イザヤ書28章14節から22節までを朗読。
16節に「それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。『信ずる者はあわてることはない』」。
15節に「われわれは死と契約をなし、陰府と協定を結んだ」とあります。人が一番恐れることは死です。人生の四大問題として、“生・老・病・死”という言葉があります。柘植先生は更にそれに罪を加えましたが、私たちにとって生きる悩み、老いる悩み、病に倒れる、そして、死ぬことが人生の大きな問題です。更に、根本的には罪の問題がありますが、最後にくるのはなんといっても「死」の問題です。何とかして死につながらない道はないだろうかと、古来多くの人々が、不老長寿を求めました。老いることのない「不老」。いつまでも若々しくいたい。ですから長寿、長命、死ぬことがない「不死」を求める。これは洋の東西を問わずありました。ヨーロッパの中世時代に錬金術というのがはやりました。錬金術とは、日本ではちょっと間違って受け止められ、金を創り出すように考えられますが、本来は不老長寿、不死の薬を創り出す方法なのです。錬金術とはそれができれば人間は絶対に幸せになれるというものを求めたのです。人類の歴史を通して人は常に死と向き合ってきました。現代でもそうです。形は変わりましたが、科学、あるいは医学、さまざまな研究や学問を積んで、少しでも人の寿命を延ばして、できるだけ死を先延ばしにして、死を考えないで人生を生きたいというのが多くの人の願いです。しかし、これは無理な話です。神様が言われるように、人は「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」(ヘブル9:27)。これは神様が定められたことです。詩篇には「われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう」と言われます。必ず死ぬ時がきます。
15節「われわれは死と契約をなし、陰府と協定を結んだ」。何とかして、死から、あるいは死の後にあるかもしれない地獄とか、怖い闇の世界、それを乗り越えていくために、契約をし、協定を結ぶ。死と契約をしようとする。死よ、お前はもうちょっと先へ行ってくれ、そばにこないでくれと約束をすることです。世の中の人々は皆そうやって死をできるだけ先延ばしにする。死に対して契約を結ぼう、私を攻めないでくれ、しばらく私のそばに近寄らないでくれと。そのために保険を掛けましょうか、食べるものを節制しましょう、運動にも励みましょう、あるいは月々医者に通って健康を管理しましょう。そうやって死と契約を、陰府と協定を結ぶ。こうしているから安心だ、こうやっているから大丈夫だと思いたい。それが「死と契約をなし、陰府と協定を結んだ」という意味です。だから、たとえ周囲の人が病で倒れ、突然の死を迎えることがあっても、私はこのような準備をしている、このようなものがあるから大丈夫ですと思いたい。それが15節「死と契約をなし、陰府と協定を結んだ」ということです。
そして「みなぎりあふれる災の過ぎる時にも、それはわれわれに来ない」。「いや、大丈夫、私の場合はこれがあるから、もう心配はいらない」と思って安心を得ようとする。ところが、その後にありますように、「われわれはうそを避け所となし、偽りをもって身をかくしたからである」。しかし、自分はこれで大丈夫、これがあるから助けになる、これで身を守ろうと思って、いろいろと手立てをしている事が偽りであることを知っている。これだけでは駄目かもしれないと、どこかにいつも不安を持っている。だから、ここに「われわれはうそを避け所となし」と言っている。「偽りをもって身をかくした」。言うならば、死や陰府という恐ろしいものに対して、うまくごまかして、何とか災いを遠ざけようというのが、今の私たちの生き方、あり方ではないでしょうか。多くの人々が、そのようにあれをしたら大丈夫、これをしたら大丈夫と思いたい。そのために一生懸命に努力しているのです。
16節に「それゆえ、主なる神はこう言われる、『見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした』」。神様は、それは偽りであり、決して安心を得ることができない。それによっては救われないのだ。だから、私たちのために「シオンに一つの石をすえて基とした」と。一つの石を置いてくださいました。この岩でいらっしゃる方、堅固な石……、その後に「これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である」とあります。この「石」とは、主イエス・キリスト、イエス様です。主を土台とすること、これが私たちの救いのすべてです。だから「信ずる者はあわてることはない」。神様は、私たちが偽りをもって「死と契約をなし、陰府と協定を結んで」死を遠ざけようと、無駄な努力をしている私たちを哀れんでくださって、絶対普遍(ふへん)の永遠の救いとなるべき土台石を置いてくださった。これに寄り掛かっているならば、これに乗っているならば、決して動かされない、また恐れないで生きることができる。これが福音です。神様は、造られた者が思い煩いと悩みと悲しみと恐れの中で生きていることを哀れんでくださって、救いの手を伸べてくださいました。その救いの手とは、寄り頼むことができる石を据えてくださったことです。だから、この石の上に、自分を置きさえすれば安泰なのです。そのような場所を神様が備えてくださった。これを福音と言わないで何といえばいいのでしょう。私たちの人生の大きな拠り所となってくださる。これがイエス様です。そして「これは試みを経た石」とあります。イエス様は、決して揺るがない確かなものであると、いくつも試みられたものです。
