ヨハネによる福音書 4章19節から26節までを朗読。
23節に「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである」。
イエス様が弟子達とスカルという村にやってきました。お昼どきで、おなかもすいたでしょうし、またのども渇いていました。村の井戸のそばに座って、休憩をしていました。弟子たちは食べるものを求めて出かけて、イエス様がひとりでそこにいました。そのときに、一人の女の人が水をくみに来ました。この女の人にイエス様は「水を飲ませて下さい」と声を掛けました。そのとき、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」と逆に言われましたが、別にそれに答えるわけでもなくて、「『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」と言っています。禅問答のようで、チンプンカンプン、質問と答えがちぐはぐです。女の人は「あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか」と。それに対して「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」と。この話を聞いた女の人は、びっくり仰天した。今、水は水道の蛇口をひねれば出ますが、昔は井戸水をくんだものです。イエス様の時は、村に一つ、共同井戸のようなものがあるだけですから、皆がそこへくみに来る。それも毎日、必要な分を必ず汲まなければならない。大変困っていたと思います。そこへ「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、もう二度とくむことはない」と聞きましたから、これはいい話だと、女の人は「その水をわたしに下さい」と求めました。そのとき、イエス様はその女の人の生活に罪のあることをはっきりと指摘しました。「あなたには夫がいるけれども、それはあなたの夫ではないでしょう。あなたの生活が乱れたふしだらな生活をしているではないか」と。彼女はびっくりしまして、まさか自分の氏素性、生活の隅から隅まで知っているとは思いません。初対面の人からそのようなことを言われたので、びっくりしました。「エッ!どこでそんなこと調べたの? 」と。
ですから、19節に「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます」と言ったのです。きっと預言者か、特殊な人だとイエス様のことを見たわけです。そのときに女の人が、20節に「わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」と語っています。ここで彼女はサマリヤ、サマリヤ人と言っています。サマリヤという地域、またそこに住んでいる人たちのことを指します。その人たちとユダの人々、エルサレムを中心とした人々とは仲良くできない。旧約聖書の列王紀に詳しく記されていますが、簡単に申し上げますと、ダビデ王様の後を継いだソロモン王様はいろいろなほかの国々と交わりを持つようになり、神様を離れて、心変わりしたのです。神様はイスラエルの国を二つに分けることにしました。ヤラベアムとレハベアムの二人が争うことになり、ヤラベアムがソロモンの後を継いで、自分が王様になろうとした。ソロモンの息子であるレハベアムはちょっと気が弱かった。ヤラベアムから押されてとうとう逃げ出していく。ところが、それは神様がご計画なさったことだったのです。神様はダビデとの約束、ダビデの子孫として一つのともし火を残しておくとの約束を忘れていなかった。それがこのレハベアムだったのです。レハベアムはユダ族出身で、エルサレムに都を定めて、そこにユダ族とベニヤミン族だけで国を造らせました。これが旧約聖書のユダという国です。後に残った10部族、この人たちがサマリヤに都を置いて、そこに神殿を築いてイスラエルという国を造りました。北の方に10部族で一つのサマリヤを首都とした国、北イスラエル王国ができました。もう一つ南の方にユダという国が残って南イスラエル王国となったのです。サマリヤを中心にした北イスラエル王国は、アブラハムの子孫であることには変わりがない。神様の祝福と約束の民でもありました。しかし、彼らはサマリヤを造ってそこに神殿を置いたのですが、まことの神様を真実に礼拝したのではなかった。次から次へと偶像の神をそこへ置いたのです。有名なのがアハブ王様です。アハブ王様は、サマリヤを都にしたイスラエルの王様です。彼はバアルを拝みその像を置いたのです。それでも彼らは、やはり自分たちはイスラエル、神様の選びの民だという誇りとわずかな信仰が残っていました。ですから、サマリヤで神様の前に礼拝するのだと、ここに神殿を建てた。一方ユダの人たちはエルサレムが自分たちの都、ダビデ王様の時代からそこに神殿が築かれて、いうならば、われわれこそ正統派であって、サマリヤはまがいものだという思いがありました。ユダの人々は、あんなサマリヤ人なんかと付き合ってはおられんと、仲たがいしたのです。そしてお互いが軽べつしあう関係になっていた。それが昨日今日ではなく、何百年と長い間そのような状態が続いていた。ですから、福音書を読んでいますと、イエス様がサマリヤの町を通られるとき、弟子たちにも「よくよく警戒しなさい」と言っています。イエス様はサマリヤ人に敵対していたのではありません。よきサマリヤ人の例えを語っています。また10人の重い皮膚病を患っている人たちのうち、癒されてイエス様の所に感謝してきたのは、サマリヤ人だったのです。イエス様はサマリヤ人がどんなにいい人であるか知っていました。
