コリント人への第二の手紙3章12節から18節までを朗読。
18節に「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」。
この年も新年から神様の恵みにあずかって、新しい年を始めました。講壇の後ろに、新年聖会を通して与えられた三つの御言葉が掲げられています。その一つとして、この18節「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」と書かれています。神様は私たちを「主と同じ姿に変えられていく」、「見よ、わたしは新しい事をなす」(イザヤ 43:19)と、私たちをすっかり造り変えて新しい者としてあげようと言われます。神様は熱烈な思いをもって、何とかして私たちを造られた目的にかなう者にしようとしておられる。ところが、人はなかなか頑固です。自分を変えるとか、あるいは今までしてきたことや手順、毎日決まったことを少しでも変化させることを望みません。ほんの少しならいい。時々、ちょっと趣(おもむき)を変える、味を変える、気分を変えるために、普段と違うことをするのはいいのですが、全部を変えるのは「それはちょっと駄目だ」と、拒否反応を起こします。自己防衛本能というのがあります。自分はもうこれでいい、私はこれで大丈夫。そのように言い続けている間、人は変わらない。殊に年配になると、いよいよ焼きざましの餅のように固くなります。
わたしの両親は召されましたが、亡くなる十年位前でしょうか、使っている冷蔵庫が古くなった。それで「最新のものは、性能はいいし、消費電力は少ないし、費用的に安くなって使い勝手もいい。新しいのに換えたら? 」と勧めました。そしたら、母が言うには「もう、あと何年生きるか分からないから古いままでいい」と、そう言いながら十年以上もたってしまい、母が「言われたときにしとけば良かったね」と笑っていました。私は「今からでも遅くはないから換えよう」と言うと、「いや、もう長くはないから」と。
家内の両親も、四十年以上も同じ家に住んでいるから、使い勝手が悪い。いわゆる温水器も、湯沸し器もありません。洗濯機は全自動にしたら便利だと、いくら薦めても、「いや、うちは二槽式でないといかん」と言う。しかし、その二槽式の洗濯機も電気屋に無くなっている。それでいて、洗濯が苦労だ、大変だと言う。「大変だったら楽にしたら? 」と薦めるが、「いや、もう大丈夫、おれたちもそう長くはない」と、また同じ言葉が出てくる。家も古びてあちらこちらにガタがきている。「少しここを変えたら、あそこを変えたら? 」と、「いや、人間も古くなったのだから、家も古くてちょうど似合っている」と、へ理屈をこねる。これでは変わりません。
神様は、私たちを何とかして新しいものに造り変えたい。「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」とおっしゃいます。だから信仰生活とは、ある意味で日々冒険です。常に新しいものへと、私たちが造り変えられていく。だから、生きている限り、もうこれでいい、ということはない。神様の前に立つその日まで、時々刻々、絶えず絶えず、私たちを何とかして造り変えて、清い者にし、神様の性質にあずかる者にしようとなさる。18節にありますが、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に」、「主と同じ姿」、キリストの姿かたちに、私たちをしようとなさる。そのため、神様は私たちの生活や事柄に絶えず干渉して、介入しているのです。手を掛けてくださっている。その結果、思いがけない出来事が日々の生活で起こる。私たちは自分が考え、自分が計画して事が起こっている。あるいは、あの人この人が原因でこのことが起こったと思いやすいが、実はそうではない。日々の生活のすべては、神様が起こしている。神様はすべてのものを創造している、造り出してくださる。今もそうです。今日一日、昨日と今日、時間は連続していますが、「日ごとに新しくされていく」と神様は約束しています。
「外なる人は滅びても」とあるように、私たちの肉体もどんどん変わっていきます。殊に年を重ねて力を失い、できていたことができなくなる。いろいろなものを失っていきます。外なる人はそのように滅びていき、変わっていき、失っていきますが、「内なる人は日ごとに新しくされていく」(2コリント 4:16)。私たちの内なるもの、魂、心、思いを、神様はすっかり造り変えようとしてくださる。神様が新しくしようとしていることを、絶えず自覚したいと思います。「神様、今、私の思いもかけないことが起こり、私の考えもしないことが起こっています。これは、神様、あなたが私に何かを教えようとしてくださっている。また、私の内なるものを根こそぎ新しく造り変えようとしているのです」と。14節に「実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである」。神様が私たちを造り変える方法は、私たちを神様の光の中に取り込むことです。