石と言っても、いろいろあります。硬い石から柔らかい石。柔らかい石なんて“石頭”というくらいですから、石はそもそも硬いものの代名詞のようなものですが、しかし、ときに柔らかい石があります。矛盾した言葉ですが。火山で出来た石などはそうですね。ガスを含んで、形は立派な大きなものですけれども、金づちでたたくと、くしゃくしゃと壊れてしまいます。ところが、硬い石、御影(みかげ)石のようなものになると少々たたいても壊れない。石だから何でもいいというわけではない。寄り頼むにふさわしい石でなければ困ります。だから、神様は「これは試みを経た石」と言われます。「ヘブル人への手紙」に「彼は、罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである」。私たちと同じように試みに遭ってくださった。それを耐え忍んでくださった。これは確かです。
先日も台風が来まして、強風が吹きました。そのために、近くの公園の大きな木がいたるところで倒れました。こんな大きな木が倒れたのかと驚きましたが、強い風に耐えられなかったのです。台風が来ることで、弱い木、あるいは死にかけた老木は倒れます。もったいない話だとは思いますが、これは新しくなっていくための大切な過程です。台風は、人間が身勝手なことをいうなら、こんな迷惑なことはないと思いますが、自然界にとって、大切なものです。特に木々には、自分で死んで火葬場に行くわけにいかない。死んで枯れているけれども倒れようがないから、神様が台風を送って倒し、土に返らせなさるのです。あるいは、見たところしっかりしている木でも、枯れ枝が密集しています。枯れ枝がいつまでも残っていたら、虫だとか病原菌の巣になりますから、健康な木にとってありがたい話ではない。といって、自分で切って落とすわけにはいかないから、神様が風を送って、いらない枝も葉っぱも全部ちぎって風通しをよくして、健康なものはいよいよ健康になるように、弱いものは早く取り除いて、神様はせん定しているのです。だから、木が倒れてもったいなかったというのは、人間の勝手な見方で、神様の御心から言うなら、これは大切なすばらしい恵みのときです。そのようにさまざまな嵐や強い風に耐えてきた木は頑丈です。ドシッとして動きません。どんな嵐が来ても大丈夫。試みに遭えば遭うほど根が張りますし、また強くなっていく。
イエス様も、地上に遣(つか)わされて、私たちと同じようにさまざまな試練に遭ってくださいました。だから「これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である」。「隅の石」とは建物の土台石のことです。コーナーストーンという言葉が英語にありますが、大切な、これを外(はず)したら駄目になるという意味の言葉として使います。この建物のこの石だけは絶対に外せない。外すと家が壊れてしまうような石のことを「隅の石」、大切な石です。そのように私たちの人生、私たちの生活を組み立てていく土台として、イエス様を選びなさい。このイエス様に寄り頼んでいれば、決して陰府も、死も、私たちを打ち倒すことができない。
マタイによる福音書7章24章から27節までを朗読。
二つのことが語られています。一つは「岩を土台として」家を立てる人、その人は、「雨が降り、洪水が押し寄せても」揺るがない。ところがもう一人「砂の上に自分の家を建てた」人、これは「愚かな人」だというのです。それは「雨が降り、洪水が押し寄せ」られると、すぐに土台が流れてしまう。確かにそうです。砂の上に立っていると不安定です。夏に海岸などに行きますと、波打ち際に立ちます。自分がしっかりと立っているつもりですが、波がきてスーッと引いていくと足の下からスルッと砂が消えていくことを経験します。じっと立ち続けられない。やがてグラッとして安定を失います。砂は風で吹き飛ばされたら一夜にして姿かたちを変えます。そんな頼りないものの上に乗っている限り、その家は見栄えが立派な家であっても、すぐに壊れてしまうでしょう。私たちの人生、生活、私たちの心をどこにきちっと据えていくか。私たちの見えない日々の生活の土台をどこに置いていくか、これが絶えず問われている。嵐が来る、風が吹いて来る、台風が来る、そうしたときすぐに壊れます。それは土台がしっかりしていないからです。生活に次から次へと悩みや困難や悲しいことが起こってきます。そのとき揺るがないでしっかりと立っていくことができるには、何が大切か? 私たちがどこに立っているか、何の上に立っているのか。イエス様、「試みを経た尊い隅の石」にしっかりと立っていなければ簡単に動かされてしまう。
イエス様に立つというのは、24節に「わたしのこれらの言葉を聞いて行うもの」とあります。イエス様の御言葉を聞いて実行する人は「岩の上に自分の家を建てた賢い人」。では、私はイエス様に寄り頼んでいきます、と言いながら、イエス様の御言葉を聞かない。イエス様が何を求めているかを求めようとしない、知ろうとしないのだったら、岩の上に立っていないのです。形だけ、張子の虎のようなものの上に立っていたら、すぐに破れてしまいます。すぐに化けの皮がはがれます。何に立っているのか、立つというのはどういうことなのかを考えてください。