だから、スカルの井戸のところで女の人が「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」と言うのは当然でした。ユダの人たちはサマリヤ人と話しもしない、口もきかない、交際もしないことを知っていたから、「とんでもない、あなたはユダの人ではないか、その人がサマリヤの女の私に頼み事をするなんてそんなのは考えられない」という時代だった。そこから話は進んで、20節に「わたしたちの先祖は、この山で」と、この山と言いますのは、サマリヤにあるゲリジム山のことです。このことも申命記に「ゲリジム山を祝福する」と神様が約束したことを受けて、北イスラエルの人たちはそこを聖なる場所としたのです。サマリヤに住む人たちはそこを神様の礼拝の場所としていました。ところが、ユダの人々は、20節に「あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。その当時、神様を礼拝する、神様に出会うこと、神様とお話をする場所は限られていました。言うならば、仕来り、習慣、あるいは制度として、神様にお目に掛かるにはこのような場所で、このような方法で、このような手順をもって、燔祭、罪祭、火祭など、ささげ物を供えて、祭司が立ってこうしてああしてと、細かい手続きにのっとって神様を礼拝するのだと伝えられていた。旧約時代からそれを守ってきたのです。だから、彼女にとってみたら「ゲリジム山で私たちは神様を礼拝する。あなたたちはエルサレムで」と語ったのです。ところが、そのときイエス様は、21節に「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」。「あなたはこのゲリジム山という、またユダの人々はエルサレムのあの神殿で礼拝するのだ、と言うけれども、それは形であって、そのような習慣であったが、それが礼拝ではない」と言われた。
これは私たちの生活にも当てはまります。私たちは教会で礼拝を守っています。聖日礼拝、あるいは主日礼拝という、主の日の礼拝として神様の前に近づいています。ところが、礼拝の時間、1時間半なり2時間なり終わって会堂を出たら、「もう礼拝は済んだ」となります。家に帰って、また日常生活のさまざまな問題の中に置かれます。また一週間たって、「さあ、また礼拝だ」と、教会に来ます。そしてそれを守るということが、大切なことのように思ってしまう。あるいは、日常生活の中でも聖書はきちんと読むし、お祈りも欠かさず決めたようにしている。だから「私は神様と交わりを持っている」と思っているならば、それは間違いです。
ここでイエス様はそのことをおっしゃっています。サマリヤの人たちは、ゲリジム山でユダの人たちはエルサレムの神殿で、そのような仕来りや習慣で礼拝が守られていくのではない。では何かと言いますと、22節以下に「あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る」。ここに「まことの礼拝をする者たち」とあります。そのようなエルサレムの神殿で、あるいはゲリジム山で礼拝するという、そのような形によって、仕来りや先祖伝来の言い伝えに従って守っている、行事としてそれをこなしているというのではない。それは本当の礼拝ではない。では「まことの礼拝をする」とは何か。「霊とまこととをもって父を礼拝する」のだと言われます。
「礼拝」というのは、何なのでしょうか。これは、私たちが神様との交わりに入ることです。天地創造のはじめに、神様は人を創造されました。神様が私たちを造られた目的は、私たちが、天地万物の創造者、全能者であられる神様と親しい交わりの中にあって、神様の栄光を現す器となる。言うならば、神様の力と恵みと御愛を、私たちを通して現そうと造ってくださった。そのために、エデンの園に人を置いてくださいました。そのとき、人は神様との交わりの中に幸いな生活があった。ところが、その神様と人との交わりの中にサタンが入ってきた。そして、とうとう神様の手から私たちを奪い取ってしまった。神様はご自分の愛の対象として、愛すべき者としての私たちをサタンに奪われてしまった。ですから、もう一度、神様との交わりを持つ者として、取り返すためにひとり子イエス様をこの世に送ってくださいました。イエス様は、私たちの罪のために十字架に命を捨ててくださいました。それは取りも直さず、神様が皆さん一人一人をご自分の交わりの対象として、神様と共に生きる、共に存在する者と造り変えるためです。
ヘブル人への手紙10章19節から25節までを朗読。
この「ヘブル人への手紙」は、「礼拝とは何か」がもっと詳しく語られています。そこには神様の命令に従って設けた神殿、幕屋ではどのような手順で神様の前に礼拝がささげられたかが詳しく記されています。その中心に祭司の役割があります。当時は、人が直接神様とお話しすることができなかった。そこで神様は、代わりに祭司を立てて、人と神様との間を結びつけて交わりを回復する道筋を備えてくださった。ところが、その道筋は、実に細くてか弱い。祭司はあくまでも人の中から選んで、立てられたから、神様の前に十分な執り成しをすることができない。どうしても限界があります。そこで神様は、永遠の大祭司としてひとり子イエス様をこの世に遣(つか)わしてくださいました。イエス様が十字架に命をささげてくださった、あのゴルゴタの丘の十字架は、まさに、このイスラエルの民が連綿として長い年月、神殿を通して神様の前に礼拝をささげたときの祭司の務めが、あの十字架だったのです。祭司が絶えずささげるいけにえとして動物をささげましたが、イエス様はご自分の体をいけにえとしてささげました。