ガラテヤ人への手紙5章2節から6節までを朗読。
6節「キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである」。
ガラテヤの手紙は、聖徒パウロがガラテヤの教会の信徒に宛てたメッセージですが、この教会の人たちはかつてユダヤ教であった人たちが、イエス様の福音に触れて新しい生涯に生きる者となった人が多かったようです。それだけに大きな喜びもありました。イエス様が私たちの罪のために十字架に死んでくださった。そしてよみがえって私たちを生きる者としてくださったという新しい喜び。それまでユダヤ教の世界では、旧約聖書の律法にがんじがらめに縛られた生活。毎日の一つ一つの業、事柄、すべてが決められている。こうしてはいけない、ああしてはいけない、このようなものを食べてはいけない。これは穢(けが)れたものというような、細かい戒律、習慣が、長年生活を規制していた。それで生きてきたのです。ところが、イエス様は、そのような律法を行うことによって、それを守ることで、人が神様の前に義とされる。神様の前に潔(きよ)い者となり、罪なき者として立つことができないことを示されたのです。それだけでなく、そこから救いにあずかる道はただ一つ、神様が備えてくださった救い主であるイエス様を信じる以外にない。イエス様を信じさえすれば、それですべておしまい。こんな素晴らしい話です。それまでは、いろい ろなことで不自由な生活を強いられていたユダヤ人でしたが、イエス様を信じさえすれば後は何にもない。今までの戒律や習慣をいちいち守らなくてもいい。これは大きな喜びでした。それで皆がそれはいいことだとイエス様を信じた。初めはそのように喜びましたが、だんだんと「このようなことでいいのだろうか? 昔はあれもしていた、これもしていた、こんなこともしていた。何かそのようなことを少しはしなければいけないのではないだろうか? 」と言って、ガラテヤの人々は、また昔の生活習慣と言いますか、そのようなものに戻っていこうとしたのです。
そのことが2節に「見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう」語られています。割礼という言葉で代表されている律法の全体、神様が「このようなことを守りなさい」と求められた事柄の一つ一つ、それを割礼という言葉で表しています。またこの割礼という体に傷をつけて神様の前に自分をささげる、清い者として自分があがなわれた者となる。そのような儀式、手続きです。そのようなことをすることによって、義とされるのだと信じている。何か事をすることに中心が移ってしまう。その事の背後に神様が求めている神様のみ思いを忘れて、形だけのものになっているのです。それで、彼らもイエス様を信じることはいいけれども、信じても手応えがない。何か自分に確信を持ちたい。
私たちもとかくそのようなことを考えます。「何かしなくていいのでしょうか」と、時々尋ねられます。「先生、洗礼を受けたら、何かしなければならない義務があるのでしょうか。教会員としてすべきことは、何でしょうか」と尋ねられます。「何でもいいですよ」「いや、何でもいいと言われても、困るから、先生、ひとつ具体的に言ってください」と言われます。「しなくてもいいですよ」「でも、献金はしなければいけないでしょう? 」と逆に言われる。「献金、それは神様に感謝することであって、あなたがするかしないか、私が決めるわけにはいきませんよ」と。「いや、幾らぐらいすればいいか、先生、ちょっと耳打ちしていただいたら……。おおっぴらに先生も言いにくいでしょうから、ちょっと紙に書いて渡してください」とそんなことを言われて……。そのように私どもは、何かすることでイエス様の救いを確信しようとするのです。これを守っているから、イエス様につながっていると思いたい。これが、ユダヤ教からクリスチャンになった人たちの考えです。私どももそうでしょう。日本は、古くから仏教や神道やさまざまな宗教でごちゃ混ぜになっていますが、朝起きたらこれをして、年に何回は神社仏閣に行って、お盆だ、何だという宗教行事、行事としてそれを守ることが、安心につながる。だから、何もしなくていい、ただ信じていればいいと言われても、それではちょっと心もとない。それでいろいろな規則、あるいは習慣を守ろうとしやすいのです。
このとき、ガラテヤの人々にパウロが言うのは、そのようなことは一切無用だ、というのです。この4節に「律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている」と。「律法による義」は、私がこんなに努力している、こんなに頑張ってこのことをした。お百度参りであるとか、千日修行であるとか、あるいは塩断ち、好きなものを断ち、頑張って、満願、達成したと。それによって私は義人だ、正しい人間だ、と誇りたい。そこにはキリストがいない。イエス様の十字架が要らなくなる。これは私たちが警戒しなければならないことです。4節に「律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている」と。キリストから離れたら何の救いもない。だから「恵みから落ちている」。5節に「わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている」。私たちが義とされるのは、ただイエス・キリストを信じて、イエス様に従っていく。イエス様を信頼して、その御愛と恵みに応えていくことです。そして6節に「キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない」。イエス様を信じて、救いにあずかった者は、という意味です。割礼があるとかないとか、あれをしているとかこれをしているとか、こんな行いがいいとか、こんな行いは悪いとか、あの人はこんなことをした、この人はこうだとか、そんな外側から見る善行や功徳(くどく)といった事は一切問題ではない。そんなものはどうでもいい。そして「尊いのは、愛によって働く信仰だけである」と。「愛によって働く信仰」、これがすべて。