イザヤ書28章16節に「それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。『信ずる者はあわてることはない』」とあります。「信ずる者」、それが先ほど読みました「これらの言葉を聞いて行うもの」です。イエス様が私の主となってくださって、土台となって、私を支えてくださる方、イエス様に信頼する。イエス様を信じて、御言葉に心を委ね、どんな問題が起こってきても、御言葉だけをしっかり握って立っていくとき、私たちは動かない堅固な岩に立った人生を歩むことができる。17節に「わたしは公平を、測りなわとし、正義を、下げ振りとする。ひょうは偽りの避け所を滅ぼし、水は隠れ場を押し倒す」。神様が私たちの人生を振るわれる時がある。試みの中におかれる時があります。それは、私たちがきちっと正しい土台に立っているかどうかを確かめてくださる時です。だから、いろいろな問題に会う時、悩みに遭う時、感謝したらいい。ちょうど嵐が吹いてきて、余分なものを吹き飛ばして、残った頑丈なところだけをしっかりと神様が育てるように、人生のさまざまな悩みや困難、嵐の中に置かれます。それによって、土台であるイエス様に立っているかどうかを試みてくださる。私たちを剪定して、潔めて、神様の力に満たしてくださるのです。だからここに「公平を、測りなわとし、正義を、下げ振りとする」とあります。神様は問題を起こし、悩みを与え、事柄を導いて、その中で神様の公平、正義、力を現そうとなさるのです。ところが、もし神様以外のものに、イエス様以外のものを土台として、「死と契約をなし、陰府と協定を結ぶ」いつわりのものに寄り掛かっていると、神様の測られるはかり、物差しに合わない。そこから私たちは取り除かれてしまうに違いない。また、その土台が崩れてしまいます。
欠陥住宅ということがよく言われます。先だってもテレビを見ておりましたら、そのようなレポートがありました。一億円とか何億円とか、高いお金を出して造った。ところが、土台が傾いていった。丸いものを転がすと床の上をガラガラッと転げていくという。もったいない話です。そして壁をめくってみると、入っているべき柱があちこちにない。設計図と違っている。やがて神様の義でもって測られ、神様の公平をもって裁かれた時、ここが欠陥、あそこが足らないとなります。それをきちんと建て直すために、私たちに今、時間を与えてくださって、この地上の日々を送らせているのです。だから、恐れないで、いろいろな問題にあたった時に、本当に私はイエス様に立っているだろうかと、自問してください。しっかりと根付いてくために、神様は私たちを揺さぶられるのです。神様は、私たちを駄目にし、苦しめるためにそのようなことをなさるのではない。17節に「わたしは公平を、測りなわとし、正義を、下げ振りとする。ひょうは偽りの避け所を滅ぼし、水は隠れ場を押し倒す」。確かに水があふれてきますと、少々のことでは防ぎようがありません。必ず、水没してしまいます。だから、水がくるなら、偽りのものは全部根こそぎにやられてしまう。また、ひょうが降ると言う。ひょうは、日本ではあまり経験がありませんが、日本のひょうは比較的細かい小さな雪のようなものです。ところが、この中近東や大陸なんかに行きますと、石ころくらいのひょうが降ってくる。作物も何もかも、時には直撃すると家畜まで死んでしまいます。私もアメリカにおりました時に、一度ケンタッキーでしたか、テネシー州でしたか車で走っていたのです。にわかに曇って、急にひょうが降りだしたのです。大慌てでハイウエーの横に止めまして待機しました。握りこぶしの半分くらいですかね、そういうものが降ってくる。フロントガラスが割れそうなのです。大慌てで積んでいた毛布で防御しました。しばらく降って、怖くなり、すぐそばのモーテルに入った経験があります。そのようなひょうが降ってくると、瓦なんか割ってしまいます。ここに「ひょうは偽りの避け所を滅ぼし」とあります。そのようなものによって、一瞬にして事の真偽が明らかになります。自分には信仰がなかったと知ることになるでしょう。イエス様に立っていると思ったけれど、立っていたのは生命保険の上に乗っていた。私の虎の子の上に乗っていたという人生だったら、一瞬にして消えてしまいます。
18節に「その時あなたがたが死とたてた契約は取り消され、陰府と結んだ協定は行われない。みなぎりあふれる災の過ぎるとき、あなたがたはこれによって打ち倒される」。本当にこのとおりです。どんな嵐が来ようと、どんな洪水が押し寄せてこようと、決して動かないものは何か? それはこの16節「見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした」。この土台、基となるべきものに、私たちが絶えず立って、それにしっかりと根差しておかなければなりません。先ほどお話しました公園の倒れた木々を見ていますと、ある程度大きくなった木を移植したものは、根が張らない。小さな苗のときから植えた木は、しっかりと根が張って成長していく間に風雨に曝され、揺すられて、いよいよ強くなって成長しているから、大きくなっても風に耐えることができる。ところが、ある程度大きくなった木を、よそから持ってきて植えた木はコロッと転げる。よく見ますと上は高く長いのですけれども、それに比べて根っこが小さい。これならやられるな、と思います。地面の表面にちょっと根が張っているだけで立っている。それは何事もないときには見事な木で、立派な木だと思っていますが、風が吹くと、コロッと根っこからひっくり返る。
