いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(114)「アブラハムの信仰」

2014年01月13日 | 聖書からのメッセージ
創世記17章1節から8節までを朗読。

1節「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」。

これは、アブラム(のちにアブラハムと改名)に対して神様が自己紹介をなさった言葉です。神様はご自分がどのような方であるかを隠しています。聖書の何箇所かに、神様は親しくご自分を明らかにしているところがあります。アブラムは神様を知らなかったのではありません。カルデヤのウルから出て、ハランという所にお父さんと共に移ってきました。やがてお父さんは亡くなって、ハランの地にとどまっていたとき、神様は、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」、そうすれば「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」とアブラムに声を掛け約束をしてくれました。その言葉を信じて、アブラムは「主が言われたようにいで立った」と記されています。「自分の行き先も知らないで」と、「へブル人への手紙」にありますが、何も知らないで、ただ「わたしが示す地」と言われる所へ出かけた。

旅行するとき、知らない土地に行くのは大変不安です。どのような生活が待ち受けているのか、気候や食べるものなど、あれこれと心配になります。だから、旅行をするとき、旅行案内の本を読んで、あらかじめよく知った上で出かけます。調べて、このような所は自分に向かないと思えば、その旅行を選ばないでしょう。あるいは、行ったことのある人に聞いて、これはいい所だ、一度行ってみようと出かけるかもしれません。そのように自分で判断します。ところが、アブラムの場合は、そのような判断は神様に任せて、主が「行け」と言われるから「はい」と従って行ったのです。これはなかなか勇気がいることです。そのときアブラムは七十五歳です。聖書の年齢は、七十五歳が若いのか年取っているのか分かりません。しかし、「ローマ人への手紙」には「彼が年を取った」と語られていますから、恐らく七十五歳は、極端に年寄りとは言えないが、高齢者であろうと思います。その年齢になって、新しい所へ、自分の住みなれた家、親しい家族、親族に別れて出て行く。何が彼をそうさせたのか。それはただ一つだけです。神様を信じる、この一点にかかっている。神様の約束の言葉を信じたのです。

人を信じるとき、その人の言葉を信頼します。「あなたにこういうことをするからね」と約束の言葉を受けますが、果たしてその言葉が実行されるかどうか、相手を見ます。相手を見ないで、ただ言葉だけ信じる人はいません。「いい話やね。で、これは誰が言ったの」となります。「あの人が言った」、「あの人なら駄目よ」と。どんなにいい約束でも、誰の話であるか、その人が本当に実行できる人なのかどうか、真実な人なのかどうかを問います。言葉を信じるとは、その言葉を語った人、約束をした当事者がどのような人であるかを知らなければ、信頼できません。語っている人が詐欺師かもしれない。あるいは、悪いほうに引っ張り込もうとする人かもしれない。だから、うかつに「いい話だから」と飛びついては駄目です。誰が言ったのか、それはどのような人なのか知らなければなりません。

アブラムは、神様からそう言われたとき、神様を信じたのです。いい話だからと話だけを信じて動いたのではなく、話をしてくれた神様を信じたのです。そして言われたとおりにカナンの地へやってきました。しかし、新しい土地に来ての生活はこれまでと一向に変わらない。時折、神様はアブラムにご自身を現してくださって、「わたしがあなたと共にいるではないか。大丈夫。わたしはあなたとの約束を守るから」と言ってはくれますが、目に見える状態は変わらない。いや、それどころか、むしろいろいろな困難に遇う。土地の争いもある、また戦争もある。いろいろな中で、彼はここへ来てよかったのかどうか、不安と心配がわいてくる。でも神様はうんともすんとも言わない。

創世記15章1、2節を朗読。

「これらの事の後」とありますが、それはこのカナンの地でソドム・ゴモラなどの土地の人たちとの戦争がありました。アブラムは神様の祝福のうちに勝利を得たのですが、思いがけない困難、悩みに遇い、アブラムにとって良い結果になったから良かったとは言えますが、いったい神様は何を考えているのかと不信が生じる。こんな所に連れてきて、「あなたは多くの国民の父となるであろう」と言われるが、全然希望が持てない。自分は年を取る。七十五歳から若返るわけがない。その時、神様がアブラムに臨んだのです。これが15章です。1節に「アブラムよ、恐れてはならない」と。実は、アブラムは恐れていた。神様はそれを知っていました。アブラムは、大丈夫だろうか、また戦争があるのではないだろうか。といって、自分には子供がいないし、自分が死んだら神様の約束など、空手形で消えてしまう。いったいどうなるのだと、彼には恐れがあり、不安があった。それを神様は知って「アブラムよ、恐れてはならない」と。アブラムが恐れて、神様を疑っていた。