クリスチャンの生涯、イエス様の救いにあずかって生きるとは、どのようなことでしょうか?「コリント人への第二の手紙」5章には、私たちが今、生きているのは「自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである」と記されています。よみがえった方は主イエス・キリスト。イエス様のための生涯です。だから、毎日、朝起きて、今日も主のための一日、主のための、キリストのための私、ということが、まず第一にある。それと同じことですが、表現を変えるならば「愛によって働く信仰」だと言えます。イエス様の救いに生きる生き方と、イエス様を知らない生き方と、どこが変わるか。まず、目的が変わる。自分の生きている目的が、イエス様のために生きる目的に変わる。私たちは主人のためでもなく、子供のためでもなく、ましてや、自分自身のために生きているのではない。イエス様を知らないときはそうでした。世間の多くの人々は皆、人のため、世のため、自分のために生きる。殊に、「自分のため」が中心です。自分のためにああしてこうしてと、それを求めます。ところが、私どもは、今イエス様の救いにあずかって、自分のためではない。「わたしはキリストと共に十字架につけられた」(ガラテヤ2:20)のです。私はイエス様と一緒に死んでしまった。もう私が生きているのではない。「キリストが、わたしのうちに生きておられる」のです。イエス様が私の内にあって、よみがえりの力によって生かしてくださっている。今日も主のために生きる者とされている。その次にもう一つ、これは非常に大切なことですが、今度は目的に対して、動機です。生きる動機、これが変わる。かつてイエス様を知らないときは、何によって生きてきたのか。自分の損得利害でしょう。自分の感情や、自分の情動・情欲に引き回されて生きてきたのです。分かりやすく言うと、欲のために生きてきた。あれをしたら得になる、これをしたら損をする。私はこれが好きだから、これを願っている、そのような欲得で生きていたのが私たちだった。そのために行き詰って、どうにもならなくなったのです。そこへイエス様が来てくださって、私たちに神様の限りない御愛を顕(あらわ)してくださいました。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」と「ヨハネによる福音書」3章にあります。滅ぶべき者、罪びとであった私たちのために、神様は限りない御愛を示してくださった。
ローマ人への手紙5章6節から11節までを朗読。
6節に「わたしたちがまだ弱かったころ」「不信心な者たちのために死んで下さった」とあります。また8節には「まだ罪人であった時」「キリストが死んで下さったことによって」「愛を示されたのである」。イエス様が、十字架にご自分の命を捨ててくださったのは、何をしようとしたのか? それは私たちに「愛を示すためであった」というのです。「我窮(かぎり)なき愛をもて汝を愛せり故にわれたえず汝をめぐむなり」(エレミヤ31:3文語訳)と、神様は私たちを造られた創世の初めから、私たちを愛してやまない方でいらっしゃる。神様から離れて滅びの中に、闇の中に、穢れの中に生きている私たちを憐(あわ)れんでくださった。そのように滅ぶべき者のために、イエス様があえて神の位を捨ててこの世に来てくださいました。これ以上の愛を顕す方法はない。神様は、何をもって神様の御愛を顕そうとなさったか。それはただ一つだけです。ひとり子であるイエス様をあえて罪びとのために、あがないの犠牲としてこの世に送ってくださった。そして今私たちは神様の御愛のゆえに、ただイエス様を信じて、正しく、義とされ、神様の子供としていただいている。私たちは神様の御愛によってあがなわれたものです。だから、イエス様を信じて新しい命に生きるとき、生きる動機が変わる。目的が変わるばかりでなく、すべての業の動機が「主が私を愛してくださったから」、この一点です。神様が私を限りない御愛をもって今日も愛してくださっている。主の御愛を時々刻々絶えず感じて、主の御愛に応答していく、お答えしていく。これが私たちのクリスチャン生涯の生きる命の原動力、エネルギーです。もしこれを失ったら、形ばかりどんなにいいことができても、また人に喜ばれること、何をしようと、それは無である。そのことは「コリントの第一の手紙」13章にはっきりと記されています。どんなに神様の言葉を語ろうとも、どんなに素晴らしいことを言おうと、「もし愛がなければ」、犠牲、献身をしようと、「もしそこに愛がなければ」すべてのものはむなしい。本当のクリスチャンとして生きる原動力は、主の御愛に満たされていることです。だから、私たちに、もし、愛が消えているならば、それはキリストから離れているのです。
8節に「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」。敵であったとき、神様を知らない不信心な者、罪人であった私たちのために、あえてひとり子である神の子イエス様が私たちの所へ来て、十字架に命を捨ててくださいました。主の御愛に私たちはどれ程感謝しているだろうか。ご愛をどれ程真剣に、新鮮な思いをもって、今日も感謝しているだろうか。そしてこのような者を愛してくださった主がいるから、主の御愛に応えて今日も生かされた私。そのイエス様の御愛に応えて、主が導かれること、主が求めていることは何だろうか。何としてもそれに応えていきたい、その切なる願いをもって、主の御愛に応える、応答する歩みが、実はクリスチャンの命、力です。ところが、その愛が欠けてしまうとき、私たちは命を失います。その結果、日々の生活に疲れます。つぶやきが出ます。苛立ちや憤りが心を支配してきます。そのとき、クリスチャンとしての命を失いつつある。もう一度、原点に立ち返らなければなりません。
「ヨハネの黙示録」2章1節から5節までを朗読。