そして、神様は過去、現在、未来にわたって、また男女、老若、年齢にも関係なく、すべての人のあがないを成し遂げてくださいました。かつて、イスラエルの国ではそのような神殿を設けて、その場所に出かけて、自分で動物をあがなってそれをほふり、祭壇にささげ、その血によって清められたのです。その務めを果たしていたのが祭司です。この祭司は、神様が定めたレビ族に属する人たちでしたが、それでは限りがある。その代わりに、二度と動物のいけにえがいらない、完全な、全きあがないを成し遂げるために、大祭司としてイエス様を送ってくださいました。ですから、私たちにとって十字架を抜きにしては、神様の礼拝はあり得ない。私たちがどんな犠牲、献身、あるいは、どのように生活がまじめでどこ一つとっても非の打ち所がない者であっても、それでは神様の前には立てない。
19節に「こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ」とあります。かつては、その聖所に入るのは限られた人たちだけでした。一般の人たちは入れませんから、祭司に託して神様に取り次いでもらう。祭司が聖所に入り、また大祭司は年に一度だけ更にその奥の至聖所に入ることができる。複雑な手続きが必要であった。ところが、イエス様が来てくださって、大祭司となって神殿の奥、至聖所にお入りになって、しかもご自分を傷のない完全な犠牲として十字架に釘付けて、血を流してくださいました。動物の血を振り掛けて多くの人の罪を清めたのですが、今は、イエス様の血潮を私たちにかけてくださったのです。罪を赦し、清めて、はばかることなく、遠慮なく父なる神様の御許(みもと)に引き入れてくださった。ですから、19節以下に「わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、20 彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのである」。このイエス・キリストの血潮を携えて、十字架のあがないによって、私たちは神様の前に立つことができる。この間に誰の紹介も、誰の仲介もいらない。21節に「さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから」とあります。しかも、幕屋を通って行かれた大祭司なるイエス様は、私たちの祭司として今も父なる神の右に座して執り成してくださる。私たちは今、はばかることなく神様の前に出て行くことができ、神様と親しい交わりを持つことができる、礼拝する民と変えていただいている。大変大きな恵みの中に置かれているのです。イエス様が私たちの罪のために十字架に命を捨て、血を流して清めてくださった。そればかりか、「父よ、彼らを許し給え」と執り成してくださる主が、大祭司として父なる神の右に座していてくださいます。イエス様の執り成しによって、私たちは父なる神様の前に出ることができる。これが礼拝です。
22節に「心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか」。礼拝とは神様の前に近づくことです。今私たちはこのように集まって、この所で礼拝をささげていますが、人の前に立っているのではありません。神様の前に文字通り立っているのです。そして、それが許されるただ一つの道は、イエス様が私たちのために命を捨て、血を流してくださった恵みと喜びと感謝をもって、神様の前に立っているのです。ですから、礼拝は私たちにとって大切な命であります。これを欠いたならば、命を失います。ここに「信仰の確信に満たされつつ」、言い換えると、イエス様が救い主となって、十字架に命を捨て、あのこと、このこと、こんな弱いところ、またかたくなで強情なところ、心の罪も汚れも、一切を清めてくださったと確信して、父なる神様の前に近づく。これが神様との交わりです。そのために十字架を通り、主の許しをはっきりと感謝して受けることが、大切です。
23節以下に「また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、24 愛と善行とを励むように互に努め、25 ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか」とあります。「わたしたちが告白する望み」とあります。私どもは何を告白するのでしょうか? 「私はイエス様の十字架によってあがなわれた。買い取られて神のものとされました」という確信です。そして「私はイエス様のものです」と、主のあがないにあずかっていることをはっきりと告白する信仰に立つことです。そして「愛と善行とを励むように互に努め」とあるように、主の御愛と励ましによって、御心にかなう行いを追い求めていく。さらに「集会をやめることはしないで」と。集会は主の臨在に近づく場所です。ですから、礼拝とはこの日曜日の礼拝だけが礼拝ではありません。信徒会であるとか、婦人会であるとか、若家族会であるとか、青年会であるとか、そのような部会もまた礼拝です。また、伝道集会も木曜会も祈祷会も祷告会も、それは礼拝です。と同時に、自宅にあっても、日々が神様との交わり、礼拝の民なのです。神様を礼拝する者として、私たちを選び召してくださったのです。ですから、家庭にあっても、そこで神様の前に十字架のあがないを信じて、血潮を携えて執り成してくださる大祭司なるイエス様にすがって、父なる神様の前に出る。日々、神を礼拝する者としての生活が続いてきて、日曜日の朝の礼拝へとつながってくる。ですから、日々の生活が神様にささげられた礼拝であり、そこで父なる神様との交わりの中に生きる者であることを知っておきたい。