その後に「わたしはあなたの盾である」と。盾は敵の攻撃から自分を守るものです。だから、「あなたを守っているのは、わたしだよ」と。そして更に「あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。何か絵に描いた夢物語のようなことばかり、神様はおっしゃる。「あなたの盾である」。盾だからといって、何をしてくださるのか? 何もない。「わたしを信じなさい」、「あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」と神様は言われる。考えてみたら、戦争があったり、飢饉(ききん)になったり、あちらに、こちらに逃げて、食べるものにも困るような中に置かれ、「何が報いだ」と思う。この頃、アブラムは、神様に腹を立てて、怒っていた。だから、2節に「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」と抗弁しています。神様は口ばかり、良いことばかりを言って、うまい具合に操っていると、アブラムは思った。だから、「神様!そんなことを言うけれども、私には子供なんかいないではないですか!」と。そして「わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼル」ではないか。法定相続人、子供がない人は、誰がすべての遺産を継ぐのか、以前から決まっている。ですから、ダマスコにアブラムの親族で身近な者がいて、それがやがてアブラムのすべての遺産を継ぐことに定まっていた。だから、そのような人にやるために、何をくれるというのだろう。私がもらっても結局そちらへいくばかりではないか。それなら、もういらない、という気持ちです。

3節に「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう」。子供がいないのにいくら祝福があっても、そんなものは何になりますか。私のもらったものは全部ほかにいってしまう。私の所を素通りするだけなら、もういりませんと、彼は考えた。そのような言い方です。そのとき4節に「この時、主の言葉が彼に臨んだ、『この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです』」。身内でない者、使用人であるとか、法定の遠縁にあたるとか、そのようなものがあなたの祝福を受け継ぐのではない。「あなたの身から出る者」、あなたの直接の子供、子孫が後継ぎとなる。そんなことを言われても、自分の状態はますます年老いてくる。どこに望みがあるのか。確かにそうですね。見える状態、目の前に見ている事、そこからは何も希望がない、望めない状況の中に私たちは置かれます。ところが、このとき神様は、5節に「そして主は彼を外に連れ出して言われた、『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい』。また彼に言われた、『あなたの子孫はあのようになるでしょう』」と言われた。神様はあまりにもぐずぐず言うから、アブラムに「さぁ、あなたは天幕から外に出なさい。そして満天の星空を仰いで……」と。都会では、夜空を見ても、ネオンサインとか街路灯の明かりで、空に星は見えません。しかし、夏など山に行ってご覧なさい。照明のない所に行って空を仰ぐと、こんなに星があったのかと思うくらい沢山な星が輝いています。まさに、アブラムが仰いだ空はそのような空だったのです。そのとき神様は「あの星を数えてごらん」。神様は、天地万物の創造者です。神様をどのような方と信じるかと、もう一度アブラムに問われました。

私どもも、ともするとそのようになる。目の前に見える事、人の業、あの人がこうして、この人がこうなって、これが原因でこうなって、だから私はこうで、こんな目に遭って、今は仕方がないと。何か人の計画と人の業と、人の努力や人の熱心ですべてのことが動いているように思う。世の中はそのようなごちゃごちゃしたことで成り立っていると思っている。
まことの神様、天地万物の創造者がいらっしゃると知っているが、それを忘れる。「神様!」と言いながら、自分の思いや考えで計画している。あの人がこうなって、私がこれをしたら、この人がこうなって、次にこれ、だから今のうちこれをしておいて、その次はこうして、その先こうなるだろう。なったときはこうしよう、などと自分が何もかもプランをたて、隅々まで将来にわたってスケジュールを決める。自分は何歳になったら死ぬだろうから、そのときは、あの遺品はあの人にやって、この人にやって、こいつにはやらないでと、そのようなことまで考えています。その中には神様の「か」の字もない。朝起きて夜寝るまでいろいろなことをしますが、すべてのものをご支配くださる神様がいらっしゃることを、どれほど現実として信じているか。

