いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(111)「聞くべきお方」

2014年01月10日 | 聖書からのメッセージ
マタイによる福音書17章1節から8節までを朗読。

5節に「彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け』」。

この記事は、イエス様が弟子たちと「高い山」に登られて、そこで見た不思議な光景について語られたものです。福音書を読むとき、この箇所だけ何か特異な、ほかの箇所とは違う雰囲気を感じます。イエス様が波の上を歩かれたり、生まれながらに目の見えない人の目を開けたり、そのような事態は、イエス様は救い主なのだから、神様だから当然のことだと感じます。しかし、読みました記事は、不思議なことをなさったのではない。いったいここは何の事を語っているのだろうかと思います。

1節に「六日ののち」という言葉があります。これはある事柄を意識して、それから「六日ののち」と語っている。私どもでも、何か印象的な出来事があって、それから三日目だとか、一週間たってと言う。その起点となる事柄があって、そこから日数を数えます。だから「六日ののち」と言いますのは、ただ単に言葉のあやとしてではなく、明らかに何か言わんとすることがある。振り返ってみますと、その前の16章13節以下にピリポ・カイザリヤの地方に行かれたときの記事があります。これはよくご存じのように「人々は人の子をだれと言っているか」と、弟子たちに親しく尋ねられた記事です。そのときにイエス様は弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」と尋ねられました。ペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と告白しました。これはイエス様の願っていた回答です。百点満点の正解だった。しかし、ペテロはどこまでそれを確かなこととして信じていたかどうか分かりません。彼は神様から教えられて、そうだ、と思って言ったに違いない。だから、言ったことが現実の自分の生活と結びつかなかった。そのすぐ後で、イエス様が十字架におかかりになることを語ったとき、ペテロはイエス様に「滅相もない、そんなことを言わないでください」としかっています。イエス様は「サタンよ、引きさがれ」と厳しくペテロを叱責しました。そのような出来事があって、それから「六日ののち」ということです。ということは、「あなたこそ、生ける神の子キリスト」という言葉と「六日ののち」ということは一つの大きな鍵ではないかと教えられます。

17章1節以下に「ペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネ」、三羽ガラスと言いますか、直弟子の三人を連れて高い山に登りました。2節に「彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった」。最初に申し上げたように、この記事だけが、ほかの福音書の記事と違和感といいますか、ちょっと異質だなと思うのはここです。イエス様がなさる不思議な業はイエス様の外側の事柄です。イエス様が力を現して、足のなえた人を立たせ、目の見えない人を見えるようにしてくださる。病気の人を癒してくださる。波の上を歩いたり、たくさんの人に食事をさせて満腹させた。それはイエス様の外側の事象、事柄です。ところが、ここでは、そのような外側のことではなくて、2節にはっきりと「イエスの姿が変り」とあります。イエス様は、ご存じのように、おとめマリヤから生まれて人となってくださった。聖書にも繰り返して、私たちとひとつも変わりがないとあります。人間そのものとなってくださいました。イエス様に何か特別な印(しるし)があったわけではありません。大工ヨセフの子供として生まれ育ち、やがてバプテスマを受けて公の救い主としてのご生涯に入られました。だからといって、イエス様の容ぼうが変わったとか、あるときからイエス様が輝いて見えたという記事は他にはありません。私たちと全く同じ肉体をもち、弱さを知り、病を知り、悲しみの人であったと、イザヤ書53章に預言されているとおりです。ところが、イエス様は確かに人間となった方であると同時に、その本質はやはり神ご自身といいますか、神のご性質を持った方であることを証詞しています。

2節に「彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった」。具体的にどんな形であったのか、どのような様子であったのか、私たちには想像がつきません。恐らくこれを書いた記者も言葉で表せないから、このような分かりにくい表現になった。「顔は日のように輝き」と、太陽のように輝いたら、人がじかに見られるわけがない。ましてや、その後に「その衣は光のように白くなった」と。まばゆい太陽の光にまともに顔を向けられないでしょう。けれども、そのように書いていることは、誰かが見た。これは光だとか、目に見える形での光であったかどうか、そんなこととは関係がないと思う。神様の性質は「神は光であって」と「ヨハネの第一の手紙」の初めに記されています。陰も曇りもない方、光なる方だと記されています。イエス様が光のように白くなった。それはイエス様こそが「生ける神の子」、神ご自身でいらっしゃると証明された。ピリポ・カイザリヤで、「あなたこそ生ける神の子キリスト」とペテロが告白したイエス様こそ、神そのものだと、神様が弟子たちの前ではっきりとあかしされたのです。

