いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(112)「まことの自由」

2014年01月11日 | 聖書からのメッセージ
ガラテヤ人への手紙4章21節から5章1節までを朗読。

5章1節「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」とあります。

4章21節から31節までに、創世記にあるアブラハムのことについて語られています。アブラハムには子供がいませんでしたが、神様はアブラハムに祝福の基として多くの民の父とすると約束してくださいました。ところが、現実には、なかなか実現しません。アブラハムが神様の召命を聞いてハランを出て来たとき75歳です。それからイサクが生まれるまで、大体25年くらいの月日がたっています。その間、具体的にどうなるのか、よくわからなかった。そのためにアブラハムの心も揺れました。どうなっているのだろうか? 時には神様に文句を言いました。あなたは祝福をするといわれるが、私には子がおりません。どっちみち法定相続人である親族の者が受け継ぐだけのこと。それだったら、もらわなくてもいいと思った。そのとき、神様は、夜、アブラハムに天幕を出て、満天の星空を仰げと言われた。この大宇宙を創(つく)った神様にできないことがあるだろうか。そのときはじめて、アブラハムは「神を信じた」。そして「義と認められた」と記されています。彼は神様の力で自分が持ち運ばれ、生かされている者であること、あまりにも自分がごう慢であったことを認めて、悔い改めました。

しかし、その後で、奥さんのサラがあなたも年を取ってきたし、もう私も子供を生める見込みはないから、私の若いそばめであるハガルによって子供を得なさいと勧めました。そう言われたら、もっともらしく聞こえます。そうか、神様はこのような道を備えられたのかと思う。その結果、一人の男の子、イシマエルが与えられました。しかし、それは神様の御計画ではなかった。神様はあなたとサラの身から出る直接の子供が後を継ぐのだと。やがて、時を定めてイサクを与えられました。アブラハムは、ハガルによる子供イシマエルと、神様からの約束の子イサクと、二人の子供を持つことになった。

24節に「この物語は比喩としてみられる。すなわち、この女たちは二つの契約をさす」とあります。ここでパウロは、アブラハムの生涯を通して、神様の語らんとしている事を御霊によって教えられました。ハガルから生まれた子供はあくまでも肉による子供です。そして一方サラによって生まれた子供は「約束の子」です。私たちもイシマエルのように肉によって生きていた者です。イエス様の救いをまだ知らなかったとき、この世の知恵と力と業、肉にあって生きていました。自分の欲望、いろいろな野望があり、夢があり、それを自分で実現しようとして、出来ない自分に失望、落胆、怒り、苛立ちの中にありました。それは肉にあって生きる生涯でした。しかし、そこからイエス様の救いにあずかって、新しい者と変えられました。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(Ⅱコリント5:17)。かつて肉にあって生きていた、奴隷の子であった者がイエス様の十字架のあがないを信じて新しい者となる。これは神様の約束です。かつての古い奴隷としての生涯、肉にあって生きる生涯を捨て去って、「見よ、すべてが新しくなったのである」。全く新しい者とせられた。新しい者とは約束によって肉の束縛から自由な者になることです。

かつては、肉にある私たちは奴隷の女から生まれたイシマエルでした。奴隷の子供として、奴隷の中に生きていました。そう言われると、いつ奴隷になったのかしら……と納得できません。同じようなことを考えた人がいるのです。

ヨハネによる福音書8章31節から36節までを朗読。

このときイエス様は、ユダヤ人たち、しかも31節に「イエスは自分を信じたユダヤ人たちに」とあるように、イエス様を信じた、信仰を持ったユダヤ人たちです。イエス様は「わたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。32 また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」と言われた。そうしたら、ユダヤ人たちは33節に「わたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、一度もない」と反論しています。ユダヤ人が奴隷であった時代は、エジプトの四百数十年の期間でした。ところが、そこからモーセによって救い出されて、カナンの地、神の国の民となった。それ以来、もちろん途中でバビロンへ捕囚になった時期もあるが、イエス様の時代にはユダヤ人たちは自由人だったのです。だから、イエス様を信じた人たちですら、そのような奴隷になったことはない。どうしてそんなことを言うのだと。