アブラムが最初に神様から声を掛けられて、カナンの地を目指して「はい、行きます」と元気よく出て行った。そのときは確かに神様を信じたのです。ところが、次々と出会う困難な出来事を通りながら、段々と彼の信仰が小さくなった。なえていく。これはアブラムばかりでなく、私たちもそうです。信仰の父アブラハムと言われますが、そのような中を通っている。だから、わたし達がそうなるのは当然かなと思いますが、その後が大切です。アブラムもそのような中を通りながら、ここで神様は「わたしを信じなさい」と勧めたのです。彼は満天の星空、どこまで続くか分からない大宇宙の素晴らしい業を見ながら、これを造られた神様、すべてのものを堅く立て、それをご支配くださり、今も力ある御手で導いてくださる神様がいらっしゃる。これだけのことをなさる神様が、できないはずがない。

6節に「アブラムは主を信じた」とあります。神様の何を信じたのか。 神様が万物の創造者、力ある方であると信じたのです。そして7節に「また主は彼に言われた、『わたしはこの地をあなたに与えて、これを継がせようと、あなたをカルデヤのウルから導き出した主です』」と。もう一度、お前を偶像の地カルデヤのウルから、ハランへ、またハランからカナンへと導いてきたのは、わたしであるよ。自分の計画や努力で、今日、私たちがあるのではない。「しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである」(Ⅰコリント15:10)と、神様が私をこの地上に命を与えて、何十年という地上の生涯を導いてくださった。私は知らないときがあった、神様に気がつかないで過ごした時期もあった。しかし、それでも神様はこうしてここまで導いてくださった。神様の絶対的な力、神様の全面的な恵みと導きの中に生きてきたと認めること。これは片時も忘れてはならない。ところが、私達は忘恩の民ですから、神様の恵みをすぐに忘れる。絶えず警戒しなければならないことです。このとき、神様はもう一度アブラムに「あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ」(イザヤ51:1)と。カルデヤのウルから今に至るまであなたを導いたのは私ではないかと。

創世記15章8節から21節までを朗読。

その後、アブラムはもう一つ念押しをしました。「神様、取りあえずは信じます。神様、あなたは力ある御方ですから安心します。しかし、証拠をください」と言うのです。証詞を立ててくださいと。そのときに神様は、燔祭をささげることを求めました。「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山ばとと、家ばとのひなとをわたしの所に連れてきなさい」と。それをアブラムは二つに裂いて、それぞれを向かい合わせに並べて置いた。時々そこへ猛禽(もうきん)がやってきて、食べようとするから、それを追い払う。そうしているとき、12節に「日の入るころ、アブラムが深い眠りにおそわれた時、大きな恐ろしい暗やみが彼に臨んだ」。闇が覆ってきた。これは具体的にどのような状態であったのか分かりませんが、彼の心の状態と思っていただきたい。深い罪の思いが彼を支配したのです。しかし、その中から神様の言葉が臨む。13節から16節までに記されたことは、やがてアブラムの子孫が受けるであろう事の預言でした。

17節に「やがて日は入り、暗やみになった時、煙の立つかまど、炎の出るたいまつが、裂いたものの間を通り過ぎた」。神様のご計画を啓示されたとき、にわかに「煙の立つかまど、炎の出るたいまつが」、一気にビューンと彼が並べたそのいけにえの中を通って、すべて焼き尽くしてしまった。これは神様の契約です。また、後の十字架のあがないの予表です。今、私たちはこのようなことはしませんが、既にイエス様がご自分の肉体を裂いて、私たちを神様のみ前に直接立つことができる者としてくださいました。動物を裂いて、その間を通る。まさに、イエス様がアブラムのささげた動物の身代わりとなって、十字架に命を捨ててくださいました。アブラムの罪を清めて、神様の深いみ心を明らかにしてくださった。そしてこのとき、それまでのアブラムと違うアブラムに、いわゆる新生、新しく生まれ変わった者へと、神様は変えてくださいました。アブラムの生涯は、救いにあずかる道筋をきちっと明らかにしているのです。私たちもこのような中を通っています。イエス様の救いにあずかったと言いながら、それがまだ自分のものにぴたっとくっ付かない。何か借り着のような居心地の悪さを持ち、取りあえず自分の生活上の必要や問題のゆえに、一生懸命に神様に祈っています。しかし、神様が願っていることは十字架の血によって清められ、私たちが全き者へと変えられること。全き者とは完全無欠ということではなく、神様を100%信頼する者のことです。それがアブラムに求められたことであります。