ヨハネの第一の手紙1章1節から3節までを朗読。
3節の後半に「あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである」。この「交わり」が礼拝です。礼拝というと、神様の前に出るのですから、パジャマ一つで出るわけにはいかないでしょう。かしこまって、主のあがないの尊さを心に置いて、畏(おそ)れかしこんで主の前に出ます。だからといって、それは何か特別なことではなくて、交わりの中に置かれていることです。ここにも「わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わり」とあります。私たちは日々の生活を通して、神様を礼拝する民であることを自覚したいと思います。
礼拝は日曜日の1時間半の間だけと思ったら間違いです。毎日、神様の前に出て、十字架のあがないを感謝し、はばかることなく主に祈ることができ、主のみ声を聞くことができる。主と交わる。「出エジプト記」に記されていますが、神様は、イスラエルの民に幕屋を造ることを命じました。そのとき、神様はそれを聖別なさって「わたしはその所であなたに会い、あなたと語るであろう」と、語っている。当時は、その幕屋でなければ神様にお会いできませんでした。しかし、今はイエス様ご自身が幕屋となり、大祭司となって至聖所に入り、自分を犠牲としてささげて、血を流し、私たちのあがないを全うしてくださいました。その大祭司なるイエス様が、神の右に座しています。その御方の前に私たちが出るとき、「わたしはその所であなたに会い、あなたと語る」と言われます。ですから、日曜日の礼拝にどうにも出られないという方もいます。だからといって、礼拝ができないわけではありません。「そうだったら、礼拝に行かないでおこう」と、それはまた間違いです。一週間の礼拝があって、喜び感謝して総決算として、また新しい出発として、この公同の礼拝、そこに集うことが不可欠なのです。たとえ遅れようと、何はさておいてまず、礼拝に近づく。これは私たちの命であります。そして、そこだけで終わらないで、その恵みと感謝をもって、今度は出て行くのです。遣わされたそれぞれの家庭で、職場で、置かれた地域社会の中で、神様を前に置いて、右に置いて、神を礼拝する者としての一日、一日を歩んでいきます。
ローマ人への手紙12章1、2節を朗読。
ここに「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」とあります。神様の前に礼拝をささげることは、どうすることか? 確かに、み言葉をいただいて「神様!本当に感謝します」と主を褒めたたえ、感謝賛美する、これも大切なことです。また、祈ること、悔い改めの祈り、執り成しの祈り、癒しの祈り、さまざまな問題、事柄に関してことごとく神様の前に思いをささげることがあります。そして、もう一つ、ここにありますように「あなたがたのからだを」と。私たちのからだと言われると、つい肉体を考えますが、身体を含めて生活全般すべてを神にささげる。神のものとしてささげ、今度はそれを私たちが託されたものとして受ける。「これは私のものではありません。これは神様!あなたのものです」と、告白すること、これが礼拝です。
礼拝で献金をしますが、神様からいただいたものをささげる。それは、私たちの健康も生活も仕事も、すべてのものが神様のものですと、証詞する行為なのです。今日はいい話を聞いたから献金をちょっと増やしとこうとか、そのようなものではない。地上にある私のすべては、実は、神様、あなたのものです。そしてあなたからいただいて、一週間の旅路を守られてきました。その感謝の証詞として精いっぱいこれを主におささげいたします。本来なら私の体も何もかもこの献金袋の中に入れてしまいたいのだけれども、その気持ちを精一杯の献金に託す。全部あなたのものですと、感謝をささげるのが礼拝です。日々の生活の中で、毎日神様の前に自分をささげること、ああなりたいとか、こうしたいとか、こうでなければ嫌だとか、自分の思いを全部神様にささげる。それがここにあります、「あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって…」。そうやって、絶えず心を切り替えるのです。気がつかないうちに神様のものを自分のものとしてしまっている。私が、私がと、そのためにできない、うまくいかない。どうしよう、こうしよう。あいつが悪い、こいつが悪いと、心が落ち込んでしまう。神様の手に明け渡し、ささげて、すべては主のものですと、イエス様の命に生かされる自分であることを告白していきたい。それが「まことの霊的な礼拝」です。
「ヨハネによる福音書」4章23節に「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る」。神様の霊に満たされて、神様が私たちに与えてくださった真実な御愛を心に感謝し、受け、父なる神様を礼拝する。父なる神様との交わりを通して、神様からの豊かな御愛と慰めと恵みと力を注いでいただく。これが礼拝です。その後に「そうだ、今きている」と。今が、この地上において許されたまことの礼拝をするときなのです。その後に「父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである」。父なる神様はまことの礼拝をする者となってほしいと、切に願っておられる。神様との密接な交わりの中に日々生きる者となりたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