これはエペソにある教会に神様が警告なさった一節ですが、エペソの教会は大変に恵まれた教会であったと思います。また素晴らしい業を行った教会でした。2節に「あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている」と神様はおっしゃいます。いろいろなことに労を尽くし、身を惜しまず、また耐え忍んで、教会を守って、キリストの僕として仕えていた。そればかりでなく、3節には「わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった」。キリストのためにと一生懸命に自分をささげて頑張っていた。見る所どこにも非の打ち所がない、素晴らしい教会であったのです。ところが、ここで神様がエペソの教会に警告をしたのは、4節に「しかし、あなたに対して責むべきことがある」。それは「あなたは初めの愛から離れてしまった」。あなたは確かに忍耐をし、キリストのためならば善きことも、苦しいことも、耐えて忍んでやってきた立派な者だ。しかし、残念ながらあなたには愛がない。これは決定的な問題です。
私たちにも絶えず問われていることです。地上の日々の生活そのものが、実はキリストの愛に根差し、愛を基として、生活していなければ、私たちには命がないからです。自分自身が何を動機として生きているのか? 自分のためだけ、自分の損得利害だけ、欲得のためにだけ、あるいは私の子供のために、孫のためにと。それは愛のように思いますが、子供を愛する愛、主人や奥さんを愛する愛、その愛は本当の愛ではありません。結局のところは自己愛です。ここで言われている愛は、キリストの愛です。神様が私をどんなに愛してくださっているか、神様の御愛に触れ、御愛に感動し、それに励まされ、促(うなが)されて押し出されて生きることが、主の愛に生きる生涯です。私たちには愛がありません。「いや、そんなことはない。私には愛がある。私は子供を愛してたまらない。私はその子の身代わりになってもいい」と反論されるかもしれません。では、その子の身代わりになれるかと言うと、なれません。イエス様は私たちのために命を捨ててくださいました。ご主人が奥さんをどんなに愛していても、奥さんのために身代わりになることはできません。それは肉にある私たちの、限りある人間の限界です。それをまるで「私には愛があります」と言うならば、それは偽りです。まがい物の愛はあるかもしれない。似たようなものはあるかもしれない。しかし、神様の愛は私たちにありません。イエス様の愛は十字架以外のどこにもありません。また主の御愛を信じて、御愛に応えたときに、天からの神様の愛が、私たちの内に満ちてくる。黙想したり、あるいは沈思黙考、壁に向かって神様の御愛を一生懸命に考えてみたって、何の役にも立たない。愛に生きることはできない。ただ一つだけ、「主よ、今日もあなたにお従いします」と自分を捨てて、主の御愛に応えて歩んだとき、キリストの御愛が私たちの内にあふれてくる。そのときだけです。そしてそれを絶えず続けていくところに、主の愛がとどまり、また御愛に応えて、新しい命に生きる生涯に変わっていく。4節に「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」。そして5節に「そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい」。「今は恵みのとき、今は救いの日」、この日この時、悔い改めて、神様の御愛に立ち返らなければ、二度とその時が来ない。ですから、私たちはどこから離れていったか。神様の御愛を感じられなくなった、鈍感になってしまった、鈍くなってしまった心の皮をはいで、それを脱ぎ捨てて、新鮮に感じやすい心に変えられたい。
冬場になると、足のかかとの皮が硬くなって、カチカチになる。何を踏んでも感じない。触られても分からないくらいになります。ところが、お湯で柔らかくして軽石でこすってやると、だんだんと厚い皮が薄くなってきて、新鮮な新しい皮に変わる。そうすると非常に敏感な感じやすいものに変わっていく。私たちの心が主の恵みに慣れ、また神様の御愛に慣れて、その結果慣れ侮(あなど)る。気がつかないうちに、心がイエス様の愛ではなく、世のさまざまなものが心に入ってくる。そのとき、ここにあるエペソの教会のように業においても、労苦においても、忍耐においても、立派な行いはするかもしれないけれども、その中身は腐っている。まず、毎日の生活に喜びを失います。感謝ができない、うれしくない、何か疲れてくる、ため息が出る。そのような時、自分に神様の御愛が欠けているのだと思っていただきたい。そして、家族のあの人、この人が気になる。一言文句を言わなければおれなくなる。ぶつぶつ言うでしょう。言わなくてもいいことを言う。そのような時、自分の心に生きていることの喜びがない。生きる喜びは、イエス様の御愛に満たされて感謝しているときです。
私は献身に導かれたとき、神様がどんなに大きな御愛をもって私を愛してくださったか、本当に圧倒されました。そのことは今でも忘れることはできません。今でもそのことを思い出しますと新しい感激が湧いてきます。それまで、どんなに神様が私のことを顧(かえり)みてくださったか。そんなこととは露知らず、自分の好きなこと、自分のしたいこと、自分の願いばかりを押し付けて生きてきた。そのような私に、神様は問いかけてくださいました。「お前はそれでいいのか」。それまでの生活は自分の夢の実現であった。そんなことで、私は神様の御愛に応えてきたのだろうか? 自分の短い生涯でありますが、生きてきた人生をパノラマのごとく見せられて「それでも、お前はまだ自分のために生きるのか? 」と問われ、主の御愛が心にあふれてきました。そうなると、自分のことなど、もうどうでもいい。神様、あなたにお従いします。もう良いも悪いもない。本当に喜びと感謝、その思いは今でも変わることはありません。しかし、ともすると現実のいろいろな問題で、主の御愛から離れていきやすい。そうしますと、つぶやく。ため息が出る。あれこれ、人を非難するようになる。エペソの教会のように「あなたは初めの愛から離れてしまった」。そのようなとき、主の前に立ち返ることが必要です。主の御愛に感謝感激して、今日もこのような者が許されて、父なる神様の右にあって主が執り成してくださっているから、生きている。この恵みの中に生きることができる幸いを感謝して、どのようなことがあっても喜んで、主が「せよ」とおっしゃれば「はい」と、「主が求めていらっしゃるから、ここは私がさせていただきましょう」と、何も言われなくても自分を捨てる。
「ヨハネによる福音書」15章9、10節を朗読。