ここでイエス様は人の奴隷になったことはないかもしれないが、34節に「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」と言われる。奴隷は「恐れ」によって支配されたものです。その昔アメリカなどに黒人の奴隷制度がありました。奴隷は常に主人の怒りを恐れる存在です。主人の虫の居所が悪くて、怒りによって命すら奪われても当然です。だから、常に監督者であり、むちを持った人に絶対服従する。それが奴隷の生涯です。考えてみると、私たちは自由だと言いながら、人を恐れています。こんなことをしたら、誰かが何か言うのではないか。こんなことを言ったら、私のことをどのように言うかわからんと、そのような恐れを持って生きているなら、それは奴隷の生涯です。あるいは、これをしなければ皆からつまはじきになるかもしれないと恐れる。

先だっても、信徒会で話題になったのですが、日本では8月になるとお盆という大イベントがある。お盆は先祖を祭る、供養をする機会ですから、誰でもそれをするのが当たり前、またそうしないとバチが当たる、何かとんでもないことになると思う。私は両親がクリスチャンでしたから、日本のいわゆる伝統的な仕来り、習慣にあまり接しないままで成長したので、よくわからないことがある。夏祭りだとか盆踊りだとか、日本の社会でこうしなければいけないと決められた習慣が根強くあります。それでも現代は随分ゆるくなった時代です。しかし、先祖だとか、死だとかにかかわると、今まで宗教心もない人が、突然先祖を供養するにはどうすればいいかと、大慌てで走り回る。人の心の中に恐れがある。だから、お盆になったらどうしたらいいだろうかと心配する。お坊さんでも呼んでお経をあげてもらおう。墓参りのひとつもしなければバチが当たる。自分はしなくてもいいと思うが、そうはいかないだろうと不安になる。ひょっとしたら周囲の人から、親戚から文句を言われるかもしれない。いろいろなことを考えます。自分は不本意ながらも仕方がない、やっておこうと。そのような生活は、まさに奴隷なのだと知らなければなりません。

私の母の郷里は仏教の家族です。お盆になると、毎晩お墓に行って先祖供養をします。先祖代々の墓というのが、かなりの傾斜地を上がったところにあります。その地の習慣ではお盆の三日間、毎晩墓にちょうちんをともすのです。竹竿で墓地を囲み、ありったけの提灯を並べて、日が暮れ始めたら明かりをともして、そこで真夜中くらいまで過ごします。今では、母方のおじもおばも福岡に出てきていますので、郷里には誰もいません。しかし、お盆になると、高齢の叔父や叔母が出かける。郷里には無人の家があり、年に一度お盆に帰るときのために残しています。息子や娘たちも散らばって、郷里は過疎(かそ)地ですから帰りたい人は誰もいない。でもそこに家があり、墓がありますから、お盆になると必ず出かけていく。80歳のおじいさん、85歳のおばあちゃんなど、杖を突いて歩く人たちばかりです。ちょうちんを上げるためにはまず草刈りから始める。墓が一年間放ったらかしですから、草を刈ってきれいにした上で、竹で柵を作って、提灯を並べる。真夏の暑い中、大変な苦労です。行かなければ、落ち着かないし、悪いことが起こるかもしれない。これは奴隷の生涯です。目に見えない恐れに囚われている。

「ガラテヤ書」の5章1節に「自由を得させるために」。そのようなものいっさいの恐れから解き放つためにイエス様が来てくださいました。イエス様は私たちが罪のために奴隷となっているのを救うために、十字架に命を捨てて、そのような奴隷のくびき、しがらみのいっさいから解き放ってくださいました。1節に「だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」。喜んでするのであればいいですよ。それが楽しくて仕方がないというのならいいのですが、つぶやきばかりです。そこがいちばんの問題点です。イエス様は女奴隷の子供から、イサク、約束の子供、自由な者へと私たちを変えてくださった。だから、今どんなものにも支配されない。囚われない。だから、こうしなければいけない。こうしないと誰かがなにか言いはしないだろうか。私の虫がおさまらんとか、そのような思いがあるのだったら、それは今奴隷になっている。私は何かに縛られているのだと、知っていただきたい。イエス様がこの思いを、この恐れを、十字架に処分してくださった。そこへ心を向けてください。そうしますと、心から自由を味わえます。