私たちもそうです。しっかりとこの岩に、イエス様に、根差していかないと、ただ格好だけちょこっと岩の上に乗って、岩は岩だけれども、岩と自分とが離れていたらコロッといきますよ。だから、岩にしっかりと根を張っていく人生です。そのために私たちは毎日の生活が大切です。たまにイエス様にくっついているだけでは、なかなか根付かない。見栄えはいいかもしれないが、コロッといきます。そうならないために、私たちは日々に絶えずイエス様と共に生きること。一つ一つの事柄で、主に信頼して生きることをしなければ、岩にしっかり根差して、そこに寄り頼んでいくことができない。
19節に「それが過ぎるごとに、あなたがたを捕える。それは朝な朝な過ぎ、昼も夜も過ぎるからだ。このおとずれを聞きわきまえることは、全くの恐れである」。「死と契約をなし、陰府と協定を結んで」、これがあるから、もう大丈夫と言っていたそのようなものが、やがていろんなことが起こって、グラグラッと揺すられる。そして頼りないことがよくわかっても、人はそこを離れてイエス様にいこうとしない。繰り返し、繰り返し「朝な朝な過ぎ、昼も夜も過ぎるからだ」。次から次へ絶え間なく、私たちを襲ってきて揺すります。「このおとずれを聞きわきまえることは、全くの恐れである」。本当にそのようなものを聞くと、ああ、どうしよう、どうしようと、恐れと不安と闇が私たちの心を覆ってきます。そうならないために、「堅くすえた尊い隅の石」、「信ずる者はあわてることはない」とあるでしょう。イエス様を信じて、御言葉にしっかりと根差して、それをつかんで生きていきたい。そうする時、何が来ても恐れないで乗り越えて、勝利していくことができる。
20節「床が短くて身を伸べることができず、かける夜具が狭くて身をおおうことができないからだ」。「死と契約をなし、陰府と協定を結んで」、これで大丈夫という。その大丈夫なものは、まるで「床が短くて身を伸べることができず」、「かける夜具が狭くて身をおおうことができない」。これはよくわかりますね。朝方になって冷え込んでくる。寝るときは、暑いから夏のかけ布団をこのまま使おう、出すのは面倒くさいからと寝ます。そうすると夜中ごろ、冷えてくる。あちらにこちらにと、身をすくめながらぐずぐずする。早く起きてちゃんとしたものを掛ければいいのに、面倒くさい、まだ眠たい。一生懸命に身を縮めて、朝起きると寝不足で、肩や首が凝(こ)って、頭も痛い。聖書はすばらしいことを書いています。「床が短くて身を伸べることができず、かける夜具が狭くて身をおおうことができない」。そのような心細さ、どうにもならない気分はおわかりになるでしょう。早く、しっかりしたものを着るのです。よく家内にもそう言います。「夕べはよく眠られなかった」「どうして? 」「ちょっと寒くてくるまって寝た」「そんなことをしないで、そばにあるのだから出せばよかった」「面倒くさかった」と。
人生、面倒くさかったでは済まないのです。夜具ならいいですよ。風邪を引けばいいのですから。16節に「見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした」。それだからこそ、神様はここに来なさい、ここに石があるではないか。この方に寄り頼みなさいと、ねんごろに備えておられる。私にはあれがあるとか、これがあるとか、そんなものは役に立たない。どんどん失っていきます。イザヤ書にあるように、やがて「その残る者はわずかに山の頂にある旗ざおのように」と、孤立無援。長生きしてご覧なさい。いよいよお金もなく、友達もいなくなる。
97歳近くなる方がいます。友達も親戚もみな同年代の人たちは誰もいない。そうなったらさみしいですよ。私たちはすべてのものを失っていくのです。そのときにただ残るのは「試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である」。そのように「イエス様が私のすべてです」となっていきたい。イエス様が生きていらっしゃるから私も生かされている。イエス様が私を導いて下さるから大丈夫。イエス様に絶えず心と思いを向けて、「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(Ⅱテモテ2:8)と。どんなときにもイエス様にしっかりと根差して、何があってもイエス様から離れない。そこに望みを置いて、そこから私たちの力を得ていく者になりたいと思います。
16節に「見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。『信ずる者はあわてることはない』」。その通りです。この石に寄り頼んで信頼していくとき、何が来ても慌てない、驚かない、うろたえない。そして勝利へ私たちを導いてくださいます。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