23節に「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである」。
イエス様が弟子達とスカルという村にやってきました。お昼どきで、おなかもすいたでしょうし、またのども渇いていました。村の井戸のそばに座って、休憩をしていました。弟子たちは食べるものを求めて出かけて、イエス様がひとりでそこにいました。そのときに、一人の女の人が水をくみに来ました。この女の人にイエス様は「水を飲ませて下さい」と声を掛けました。そのとき、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」と逆に言われましたが、別にそれに答えるわけでもなくて、「『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」と言っています。禅問答のようで、チンプンカンプン、質問と答えがちぐはぐです。女の人は「あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか」と。それに対して「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」と。この話を聞いた女の人は、びっくり仰天した。今、水は水道の蛇口をひねれば出ますが、昔は井戸水をくんだものです。イエス様の時は、村に一つ、共同井戸のようなものがあるだけですから、皆がそこへくみに来る。それも毎日、必要な分を必ず汲まなければならない。大変困っていたと思います。そこへ「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、もう二度とくむことはない」と聞きましたから、これはいい話だと、女の人は「その水をわたしに下さい」と求めました。そのとき、イエス様はその女の人の生活に罪のあることをはっきりと指摘しました。「あなたには夫がいるけれども、それはあなたの夫ではないでしょう。あなたの生活が乱れたふしだらな生活をしているではないか」と。彼女はびっくりしまして、まさか自分の氏素性、生活の隅から隅まで知っているとは思いません。初対面の人からそのようなことを言われたので、びっくりしました。「エッ!どこでそんなこと調べたの? 」と。
ですから、19節に「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます」と言ったのです。きっと預言者か、特殊な人だとイエス様のことを見たわけです。そのときに女の人が、20節に「わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」と語っています。ここで彼女はサマリヤ、サマリヤ人と言っています。サマリヤという地域、またそこに住んでいる人たちのことを指します。その人たちとユダの人々、エルサレムを中心とした人々とは仲良くできない。旧約聖書の列王紀に詳しく記されていますが、簡単に申し上げますと、ダビデ王様の後を継いだソロモン王様はいろいろなほかの国々と交わりを持つようになり、神様を離れて、心変わりしたのです。神様はイスラエルの国を二つに分けることにしました。ヤラベアムとレハベアムの二人が争うことになり、ヤラベアムがソロモンの後を継いで、自分が王様になろうとした。ソロモンの息子であるレハベアムはちょっと気が弱かった。ヤラベアムから押されてとうとう逃げ出していく。ところが、それは神様がご計画なさったことだったのです。神様はダビデとの約束、ダビデの子孫として一つのともし火を残しておくとの約束を忘れていなかった。それがこのレハベアムだったのです。レハベアムはユダ族出身で、エルサレムに都を定めて、そこにユダ族とベニヤミン族だけで国を造らせました。これが旧約聖書のユダという国です。後に残った10部族、この人たちがサマリヤに都を置いて、そこに神殿を築いてイスラエルという国を造りました。北の方に10部族で一つのサマリヤを首都とした国、北イスラエル王国ができました。もう一つ南の方にユダという国が残って南イスラエル王国となったのです。サマリヤを中心にした北イスラエル王国は、アブラハムの子孫であることには変わりがない。神様の祝福と約束の民でもありました。しかし、彼らはサマリヤを造ってそこに神殿を置いたのですが、まことの神様を真実に礼拝したのではなかった。次から次へと偶像の神をそこへ置いたのです。有名なのがアハブ王様です。アハブ王様は、サマリヤを都にしたイスラエルの王様です。彼はバアルを拝みその像を置いたのです。それでも彼らは、やはり自分たちはイスラエル、神様の選びの民だという誇りとわずかな信仰が残っていました。ですから、サマリヤで神様の前に礼拝するのだと、ここに神殿を建てた。一方ユダの人たちはエルサレムが自分たちの都、ダビデ王様の時代からそこに神殿が築かれて、いうならば、われわれこそ正統派であって、サマリヤはまがいものだという思いがありました。ユダの人々は、あんなサマリヤ人なんかと付き合ってはおられんと、仲たがいしたのです。そしてお互いが軽べつしあう関係になっていた。それが昨日今日ではなく、何百年と長い間そのような状態が続いていた。ですから、福音書を読んでいますと、イエス様がサマリヤの町を通られるとき、弟子たちにも「よくよく警戒しなさい」と言っています。イエス様はサマリヤ人に敵対していたのではありません。よきサマリヤ人の例えを語っています。また10人の重い皮膚病を患っている人たちのうち、癒されてイエス様の所に感謝してきたのは、サマリヤ人だったのです。イエス様はサマリヤ人がどんなにいい人であるか知っていました。
