々と起こります。
一年を振り返ってみても、殺人の記事がなかった日があっただろうかと。あちらで遺体発見、こちらで、ついこの間も日明港で遺体が浮いていた。あるいは部屋の中に何人かの遺体が放置されていた。いつわが身になるか分かりませんが、そのような闇の中に、希望のない中に生きています。しかし、ではそこで光を得るにはどうするか。今叫ばれている社会改革、政府が計画している教育基本法を改
正したり、愛国心を育て、美しい国、日本を作ろうなど、どんな施策、政策、生活を変えることをやってみても、そこからは本当の望みとなり、喜びとなる命はない。確かに生活が良くなる、楽になることは幸いかもしれません。しかし、今申し上げましたように、豊かになって、全てのものが便利になりました。一方で、若い人たちは夢を失い、その表情は暗くなった。ただ刹那的な今の楽しみだけを求めるようになった。物が乏しくて、夢を描きながら生きた時代のほうがはるかに幸いであった。だからといって、物のない世界になったら、耐えられなくなり、みんなして滅んでしまっておしまいです。だから、生活を豊かにし、見える状態や境遇を整えてさえいけば人は幸せになる、明るくなるかと言いますと、それはならない。私たちの闇はどこにあるか。実は私たちの心なのです。私たちの心自身が暗い。「根暗」という言葉があります。根が暗いのは、性格の問題でもありましょう。しかし、どんなに根明かな人でも、決して心が晴れ晴れとして喜びに輝いているわけではない。私たちの心にある闇、それは何かを良く考えて……。自分の中にある闇は何なのか。私にとってはあの悩みが消えれば、この悩みが解消したら、あの問題が取り除かれたら、明るくなるに違いない。私の闇はそれで消える、と思います。しかし、今申し上げましたように、事情や境遇、事柄を改善することで光を得ようとしますが、そこには光がない。

自分でこれが問題だ、これが悩みだ、これさえなければと思っている事柄を、もうひとつ深く踏み込んで考えていただきたい。自分の思いをよく探っていただく。その一番奥底に罪があるのです。私たちの心は罪の闇です。その罪は、神様を離れて、神様を認めようとせず、自分が神様になっていることです。「おのれを義とする」と聖書には記されています。自分を正しいとする、そこから全ての闇が生まれてくる。自分が正しいということは、願っている通り、計画している通りでありたい。だから、自分が悩んでいる事は、よくよく考えてみると、人のために悩んでいるようであって、実は自分の悩み、自分が考えてこれが一番良いのにどうして人が分かってくれない、私はこの道が正しいと思うのに、どうしてそれがうまくいかないのだろうか、私がこうなりたいと思っているのに、どうして実現しないのだ。だから、「困った。困った」と悩む。自分のすることが何でも正しくて、自分の考えていることが何でも一番良くてという、それが罪なのです。

神様がいて、全てのことを導いてくださっていると信じられない。神様が今備えてくださっている。たとえ自分の願わないことであろうと、自分の嫌なことであろうと、自分にとって苦しいことであろうと、つらいことであろうと、自分の思いと違うことが起こっても、それは神様が備えていることと信じる。しかし、それを信じられないゆえ、不安になる。腹が立つ、つぶやく、そして人を攻撃したり、人を悪く言ったり、私たちの罪の結果がそこにあるのです。一番の闇はそこなのです。「私が正しい」と、決してそのように自覚しているのではない。しかし、私は間違っているかもしれないけれども、どう考えてもこの道のほうがいい。こうなってほしいのだ、この子供たちはこうあってほしい、家族はこうあってほしい、それなのにこうだから、ああだからとつぶやく。現実を受け入れられない。あるいは自分が受けている事を、どうしても嫌だと拒み続けているから、私たちの心に闇が絶えずあり、喜びがない。その原因は、神様がいらっしゃることを信じようとしない。それは自分が王様になろうとするからです。自分の人生であり、自分の時間であり、自分のお金であり、自分の仕事であり、自分の家族である。私が、私がと、いつもそこに心が捕われる。では自分を捨ててと、いいますが、どんなに頑張ってみても、自分で自分を変えることができません。その結果、生活のいろいろなことを喜べない、感謝できない。いつも不安と恐れと心配がある。私たちの心の闇は、まさにそこです。