16節に「それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。『信ずる者はあわてることはない』」。
15節に「われわれは死と契約をなし、陰府と協定を結んだ」とあります。人が一番恐れることは死です。人生の四大問題として、“生・老・病・死”という言葉があります。柘植先生は更にそれに罪を加えましたが、私たちにとって生きる悩み、老いる悩み、病に倒れる、そして、死ぬことが人生の大きな問題です。更に、根本的には罪の問題がありますが、最後にくるのはなんといっても「死」の問題です。何とかして死につながらない道はないだろうかと、古来多くの人々が、不老長寿を求めました。老いることのない「不老」。いつまでも若々しくいたい。ですから長寿、長命、死ぬことがない「不死」を求める。これは洋の東西を問わずありました。ヨーロッパの中世時代に錬金術というのがはやりました。錬金術とは、日本ではちょっと間違って受け止められ、金を創り出すように考えられますが、本来は不老長寿、不死の薬を創り出す方法なのです。錬金術とはそれができれば人間は絶対に幸せになれるというものを求めたのです。人類の歴史を通して人は常に死と向き合ってきました。現代でもそうです。形は変わりましたが、科学、あるいは医学、さまざまな研究や学問を積んで、少しでも人の寿命を延ばして、できるだけ死を先延ばしにして、死を考えないで人生を生きたいというのが多くの人の願いです。しかし、これは無理な話です。神様が言われるように、人は「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」(ヘブル9:27)。これは神様が定められたことです。詩篇には「われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう」と言われます。必ず死ぬ時がきます。
15節「われわれは死と契約をなし、陰府と協定を結んだ」。何とかして、死から、あるいは死の後にあるかもしれない地獄とか、怖い闇の世界、それを乗り越えていくために、契約をし、協定を結ぶ。死と契約をしようとする。死よ、お前はもうちょっと先へ行ってくれ、そばにこないでくれと約束をすることです。世の中の人々は皆そうやって死をできるだけ先延ばしにする。死に対して契約を結ぼう、私を攻めないでくれ、しばらく私のそばに近寄らないでくれと。そのために保険を掛けましょうか、食べるものを節制しましょう、運動にも励みましょう、あるいは月々医者に通って健康を管理しましょう。そうやって死と契約を、陰府と協定を結ぶ。こうしているから安心だ、こうやっているから大丈夫だと思いたい。それが「死と契約をなし、陰府と協定を結んだ」という意味です。だから、たとえ周囲の人が病で倒れ、突然の死を迎えることがあっても、私はこのような準備をしている、このようなものがあるから大丈夫ですと思いたい。それが15節「死と契約をなし、陰府と協定を結んだ」ということです。
そして「みなぎりあふれる災の過ぎる時にも、それはわれわれに来ない」。「いや、大丈夫、私の場合はこれがあるから、もう心配はいらない」と思って安心を得ようとする。ところが、その後にありますように、「われわれはうそを避け所となし、偽りをもって身をかくしたからである」。しかし、自分はこれで大丈夫、これがあるから助けになる、これで身を守ろうと思って、いろいろと手立てをしている事が偽りであることを知っている。これだけでは駄目かもしれないと、どこかにいつも不安を持っている。だから、ここに「われわれはうそを避け所となし」と言っている。「偽りをもって身をかくした」。言うならば、死や陰府という恐ろしいものに対して、うまくごまかして、何とか災いを遠ざけようというのが、今の私たちの生き方、あり方ではないでしょうか。多くの人々が、そのようにあれをしたら大丈夫、これをしたら大丈夫と思いたい。そのために一生懸命に努力しているのです。
16節に「それゆえ、主なる神はこう言われる、『見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした』」。神様は、それは偽りであり、決して安心を得ることができない。それによっては救われないのだ。だから、私たちのために「シオンに一つの石をすえて基とした」と。一つの石を置いてくださいました。この岩でいらっしゃる方、堅固な石……、その後に「これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である」とあります。この「石」とは、主イエス・キリスト、イエス様です。主を土台とすること、これが私たちの救いのすべてです。だから「信ずる者はあわてることはない」。神様は、私たちが偽りをもって「死と契約をなし、陰府と協定を結んで」死を遠ざけようと、無駄な努力をしている私たちを哀れんでくださって、絶対普遍(ふへん)の永遠の救いとなるべき土台石を置いてくださった。これに寄り掛かっているならば、これに乗っているならば、決して動かされない、また恐れないで生きることができる。これが福音です。神様は、造られた者が思い煩いと悩みと悲しみと恐れの中で生きていることを哀れんでくださって、救いの手を伸べてくださいました。その救いの手とは、寄り頼むことができる石を据えてくださったことです。だから、この石の上に、自分を置きさえすれば安泰なのです。そのような場所を神様が備えてくださった。これを福音と言わないで何といえばいいのでしょう。私たちの人生の大きな拠り所となってくださる。これがイエス様です。そして「これは試みを経た石」とあります。イエス様は、決して揺るがない確かなものであると、いくつも試みられたものです。