だから、スカルの井戸のところで女の人が「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」と言うのは当然でした。ユダの人たちはサマリヤ人と話しもしない、口もきかない、交際もしないことを知っていたから、「とんでもない、あなたはユダの人ではないか、その人がサマリヤの女の私に頼み事をするなんてそんなのは考えられない」という時代だった。そこから話は進んで、20節に「わたしたちの先祖は、この山で」と、この山と言いますのは、サマリヤにあるゲリジム山のことです。このことも申命記に「ゲリジム山を祝福する」と神様が約束したことを受けて、北イスラエルの人たちはそこを聖なる場所としたのです。サマリヤに住む人たちはそこを神様の礼拝の場所としていました。ところが、ユダの人々は、20節に「あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。その当時、神様を礼拝する、神様に出会うこと、神様とお話をする場所は限られていました。言うならば、仕来り、習慣、あるいは制度として、神様にお目に掛かるにはこのような場所で、このような方法で、このような手順をもって、燔祭、罪祭、火祭など、ささげ物を供えて、祭司が立ってこうしてああしてと、細かい手続きにのっとって神様を礼拝するのだと伝えられていた。旧約時代からそれを守ってきたのです。だから、彼女にとってみたら「ゲリジム山で私たちは神様を礼拝する。あなたたちはエルサレムで」と語ったのです。ところが、そのときイエス様は、21節に「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」。「あなたはこのゲリジム山という、またユダの人々はエルサレムのあの神殿で礼拝するのだ、と言うけれども、それは形であって、そのような習慣であったが、それが礼拝ではない」と言われた。
これは私たちの生活にも当てはまります。私たちは教会で礼拝を守っています。聖日礼拝、あるいは主日礼拝という、主の日の礼拝として神様の前に近づいています。ところが、礼拝の時間、1時間半なり2時間なり終わって会堂を出たら、「もう礼拝は済んだ」となります。家に帰って、また日常生活のさまざまな問題の中に置かれます。また一週間たって、「さあ、また礼拝だ」と、教会に来ます。そしてそれを守るということが、大切なことのように思ってしまう。あるいは、日常生活の中でも聖書はきちんと読むし、お祈りも欠かさず決めたようにしている。だから「私は神様と交わりを持っている」と思っているならば、それは間違いです。
ここでイエス様はそのことをおっしゃっています。サマリヤの人たちは、ゲリジム山でユダの人たちはエルサレムの神殿で、そのような仕来りや習慣で礼拝が守られていくのではない。では何かと言いますと、22節以下に「あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る」。ここに「まことの礼拝をする者たち」とあります。そのようなエルサレムの神殿で、あるいはゲリジム山で礼拝するという、そのような形によって、仕来りや先祖伝来の言い伝えに従って守っている、行事としてそれをこなしているというのではない。それは本当の礼拝ではない。では「まことの礼拝をする」とは何か。「霊とまこととをもって父を礼拝する」のだと言われます。
「礼拝」というのは、何なのでしょうか。これは、私たちが神様との交わりに入ることです。天地創造のはじめに、神様は人を創造されました。神様が私たちを造られた目的は、私たちが、天地万物の創造者、全能者であられる神様と親しい交わりの中にあって、神様の栄光を現す器となる。言うならば、神様の力と恵みと御愛を、私たちを通して現そうと造ってくださった。そのために、エデンの園に人を置いてくださいました。そのとき、人は神様との交わりの中に幸いな生活があった。ところが、その神様と人との交わりの中にサタンが入ってきた。そして、とうとう神様の手から私たちを奪い取ってしまった。神様はご自分の愛の対象として、愛すべき者としての私たちをサタンに奪われてしまった。ですから、もう一度、神様との交わりを持つ者として、取り返すためにひとり子イエス様をこの世に送ってくださいました。イエス様は、私たちの罪のために十字架に命を捨ててくださいました。それは取りも直さず、神様が皆さん一人一人をご自分の交わりの対象として、神様と共に生きる、共に存在する者と造り変えるためです。
ヘブル人への手紙10章19節から25節までを朗読。
この「ヘブル人への手紙」は、「礼拝とは何か」がもっと詳しく語られています。そこには神様の命令に従って設けた神殿、幕屋ではどのような手順で神様の前に礼拝がささげられたかが詳しく記されています。その中心に祭司の役割があります。当時は、人が直接神様とお話しすることができなかった。そこで神様は、代わりに祭司を立てて、人と神様との間を結びつけて交わりを回復する道筋を備えてくださった。ところが、その道筋は、実に細くてか弱い。祭司はあくまでも人の中から選んで、立てられたから、神様の前に十分な執り成しをすることができない。どうしても限界があります。そこで神様は、永遠の大祭司としてひとり子イエス様をこの世に遣(つか)わしてくださいました。イエス様が十字架に命をささげてくださった、あのゴルゴタの丘の十字架は、まさに、このイスラエルの民が連綿として長い年月、神殿を通して神様の前に礼拝をささげたときの祭司の務めが、あの十字架だったのです。祭司が絶えずささげるいけにえとして動物をささげましたが、イエス様はご自分の体をいけにえとしてささげました。