それで、その後彼は万々歳かというと、そうではなかった。16章には、奥さんのサライの勧めに従ってハガルによって一人の男の子、イシマエルをもうけます。これは大きな失敗であった。せっかく神様の救いにあずかって清められた者となって、新しい生涯に踏み出した途端に失敗する。私たちでもそうですね。恵まれて、主のものになりきったと思ったときに、上手にサタンはいざなってきます。このときもアブラムに対してサライが知恵をつけたのです。「あなたは年を取ったし、私も年を取り、早く子供を得なければ後がない。私の若いつかえめ、ハガルがいるから、その人によって子供を得なさい」と。代理母ではありませんが、そうすれば何とかなると。これを聞いて、アブラムは納得させられる。「ああ、そうか。そうだよな。これも神様の導きかもしれない」と。私どももすぐそう思います。それでついそれに乗ってしまった。ところが、それは彼に大きな禍根を残す結果になりました。家庭の中に大きな問題を引き込んでくる。これはまさにサタンの働きです。

私たちもそのようなことを経験します。また過去にもそのようなことがありました。長年祈ってきた問題について、ある人がちょっとアドバイスをして、「そうか、祈ってきた答えはこれだ」と、「考えたらこれほど合理的なことはない。これにしとこう」と、ポンと乗ってしまう。そしたら、その後が良くない。確かにそこで問題が解決したようですが、問題の根っこはぐっと深くなって、更にその後、のっぴきならない苦しみに会う。アブラムはまさにそうでした。今度は、ハガルとサライとの確執が起こり、その板ばさみになってとても苦しんだ。苦しんだときに、17章1節「アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた」と。「九十九歳」、そのすぐ前に「アブラムは八十六歳であった」と記されています。これはイシマエルが生まれた年のことです。だから、そのときイシマエルも十三歳くらいになって、恐らくアブラムは「神様もこれで善しとするのか」と思ったでしょう。生まれた子供が十三歳にもなったら、その当時としてはほぼ成人に近いでしょう。だから、自分も百歳に近くなったから、正式な後取りとして、この際早く決めておこうと思ったでしょう。ところが、1節に「アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、『わたしは全能の神である』」。全能者、オールマイティであると。「全能」という言葉は、ただに、どんなことでもできる、力のあるという意味でもありますし、それを更にもっと深く言うなら、すべてのものの創造者、すべてのものを力ある手で導いて、すべてのものの根源でいらっしゃる方、全能者です。度々申し上げますように、全能と万能は違います。「万能鍋」とか「万能薬」というように、神様は何でもできて、重宝するという意味ではない。逆に全能とは、その方が私の主であるということ。私の生涯、私の人生、この社会、地球、宇宙、森羅万象、ありとあらゆるものの創造者であることを認める。

イザヤ書40章21節から26節まで朗読。

この40章は神様がどのような方であるかを語っています。21節以下にもそのことが語られています。「あなたがたは知らなかったか。あなたがたは聞かなかったか」。あなた方はいったい何を聞いたのだ。わたしのことをどのようなものと思っているのか。「神様を信頼しています。神様、あなたが主です」と言いながら、自分が主となって、見える事柄や状態ばかりに、心や思いがとらわれて、神様を忘れてしまう。思い出したように「神様」と言いますが、そこには心がない。それでは本当に神様を信じているとは言えない。不信仰の極みです。だから神様は繰り返して「あなたがたは知らなかったか。あなたがたは聞かなかったか」。22節に「主は地球のはるか上に座して、地に住む者をいなごのように見られる」。神様は私たちよりもはるかに大きな存在です。この「はるか上に」と言うのは、具体的な場所を語ったのではありません。ロケットでどこかまで行けば……という、そのような地理的な位置関係を言っているのではなく、神様と私たちとの本質的違いを語っている。私たちは被造物で、イナゴのようなもの。生殺与奪、生きるも死ぬも神様の手の中に握られている。23節以下に「地のつかさたちを、むなしくされる。24 彼らは、かろうじて植えられ、かろうじてまかれ、その幹がかろうじて地に根をおろしたとき、神がその上を吹かれると、彼らは枯れて、わらのように、つむじ風にまき去られる」。ローマ帝国であるとか、大英帝国だとか、あるいはナポレオンであるとか、皇帝や王様や専制君主という絶大、巨大な力を、権力を持ち、一世を風靡(ふうび)した人物たちがたくさんいます。しかし、彼らの成れの果てはどうであったか? 永遠に続くものは何一つありません。その時代が、まるで使い捨ての何かのように、次々とまき去られる。それは誰がしているのか? 神様がすべてのものを植え、そしてそれを抜き、それを枯らしてわらのように吹き飛ばして、形も何もないではないか。