9節に「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである」。何がイエス様をして、この地上の生涯を歩ませたか? それはただ一つです。動機は父なる神様の愛です。「父がわたしを愛された」と、父なる神様の愛をイエス様は四六時中、絶えず感じ続けておられた。自分が愛されている者であることを知っていた。愛されているはずのイエス様は、何を受けたか。十字架の苦しみです。考えてみますと、「どうしてそのようなことが愛だろうか」と思います。愛する子供に十字架の責め苦を受けさせて、何が愛かと思われます。しかし、イエス様はそれでもなお「父がわたしを愛された」と言い切っている。10節に「父のいましめを守った」。父がわたしを愛してくださっていることを知るのは、イエス様は父なる神様のお言葉に従って、十字架の死を甘んじて「父なる神様の御心です」と、感謝して受けたとき、父なる神様の愛をイエス様は自分のものとすることができた。そのように、10節に「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである」。「主のいましめを守る」とは、イエス様のみ思い、御心を求めて、自分を明け渡していく。そのときに主の御愛が私たちの内にあふれるのです。私たちは順序が逆になりやすい。愛してくれたら愛そうと思うでしょう。愛を味わうことができたら、はっきりこれが愛だと分かるなら、私もその人を愛そうと。それは逆です。イエス様は「愛した」とおっしゃいますから、「はい、愛されました」と、まず信じて、主が愛してくださるから「主よ、私はあなたに従います」と、主の愛に応えて従ったとき、初めてその愛が具体化して私たちの内にあふれてくる。だから、最初の一歩、御愛に応えていく。そうすると、次に神様は私たちに愛をあふれさせてくださる。そしてイエス様の御愛に応えて、感謝し、喜んで歩んでいくとき、どのような困難も苦しみも、もはや重荷でも苦しみでもなくなる。
「創世記」29章15節から20節までを朗読。
これはイサクの息子ヤコブがお兄さんとけんかして、とうとう家を出て伯父さんラバンのうちに居候(いそうろう)をすることになりました。彼は一生懸命にラバンのために働いたのです。あまりに良く働くから、伯父ラバンは申し訳なくなって「何かお前に報酬をやろう」と、「何が欲しいか」と。そのとき、叔父さんの所にはラケルとレアという二人の娘さんがいた。妹のラケルはとても愛らしくて、この妹の方と結婚したいと言いました。そしたらラバンが「よし、よし、それではもう後七年働け」と言うのです。つごう十年くらい働くことになりますが、そう言われました。20節に「こうして、ヤコブは七年の間ラケルのために働いたが、彼女を愛したので、ただ数日のように思われた」。素晴らしいです。七年間が数日のごとく思われた。何のために? ラケルを愛した愛のゆえでしょう。イエス様が私たちを愛してくださった御愛を感謝して、愛によって生きるとき、この地上のどのような苦しみも困難も、七十年であろうと百年であろうと、一日、二日、数日のごとくに思えるのです。こんな素晴らしい話はない。ところが、ヤコブはその後、ラケルと結婚しようとしたときに、お父さんがうまくだまして、お姉さんの方と先に結婚することになった。それでとうとうヤコブは怒って「どうしてこのようになったのですか? 」「いや、妹から先に嫁にやるわけにはいかない」と言うのです。とうとう「その後七年働きなさい」と、また更にヤコブは叔父さんの所で働いたのですが、そのときも恐らくこれと同じです。ラケルを愛していたから「ただ数日のように」です。
私どもは、だいぶ人生に疲れて、晩年も近づいて、早く迎えが来ないものかと首を長くして待っているかもしれませんが、それはキリストの御愛から離れているからです。私たちがイエス様の愛に生かされて、たとえ年を取ろうと、外なる人が滅びようと、肉体が弱ってこようと、主が今日も生かしてくださると、イエス様の御愛に感謝して喜んで生きるとき、残された十年が一日のごとく、三日か四日のごとくにアッという間に過ぎていきます。気がついたらイエス様の懐の中に抱かれているのです。そのような人生を私たちに与えようとしてくださる。
「ガラテヤ人への手紙」5章6節に「キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである」。私たちになくてはならないものは何か?絶えず神様の御愛、イエス様が顕(あらわ)してくださった十字架の御愛をいつも受けていく。それに感謝し、それに感動し、今日もその主の御愛に励まされて生きる日々でありたいと思います。
皆さんも結婚した初めのころのことを思い返すと、「愛に満ちていたときがある」。そのときはヤコブのごとく、一日、二日、三日、アッという間に年月がたった。ところがだんだんその愛が消えていくと、主人と一緒にいるのも疲れるようになってくる。それは、人の愛には限りがあるからです。私たちは神様の御愛に絶えず潤(うるお)されていきたいと思います。そのためには、まず私たちがどのようなところから召され、招かれ、あがなわれた者であるか。どのような自分であったのか。神様のひとり子を賜うほどの御愛を受ける値打ちや資格がどこにあったのか、よくよく考えてみてください。何もないのです。ただ一方的に神様のほうが、目を留めてくださって、滅び行く私どもを救い出して、愛に生きる生涯へ変えてくださった。これは私たちの命です。だから、毎日、健康だから生きているのではありません。イエス様が私のために今日も父なる神の右に座してくださって、執り成してくださっている。ご自身の血を携えて「今日も、彼を許し給え。榎本を許してください」と、執り成してくださる主の御愛に励まされて「今日も主よ、あなたのために生きます」と、主に応えて、主が今日置いてくださる所で、与えてくださる問題や事柄の中で、感謝賛美して生きること、これがどんなに大きな恵みであるか分かりません。主の御愛に根差していなければ、私たちは命を失ってしまいます。
「尊いのは、愛によって働く信仰だけ」、この御愛に根差して、主を信頼して、神様に一切を委ねて、ただ導かれるところに、従順に喜んで従っていこうではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