ここに「おおいが取り去られないままで残っている」とあります。この「おおい」とは、カーテンのようなものです。先だっても、家内が二十年掛けていた居間のカーテンが古くなったから、「何とか、換えたい」と、私は「これでもいいのではないか」と言ったのです。そしたら、家内が「いや、少しは気分を変えたい」と言うので、店に行きまして、奇麗な、いいものが安くてありましたので、それを買ってきました。買うとき気がつかなかったのですが、それは遮光(しゃこう)カーテンでした。閉めてしまうと、真っ暗になる。部屋は居間兼寝室ですから、これは便利なものだった。良かった、と感謝し、喜んでいます。「おおい」と言いますのは、そのようなもの、光を遮断してしまう。
神様の光を遮断する幕が覆っている。私たちの心に神様のことを思う心が消えてしまう。神様を求める思いが消えていく。覆いがかぶっているから。そのおおいとは罪です。神様の前に立てない、あるいはまともに神様を見られない心。人と人との関係でもそうですが、誰かに対して悪いことをしたとか、何か心に引っ掛かる。あの人は嫌だなとか、何か憎んだり、批判したり、その人に対してよからぬ思いを持つと、心を閉ざします。そして、その人の顔を見ると避けていきます。町でその人を見かけると、「あの人だ、嫌だな、あいさつもしたくない」といって、隠れたりする。自分の中に何か妨(さまた)げるものがある。それが罪です。それがあると、神様の前に立つことができない。「私は天地神明に懸けて恥じることはありません、神様、あなたの前に堂々と立てます」と、言えないものがどこかにある。その結果、私たちの生活で遭遇するさまざまなことに、神様を認められない。どうして、このようになったのだろう、なにゆえ私だけがこのような目に遭わなければならない、どうしてこのような不幸な境遇に私は置かれた、どうしてこんな痛い思いをしなければいけないと、つぶやく心がある。また、そのような心があるときには、なにをしても心が休まらない。神様の前に出られない。そのような罪が心にあるとき、神様に顔を向けられなくなる。そして、自分が神様になる。私の考えは正しい、私は間違いがない。どうして私の思っていることが通じないのだろう、実現できないのだろうと、苛立(いらだ)ちや、憤(いきどお)りがある。それが罪です。
14節に「古い契約を朗読する場合」とありますが、この「古い契約」とは、律法の書、旧約聖書に神様がイスラエルの民に守るように求められた一つ一つの言葉、十戒に代表される御言葉です。「盗んではならない」とか「父と母を敬え」(出エジプト20章)とか、そのようなことですが、私たちが律法の御言葉を聞くと、それを素直に「そうですね」と言えない。例えば、「殺してはならない」と「私はそのような人殺しをしたことはない。人を殺したいと思ったこともない」と。でもイエス様は「心に人を憎いと思ったら、それは人を殺したのと同じだ」とおっしゃいます。だから、「殺してはならない」と言われると、「それは殺すはずはない。私はそのような罪はありません。そんな人を殺すようなことを私はしません」と、自分の義を立てる。神様は「それが罪なのだ」と言われる。事情と境遇、事柄によっては、ひょっとしたら、私だって人を殺すかもしれない。今、皆さんは「そんなこと、私は絶対にしない」と言い切るとき、神様の力ではなく、自分の力を信じている。だから、律法の言葉は、人の思いを探る。「あなたの父と母を敬え」とあります。両親を敬って、「私は精いっぱい両親を敬ってきました。大切にしてきました。まぁ、時に不満なことはありますが、それは行掛りのことでありまして、おおむね、八割がたは……」と思う。ところが神様は、80%でいい、99%でいいというのではなくて、100%を求められる。「あなたの父と母を敬え」と言われ、「はい、私は敬ってきました。八割がた敬ってきました」。「後の二割はどうしたの? 」と。「後二割は、どうもあの親は気にくわなかった」と。「気にくわないのは当たり前、こういうところがあるでしょう。ああいうところがある。誰だってああいう親を見たら、気にくわないのは当たり前、だから私が悪いわけではない」と自己弁護する。律法は、そのように私たちの心に罪を明らかにする。