以前ローマに行きましたとき、フォロ・ロマーノという古代遺跡がありました。地中海の西から中近東にまで、また北はフィンランド辺りまで、広大な領地を誇ったローマ帝国が、今はイタリヤの一都市の名前で残っているだけ。その中に残されたわずかな遺跡だけが、かつてここに何があったかを語っている。まさに、その光景を見たとき、この御言葉を思い出しました。神様はこれだけのものを造らせ、それをまたつぶされる。始められた方は、それを終わらせることができる。神様の支配の元にすべてのものが握られている。

25節に「聖者は言われる、『それで、あなたがたは、わたしをだれにくらべ、わたしは、だれにひとしいというのか』」。神様をどのようなものと見ているのか。「あなたは神様を誰と比べようとするのか」と。私の足らないところを、神様、ちょっと頼みますよ。その程度です。そうではない。26節に「目を高くあげて」と。私たちはつい、下向きになり目の前のことばかりにとらわれます。だから、時々目を覚まして、目を上に向けるのです。いつのまにか、何か一つのことにとらわれるでしょう。寝てもさめても、そればかりを考えて、あれがどうなって、これがこうなってと。もうやめとこうと思いながら、また取り出してきて、まるで牛が食べているように反芻(はんすう)する。そして嘆いてみたり、自分を哀れんでみたり、時には人をのろって、あいつがこいつがと言って、楽しんでいればいいのですが、それで暗くなる。目の前の見える状態や事柄に心を奪われてしまっているのです。「目を高くあげて」と。そんなものを放ったらかして、目の前にどんなことがあっても神様に目を留めて、主がどのような方でいらっしゃるかを思う。ここに「だれが、これらのものを創造したかを見よ」。神様は「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する。わたしは主である、すべてこれらの事をなす者である」とイザヤ書45章に語っています。神様の手の中に私たちは握られている。26節に「主は数をしらべて万軍をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる」と。どんなに数が多くてもちゃんと、私たち一人一人の名を呼んで、知っておられる。そして「その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに、一つも欠けることはない」。神様はパーフェクト。われわれはいくら有能な人でも、“弘法にも筆の誤り”と言うでしょう。どこかで不完全です。足らないのです。神様がそのように造られたのです。われわれを完全な者、神様と等しい者にしたのではありません。神に似た者ではあるけれども、神ではありません。だから、私たちは欠けだらけ、足らないところばかりです。神様が造られたのに、どうして不完全な者を造られたのだと、尋ねられますが、「完全なのは神様だけで十分。だから、神様は不完全な者を造られたのだ。完全な方がいることを現すために、不完全な者をお造りになられた。これは極めてはっきりしている。だから、自分が足らない、欠けだらけだ。それを認める。自分にはできない、能力がない、知恵も力もない。だから神様にすがらなければおれない。そのような者として、神様は私たちを造ってくださった。それなのに、自分がパーフェクトのように思う。自分が考えたことが一番いい。自分の計画したことが一番いい。自分の思い通りにしたのが一番いい、というのは大間違い。それは神様をないがしろにしていることです」と申し上げる。だからここにありますように、神様はパーフェクト。神様のなさることに一つとして無駄な事はない。だから「凡てのこと相働きて益となる」(ローマ8:28b)とおっしゃる。もし私たちが完全であれば、神様はいらなくなる。ところが、御自分の栄光を現すために私たちを造られた。それは私たちが不完全で欠けだらけで、「コリント人への第一の手紙」(1:28)にあるように「この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者」として、私たちを造って、そこに神様の力を現す。パウロはそのように言っています。「わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」(Ⅱコリント12:10)。だから感謝したらいいのです。私たちにできないことがあり、足らないことがあり、欠けだらけである自分を嘆いて、こんな自分で……と、劣等感という言葉は、神様の前に申し訳ない。劣等感に陥るのは自分が何者であるかのごとく、偉そうに高慢になっているからです。初めから足らないのだから、神様、このとおりですと、神様の前にへりくだる。これが恵みを受ける秘訣です。