6節「キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである」。
ガラテヤの手紙は、聖徒パウロがガラテヤの教会の信徒に宛てたメッセージですが、この教会の人たちはかつてユダヤ教であった人たちが、イエス様の福音に触れて新しい生涯に生きる者となった人が多かったようです。それだけに大きな喜びもありました。イエス様が私たちの罪のために十字架に死んでくださった。そしてよみがえって私たちを生きる者としてくださったという新しい喜び。それまでユダヤ教の世界では、旧約聖書の律法にがんじがらめに縛られた生活。毎日の一つ一つの業、事柄、すべてが決められている。こうしてはいけない、ああしてはいけない、このようなものを食べてはいけない。これは穢(けが)れたものというような、細かい戒律、習慣が、長年生活を規制していた。それで生きてきたのです。ところが、イエス様は、そのような律法を行うことによって、それを守ることで、人が神様の前に義とされる。神様の前に潔(きよ)い者となり、罪なき者として立つことができないことを示されたのです。それだけでなく、そこから救いにあずかる道はただ一つ、神様が備えてくださった救い主であるイエス様を信じる以外にない。イエス様を信じさえすれば、それですべておしまい。こんな素晴らしい話です。それまでは、いろい ろなことで不自由な生活を強いられていたユダヤ人でしたが、イエス様を信じさえすれば後は何にもない。今までの戒律や習慣をいちいち守らなくてもいい。これは大きな喜びでした。それで皆がそれはいいことだとイエス様を信じた。初めはそのように喜びましたが、だんだんと「このようなことでいいのだろうか? 昔はあれもしていた、これもしていた、こんなこともしていた。何かそのようなことを少しはしなければいけないのではないだろうか? 」と言って、ガラテヤの人々は、また昔の生活習慣と言いますか、そのようなものに戻っていこうとしたのです。
そのことが2節に「見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう」語られています。割礼という言葉で代表されている律法の全体、神様が「このようなことを守りなさい」と求められた事柄の一つ一つ、それを割礼という言葉で表しています。またこの割礼という体に傷をつけて神様の前に自分をささげる、清い者として自分があがなわれた者となる。そのような儀式、手続きです。そのようなことをすることによって、義とされるのだと信じている。何か事をすることに中心が移ってしまう。その事の背後に神様が求めている神様のみ思いを忘れて、形だけのものになっているのです。それで、彼らもイエス様を信じることはいいけれども、信じても手応えがない。何か自分に確信を持ちたい。
私たちもとかくそのようなことを考えます。「何かしなくていいのでしょうか」と、時々尋ねられます。「先生、洗礼を受けたら、何かしなければならない義務があるのでしょうか。教会員としてすべきことは、何でしょうか」と尋ねられます。「何でもいいですよ」「いや、何でもいいと言われても、困るから、先生、ひとつ具体的に言ってください」と言われます。「しなくてもいいですよ」「でも、献金はしなければいけないでしょう? 」と逆に言われる。「献金、それは神様に感謝することであって、あなたがするかしないか、私が決めるわけにはいきませんよ」と。「いや、幾らぐらいすればいいか、先生、ちょっと耳打ちしていただいたら……。おおっぴらに先生も言いにくいでしょうから、ちょっと紙に書いて渡してください」とそんなことを言われて……。そのように私どもは、何かすることでイエス様の救いを確信しようとするのです。これを守っているから、イエス様につながっていると思いたい。これが、ユダヤ教からクリスチャンになった人たちの考えです。私どももそうでしょう。日本は、古くから仏教や神道やさまざまな宗教でごちゃ混ぜになっていますが、朝起きたらこれをして、年に何回は神社仏閣に行って、お盆だ、何だという宗教行事、行事としてそれを守ることが、安心につながる。だから、何もしなくていい、ただ信じていればいいと言われても、それではちょっと心もとない。それでいろいろな規則、あるいは習慣を守ろうとしやすいのです。
このとき、ガラテヤの人々にパウロが言うのは、そのようなことは一切無用だ、というのです。この4節に「律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている」と。「律法による義」は、私がこんなに努力している、こんなに頑張ってこのことをした。お百度参りであるとか、千日修行であるとか、あるいは塩断ち、好きなものを断ち、頑張って、満願、達成したと。それによって私は義人だ、正しい人間だ、と誇りたい。そこにはキリストがいない。イエス様の十字架が要らなくなる。これは私たちが警戒しなければならないことです。4節に「律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている」と。キリストから離れたら何の救いもない。だから「恵みから落ちている」。5節に「わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている」。私たちが義とされるのは、ただイエス・キリストを信じて、イエス様に従っていく。イエス様を信頼して、その御愛と恵みに応えていくことです。そして6節に「キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない」。イエス様を信じて、救いにあずかった者は、という意味です。割礼があるとかないとか、あれをしているとかこれをしているとか、こんな行いがいいとか、こんな行いは悪いとか、あの人はこんなことをした、この人はこうだとか、そんな外側から見る善行や功徳(くどく)といった事は一切問題ではない。そんなものはどうでもいい。そして「尊いのは、愛によって働く信仰だけである」と。「愛によって働く信仰」、これがすべて。