石と言っても、いろいろあります。硬い石から柔らかい石。柔らかい石なんて“石頭”というくらいですから、石はそもそも硬いものの代名詞のようなものですが、しかし、ときに柔らかい石があります。矛盾した言葉ですが。火山で出来た石などはそうですね。ガスを含んで、形は立派な大きなものですけれども、金づちでたたくと、くしゃくしゃと壊れてしまいます。ところが、硬い石、御影(みかげ)石のようなものになると少々たたいても壊れない。石だから何でもいいというわけではない。寄り頼むにふさわしい石でなければ困ります。だから、神様は「これは試みを経た石」と言われます。「ヘブル人への手紙」に「彼は、罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである」。私たちと同じように試みに遭ってくださった。それを耐え忍んでくださった。これは確かです。
先日も台風が来まして、強風が吹きました。そのために、近くの公園の大きな木がいたるところで倒れました。こんな大きな木が倒れたのかと驚きましたが、強い風に耐えられなかったのです。台風が来ることで、弱い木、あるいは死にかけた老木は倒れます。もったいない話だとは思いますが、これは新しくなっていくための大切な過程です。台風は、人間が身勝手なことをいうなら、こんな迷惑なことはないと思いますが、自然界にとって、大切なものです。特に木々には、自分で死んで火葬場に行くわけにいかない。死んで枯れているけれども倒れようがないから、神様が台風を送って倒し、土に返らせなさるのです。あるいは、見たところしっかりしている木でも、枯れ枝が密集しています。枯れ枝がいつまでも残っていたら、虫だとか病原菌の巣になりますから、健康な木にとってありがたい話ではない。といって、自分で切って落とすわけにはいかないから、神様が風を送って、いらない枝も葉っぱも全部ちぎって風通しをよくして、健康なものはいよいよ健康になるように、弱いものは早く取り除いて、神様はせん定しているのです。だから、木が倒れてもったいなかったというのは、人間の勝手な見方で、神様の御心から言うなら、これは大切なすばらしい恵みのときです。そのようにさまざまな嵐や強い風に耐えてきた木は頑丈です。ドシッとして動きません。どんな嵐が来ても大丈夫。試みに遭えば遭うほど根が張りますし、また強くなっていく。
イエス様も、地上に遣(つか)わされて、私たちと同じようにさまざまな試練に遭ってくださいました。だから「これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である」。「隅の石」とは建物の土台石のことです。コーナーストーンという言葉が英語にありますが、大切な、これを外(はず)したら駄目になるという意味の言葉として使います。この建物のこの石だけは絶対に外せない。外すと家が壊れてしまうような石のことを「隅の石」、大切な石です。そのように私たちの人生、私たちの生活を組み立てていく土台として、イエス様を選びなさい。このイエス様に寄り頼んでいれば、決して陰府も、死も、私たちを打ち倒すことができない。
マタイによる福音書7章24章から27節までを朗読。
二つのことが語られています。一つは「岩を土台として」家を立てる人、その人は、「雨が降り、洪水が押し寄せても」揺るがない。ところがもう一人「砂の上に自分の家を建てた」人、これは「愚かな人」だというのです。それは「雨が降り、洪水が押し寄せ」られると、すぐに土台が流れてしまう。確かにそうです。砂の上に立っていると不安定です。夏に海岸などに行きますと、波打ち際に立ちます。自分がしっかりと立っているつもりですが、波がきてスーッと引いていくと足の下からスルッと砂が消えていくことを経験します。じっと立ち続けられない。やがてグラッとして安定を失います。砂は風で吹き飛ばされたら一夜にして姿かたちを変えます。そんな頼りないものの上に乗っている限り、その家は見栄えが立派な家であっても、すぐに壊れてしまうでしょう。私たちの人生、生活、私たちの心をどこにきちっと据えていくか。私たちの見えない日々の生活の土台をどこに置いていくか、これが絶えず問われている。嵐が来る、風が吹いて来る、台風が来る、そうしたときすぐに壊れます。それは土台がしっかりしていないからです。生活に次から次へと悩みや困難や悲しいことが起こってきます。そのとき揺るがないでしっかりと立っていくことができるには、何が大切か? 私たちがどこに立っているか、何の上に立っているのか。イエス様、「試みを経た尊い隅の石」にしっかりと立っていなければ簡単に動かされてしまう。
イエス様に立つというのは、24節に「わたしのこれらの言葉を聞いて行うもの」とあります。イエス様の御言葉を聞いて実行する人は「岩の上に自分の家を建てた賢い人」。では、私はイエス様に寄り頼んでいきます、と言いながら、イエス様の御言葉を聞かない。イエス様が何を求めているかを求めようとしない、知ろうとしないのだったら、岩の上に立っていないのです。形だけ、張子の虎のようなものの上に立っていたら、すぐに破れてしまいます。すぐに化けの皮がはがれます。何に立っているのか、立つというのはどういうことなのかを考えてください。