あるとき、銭湯に行ったのです。銭湯に入るとき、二百円か三百円か、お金を払いました。頭も洗って、すっかり気持ちよくなって出てきた。体も拭いて、気持ちいいな、とあたりを眺めていたら、札が掛かっていた。「洗髪料は五十円」と。そのとき、「頭を洗ってしまったが、五十円払ってない。悪いことをしてしまったな」と、一瞬に心に責めを感じた。その札を見なかったら、責められることはない。ところが見てしまったのです。「洗髪料は五十円」と。その瞬間「悪いことをした」と責めを感じる。律法とはそのようなものです。「あなたの父と母を敬え」と聞いたときに、「私は本当に敬ってきたのだろうか? いや、そうではない。やはり私は悪かったな、神様の求められるところに従ってないな」と認めることが、罪を認めることです。ところが、律法を聞いたときに、いろいろと言い訳をする。「見たのだけれど、風呂も入る前に見ていないのだから、いいのではないか。入る前に見ていたのなら払ったのだし、もう終わったのだから」と、自分の心の中で葛藤(かっとう)が起こる。暖まって、いい気持ちになっていたが、その札一つ見たために心の中で払うべきかどうか、これが罪の葛藤という。洗髪料、ほんのわずかなお金ですら、それ程悩む。
どんなことにも自分を義としようとする思いがある。律法の言葉を聞いて、「私は大体、守っているから、私は正しい。私は非難されるところはない」と、自分を正しい者にしようとする。これが聖書のいう罪です。だから「義人なし、一人だになし」(ローマ書3章)とあるように、誰ひとり義なる人はいない。その罪の覆いが私たちの心に掛かってしまうと、神様と交わりを持つことができなくなる。15節に「おおいが彼らの心にかかっている」、16節に「しかし主に向く時には」、イエス様の十字架にもう一度心を向けるのです。自分で意識もしない、考えもしない、思いもしない罪のすべてを、イエス様はあの十字架に負うてくださった。律法によっても、私たちを清めることができない。神様は、そのことをご存じで、時を定めて、イエス・キリストをこの世に遣(つか)わして、過去、現在、未来、また私たちが意識するしないにかかわらず、すべての罪をイエス様に負わせて、私たちを赦してくださった。だから、私たちはいつも、主に心を向けるのです。時にまだ、そのような罪が心にかぶってくるときがあります。いつもカーテンを開けて、神様の光がさんさんと心の隅々を照らしているとき、幸いです。しかし、今申し上げたように、やましい思い、自分を義とする思いがむくむくと心に入ってくると、途端に心が硬くなって、神様の前にサッとカーテンが、おおいが掛かってしまう。そのおおいを取り除くには、イエス様に心を向けることです。私のこの罪のために、このような私のかたくなな悔い改めのない心のゆえに、イエス様が今日も父なる神の右に座して、執り成してくださる。「父よ、彼らを赦し給え」と。イエス様の赦しを確信することです。これがすべてのものの根本です。だから、私たちは絶えず日々の生活の中で十字架の主を仰いでいく。これは命にあずかる秘訣です。夜寝るとき一日を振り返って、もし私たちの心に、あいつが、こいつがと、納得できない、受け入れがたい憤りやつぶやく思いや、人を悪しざまに思う心があるとき、自分が正しい、私のどこが悪い、私はどうしてこのような目に遭わなければいけないと思っているとき、それは罪の結果です。だから、そこで、主の十字架を仰いで、私の今のこの心のゆえに、今日も主が十字架の血を携えて赦してくださっている。そこに心を向けようではありませんか。そうしますと、今まで赦せなかった心が、イエス様のほうに向いたとき、「私が悪い。私こそそんなに言えた柄ではない」と、一瞬にしてキリストの霊、御霊が心を潔(きよ)めてくださる。
16節に「しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる」。一枚、二枚、三枚、十重二十重におおいが掛かっているかもしれない。一つ、二つ、三つ、いくらでも……。だからイエス様は「七たびを七十倍するまでに」(マタイ 18:22)赦せと言われます。主があなたがたを赦してくださったのですから、主の赦しを絶えず自覚して感謝する。これが私たちの力です。私たちを造り変えていく力です。17節に「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある」。罪のおおいが取り除かれると、主の霊が私たちを支配してくださる。