クリスチャンの生涯、イエス様の救いにあずかって生きるとは、どのようなことでしょうか?「コリント人への第二の手紙」5章には、私たちが今、生きているのは「自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである」と記されています。よみがえった方は主イエス・キリスト。イエス様のための生涯です。だから、毎日、朝起きて、今日も主のための一日、主のための、キリストのための私、ということが、まず第一にある。それと同じことですが、表現を変えるならば「愛によって働く信仰」だと言えます。イエス様の救いに生きる生き方と、イエス様を知らない生き方と、どこが変わるか。まず、目的が変わる。自分の生きている目的が、イエス様のために生きる目的に変わる。私たちは主人のためでもなく、子供のためでもなく、ましてや、自分自身のために生きているのではない。イエス様を知らないときはそうでした。世間の多くの人々は皆、人のため、世のため、自分のために生きる。殊に、「自分のため」が中心です。自分のためにああしてこうしてと、それを求めます。ところが、私どもは、今イエス様の救いにあずかって、自分のためではない。「わたしはキリストと共に十字架につけられた」(ガラテヤ2:20)のです。私はイエス様と一緒に死んでしまった。もう私が生きているのではない。「キリストが、わたしのうちに生きておられる」のです。イエス様が私の内にあって、よみがえりの力によって生かしてくださっている。今日も主のために生きる者とされている。その次にもう一つ、これは非常に大切なことですが、今度は目的に対して、動機です。生きる動機、これが変わる。かつてイエス様を知らないときは、何によって生きてきたのか。自分の損得利害でしょう。自分の感情や、自分の情動・情欲に引き回されて生きてきたのです。分かりやすく言うと、欲のために生きてきた。あれをしたら得になる、これをしたら損をする。私はこれが好きだから、これを願っている、そのような欲得で生きていたのが私たちだった。そのために行き詰って、どうにもならなくなったのです。そこへイエス様が来てくださって、私たちに神様の限りない御愛を顕(あらわ)してくださいました。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」と「ヨハネによる福音書」3章にあります。滅ぶべき者、罪びとであった私たちのために、神様は限りない御愛を示してくださった。
ローマ人への手紙5章6節から11節までを朗読。
6節に「わたしたちがまだ弱かったころ」「不信心な者たちのために死んで下さった」とあります。また8節には「まだ罪人であった時」「キリストが死んで下さったことによって」「愛を示されたのである」。イエス様が、十字架にご自分の命を捨ててくださったのは、何をしようとしたのか? それは私たちに「愛を示すためであった」というのです。「我窮(かぎり)なき愛をもて汝を愛せり故にわれたえず汝をめぐむなり」(エレミヤ31:3文語訳)と、神様は私たちを造られた創世の初めから、私たちを愛してやまない方でいらっしゃる。神様から離れて滅びの中に、闇の中に、穢れの中に生きている私たちを憐(あわ)れんでくださった。そのように滅ぶべき者のために、イエス様があえて神の位を捨ててこの世に来てくださいました。これ以上の愛を顕す方法はない。神様は、何をもって神様の御愛を顕そうとなさったか。それはただ一つだけです。ひとり子であるイエス様をあえて罪びとのために、あがないの犠牲としてこの世に送ってくださった。そして今私たちは神様の御愛のゆえに、ただイエス様を信じて、正しく、義とされ、神様の子供としていただいている。私たちは神様の御愛によってあがなわれたものです。だから、イエス様を信じて新しい命に生きるとき、生きる動機が変わる。目的が変わるばかりでなく、すべての業の動機が「主が私を愛してくださったから」、この一点です。神様が私を限りない御愛をもって今日も愛してくださっている。主の御愛を時々刻々絶えず感じて、主の御愛に応答していく、お答えしていく。これが私たちのクリスチャン生涯の生きる命の原動力、エネルギーです。もしこれを失ったら、形ばかりどんなにいいことができても、また人に喜ばれること、何をしようと、それは無である。そのことは「コリントの第一の手紙」13章にはっきりと記されています。どんなに神様の言葉を語ろうとも、どんなに素晴らしいことを言おうと、「もし愛がなければ」、犠牲、献身をしようと、「もしそこに愛がなければ」すべてのものはむなしい。本当のクリスチャンとして生きる原動力は、主の御愛に満たされていることです。だから、私たちに、もし、愛が消えているならば、それはキリストから離れているのです。
8節に「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」。敵であったとき、神様を知らない不信心な者、罪人であった私たちのために、あえてひとり子である神の子イエス様が私たちの所へ来て、十字架に命を捨ててくださいました。主の御愛に私たちはどれ程感謝しているだろうか。ご愛をどれ程真剣に、新鮮な思いをもって、今日も感謝しているだろうか。そしてこのような者を愛してくださった主がいるから、主の御愛に応えて今日も生かされた私。そのイエス様の御愛に応えて、主が導かれること、主が求めていることは何だろうか。何としてもそれに応えていきたい、その切なる願いをもって、主の御愛に応える、応答する歩みが、実はクリスチャンの命、力です。ところが、その愛が欠けてしまうとき、私たちは命を失います。その結果、日々の生活に疲れます。つぶやきが出ます。苛立ちや憤りが心を支配してきます。そのとき、クリスチャンとしての命を失いつつある。もう一度、原点に立ち返らなければなりません。
「ヨハネの黙示録」2章1節から5節までを朗読。