ところが、13節に「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい」。ここでもう一つ釘を刺される。自由を得させるためにイエス様は私たちを解放してくださった。よかった。自由だ。世間の習慣や仕来り、そんなものは蹴飛ばして、私は私だ!と自分勝手にやる。それはいけないよ、とあります。「コリント人への手紙」を読みますと、そのようなことが記されています。コリントの教会は、もちろんガラテヤもですが、イエス様の救いにあずかって、それまではユダヤ人の習慣や仕来り、律法の世界で生きていました。これは守らなければいけない、これをしなければどうなるかわからない。こうしないと皆から村八分にされると、いろいろな恐れ、あるいは自分を誇るために、習慣、仕来り、律法を忠実に守ることに熱心でした。だからといって、喜んでそれをしていたわけではない。自分はしたくない、そんなことをなぜしなければいけない。先祖からの言い伝えだから仕方ないとやっていた。ところが、イエス様が私たちを解放してくださったと聞いて、コリントの人たちも、ガラテヤの人たちも皆救いにあずかったことを喜びました。よかった、これからあんな変な付き合いをしなくていい。あんなこともこんなこともしなくていい。私たちは自由なのだと言って、彼らは不品行に走った。イエス様が許してくださったのだから、なんでもしてもいいのではないか。あれもしよう、これもしようと自分たちの好き放題のことを始めた。それに対してパウロが警告してコリントの人々へ手紙を書いたのです。そのことを13節に「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで」と語っています。自由だからといってわがままな、自己本位の、自分の自我のおもむくままに、欲情のおもむくままに、何でもすることが自由なのではない。これをパウロが厳しく語っています。

それは、私たちに対しても同様です。イエス様によって、この世のさまざまなしがらみから自由を与えられています。どんなことでもしてよろしい。だから「コリント人への第一の手紙」6章に「すべてのことは、わたしに許されている」とパウロが語っている。だからといって「すべてのことが益になるわけではない」とも語っています。私たちはいろいろな事柄に、気がつかないうちに奴隷化していく。これは「律法化」とも言いますが、一つのことをするとそれをしなければおれなくなる。日本の社会が大体そうです。前例主義というのがあります。裁判の判決などもそうですが、前に同じケースがあった場合、それと同じ取り扱いをする。だから、前回このようにしたから、今回もこうしておこうと、また次の機会もこうしようと。それが一つのルール化する。それに乗っからないと安心にならない。これは私たちが奴隷になったしるしです。家庭でもよくあります。毎回このようにしているから、また次回もしなければいけない。

ある家庭では、誕生日には必ず外食をする。そのとき、誕生日に当たった人は1500円まで、それ以外の人は1000円までのメニューを自由に選ぶことができる。考えてみたら、これは実にやりやすいのです。親としては。決まっているルールですから。その代わり今度はやめられなくなる。変更がきかない。それを守ることが大切な事になってくるとき、律法化といいますか、その奴隷になってしまう。私たちの生活もそうだと思います。先回こうしたから、今日もこうしておこう。初めのうちは喜んで始めるのです。イエス様の御愛に感じて、私は喜んでこれをさせていただきますと始める。ところが、次もそれを期待される、周囲から望まれる。誰も言わないけれども、どうも私を見る目はそのように言っている。私にそれをするように期待されている。今年はしたくないが、やはりやっておこうと。そしてやった後はつぶやく。これが奴隷の姿です。だから、イエス様の救いにあずかって、イエス様が私を自由にしてくださったと感謝して喜んでいる状態が長く続かない。絶えずそのような奴隷に引きずり込まれる危険な状況に置かれている。だから、絶えず新しく、新しくイエス様の救いに立ち返っていくことが大切です。時には決めたルールをぶち壊さなければなりません。