2節「ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった」との言葉によって、はっきりと、イエス様は神と一つである、神様ご自身であると言えます。「三位一体の神」と言いますが、聖書のどこにも三位一体という言葉はありません。だだ、聖書を読むと、全能者でいらっしゃる神様と、御子なるイエス様が同じものであると告白している。そして、やがてキリストの霊が聖霊であると。だから、語られている聖書の言葉を読み解いていくとき、初めて三位一体という言葉が生まれてくるように書かれている。ここでもイエス様が、神ご自身でいらっしゃる。神と同じ性質を持つものである。また、イエス様が、十字架の苦しみの後、よみがえられ、さらに栄光の姿となって天にお帰りになった。そのときとすべて同質なもの、同じことを共通して言い表しているのです。イエス様が神であること、救い主であることを、ここで弟子たちにはっきりと示しています。

3節に「すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた」とあります。「モーセとエリヤ」は、旧約聖書にある代表的な神様の僕です。モーセは指導者であり、エリヤは預言者の一人でした。彼らは神様に生涯仕え、従って生きた人です。私たちと同じ人です。ところが「そのモーセとエリヤが現れてイエスと語り合っていた」という。これはいったい何のことかな? と思います。モーセもエリヤも私たちと同じ罪の中に生まれ、神様の救いにあずかった、神様の哀れみにあずかって、神様に仕える者とされて生涯を終わった。言うならば、クリスチャンの代表といってもいい。神様の救いにあずかって召された者たちが、どのような取り扱いを受けているか。ここにそのことがはっきり預言されています。モーセもエリヤも、とっくの昔に召されて、イエス様の時代にはいない。そのモーセやエリヤがイエス様と語り合う。言うならば、神の形となった、神のご性質を現しているイエス様と交わっている。これはやがて受ける御国での栄光の姿です。私たちは「終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる」(1コリント:15:51)と約束されています。何に変えられるのでしょうか? 神と同じ栄光の姿、キリストの姿かたちへと造り変えてくださる。言うならば、私たちは神様のご性質に近い者として、神様の栄光にあずかって、神と共にある生涯へ、新しい者へと造り変えてくださる。その具体的な結果がここに語られている。

3節に「すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた」。しかも、イエス様と友達、長年の友人であるかのように親しい交わりをしている。これは、私たちにもその恵みを与えてくださるという、神様の預言、約束です。これは素晴らしい恵みです。4節に「ペテロはイエスにむかって言った、『主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために』」。ペテロはいったい何を言っているのかな、と思いますね。彼は恐らくこの不思議な、思いもかけない、神々しい、荘厳な光景を前にして言葉を失っていたと思います。しかし、彼はその中に自分が取り込まれている喜び、歓喜が極まったのです。だから、この喜び、この恵みがいつまでも続いてほしいと思った。ペテロはこれがいつまでも消えないように、このような素晴らしい神との交わり、過去から現在、そして未来に至るまでも、神様の変わらない、輝くべき栄光の臨在に置かれる喜びを味わったのです。だから、ペテロはこのとき何をどう言っているのか自分でも分かっていなかった。ただ、ズーッとこのまま続いてほしいと思った。だから、小屋を建てましょうと。イエス様がそのようなところに住むわけはないのですが、このときのペテロはうれしさのあまり、そのような思いになった。

5節に「彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい」。「輝く雲」は神様ご自身の臨在です。神様がそこで親しくペテロを包んでくださった。旧約聖書を読んでも、イスラエルの民と神様が共にいてご自身を現すとき「雲が彼らをおおった」とあります。まさにここはそのような事態だったのです。栄光の神様との交わりの中から声が聞こえた。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」とあります。ここで神様は、イエス様がどういう方であるかを証詞してくださった。ペテロにとっては「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と、言葉では言ったのですが、実態としてイエス様がどういう方かを、神様は懇(ねんご)ろに証詞しました。ペテロが告白した言葉を六日の後にはっきりと別の形でペテロにご自身を現してくださいました。