これはエペソにある教会に神様が警告なさった一節ですが、エペソの教会は大変に恵まれた教会であったと思います。また素晴らしい業を行った教会でした。2節に「あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている」と神様はおっしゃいます。いろいろなことに労を尽くし、身を惜しまず、また耐え忍んで、教会を守って、キリストの僕として仕えていた。そればかりでなく、3節には「わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった」。キリストのためにと一生懸命に自分をささげて頑張っていた。見る所どこにも非の打ち所がない、素晴らしい教会であったのです。ところが、ここで神様がエペソの教会に警告をしたのは、4節に「しかし、あなたに対して責むべきことがある」。それは「あなたは初めの愛から離れてしまった」。あなたは確かに忍耐をし、キリストのためならば善きことも、苦しいことも、耐えて忍んでやってきた立派な者だ。しかし、残念ながらあなたには愛がない。これは決定的な問題です。
私たちにも絶えず問われていることです。地上の日々の生活そのものが、実はキリストの愛に根差し、愛を基として、生活していなければ、私たちには命がないからです。自分自身が何を動機として生きているのか? 自分のためだけ、自分の損得利害だけ、欲得のためにだけ、あるいは私の子供のために、孫のためにと。それは愛のように思いますが、子供を愛する愛、主人や奥さんを愛する愛、その愛は本当の愛ではありません。結局のところは自己愛です。ここで言われている愛は、キリストの愛です。神様が私をどんなに愛してくださっているか、神様の御愛に触れ、御愛に感動し、それに励まされ、促(うなが)されて押し出されて生きることが、主の愛に生きる生涯です。私たちには愛がありません。「いや、そんなことはない。私には愛がある。私は子供を愛してたまらない。私はその子の身代わりになってもいい」と反論されるかもしれません。では、その子の身代わりになれるかと言うと、なれません。イエス様は私たちのために命を捨ててくださいました。ご主人が奥さんをどんなに愛していても、奥さんのために身代わりになることはできません。それは肉にある私たちの、限りある人間の限界です。それをまるで「私には愛があります」と言うならば、それは偽りです。まがい物の愛はあるかもしれない。似たようなものはあるかもしれない。しかし、神様の愛は私たちにありません。イエス様の愛は十字架以外のどこにもありません。また主の御愛を信じて、御愛に応えたときに、天からの神様の愛が、私たちの内に満ちてくる。黙想したり、あるいは沈思黙考、壁に向かって神様の御愛を一生懸命に考えてみたって、何の役にも立たない。愛に生きることはできない。ただ一つだけ、「主よ、今日もあなたにお従いします」と自分を捨てて、主の御愛に応えて歩んだとき、キリストの御愛が私たちの内にあふれてくる。そのときだけです。そしてそれを絶えず続けていくところに、主の愛がとどまり、また御愛に応えて、新しい命に生きる生涯に変わっていく。4節に「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」。そして5節に「そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい」。「今は恵みのとき、今は救いの日」、この日この時、悔い改めて、神様の御愛に立ち返らなければ、二度とその時が来ない。ですから、私たちはどこから離れていったか。神様の御愛を感じられなくなった、鈍感になってしまった、鈍くなってしまった心の皮をはいで、それを脱ぎ捨てて、新鮮に感じやすい心に変えられたい。
冬場になると、足のかかとの皮が硬くなって、カチカチになる。何を踏んでも感じない。触られても分からないくらいになります。ところが、お湯で柔らかくして軽石でこすってやると、だんだんと厚い皮が薄くなってきて、新鮮な新しい皮に変わる。そうすると非常に敏感な感じやすいものに変わっていく。私たちの心が主の恵みに慣れ、また神様の御愛に慣れて、その結果慣れ侮(あなど)る。気がつかないうちに、心がイエス様の愛ではなく、世のさまざまなものが心に入ってくる。そのとき、ここにあるエペソの教会のように業においても、労苦においても、忍耐においても、立派な行いはするかもしれないけれども、その中身は腐っている。まず、毎日の生活に喜びを失います。感謝ができない、うれしくない、何か疲れてくる、ため息が出る。そのような時、自分に神様の御愛が欠けているのだと思っていただきたい。そして、家族のあの人、この人が気になる。一言文句を言わなければおれなくなる。ぶつぶつ言うでしょう。言わなくてもいいことを言う。そのような時、自分の心に生きていることの喜びがない。生きる喜びは、イエス様の御愛に満たされて感謝しているときです。
私は献身に導かれたとき、神様がどんなに大きな御愛をもって私を愛してくださったか、本当に圧倒されました。そのことは今でも忘れることはできません。今でもそのことを思い出しますと新しい感激が湧いてきます。それまで、どんなに神様が私のことを顧(かえり)みてくださったか。そんなこととは露知らず、自分の好きなこと、自分のしたいこと、自分の願いばかりを押し付けて生きてきた。そのような私に、神様は問いかけてくださいました。「お前はそれでいいのか」。それまでの生活は自分の夢の実現であった。そんなことで、私は神様の御愛に応えてきたのだろうか? 自分の短い生涯でありますが、生きてきた人生をパノラマのごとく見せられて「それでも、お前はまだ自分のために生きるのか? 」と問われ、主の御愛が心にあふれてきました。そうなると、自分のことなど、もうどうでもいい。神様、あなたにお従いします。もう良いも悪いもない。本当に喜びと感謝、その思いは今でも変わることはありません。しかし、ともすると現実のいろいろな問題で、主の御愛から離れていきやすい。そうしますと、つぶやく。ため息が出る。あれこれ、人を非難するようになる。エペソの教会のように「あなたは初めの愛から離れてしまった」。そのようなとき、主の前に立ち返ることが必要です。主の御愛に感謝感激して、今日もこのような者が許されて、父なる神様の右にあって主が執り成してくださっているから、生きている。この恵みの中に生きることができる幸いを感謝して、どのようなことがあっても喜んで、主が「せよ」とおっしゃれば「はい」と、「主が求めていらっしゃるから、ここは私がさせていただきましょう」と、何も言われなくても自分を捨てる。
「ヨハネによる福音書」15章9、10節を朗読。