教会でもそうです。夏になって、そろそろ8月だ。なにか行事をしなければいけない気がする。「今年は、一日お楽しみ会をどうするの? 」「どうするの? 」「したいの? 」と。「いや、したくはないけれども、しなければいけないのでは」と、不安になる。私は、いつもそれは駄目だと言っています。私たちは自由なのですから、毎年毎年、一回一回、囚われないで、あらためて考えてみること。一度したら前例となるのは必ず奴隷化していくから、一度したらそれでおしまい。次にどうするか、それはまた導きを求める。

16節に「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい」。イエス様から与えられた自由を全うする秘訣はただこれだけ。「御霊によって歩く」こと。5章には順番に書いてあります。「自由を得させる」、ただ「自由を肉の働く機会としないで」、わがままな自己本位な事をするのではないのですよ。その次にでは何をするのか?「御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」。このとおりです。

「コリント人への第二の手紙」3章15節から18節までを朗読。

17節に「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある」。自由というと、わがまま放題、自分の好き放題、なんでも自分のしたい放題のことをするのが自由だと思ってしまいますが、これは大間違いです。だからといって文部科学省が道徳律を決めたり、あるいは教育で人を縛ったりすること、このように一つのルール化することが自由かと言いますと、これはもちろん違います。ここにありますように「主の霊のあるところには、自由がある」。先ほどの「御霊によって歩きなさい」ということです。神様の霊に私たちが縛られていくとき、支配されるとき、そこに自由があるのです。非常に矛盾した言い方ですが、御霊に支配される。御霊の奴隷となる。これが実は誠に自由な生涯なのです。御霊が導かれるところに絶えず従っていく。だから、御霊が、聖霊が私たちに何を求めているか、今日私に何をせよと言われるか、時々刻々主の霊に従っていくときに、肉の欲を満たすことなく、自由自在な生き方ができる。私たち一人一人が御霊に従っていく。

そのような話をすると、時に、ある方から「先生、そんなことを言ったら、みんなしたい放題、勝手なことをして、まとまらない。無秩序になりますよ」と言われます。ところが、御霊が働いてくださるとき、人間の目から見ると無秩序に見えるようですが、実は神様の御支配と御計画の中にすべてのものが動かされていますから、御霊は私たち一人一人を導いてくれます。そこにただ従って歩んでいくことが、最大の自由です。だから何をするにしても、まず祈って主の導きを求める。昨日もこうしたから、今日もこうしておこう、明日もこうしておく。これは毎年することに決めておこう。これは御霊から離れた生き方です。毎年毎年、あるいは毎日毎日、今日何をすべきでしょうか? 主の御霊が私たちに求めていることは何なのかを絶えず問わなければ、自由に生きることができません。何かを決めてかかることはある意味で楽なことです。初めからこうすることに決めておこう。これはこうすることに決めておこうと。しかし、それを決めてしまった途端、私たちのうちから御霊の働きが消えてしまう。ダビデはいろいろなときにどうするか選択を迫られる。その度ごとに主に祈りました。主に問いました。神様は同じ状況、同じ事柄であってもあるときはこうしなさい、別のときはああしなさいと、具体的な指示は常にころころ変わります。しかし、ダビデはそれに必ず従う。そこに自由があるからです。私たちは自由であるようですが、御霊によらないときは、まことに不自由な生き方をしているのです。

世の中は、自由だ、自由だと言って、自分勝手にオリジナリティー(独創性)だ、私らしい生き方だとやっていますが、私が見る限り、雑誌に影響されて誰も彼も同じファッションになる。ひところ茶髪であるとか、金色の頭髪とかがはやりました。福岡の地下街を歩いていると、そのような若者が大勢歩いています。さっき見た人だと思ったら、こっちにも同じような人がいる。あちらにも……、あらさっき見た人と。違う人ですが、同じ雑誌を見てまねしている。それは物まねです。ところが、自分は人とは違うと思っている。