神の霊が、心を、魂をしっかりと握ってくださる。そうすると、心が平安になり、穏やかになり、喜びがわいてきて、思わず知らず主を賛美する、褒めたたえる者へと変わっていく。毎日、このことを求めていきたい。神様は私たちの心と魂を、思いをキリストに似る者へ変えようとしてくださる。ですから、17節に「主の霊のあるところには、自由がある」と。主の霊に満たされて、私のような者が今日も赦され、憐れみを受ける者とされているのだ。十字架の苦しみを受けたイエス様がよみがえって、今私と共にいてくださる。罪の赦しを信じるときに、よみがえってくださった主の霊が、私たちの内に宿ってくださる。そうなると、私たちは誠に自由になります。こうしてはいけないのではないか、これはどうなるだろうか、いろいろな事で恐れをいだき、不自由な思いをしています。したくてもできない、できなくてもしたい。だからパウロが言っているように、いいと思ってこれはしようと思いながらそれができない。これはしてはいけない、これはやめるべきだと思いながらしてしまう。なんと自分は惨めなのだろうかと嘆いています。ところが、罪が赦され、十字架の主を仰いで、よみがえりのイエス様の力が、霊が、内に宿ってくださるとき、しないでいいことはしない、すべきことはする。実に自由闊達です。このような生き方を神様が造り出してくださる。私たちに新しい霊を与えてくださる。これが神様の祝福と恵みです。
18節に「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」。鏡に映る自分の姿の向こう側に、自分の姿を見るのではなくて、そこに栄光の主の姿が見える者と変わっていく。「私の顔が映っているわ、あれはキリストではないか」と。朝起きて顔を見ると、あら、ここにキリストがいるではないかと思えるようになりたい。神様はそのようにしてくださる。そこにありますように「顔おおいなしに」鏡に映すように、栄光の主を見ながら、このような生涯を生きようではありませんか。目の前の問題や事柄、人やさまざまな事情境遇ばかりを見ていますと、それに似たものになります。世の中のいろいろな問題や事柄は、複雑怪奇でねじくれていますから、そればかりを見ていましたら、それに似たものに変わってくる。そうではなくて、それは見ないで「主の栄光を鏡に映すように」、十字架の主を見上げていく。よみがえってくださったイエス様の赦しにあずかって、今日も主が私と共にいらっしゃる。主を喜んでいくとき、目の前の問題や事柄を越えていく。
使徒行伝7章54節から60節までを朗読。
これは、ステパノの殉教の場面です。彼は神様の救いのご計画について、ユダヤの人々に語りました。7章の初めから大祭司の前に引き出されて、彼はアブラハムから始まってイエス・キリストに至るまで、歴史を通して語っている。素晴らしいメッセージですが、それを聞いていた多くの人々は、ステパノに対していよいよ怒りを抱き、54節に「人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした」と。「何をこいつが!」。「あなた方は、こんな神様の恵みにあずかりながら、どうして神の民であるのに神様を忘れて、罪を犯したのですか!」とステパノは問うたのです。彼らは「いや、おれたちはアブラハムの時代から神の民だ。どこに罪があるのか。私たちは義人だ」と言ったのです。その彼らの憤りにステパノは立ち向かった。55節に「しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた」。このとき、ステパノは何を見ていたのでしょうか? 目の前に歯ぎしりをし、目をむいて憤って石を持って、自分を殺そうとやってくる群集を見ていたら、到底耐えられなかったでしょう。彼はそれを見ていない。何を見ていたのか。その向こうに神の栄光を見ていたのです。私たちも絶えず、日々の生活のすべてに、罪のおおいを取り除かれて、「主の栄光を鏡に映すように」、主を見上げていくことです。このときのステパノはまさに、神の栄光を目の当たりに見ながら、目の前にそのような怒り狂ってくる群集がいますが、目に入っていない。全然それに頓着しない。ただひたすらに神の栄光だけを見つめている。