ペテロの第一の手紙5章6,7節を朗読。

6節に「神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい」。「強い御手」、全能者なる神様に自分を委ねるのです。それは自分が足らない者であり、欠けた者であり、不完全な者であることを認めることです。「私はできません、神様、どうぞ、あなたのみ心をなしてください。あなたは全能の神です。あなたにできないことはありません」と信頼すること。これが「自らを低くする」ことです。自分の目の前の問題や事柄に心を奪われて、その中に頭を突っ込んで右往左往するのではなく、そこから「目を高くあげて」、「あなたがたは、わたしをだれにくらべ、わたしは、だれにひとしいというのか」と。「そうです、神様、あなたは全能者です。全能の神です」と、神様の前に低く謙遜(けんそん)になって主に委ねていきたい。自分ではできませんと、はっきり認めていこうではありませんか。

「時が来れば」とあるように、神様が備えている計画には「時」があります。その一つ一つを神様が実現してくださる。「高くして下さる」というのは、答えてくださることです。神様が業を行ってくださる時がくる。それを待ち望んで、神様に期待していこうではありませんか。7節に「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから」とあります。全能者が私たちに絶えず目を留めてくださる。「自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」。神様に委ねていく。これほど幸いなことはありません。人に頼って人に委ねて、あの人がやってくれるから、この人が……と、それは大きな間違い。

創世記17章1節に「アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、『わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ』」。神様の前に絶えずとどまる者となる。ダビデが言っているように「わたしは常に主をわたしの前に置く」。全能者を絶えず信頼して、その方に委ね、自らを低くしていくこと、これが「全き者」となる秘訣です。全く従う者ということでもあります。その後2節以下に「『わたしはあなたと契約を結び、大いにあなたの子孫を増すであろう』。 3 アブラムは、ひれ伏した。神はまた彼に言われた、4 『わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。5 あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである』」。神様はねんごろにアブラムに変わらない約束を確かにしてくださいました。神様は真実です。アブラムがどうであっても、いったん約束したことは、彼がどんな失敗をしても反故になさらない。「テモテへの第二の手紙」にありますように「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である」(2:13)。神様の約束は、私たちがどんな状態に落ち込んでも変わらない。

イエス様の十字架のあがないがそうです。イエス様の清めにあずかって、主が私の命になってくださったと信仰を持って踏み出した生活で、いろいろな失敗もします。神様はそろそろ愛想をつかして、十字架のあがないを取り消すのではないかと思う。しかし、そんなことはない。どんなに泥まみれになろうと、神様は真実な御愛によって応えてくださる。全能者でいらっしゃる方が、ひとり子を賜うほどの限りない愛をもって、あなたを愛しているよ、と言われる。主がすべてのことの始まりであり、すべてを導いている。

アブラハムの信仰は浮き沈みがある。ところが、この17章以降、神様との密接な交わりの中から、一気に信仰の高みに上がっていくのです。そしてイサクを与えられて、その後、最愛のわが子イサクをささげるようにと、厳しい試練が与えられたときにも、彼は微動だにしない。例えイサクがここで死んでも、それをよみがえらせてくださると徹底して神様を信頼した。ものすごい信仰の父となる。私たちの信仰も神様はそうやって練り固め、清め、不動のものとしてくださいます。先ほどの「ペテロの第一の手紙」の5章10節に「しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう」と約束されています。

私たちも今アブラハムの信仰を受け継ぐ者として、神様が選び召してくださいました。ですから、見える状態、見える事柄、問題の中にとどまらないで、そこから「目を高く上げて、だれが、これらのものを創造したか」。神様にしっかりと目を留めてください。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」とおっしゃいます。この主に全く従う歩みをしていきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。