イザヤ書28章16節に「それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。『信ずる者はあわてることはない』」とあります。「信ずる者」、それが先ほど読みました「これらの言葉を聞いて行うもの」です。イエス様が私の主となってくださって、土台となって、私を支えてくださる方、イエス様に信頼する。イエス様を信じて、御言葉に心を委ね、どんな問題が起こってきても、御言葉だけをしっかり握って立っていくとき、私たちは動かない堅固な岩に立った人生を歩むことができる。17節に「わたしは公平を、測りなわとし、正義を、下げ振りとする。ひょうは偽りの避け所を滅ぼし、水は隠れ場を押し倒す」。神様が私たちの人生を振るわれる時がある。試みの中におかれる時があります。それは、私たちがきちっと正しい土台に立っているかどうかを確かめてくださる時です。だから、いろいろな問題に会う時、悩みに遭う時、感謝したらいい。ちょうど嵐が吹いてきて、余分なものを吹き飛ばして、残った頑丈なところだけをしっかりと神様が育てるように、人生のさまざまな悩みや困難、嵐の中に置かれます。それによって、土台であるイエス様に立っているかどうかを試みてくださる。私たちを剪定して、潔めて、神様の力に満たしてくださるのです。だからここに「公平を、測りなわとし、正義を、下げ振りとする」とあります。神様は問題を起こし、悩みを与え、事柄を導いて、その中で神様の公平、正義、力を現そうとなさるのです。ところが、もし神様以外のものに、イエス様以外のものを土台として、「死と契約をなし、陰府と協定を結ぶ」いつわりのものに寄り掛かっていると、神様の測られるはかり、物差しに合わない。そこから私たちは取り除かれてしまうに違いない。また、その土台が崩れてしまいます。
欠陥住宅ということがよく言われます。先だってもテレビを見ておりましたら、そのようなレポートがありました。一億円とか何億円とか、高いお金を出して造った。ところが、土台が傾いていった。丸いものを転がすと床の上をガラガラッと転げていくという。もったいない話です。そして壁をめくってみると、入っているべき柱があちこちにない。設計図と違っている。やがて神様の義でもって測られ、神様の公平をもって裁かれた時、ここが欠陥、あそこが足らないとなります。それをきちんと建て直すために、私たちに今、時間を与えてくださって、この地上の日々を送らせているのです。だから、恐れないで、いろいろな問題にあたった時に、本当に私はイエス様に立っているだろうかと、自問してください。しっかりと根付いてくために、神様は私たちを揺さぶられるのです。神様は、私たちを駄目にし、苦しめるためにそのようなことをなさるのではない。17節に「わたしは公平を、測りなわとし、正義を、下げ振りとする。ひょうは偽りの避け所を滅ぼし、水は隠れ場を押し倒す」。確かに水があふれてきますと、少々のことでは防ぎようがありません。必ず、水没してしまいます。だから、水がくるなら、偽りのものは全部根こそぎにやられてしまう。また、ひょうが降ると言う。ひょうは、日本ではあまり経験がありませんが、日本のひょうは比較的細かい小さな雪のようなものです。ところが、この中近東や大陸なんかに行きますと、石ころくらいのひょうが降ってくる。作物も何もかも、時には直撃すると家畜まで死んでしまいます。私もアメリカにおりました時に、一度ケンタッキーでしたか、テネシー州でしたか車で走っていたのです。にわかに曇って、急にひょうが降りだしたのです。大慌てでハイウエーの横に止めまして待機しました。握りこぶしの半分くらいですかね、そういうものが降ってくる。フロントガラスが割れそうなのです。大慌てで積んでいた毛布で防御しました。しばらく降って、怖くなり、すぐそばのモーテルに入った経験があります。そのようなひょうが降ってくると、瓦なんか割ってしまいます。ここに「ひょうは偽りの避け所を滅ぼし」とあります。そのようなものによって、一瞬にして事の真偽が明らかになります。自分には信仰がなかったと知ることになるでしょう。イエス様に立っていると思ったけれど、立っていたのは生命保険の上に乗っていた。私の虎の子の上に乗っていたという人生だったら、一瞬にして消えてしまいます。
18節に「その時あなたがたが死とたてた契約は取り消され、陰府と結んだ協定は行われない。みなぎりあふれる災の過ぎるとき、あなたがたはこれによって打ち倒される」。本当にこのとおりです。どんな嵐が来ようと、どんな洪水が押し寄せてこようと、決して動かないものは何か? それはこの16節「見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした」。この土台、基となるべきものに、私たちが絶えず立って、それにしっかりと根差しておかなければなりません。先ほどお話しました公園の倒れた木々を見ていますと、ある程度大きくなった木を移植したものは、根が張らない。小さな苗のときから植えた木は、しっかりと根が張って成長していく間に風雨に曝され、揺すられて、いよいよ強くなって成長しているから、大きくなっても風に耐えることができる。ところが、ある程度大きくなった木を、よそから持ってきて植えた木はコロッと転げる。よく見ますと上は高く長いのですけれども、それに比べて根っこが小さい。これならやられるな、と思います。地面の表面にちょっと根が張っているだけで立っている。それは何事もないときには見事な木で、立派な木だと思っていますが、風が吹くと、コロッと根っこからひっくり返る。