私たちの生涯もそうです。日々の生活、いろいろなことが起こってきます。また起こってきました。ところが、ついそれに捕らわれて、目の前のことや、事柄ばかりを一生懸命に追い求めて、そのために右往左往し、また大嵐に翻(ほん)ろうされるような日々を送る。楽しいはず、喜ぶべき事柄を闇に変えてしまう。これが私たちの姿です。そうならないために、絶えず心のおおいを十字架の主によって取り除かれて、罪を赦された喜びと感謝をもって、主の栄光を仰ぎ見つつ、どのようなことの中にも、それだけを見ていこうではありませんか。このときのステパノは、そのように主の栄光を見ていました。56節に「そこで、彼は『ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える』と言った」。すごいですね。よみがえってくださったイエス様をステパノは目の当たりに見ている。そのとき、彼は石を投げられて、殺されてしまうけれども、60節に「こう言って、彼は眠りについた」。死んだ、召されたと書いていません。神様は彼を瞬時にして栄光の御国へ引き上げてくださいました。そして終わりのとき、よみがえりの日まで主の懐に休みを与えてくださいました。眠ることができました。
私たちも、この栄光の主を日々仰ぎながら、この方に心と思いを向けて、主の光に満たされて日々を歩みたい。目の前の問題や事柄ではなくて、その背後に絶えずいらっしゃる神様の赦しと、また神様の命の光を受けていきたい。
「コリント人への第二の手紙」3章18節に「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」。いよいよ聖化されると言いますか、潔められた者となって、キリストの姿かたちにまで造り変えられ、神様の御前に立つことができるようになりたい。最後にもう一つ「これは霊なる主の働きによるのである」とあります。私たちが努力しなくていいのです。努力しなくていいとは、誤解を招きやすいのですが、私たちがすべきことは、常におおいを取り除く主に心を向けること、それに努めていくときに、主の霊が私たちの内に宿って、霊が私たちを造り変えてくださる。私たちは自分で努力して変わろうとしても変われない。自分がしようとしてもできない。しかし、神の御霊が、神の霊が内に宿ってくださるとき、御霊が私たちをすっかり新しくして、神様がくすしき業を実現してくださいます。ですから、絶えず心に掛かってくる罪のおおいを十字架に持ち出して、主の赦しの中に自分を置いていくこと、これが最善にして最高の生涯です。今日も主の赦しにあずかり、喜び感謝して、主の御業を待ち望んでいこうではありませんか。そうするときに、主の霊が私たちを導き、造り変え、栄光の主と同じ姿に変えてくださるからです。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
18節に「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」。
この年も新年から神様の恵みにあずかって、新しい年を始めました。講壇の後ろに、新年聖会を通して与えられた三つの御言葉が掲げられています。その一つとして、この18節「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」と書かれています。神様は私たちを「主と同じ姿に変えられていく」、「見よ、わたしは新しい事をなす」(イザヤ 43:19)と、私たちをすっかり造り変えて新しい者としてあげようと言われます。神様は熱烈な思いをもって、何とかして私たちを造られた目的にかなう者にしようとしておられる。ところが、人はなかなか頑固です。自分を変えるとか、あるいは今までしてきたことや手順、毎日決まったことを少しでも変化させることを望みません。ほんの少しならいい。時々、ちょっと趣(おもむき)を変える、味を変える、気分を変えるために、普段と違うことをするのはいいのですが、全部を変えるのは「それはちょっと駄目だ」と、拒否反応を起こします。自己防衛本能というのがあります。自分はもうこれでいい、私はこれで大丈夫。そのように言い続けている間、人は変わらない。殊に年配になると、いよいよ焼きざましの餅のように固くなります。
わたしの両親は召されましたが、亡くなる十年位前でしょうか、使っている冷蔵庫が古くなった。それで「最新のものは、性能はいいし、消費電力は少ないし、費用的に安くなって使い勝手もいい。新しいのに換えたら? 」と勧めました。そしたら、母が言うには「もう、あと何年生きるか分からないから古いままでいい」と、そう言いながら十年以上もたってしまい、母が「言われたときにしとけば良かったね」と笑っていました。私は「今からでも遅くはないから換えよう」と言うと、「いや、もう長くはないから」と。