その闇を、その罪を、消し去っていただくただ一つの道が、イエス様の救いです。神様は御子をこの世に遣わしてくださいました。それは暗闇の中に住んでいる者、暗黒の地に住んで闇の中を歩いている私たちのその闇を取り除くために、罪の闇を取り去るために、イエス様は人の世に来てくださった。だから、クリスマスを、イエス様の御降誕を、私たちが喜び迎えるのは、その闇を取り除くために、イエス様は十字架にかかられたからです。そして、御自分の命を捨てて、「父よ、彼らを赦し給へ」と、私たちの罪のあがないとなったのです。私たちが死ぬべきところを、イエス様が身代わりとなって死んでくださった。自分の闇とはどんなものか、自分にとって罪とは何か、そのことをよく振り返ってみたいと思います。人に何か悪いことをしたとか、あの人にこんなひどいことをしたとか、言ったとか、もちろんそれも罪の結果ではありますが、一番の根本は、神様が私たちの中心にいない。自分がいつも事柄の中心に立っている。いろいろな問題が起こりますと、私がどうするか、私が何なのか。常に「自分が、自分が」と言って、「神様が」と言えない。そのためにイエス様は十字架にかかって、罪を赦して、私たちがキリストとともに死んで、キリストと共に新しい命に生きる者と変えてくださる。イエス様が十字架に死んで、よみがえって、私の罪を赦してくださった。この赦されることを体験する。ここに光があります。

私も若いとき、非常にそのことで苦しみました。自分のことばかりがいつも心にありました。自分が正しいと、人を許せない。人を裁く。心ひそかに自分の内で、あんなことをして、あの人は駄目だ、こんなことをして、この人も駄目だ。あんなことがあるから、あいつも駄目。では誰がいいのか? 俺は立派だ。俺はいい人間だ。いつもそのような思いで見ているから、一時(ひととき)も心が休まらない。皆さんも経験があると思いますが、見るもの、聞くもの、全てがしゃくの種。あいつはいかん、こいつもいかん。誰が正しいと言って、自分以外にあるものかと、いつも思っているから、何か自分がしようとしたことが妨げられると、何でこんなことになった、どうしてこんなことに、どうして私がこんな目に遭わなければいけないと苛立ち、憤る。だから、何か事に当たったとき、「どうしてこうなったの? 何でこうなったの? どうして私だけが? 」と、問いかけているときは、気がつかないうちに、自分が神様に成り代わっている。「許せん!」と。「このようなことがどうして起こるの? 許せん!」という思いがある間、心は闇です。イエス様はそのような私のために、あの十字架に釘づけられたのです。イエス様の十字架の苦しみ、むごたらしさは、取りも直さず、私たちの罪の大きさ、罪の残酷さを証ししています。だから、十字架を見るとき、本当に私は死ぬべき者だった。神様を抜きにして、自己中心で、わがままで、自分の思いばかりで、「どうして!」「どうして!」「何でこんなこと!」と、まるでハリネズミのごとく怒りの塊になっていた。そのような私たちを、今日も主が許してくださっている。
私は、イエス様の「父よ、彼らを赦し給へ」との言葉、ルカによる福音書の十字架の御言葉をよく知っています。「父よ、彼らを赦し給へ、その爲(な)す所を知らざればなり」と。私が読んだとき、自分が許す立場になって読む。「父よ、彼らを……」「そうだ、私にあのようなひどいことを言う、神様、あの方を許してやってください。父よ、彼らを赦し給へ、彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と、あの人もあんなひどいことをしている。「父よ、彼らを赦し給へ」と。自分が許す側に立っている。そのとき、自分の心に平安がない。また喜びもありません。許してやっているのだと、自分が神様になっている。ところが、あるとき、詳しいことはお話しませんが、自分が大変苦しかったのです。一時も心休まる暇がなく、あいつがいけない、こいつがいけないと、かみしもを着て突っ張って、ハリネズミのようにあちらこちらをつついていた時代。学生のころでしたが、下宿に戻って、独りになるとホッとする。人が見ていないし、人がいないから。常に人を意識し、人を見ていました。自分はまじめだと、神様を信じていると思っているから、聖書はきちっと読む。ただ読み方が違う。今申し上げたように「父よ、彼らを赦し給へ」。そうだ「父よ、彼らを赦し給へ」だ。あいつらを許さないかん、許さないかんと。で、お前はどうかと、「私は赦されなければならんような罪はない」、許すほうだと思っていた。くたびれきって、ルカによる福音書を読んでいたとき、たまたまそこが開かれた。「父よ、彼らを赦し給へ。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。今までは、自分が許す側だと思っていた。それは一瞬のことでしたが、そうではないのだ。ここでイエス様が「彼らを」と言っている、「彼ら」とは誰のことでもない「私なのだ!」。そのとき、今まで「自分が」と、突っ張っていた全ての突っ張りが消えた。そのとき肩の荷が軽くなりました。そうだった。私こそが今赦されなければならない。イエス様が十字架におかかりになったのは、誰のためでもない、私のために!それを悟ったとき、人のことをあれこれ言えなくなった。パウロがそう言っているように「わたしは、その罪人のかしらなのである」(Ⅰテモテ1:15)。自分こそが一番の罪の塊であって、神様からのろわれて、永遠に滅びるべき自分が、イエス様がこの祈りをもって、御自分の血を携えて、赦してくださっている。赦されているから、今日も災いに遭うこともなく、このように偉そうな顔をして生きている。そのことを思ったとき、うれしくて、うれしくてたまらなかった。その事を今でも新鮮に思い起こすことができます。