神様は「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と言われた。これを聞くと、皆さんもすぐに思い出されるでしょう。イエス様がバプテスマのヨハネによって洗礼を受けて、水から上がられたとき「天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった」(マタイ3:16)「また天から声があって言った、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』」(同17節)。全く同じ言葉です。これは父なる神様との同一性、神様とイエス様は一つであることを証詞したのです。「愛する子」とあります。親と子は別物だと思いますが、性情、性格などは極めて似ています。私もよく言われます。「お父さんに似ていますね」とか、時には「お母さんに似ていますね」と。両親の記念誌を皆さんにお送りいたしましたら、ある方から「先生そっくりですね」と言われまして、そうなのかなと思います。自分では似ていないように思いますが、確かに親と子というのは似るでしょう。

ここでイエス様のことを神様が「これはわたしの愛する子」、これはわたしの性質、性格、性情、全てが一つ、そして「わたしの心にかなう者」。「心にかなう」とは、父なる神様の御思いを全て受けている方。父なる神様の御旨、み思いを代行している。ですから、ここでもはっきりと神様と御子イエス・キリストとは同じものなのだと、ペテロに語っているのです。ペテロにとっては、目の前に人の姿をしたイエス様しか見ていないのですが、神様はイエス様を通して神ご自身を現そうとしているのです。だから、神様に聞くことは、取りも直さずイエス様に従うことです。ここでペテロに対して神様はそのことを教えてくださった。今も私たちに対して神様はそのように言われます。イエス様はよみがえって、「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)と約束してくださいました。それは、今、イエス様が御霊、聖霊なる神となって、私どもと共にいてくださる。それは取りも直さず、イエス様が私たちと共にいてくださることです。でも何かイエス様は頼りない、神様のほうが、お父さんだからそちらのほうが、力がありそうにと思いますが、そうではなくてイエス様を信頼すること、イエス様の言葉に従うことが、神様を信じることであり、神様に従うことです。神様と言おうと、イエス様と言おうと、あるいは御霊、ご聖霊様と言おうと、これは同じことです。

神様は「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」とペテロに命じました。今日は「これに聞け」という事を教えられたいと思います。神様は、「これに聞け」、「イエス様に聞け」と言われます。この世の生活にあって、さまざまな思い煩い、悩み、また思い惑うことがあります。どうしようか、こうしようか、右にしようか、左にしようか。そのようなときに何に聞くか? 誰に尋ねるのか。私どもはすぐに人に尋ねますか。あるいはいろいろな専門のコンサルタント、相談に乗ってくれる人に聞こうとします。確かに、それも役に立つに違いない。それも神様が私たちに導かれることであるに違いない。しかし、それよりも何よりも、最初に私たちが聞くべき方は誰か? それはイエス様に聞くことです。これを第一にすることです。

ある方が、故郷を離れて遠くへ、新しい道に旅立っていきました。その方は生まれてから一度も郷里を離れたこともなく、家族と別れたこともない。夜行便に乗って未知の地へ行く途中、だんだんと心細く、寂しさが募りました。今まで、彼を親身になって指導した先輩とも別れて、これからどうやっていけばいいのか、途方にくれたのです。そのとき、彼の心に浮かんだのが、この聖書の記事でした。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」との言葉が心に響き渡った。頼りとした人もいなくなり、どうしようかと途方に暮れたとき、人ではない、「生ける神の子キリスト」が共にいるではないか、「これに聞け」と。彼はその瞬間、心に喜びと平安が与えられたのです。聖書に「あなたの頼りとするパンを取りのぞく」とあるように、彼にとって頼りとしていたものを取り除いて、「これに聞け」と、そこへ心を向けてくださる。だから、人に失望することは大切です。あるいは何か事情、境遇、事柄に行き詰ることは大切です。そのことを通して、頼りとすべきものは何か、聞くべき方はどこにいるのかを教えられます。これは私たちにとって大きな宝です。力です。