家内の両親も、四十年以上も同じ家に住んでいるから、使い勝手が悪い。いわゆる温水器も、湯沸し器もありません。洗濯機は全自動にしたら便利だと、いくら薦めても、「いや、うちは二槽式でないといかん」と言う。しかし、その二槽式の洗濯機も電気屋に無くなっている。それでいて、洗濯が苦労だ、大変だと言う。「大変だったら楽にしたら? 」と薦めるが、「いや、もう大丈夫、おれたちもそう長くはない」と、また同じ言葉が出てくる。家も古びてあちらこちらにガタがきている。「少しここを変えたら、あそこを変えたら? 」と、「いや、人間も古くなったのだから、家も古くてちょうど似合っている」と、へ理屈をこねる。これでは変わりません。
神様は、私たちを何とかして新しいものに造り変えたい。「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」とおっしゃいます。だから信仰生活とは、ある意味で日々冒険です。常に新しいものへと、私たちが造り変えられていく。だから、生きている限り、もうこれでいい、ということはない。神様の前に立つその日まで、時々刻々、絶えず絶えず、私たちを何とかして造り変えて、清い者にし、神様の性質にあずかる者にしようとなさる。18節にありますが、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に」、「主と同じ姿」、キリストの姿かたちに、私たちをしようとなさる。そのため、神様は私たちの生活や事柄に絶えず干渉して、介入しているのです。手を掛けてくださっている。その結果、思いがけない出来事が日々の生活で起こる。私たちは自分が考え、自分が計画して事が起こっている。あるいは、あの人この人が原因でこのことが起こったと思いやすいが、実はそうではない。日々の生活のすべては、神様が起こしている。神様はすべてのものを創造している、造り出してくださる。今もそうです。今日一日、昨日と今日、時間は連続していますが、「日ごとに新しくされていく」と神様は約束しています。
「外なる人は滅びても」とあるように、私たちの肉体もどんどん変わっていきます。殊に年を重ねて力を失い、できていたことができなくなる。いろいろなものを失っていきます。外なる人はそのように滅びていき、変わっていき、失っていきますが、「内なる人は日ごとに新しくされていく」(2コリント 4:16)。私たちの内なるもの、魂、心、思いを、神様はすっかり造り変えようとしてくださる。神様が新しくしようとしていることを、絶えず自覚したいと思います。「神様、今、私の思いもかけないことが起こり、私の考えもしないことが起こっています。これは、神様、あなたが私に何かを教えようとしてくださっている。また、私の内なるものを根こそぎ新しく造り変えようとしているのです」と。14節に「実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである」。神様が私たちを造り変える方法は、私たちを神様の光の中に取り込むことです。
ここに「おおいが取り去られないままで残っている」とあります。この「おおい」とは、カーテンのようなものです。先だっても、家内が二十年掛けていた居間のカーテンが古くなったから、「何とか、換えたい」と、私は「これでもいいのではないか」と言ったのです。そしたら、家内が「いや、少しは気分を変えたい」と言うので、店に行きまして、奇麗な、いいものが安くてありましたので、それを買ってきました。買うとき気がつかなかったのですが、それは遮光(しゃこう)カーテンでした。閉めてしまうと、真っ暗になる。部屋は居間兼寝室ですから、これは便利なものだった。良かった、と感謝し、喜んでいます。「おおい」と言いますのは、そのようなもの、光を遮断してしまう。
神様の光を遮断する幕が覆っている。私たちの心に神様のことを思う心が消えてしまう。神様を求める思いが消えていく。覆いがかぶっているから。そのおおいとは罪です。神様の前に立てない、あるいはまともに神様を見られない心。人と人との関係でもそうですが、誰かに対して悪いことをしたとか、何か心に引っ掛かる。あの人は嫌だなとか、何か憎んだり、批判したり、その人に対してよからぬ思いを持つと、心を閉ざします。そして、その人の顔を見ると避けていきます。町でその人を見かけると、「あの人だ、嫌だな、あいさつもしたくない」といって、隠れたりする。自分の中に何か妨(さまた)げるものがある。それが罪です。それがあると、神様の前に立つことができない。「私は天地神明に懸けて恥じることはありません、神様、あなたの前に堂々と立てます」と、言えないものがどこかにある。その結果、私たちの生活で遭遇するさまざまなことに、神様を認められない。どうして、このようになったのだろう、なにゆえ私だけがこのような目に遭わなければならない、どうしてこのような不幸な境遇に私は置かれた、どうしてこんな痛い思いをしなければいけないと、つぶやく心がある。また、そのような心があるときには、なにをしても心が休まらない。神様の前に出られない。そのような罪が心にあるとき、神様に顔を向けられなくなる。そして、自分が神様になる。私の考えは正しい、私は間違いがない。どうして私の思っていることが通じないのだろう、実現できないのだろうと、苛立(いらだ)ちや、憤(いきどお)りがある。それが罪です。