これが2節にあります「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た」ことです。イエス様が、今日も私たちの光となって闇を取り払ってくださる。イエス様の光は、私たちの罪の闇を消し去ってくださる。これは確かです。私たちは、何を光として生きるのか。イエス様が私たちの所に光となって来てくださった。その光は、私のどのような闇を消し去ろうとして来てくださったのか。だから、そのイエス様が、私を赦して神様の御愛の中に取り込んでくださっていらっしゃる。神様が主であって、私が生きているのではない。私は赦されて、ただ主が憐れんで生かしてくださっているだけです。そうなりますと、今までしゃくの種だった、嫌な事柄だったどれもこれも、神様が「よし」とおっしゃるならば、神様が備えてくださるのでしたら、私が文句を言う筋合いのものではない。いや、それどころか、文句を言えた柄でもない。ここを私たちが徹底して、本当に赦されて生かされている私であって、そこにイエス様が、私たちを造り変えて光となってくださいました。だから、どうぞ、皆さん、今皆さんが持っているいろいろな悩み、このような病気がなければとか、このような何とかがなければと思っている、その一つ一つの中に自分がどういう思いでそれを受けているか、その事柄の中に自分がどのように立っているのか、本当にそこで神様が、主となり、イエス様が私の救い主となってくださっているのか。イエス様が救ってくださる。それは私たちの罪を消し去って、闇を消し去って、光を与えてくださる。イエス様の光に私たちが照らされて生きる者となる。これが私たちの救いです。

2節に「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」。神様は私たちをこの光の中に取り込んでくださる。輝いて生きることができる。喜んで生きることができ、感謝と命にあふれる生涯へと導きいれてくださるのです。私たちの一番の闇は、罪です。そしてその罪とは、実に身近にあります。それはいろいろな事柄を、自分本位に考える。「自分が、自分が」と。会社でもどこでも問題がある所、何が問題かと言うなら、「自分が」がいつもあるからです。こんな私がイエス様の命によってあがなわれ、赦され、そして今日も神様が私を顧(かえり)みてくださっている。その一つ一つを喜び感謝することができたら、どんなに幸いか分からない。つい、世間の人のように、あの人のように、あの子がこうだから、もう少しああなってくれたら、こうなってくれたらと不足を嘆く。そこには神様を畏(おそ)れる思いがありません。2節にあるように、今もイエス様は変わることのない光をもって、私たちを照らしてくださいます。罪の闇を取り除いて、喜びと感謝と望みにあふれた者に変えてくださる。これは確かです。どうぞ、与えられている命がどこにあるかを、はっきりとつかんで、知って、信じて、いつも光のうちを歩んでいこうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。