私たちもそうです。しっかりとこの岩に、イエス様に、根差していかないと、ただ格好だけちょこっと岩の上に乗って、岩は岩だけれども、岩と自分とが離れていたらコロッといきますよ。だから、岩にしっかりと根を張っていく人生です。そのために私たちは毎日の生活が大切です。たまにイエス様にくっついているだけでは、なかなか根付かない。見栄えはいいかもしれないが、コロッといきます。そうならないために、私たちは日々に絶えずイエス様と共に生きること。一つ一つの事柄で、主に信頼して生きることをしなければ、岩にしっかり根差して、そこに寄り頼んでいくことができない。
19節に「それが過ぎるごとに、あなたがたを捕える。それは朝な朝な過ぎ、昼も夜も過ぎるからだ。このおとずれを聞きわきまえることは、全くの恐れである」。「死と契約をなし、陰府と協定を結んで」、これがあるから、もう大丈夫と言っていたそのようなものが、やがていろんなことが起こって、グラグラッと揺すられる。そして頼りないことがよくわかっても、人はそこを離れてイエス様にいこうとしない。繰り返し、繰り返し「朝な朝な過ぎ、昼も夜も過ぎるからだ」。次から次へ絶え間なく、私たちを襲ってきて揺すります。「このおとずれを聞きわきまえることは、全くの恐れである」。本当にそのようなものを聞くと、ああ、どうしよう、どうしようと、恐れと不安と闇が私たちの心を覆ってきます。そうならないために、「堅くすえた尊い隅の石」、「信ずる者はあわてることはない」とあるでしょう。イエス様を信じて、御言葉にしっかりと根差して、それをつかんで生きていきたい。そうする時、何が来ても恐れないで乗り越えて、勝利していくことができる。
20節「床が短くて身を伸べることができず、かける夜具が狭くて身をおおうことができないからだ」。「死と契約をなし、陰府と協定を結んで」、これで大丈夫という。その大丈夫なものは、まるで「床が短くて身を伸べることができず」、「かける夜具が狭くて身をおおうことができない」。これはよくわかりますね。朝方になって冷え込んでくる。寝るときは、暑いから夏のかけ布団をこのまま使おう、出すのは面倒くさいからと寝ます。そうすると夜中ごろ、冷えてくる。あちらにこちらにと、身をすくめながらぐずぐずする。早く起きてちゃんとしたものを掛ければいいのに、面倒くさい、まだ眠たい。一生懸命に身を縮めて、朝起きると寝不足で、肩や首が凝(こ)って、頭も痛い。聖書はすばらしいことを書いています。「床が短くて身を伸べることができず、かける夜具が狭くて身をおおうことができない」。そのような心細さ、どうにもならない気分はおわかりになるでしょう。早く、しっかりしたものを着るのです。よく家内にもそう言います。「夕べはよく眠られなかった」「どうして? 」「ちょっと寒くてくるまって寝た」「そんなことをしないで、そばにあるのだから出せばよかった」「面倒くさかった」と。
人生、面倒くさかったでは済まないのです。夜具ならいいですよ。風邪を引けばいいのですから。16節に「見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした」。それだからこそ、神様はここに来なさい、ここに石があるではないか。この方に寄り頼みなさいと、ねんごろに備えておられる。私にはあれがあるとか、これがあるとか、そんなものは役に立たない。どんどん失っていきます。イザヤ書にあるように、やがて「その残る者はわずかに山の頂にある旗ざおのように」と、孤立無援。長生きしてご覧なさい。いよいよお金もなく、友達もいなくなる。
97歳近くなる方がいます。友達も親戚もみな同年代の人たちは誰もいない。そうなったらさみしいですよ。私たちはすべてのものを失っていくのです。そのときにただ残るのは「試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である」。そのように「イエス様が私のすべてです」となっていきたい。イエス様が生きていらっしゃるから私も生かされている。イエス様が私を導いて下さるから大丈夫。イエス様に絶えず心と思いを向けて、「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(Ⅱテモテ2:8)と。どんなときにもイエス様にしっかりと根差して、何があってもイエス様から離れない。そこに望みを置いて、そこから私たちの力を得ていく者になりたいと思います。
16節に「見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。『信ずる者はあわてることはない』」。その通りです。この石に寄り頼んで信頼していくとき、何が来ても慌てない、驚かない、うろたえない。そして勝利へ私たちを導いてくださいます。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。