14節に「古い契約を朗読する場合」とありますが、この「古い契約」とは、律法の書、旧約聖書に神様がイスラエルの民に守るように求められた一つ一つの言葉、十戒に代表される御言葉です。「盗んではならない」とか「父と母を敬え」(出エジプト20章)とか、そのようなことですが、私たちが律法の御言葉を聞くと、それを素直に「そうですね」と言えない。例えば、「殺してはならない」と「私はそのような人殺しをしたことはない。人を殺したいと思ったこともない」と。でもイエス様は「心に人を憎いと思ったら、それは人を殺したのと同じだ」とおっしゃいます。だから、「殺してはならない」と言われると、「それは殺すはずはない。私はそのような罪はありません。そんな人を殺すようなことを私はしません」と、自分の義を立てる。神様は「それが罪なのだ」と言われる。事情と境遇、事柄によっては、ひょっとしたら、私だって人を殺すかもしれない。今、皆さんは「そんなこと、私は絶対にしない」と言い切るとき、神様の力ではなく、自分の力を信じている。だから、律法の言葉は、人の思いを探る。「あなたの父と母を敬え」とあります。両親を敬って、「私は精いっぱい両親を敬ってきました。大切にしてきました。まぁ、時に不満なことはありますが、それは行掛りのことでありまして、おおむね、八割がたは……」と思う。ところが神様は、80%でいい、99%でいいというのではなくて、100%を求められる。「あなたの父と母を敬え」と言われ、「はい、私は敬ってきました。八割がた敬ってきました」。「後の二割はどうしたの? 」と。「後二割は、どうもあの親は気にくわなかった」と。「気にくわないのは当たり前、こういうところがあるでしょう。ああいうところがある。誰だってああいう親を見たら、気にくわないのは当たり前、だから私が悪いわけではない」と自己弁護する。律法は、そのように私たちの心に罪を明らかにする。
あるとき、銭湯に行ったのです。銭湯に入るとき、二百円か三百円か、お金を払いました。頭も洗って、すっかり気持ちよくなって出てきた。体も拭いて、気持ちいいな、とあたりを眺めていたら、札が掛かっていた。「洗髪料は五十円」と。そのとき、「頭を洗ってしまったが、五十円払ってない。悪いことをしてしまったな」と、一瞬に心に責めを感じた。その札を見なかったら、責められることはない。ところが見てしまったのです。「洗髪料は五十円」と。その瞬間「悪いことをした」と責めを感じる。律法とはそのようなものです。「あなたの父と母を敬え」と聞いたときに、「私は本当に敬ってきたのだろうか? いや、そうではない。やはり私は悪かったな、神様の求められるところに従ってないな」と認めることが、罪を認めることです。ところが、律法を聞いたときに、いろいろと言い訳をする。「見たのだけれど、風呂も入る前に見ていないのだから、いいのではないか。入る前に見ていたのなら払ったのだし、もう終わったのだから」と、自分の心の中で葛藤(かっとう)が起こる。暖まって、いい気持ちになっていたが、その札一つ見たために心の中で払うべきかどうか、これが罪の葛藤という。洗髪料、ほんのわずかなお金ですら、それ程悩む。
どんなことにも自分を義としようとする思いがある。律法の言葉を聞いて、「私は大体、守っているから、私は正しい。私は非難されるところはない」と、自分を正しい者にしようとする。これが聖書のいう罪です。だから「義人なし、一人だになし」(ローマ書3章)とあるように、誰ひとり義なる人はいない。その罪の覆いが私たちの心に掛かってしまうと、神様と交わりを持つことができなくなる。15節に「おおいが彼らの心にかかっている」、16節に「しかし主に向く時には」、イエス様の十字架にもう一度心を向けるのです。自分で意識もしない、考えもしない、思いもしない罪のすべてを、イエス様はあの十字架に負うてくださった。律法によっても、私たちを清めることができない。