「主人は私の話を聞いても上の空、横でしゃべってもなにを聞いているのやらわけが分からん」と嘆かれますが、主人に聞いてもらおうと思うからおかしい。神様にまず語ること、聞いていただく。ここでは「これに聞け」と言われる。私たちはよくお祈りをしますが、祈るときに「神様、こうしてください。ああしてください」といろいろなことを申し上げます。確かに、そのとおりに約束してくださっています。「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」(ピリピ4:6)と。「神様、ああです。こうです」と、洗いざらい腹立ち紛れで、何でも言うでしょう。そして「すっきりした」と。すっきりしたのはいいけれども、「これに聞け」とおっしゃる。しゃべりつくしたら今度は、心静かに「主よ、何をあなたは語ってくださいますか」と聞かなければならない。

父が「先生、こういうことがあります。お祈りをしてください」と頼まれて、「はい、私もお祈りしていますから」と言う。しばらくたって、その方に「あれはどうなりました? 」と尋ねると、「いや、お祈りしています」「ああ、そうですか」、またしばらくして「あれはどうなりましたか」、「まだお祈りしています」。そのとき父が「お祈りしていたら、何か聞こえてくるでしょう。するべき事が分かるでしょう」と言ったそうです。お祈りして自分の願ったようになるまでお祈りは続けるけれども、神様から「こうせよ」というのは聞きたくない。

ここに「これに聞け」と言われる。聞くのです。「神様、どうしましょうか」と聞くのです。それに対して神様は「こうせよ」とおっしゃる。必ず答えられる。ところが、その答えが自分の気にくわないから、「どうしましょうか」とまた聞いている。何度でも自分の気に入った答えになるまで、神様に聞き続けている。これは「聞く」にはならない。お祈りすると、確かに私たちの願いを神様に申し上げると同時に、イエス様が何とおっしゃるか。時には痛いこともある、つらいことであるかもしれない。「あなたのここを変えなければいけない。ここをこうしなければいけない」と神様が指摘なさる。私どもはそれを聞きたくない。だから、耳をふさごうとするのは大きな間違いです。

サムエル記上3章2節から10節までを朗読。

これはサムエルがエリ先生の下で、神殿で神様に仕えていました。ある晩、彼は神殿で休んでいました。エリ先生は年を取って、目も次第にかすんで見ることができない。サムエルが寝ていますと、「サムエルよ、サムエルよ」という声が聞こえた。エリ先生が呼んだと思って、急いで走って行ったところ、そうではなかった。そのようなことが繰り返されたとき、エリ先生は神様がサムエルを呼んでいるに違いないと思った。それでサムエルに、もし今度その声が聞こえたら「しもべは聞きます。主よ、お話しください」と言いなさいと教えた。また自分のところへ戻って、サムエルが寝ていましたら、10節に「主はきて立ち、前のように、『サムエルよ、サムエルよ』と呼ばれた」。そのときにサムエルは「しもべは聞きます。お話しください」と答えた。確かに、エリ先生が呼んだものと思っている間は、神様のほうに心が向きません。しかし、今主が呼んでいらっしゃると、神様のほうに心を向けるとき、神様は語ってくださる。「主よ、あなたのみ思いはどこでしょうか。御心は何でしょうか。あなたが私に求められることは何でしょうか」と聞こうとするとき、神様はいくらでも語ってくださいます。聞きたくない人にはなかなかしゃべりにくい、言いにくい。こんな話を聞きたくないのだろう、もう分かっているのだろうと思ったら、黙ってしまう。しかし、聞こうとする人には、いくらでも語ります。まず神様のみ思いを知る、あるいは神様の語ろうとすることを聞こうとすること。自分の思いを、願い事を、神様に申し上げることも大切なことですが、それは祈りの半分です。もう半分は、主が何と語ってくださるか、「しもべは聞きます。お話しください」と、心を低くして、空っぽになって、主が語られることを信じ受け入れることが大切です。私たちはいつも主に聴こうとする思いを、絶えず持ち続けていきたい。誰や彼や、人の話を聞く。私たちはそちらのほうが早い。すぐにニュースを聞いたり、人のうわさを聞いたり、あの人がこう言ったと、そのようなものを聞くと、心が一つの方向に囚われます。神様の語ることが聞こえなくなる。