そして、神様は過去、現在、未来にわたって、また男女、老若、年齢にも関係なく、すべての人のあがないを成し遂げてくださいました。かつて、イスラエルの国ではそのような神殿を設けて、その場所に出かけて、自分で動物をあがなってそれをほふり、祭壇にささげ、その血によって清められたのです。その務めを果たしていたのが祭司です。この祭司は、神様が定めたレビ族に属する人たちでしたが、それでは限りがある。その代わりに、二度と動物のいけにえがいらない、完全な、全きあがないを成し遂げるために、大祭司としてイエス様を送ってくださいました。ですから、私たちにとって十字架を抜きにしては、神様の礼拝はあり得ない。私たちがどんな犠牲、献身、あるいは、どのように生活がまじめでどこ一つとっても非の打ち所がない者であっても、それでは神様の前には立てない。
19節に「こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ」とあります。かつては、その聖所に入るのは限られた人たちだけでした。一般の人たちは入れませんから、祭司に託して神様に取り次いでもらう。祭司が聖所に入り、また大祭司は年に一度だけ更にその奥の至聖所に入ることができる。複雑な手続きが必要であった。ところが、イエス様が来てくださって、大祭司となって神殿の奥、至聖所にお入りになって、しかもご自分を傷のない完全な犠牲として十字架に釘付けて、血を流してくださいました。動物の血を振り掛けて多くの人の罪を清めたのですが、今は、イエス様の血潮を私たちにかけてくださったのです。罪を赦し、清めて、はばかることなく、遠慮なく父なる神様の御許(みもと)に引き入れてくださった。ですから、19節以下に「わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、20 彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのである」。このイエス・キリストの血潮を携えて、十字架のあがないによって、私たちは神様の前に立つことができる。この間に誰の紹介も、誰の仲介もいらない。21節に「さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから」とあります。しかも、幕屋を通って行かれた大祭司なるイエス様は、私たちの祭司として今も父なる神の右に座して執り成してくださる。私たちは今、はばかることなく神様の前に出て行くことができ、神様と親しい交わりを持つことができる、礼拝する民と変えていただいている。大変大きな恵みの中に置かれているのです。イエス様が私たちの罪のために十字架に命を捨て、血を流して清めてくださった。そればかりか、「父よ、彼らを許し給え」と執り成してくださる主が、大祭司として父なる神の右に座していてくださいます。イエス様の執り成しによって、私たちは父なる神様の前に出ることができる。これが礼拝です。
22節に「心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか」。礼拝とは神様の前に近づくことです。今私たちはこのように集まって、この所で礼拝をささげていますが、人の前に立っているのではありません。神様の前に文字通り立っているのです。そして、それが許されるただ一つの道は、イエス様が私たちのために命を捨て、血を流してくださった恵みと喜びと感謝をもって、神様の前に立っているのです。ですから、礼拝は私たちにとって大切な命であります。これを欠いたならば、命を失います。ここに「信仰の確信に満たされつつ」、言い換えると、イエス様が救い主となって、十字架に命を捨て、あのこと、このこと、こんな弱いところ、またかたくなで強情なところ、心の罪も汚れも、一切を清めてくださったと確信して、父なる神様の前に近づく。これが神様との交わりです。そのために十字架を通り、主の許しをはっきりと感謝して受けることが、大切です。
23節以下に「また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、24 愛と善行とを励むように互に努め、25 ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか」とあります。「わたしたちが告白する望み」とあります。私どもは何を告白するのでしょうか? 「私はイエス様の十字架によってあがなわれた。買い取られて神のものとされました」という確信です。そして「私はイエス様のものです」と、主のあがないにあずかっていることをはっきりと告白する信仰に立つことです。そして「愛と善行とを励むように互に努め」とあるように、主の御愛と励ましによって、御心にかなう行いを追い求めていく。さらに「集会をやめることはしないで」と。集会は主の臨在に近づく場所です。ですから、礼拝とはこの日曜日の礼拝だけが礼拝ではありません。信徒会であるとか、婦人会であるとか、若家族会であるとか、青年会であるとか、そのような部会もまた礼拝です。また、伝道集会も木曜会も祈祷会も祷告会も、それは礼拝です。と同時に、自宅にあっても、日々が神様との交わり、礼拝の民なのです。神様を礼拝する者として、私たちを選び召してくださったのです。ですから、家庭にあっても、そこで神様の前に十字架のあがないを信じて、血潮を携えて執り成してくださる大祭司なるイエス様にすがって、父なる神様の前に出る。日々、神を礼拝する者としての生活が続いてきて、日曜日の朝の礼拝へとつながってくる。ですから、日々の生活が神様にささげられた礼拝であり、そこで父なる神様との交わりの中に生きる者であることを知っておきたい。