9節に「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである」。何がイエス様をして、この地上の生涯を歩ませたか? それはただ一つです。動機は父なる神様の愛です。「父がわたしを愛された」と、父なる神様の愛をイエス様は四六時中、絶えず感じ続けておられた。自分が愛されている者であることを知っていた。愛されているはずのイエス様は、何を受けたか。十字架の苦しみです。考えてみますと、「どうしてそのようなことが愛だろうか」と思います。愛する子供に十字架の責め苦を受けさせて、何が愛かと思われます。しかし、イエス様はそれでもなお「父がわたしを愛された」と言い切っている。10節に「父のいましめを守った」。父がわたしを愛してくださっていることを知るのは、イエス様は父なる神様のお言葉に従って、十字架の死を甘んじて「父なる神様の御心です」と、感謝して受けたとき、父なる神様の愛をイエス様は自分のものとすることができた。そのように、10節に「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである」。「主のいましめを守る」とは、イエス様のみ思い、御心を求めて、自分を明け渡していく。そのときに主の御愛が私たちの内にあふれるのです。私たちは順序が逆になりやすい。愛してくれたら愛そうと思うでしょう。愛を味わうことができたら、はっきりこれが愛だと分かるなら、私もその人を愛そうと。それは逆です。イエス様は「愛した」とおっしゃいますから、「はい、愛されました」と、まず信じて、主が愛してくださるから「主よ、私はあなたに従います」と、主の愛に応えて従ったとき、初めてその愛が具体化して私たちの内にあふれてくる。だから、最初の一歩、御愛に応えていく。そうすると、次に神様は私たちに愛をあふれさせてくださる。そしてイエス様の御愛に応えて、感謝し、喜んで歩んでいくとき、どのような困難も苦しみも、もはや重荷でも苦しみでもなくなる。
「創世記」29章15節から20節までを朗読。
これはイサクの息子ヤコブがお兄さんとけんかして、とうとう家を出て伯父さんラバンのうちに居候(いそうろう)をすることになりました。彼は一生懸命にラバンのために働いたのです。あまりに良く働くから、伯父ラバンは申し訳なくなって「何かお前に報酬をやろう」と、「何が欲しいか」と。そのとき、叔父さんの所にはラケルとレアという二人の娘さんがいた。妹のラケルはとても愛らしくて、この妹の方と結婚したいと言いました。そしたらラバンが「よし、よし、それではもう後七年働け」と言うのです。つごう十年くらい働くことになりますが、そう言われました。20節に「こうして、ヤコブは七年の間ラケルのために働いたが、彼女を愛したので、ただ数日のように思われた」。素晴らしいです。七年間が数日のごとく思われた。何のために? ラケルを愛した愛のゆえでしょう。イエス様が私たちを愛してくださった御愛を感謝して、愛によって生きるとき、この地上のどのような苦しみも困難も、七十年であろうと百年であろうと、一日、二日、数日のごとくに思えるのです。こんな素晴らしい話はない。ところが、ヤコブはその後、ラケルと結婚しようとしたときに、お父さんがうまくだまして、お姉さんの方と先に結婚することになった。それでとうとうヤコブは怒って「どうしてこのようになったのですか? 」「いや、妹から先に嫁にやるわけにはいかない」と言うのです。とうとう「その後七年働きなさい」と、また更にヤコブは叔父さんの所で働いたのですが、そのときも恐らくこれと同じです。ラケルを愛していたから「ただ数日のように」です。
私どもは、だいぶ人生に疲れて、晩年も近づいて、早く迎えが来ないものかと首を長くして待っているかもしれませんが、それはキリストの御愛から離れているからです。私たちがイエス様の愛に生かされて、たとえ年を取ろうと、外なる人が滅びようと、肉体が弱ってこようと、主が今日も生かしてくださると、イエス様の御愛に感謝して喜んで生きるとき、残された十年が一日のごとく、三日か四日のごとくにアッという間に過ぎていきます。気がついたらイエス様の懐の中に抱かれているのです。そのような人生を私たちに与えようとしてくださる。
「ガラテヤ人への手紙」5章6節に「キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである」。私たちになくてはならないものは何か?絶えず神様の御愛、イエス様が顕(あらわ)してくださった十字架の御愛をいつも受けていく。それに感謝し、それに感動し、今日もその主の御愛に励まされて生きる日々でありたいと思います。
皆さんも結婚した初めのころのことを思い返すと、「愛に満ちていたときがある」。そのときはヤコブのごとく、一日、二日、三日、アッという間に年月がたった。ところがだんだんその愛が消えていくと、主人と一緒にいるのも疲れるようになってくる。それは、人の愛には限りがあるからです。私たちは神様の御愛に絶えず潤(うるお)されていきたいと思います。そのためには、まず私たちがどのようなところから召され、招かれ、あがなわれた者であるか。どのような自分であったのか。神様のひとり子を賜うほどの御愛を受ける値打ちや資格がどこにあったのか、よくよく考えてみてください。何もないのです。ただ一方的に神様のほうが、目を留めてくださって、滅び行く私どもを救い出して、愛に生きる生涯へ変えてくださった。これは私たちの命です。だから、毎日、健康だから生きているのではありません。イエス様が私のために今日も父なる神の右に座してくださって、執り成してくださっている。ご自身の血を携えて「今日も、彼を許し給え。榎本を許してください」と、執り成してくださる主の御愛に励まされて「今日も主よ、あなたのために生きます」と、主に応えて、主が今日置いてくださる所で、与えてくださる問題や事柄の中で、感謝賛美して生きること、これがどんなに大きな恵みであるか分かりません。主の御愛に根差していなければ、私たちは命を失ってしまいます。
「尊いのは、愛によって働く信仰だけ」、この御愛に根差して、主を信頼して、神様に一切を委ねて、ただ導かれるところに、従順に喜んで従っていこうではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。