イザヤ書55章1節から3節までを朗読。

2節に「わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ」と。まず聞き従うことです。神様が「これに聞け」とおっしゃる。イエス様に私たちが心を向けて、「しもべは聞きます。主よ、お話しください」と耳を傾ける。何をするにしても「主よ、これをどうしましょうか」、「主よ、これは食べるべきでしょうか。どうでしょうか」と一つ一つ主に問う。必ず神様が私たちに思いを与え、願いを起こさせ、心に語りかけてくださいます。「そうだ、これはこうしておこう。これはこうすべきだ」。あるいは、「私のここが良くなかった。私のこのような考え方は間違っている」と、いろいろなことを神様は教えてくださいます。そして命に生きる道へと導き入れてくださる。3節の「耳を傾け、わたしにきて聞け」とは、意識して心をそちらに向けなければ聞けません。イエス様がユダヤの人々に、「見ても見ず、聞いても聞かず」と繰り返し言われました。目は見えていても見ていないと。「聞いても聞かず」と、鼓膜には届いているけれども、心には届かないのです。そのためには「耳を傾ける」。心を神様に向けることです。「神様、どうぞ、語ってください」と。神様のみ声が聞こえます。私たちが聞こえないのは、聞こうとしないからです。

今朝も出がけに家内が私に「忘れないで持っていきなさい」と言ったのです。「あ、分かった」と言って、玄関を出かけて「さっき何か言っていたね」と。言われたのに聞いていない。ほかの事を考えている。「分かった、分かった」と、うわの空で聞いていない。返事はしている。人間は実にうまくできている。聞いたとおりに返事はしているが、心は全然そこにない。人間とは不思議だなと今朝も思いました。神様の声を聞いて、返事だけは「はい、はい、分かりました」と言いながら、心はどこかほかのところに行っているから、とんでもないことをしてしまう。ぶつかったり落ち込んだりして、「神様、私は何と不幸でしょうか」と。不幸なのは初めから聞いていないからです。以前から神様はそのように言っているのに、それを忘れている。ここにありますように、「耳を傾け、わたしにきて聞け」。「わたしに」とイエス様はおっしゃいます。人に聞かないで、イエス様に聞いて、主が答えてくださる。

列王記上19章9節から18節までを朗読。

これはご存じのように、エリヤの記事です。18章を読みますと、バアルに仕える預言者たちと一騎打ちをしました。そのとき「火をもって答える神を神としよう」と、エリヤはただ一人で戦いに臨みました。神様の前に祈ったときに、天から火が下って、祭壇の上のすべてのものを焼き尽くしました。それでバアルに仕える預言者を全部殺してしまった。ところが、悪い后(きさき)であるイゼベルという女性が「エリヤなんか生かしておくものか!」と言った。そのうわさを彼は聞いて、恐怖心に襲われ、おじ気ついて、逃げだした。遠く離れて、れだまの木の下で「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください」。もう死にたいと。そのとき神様は、彼を慰めて、しっかりと休ませ、眠らせ、水とパンを与えて、命に満たしてくださいました。それから更に彼は力づいて、四十日四十夜行きまして、神の山ホレブに着きました。9節に「彼はほら穴にはいって」、神様の臨在に近づいたのですが、神様の前に立とうとしない。いろいろな問題や悩みに遭って、苦しみに遭い、つらい悲しい出来事に遭いますと、自分の穴の中に隠れる。自己憐憫(れんびん)という穴の中に隠れる。「神様、私を見てください。こんなに惨めです。私はこんなひどい仕打ちを受けて、こんな悲しい中に置かれています。どうしてでしょうか。あなたがいらっしゃるというのに」とつぶやく。これがほら穴の中に入っていることです。