ヨハネの第一の手紙1章1節から3節までを朗読。
3節の後半に「あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである」。この「交わり」が礼拝です。礼拝というと、神様の前に出るのですから、パジャマ一つで出るわけにはいかないでしょう。かしこまって、主のあがないの尊さを心に置いて、畏(おそ)れかしこんで主の前に出ます。だからといって、それは何か特別なことではなくて、交わりの中に置かれていることです。ここにも「わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わり」とあります。私たちは日々の生活を通して、神様を礼拝する民であることを自覚したいと思います。
礼拝は日曜日の1時間半の間だけと思ったら間違いです。毎日、神様の前に出て、十字架のあがないを感謝し、はばかることなく主に祈ることができ、主のみ声を聞くことができる。主と交わる。「出エジプト記」に記されていますが、神様は、イスラエルの民に幕屋を造ることを命じました。そのとき、神様はそれを聖別なさって「わたしはその所であなたに会い、あなたと語るであろう」と、語っている。当時は、その幕屋でなければ神様にお会いできませんでした。しかし、今はイエス様ご自身が幕屋となり、大祭司となって至聖所に入り、自分を犠牲としてささげて、血を流し、私たちのあがないを全うしてくださいました。その大祭司なるイエス様が、神の右に座しています。その御方の前に私たちが出るとき、「わたしはその所であなたに会い、あなたと語る」と言われます。ですから、日曜日の礼拝にどうにも出られないという方もいます。だからといって、礼拝ができないわけではありません。「そうだったら、礼拝に行かないでおこう」と、それはまた間違いです。一週間の礼拝があって、喜び感謝して総決算として、また新しい出発として、この公同の礼拝、そこに集うことが不可欠なのです。たとえ遅れようと、何はさておいてまず、礼拝に近づく。これは私たちの命であります。そして、そこだけで終わらないで、その恵みと感謝をもって、今度は出て行くのです。遣わされたそれぞれの家庭で、職場で、置かれた地域社会の中で、神様を前に置いて、右に置いて、神を礼拝する者としての一日、一日を歩んでいきます。
ローマ人への手紙12章1、2節を朗読。
ここに「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」とあります。神様の前に礼拝をささげることは、どうすることか? 確かに、み言葉をいただいて「神様!本当に感謝します」と主を褒めたたえ、感謝賛美する、これも大切なことです。また、祈ること、悔い改めの祈り、執り成しの祈り、癒しの祈り、さまざまな問題、事柄に関してことごとく神様の前に思いをささげることがあります。そして、もう一つ、ここにありますように「あなたがたのからだを」と。私たちのからだと言われると、つい肉体を考えますが、身体を含めて生活全般すべてを神にささげる。神のものとしてささげ、今度はそれを私たちが託されたものとして受ける。「これは私のものではありません。これは神様!あなたのものです」と、告白すること、これが礼拝です。
礼拝で献金をしますが、神様からいただいたものをささげる。それは、私たちの健康も生活も仕事も、すべてのものが神様のものですと、証詞する行為なのです。今日はいい話を聞いたから献金をちょっと増やしとこうとか、そのようなものではない。地上にある私のすべては、実は、神様、あなたのものです。そしてあなたからいただいて、一週間の旅路を守られてきました。その感謝の証詞として精いっぱいこれを主におささげいたします。本来なら私の体も何もかもこの献金袋の中に入れてしまいたいのだけれども、その気持ちを精一杯の献金に託す。全部あなたのものですと、感謝をささげるのが礼拝です。日々の生活の中で、毎日神様の前に自分をささげること、ああなりたいとか、こうしたいとか、こうでなければ嫌だとか、自分の思いを全部神様にささげる。それがここにあります、「あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって…」。そうやって、絶えず心を切り替えるのです。気がつかないうちに神様のものを自分のものとしてしまっている。私が、私がと、そのためにできない、うまくいかない。どうしよう、こうしよう。あいつが悪い、こいつが悪いと、心が落ち込んでしまう。神様の手に明け渡し、ささげて、すべては主のものですと、イエス様の命に生かされる自分であることを告白していきたい。それが「まことの霊的な礼拝」です。
「ヨハネによる福音書」4章23節に「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る」。神様の霊に満たされて、神様が私たちに与えてくださった真実な御愛を心に感謝し、受け、父なる神様を礼拝する。父なる神様との交わりを通して、神様からの豊かな御愛と慰めと恵みと力を注いでいただく。これが礼拝です。その後に「そうだ、今きている」と。今が、この地上において許されたまことの礼拝をするときなのです。その後に「父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである」。父なる神様はまことの礼拝をする者となってほしいと、切に願っておられる。神様との密接な交わりの中に日々生きる者となりたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。