自分らしくというのは御霊に従うときです。神様の霊に導かれていくとき、そこに自由があり、またそのとき、これはやめておこう、これはしないでおこうという、そのような自由を得る。自由という言葉は、なんでもする、何でもできる、垣根がなくなる、あるいは制限がなくなると考えます。しかし、本当の自由はある意味で、自分にきちんと制限を設けられるかどうかです。私はこれをしないでおきます、と言える自由。私はもうこれはやめますと言える自由があるか。案外とそういう自由を持たない。それでいて、人からああ言われたらどうしようかと、周囲の事柄や、ルール化されたものに、縛られようとする。

17節に「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある」。だから、パウロはどんなことをしてもいいのだと言う。それにはただ一つ条件がある。「御霊に従いなさい」。御霊に従っているのだったら、あなたは何をしてもいいのです。それは外側からは判断ができません。あの人はあんなことをしているけれども、良いのかなと。良いも悪いもない、その方が、それが主の導かれたことだと信じて、確信を持って、信仰に立って歩んでいるならば、それで良いのです。「いや、あんなことをしたら秩序がなくなる。そんな勝手なことをさせておいていいのですか!」と。「良いも悪いも神様がその方にさせているのなら、それでいいじゃないですか」と、私はいつも言うのです。「先生はそんなことで責任が果たせるのですか!」と、食って掛かられたことがあります。「いや、私は責任がありません」と言ったのです。

神様が主です。主が働いてくださることがある。だから、私たちは失望しない。どんなことの中にも主が働いてくださる。その主の働きに、主の霊に私たちが従って歩んでいけば、それで神様の大オーケストラです。ある人はラッパでしょうか、ある人はタンバリンでしょうか、ある人はバイオリンでしょうか。それでいいのではないでしょうか。ただ、指揮者である神様に全員が従っていく。そうするときに素晴らしい神様の栄光が顕(あらわ)されるのです。私たち一人一人が、主の霊に結びついてキリストによって自由を得させていただく。そのために絶えず祈り深く、主を求めて生きること。だから、こうしようとか、ああしようと決めて、これは毎年繰り返そう、毎日これでいこうと考えては駄目です。そうしたら途端に自由を失います。そうではなくて、今日も「主よ、これをすべきでしょうか」と問う。いいことだからと、世の中の判断があります。これはいいことだから毎回しようではないか。良いか悪いか、神様が決めなさるのです。それは祈って御霊の導きに従う以外にない。ある人にとっては、いいと思うかもしれません。ある人にとっては、してはいけないと神様はおっしゃるかもしれません。そうなると「訳がわからんなぁ、どうしたらいいのだ。決めてくれ」と言われますが、決めようがない。主が必ず導いておられるのです。

だから、パウロがエルサレムに帰ろうとしたときに、エルサレムでパウロの命をねらっていると多くの人が引き止めました。そのときも、御霊が一人一人に引き止めるように導いたのです。ところが、御霊は同時にパウロにエルサレムに行けと言われました。御霊はあちらで行けと言い、こちらで行くなと言う。どうなっているのだと思いますが、それでいいのです。パウロはいろいろな人の反対を通して、深く主が自分に導かれることが何であるかを知り、御霊に導かれることの確かさを体験する。恐らく周囲の人たちから、もろ手を挙げて賛成をされたら、彼は皆から言われたからよかったとなるでしょう。でも周囲から反対されてもなお彼は行かなければいけないとの確信をどこで得られたか。パウロは御霊に密接に結びついたからです。

だから、御霊に導かれてしようとしているのに、あの人は反対する、この人は反対する、どうしてだろう。それは神様が反対を起こさせている。あなたが御霊に導かれていることを、いよいよはっきり確かなものとすることができるように、神様は揺すぶっているのです。少しの反対で揺れるくらいだったら、やめておいたらいい。私たちは自由なのですから。どうぞ、一人一人がこの自由に立って、キリストの霊に導かれて、今日も一日一日、主の備えてくださる業を全うしていきたいと思います。

「ガラテヤ人への手紙」5章1節に「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」。絶えず「御霊によって歩きなさい」と、主の霊につながっていくときに、私たちは全き自由な者として、主の御心にかなう歩みを全うさせてくださる。このことを心に置いて、主に従っていこうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。