このときエリヤに対して神様が「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」と。彼は10節に「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました」。熱心だったら、彼がこのようなことをしているわけがない。偉そうに「私は神様、あなたの前に熱心でした」と。そして「イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀をもってあなたの預言者たちを殺したのです」。その中で、私だけが命を懸けてあなたのために尽くしてきたと。11節に「主は言われた、『出て、山の上で主の前に、立ちなさい』」。お前はどうしてそんな所に隠れているのだ。ホレブの山、神の山ではないか。神様の前に雄々しく立ちなさいと言われた。そのあと神様は「強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた」。しかし、ここに不思議なことが記されている。11節の後半以下に「主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。12 地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった」とあります。これはどういうことでしょうか。神様のみ声を聞くとき、心静かに、神様の前に自分が聞く姿勢で出ていく。そこに神様がいらっしゃる。だから、自分の生活で大波、あるいは大嵐、次から次と問題の中で寝る暇もないくらいに右往左往している。そのような時、神様に出会うことができない。それらがすべて終わって、一段落ついて、心静かになるとき、初めて主の前に立つことができる。

このときのエリヤもそうでした。ほら穴の中にまだ隠れている。ですから、この11節以下の山が砕け、大嵐が吹き、そして地震があって火があったという。これは言うならば、エリヤの心の状態を映したことです。彼はもう煮えくり返るような思いと言いますか、自分が正当に評価されないことへの不満や何かが……。でもそこには主はおられない。それを神様に言い募(つの)っている間は、ご自身を現してくださらない。12節に「火の後に静かな細い声が聞えた」。やっと全てが通り過ぎて、嵐が過ぎ去った。静かになったときに、彼ははじめて主のみ声を聞こうという心に変わっていく。ほら穴に閉じこもって自分のことばかり神様に言って、現実を見て右往左往し、どこに神様はいるかしらと。事が落着いたとき、こちらが謙遜(けんそん)になるのです。へりくだってみ声を聞こうとしたとき、初めてエリヤはここでほら穴から出ます。13節の終わりに、神様はエリヤに全く同じ質問をしています。「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。最初、問われたとき、彼は神様の前に立てなかった。神様に対して不満がある。神様のために、勇気を出してバアルの預言者を殺して、イゼベルの脅しにも屈しないでここまできたのに、神様、何をしてくれましたかと、その思いが大嵐となって、山を崩す地震となり、火となる。それら一切のものが通り過ぎたときに、初めてほら穴から出て、主の臨在の前に立つ。14節に「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました」。先ほどと同じことを答えているのですが、このとき、すでに状況は変わっています。彼の心は素直に、神様の前に立っていました。15節に「主は彼に言われた」と。新しい使命を与えて、彼を遣わしてくださいました。「あなたの道を帰って行って、ダマスコの荒野におもむき、ダマスコに着いて、ハザエルに油を注ぎ、スリヤの王としなさい。16 またニムシの子エヒウに油を注いでイスラエルの王としなさい」という大切な使命を与え、しかも、今まで怖くて逃げていたところへ、また戻って行けとおっしゃる。イスラエルの民の歴史にかかわる大きな出来事を起こそうとしているのです。神様は私たちに大きな使命を託そうとしているに違いない。いろいろな事柄を通して、私たちの心を砕き、きよめ、新しい霊と命と力とを与え、私たちに約束してくださる事があります。

初めのマタイによる福音書17章5節以下に「彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け』。6 弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた」ここで初めて、神様からの直接の語りかけを彼は聞いた。そして気絶せんばかりに地に伏しているときに、イエス様が近づいて「起きなさい、恐れることはない」。見ると、もうあの光に輝いたイエス様ではなく、今までと同じイエス様がそこに立っている。8節に「彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった」と。そこに残ったのはイエス様ただおひとりだったのです。それから9節に「一同が山を下って来るとき」とあります。素晴らしい神の臨在の中から、今度は山を下って行く。そこには多くの、悩み、苦しみ、うめいている人たちが待ち受けていたのです。

14節以下に「彼らが群衆のところに帰ると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて、ひざまずいて、言った、15 『主よ、わたしの子をあわれんでください』」。先ほどの変ぼう山での出来事と比べますと、14節以下の世界は、まさにこの世の世界です。そこは悩みと悲しみと苦しみとうめきがあるところです。しかし、イエス様はそこに下ってくださった。そして私たちに神様のみ声を聞かせてくださる。今日、主が私たちに語ってくださることがあるに違いない。祈るときに「しもべは聞きます。主よ、お話しください」と、心を主に向けて、主の思いは何だろうか、主の御心はどこにあるだろうか。主が語ってくださることを聞いて、それに従っていきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。