神様は、そのことをご存じで、時を定めて、イエス・キリストをこの世に遣(つか)わして、過去、現在、未来、また私たちが意識するしないにかかわらず、すべての罪をイエス様に負わせて、私たちを赦してくださった。だから、私たちはいつも、主に心を向けるのです。時にまだ、そのような罪が心にかぶってくるときがあります。いつもカーテンを開けて、神様の光がさんさんと心の隅々を照らしているとき、幸いです。しかし、今申し上げたように、やましい思い、自分を義とする思いがむくむくと心に入ってくると、途端に心が硬くなって、神様の前にサッとカーテンが、おおいが掛かってしまう。そのおおいを取り除くには、イエス様に心を向けることです。私のこの罪のために、このような私のかたくなな悔い改めのない心のゆえに、イエス様が今日も父なる神の右に座して、執り成してくださる。「父よ、彼らを赦し給え」と。イエス様の赦しを確信することです。これがすべてのものの根本です。だから、私たちは絶えず日々の生活の中で十字架の主を仰いでいく。これは命にあずかる秘訣です。夜寝るとき一日を振り返って、もし私たちの心に、あいつが、こいつがと、納得できない、受け入れがたい憤りやつぶやく思いや、人を悪しざまに思う心があるとき、自分が正しい、私のどこが悪い、私はどうしてこのような目に遭わなければいけないと思っているとき、それは罪の結果です。だから、そこで、主の十字架を仰いで、私の今のこの心のゆえに、今日も主が十字架の血を携えて赦してくださっている。そこに心を向けようではありませんか。そうしますと、今まで赦せなかった心が、イエス様のほうに向いたとき、「私が悪い。私こそそんなに言えた柄ではない」と、一瞬にしてキリストの霊、御霊が心を潔(きよ)めてくださる。
16節に「しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる」。一枚、二枚、三枚、十重二十重におおいが掛かっているかもしれない。一つ、二つ、三つ、いくらでも……。だからイエス様は「七たびを七十倍するまでに」(マタイ 18:22)赦せと言われます。主があなたがたを赦してくださったのですから、主の赦しを絶えず自覚して感謝する。これが私たちの力です。私たちを造り変えていく力です。17節に「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある」。罪のおおいが取り除かれると、主の霊が私たちを支配してくださる。神の霊が、心を、魂をしっかりと握ってくださる。そうすると、心が平安になり、穏やかになり、喜びがわいてきて、思わず知らず主を賛美する、褒めたたえる者へと変わっていく。毎日、このことを求めていきたい。神様は私たちの心と魂を、思いをキリストに似る者へ変えようとしてくださる。ですから、17節に「主の霊のあるところには、自由がある」と。主の霊に満たされて、私のような者が今日も赦され、憐れみを受ける者とされているのだ。十字架の苦しみを受けたイエス様がよみがえって、今私と共にいてくださる。罪の赦しを信じるときに、よみがえってくださった主の霊が、私たちの内に宿ってくださる。そうなると、私たちは誠に自由になります。こうしてはいけないのではないか、これはどうなるだろうか、いろいろな事で恐れをいだき、不自由な思いをしています。したくてもできない、できなくてもしたい。だからパウロが言っているように、いいと思ってこれはしようと思いながらそれができない。これはしてはいけない、これはやめるべきだと思いながらしてしまう。なんと自分は惨めなのだろうかと嘆いています。ところが、罪が赦され、十字架の主を仰いで、よみがえりのイエス様の力が、霊が、内に宿ってくださるとき、しないでいいことはしない、すべきことはする。実に自由闊達です。このような生き方を神様が造り出してくださる。私たちに新しい霊を与えてくださる。これが神様の祝福と恵みです。
18節に「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」。鏡に映る自分の姿の向こう側に、自分の姿を見るのではなくて、そこに栄光の主の姿が見える者と変わっていく。「私の顔が映っているわ、あれはキリストではないか」と。朝起きて顔を見ると、あら、ここにキリストがいるではないかと思えるようになりたい。神様はそのようにしてくださる。そこにありますように「顔おおいなしに」鏡に映すように、栄光の主を見ながら、このような生涯を生きようではありませんか。目の前の問題や事柄、人やさまざまな事情境遇ばかりを見ていますと、それに似たものになります。世の中のいろいろな問題や事柄は、複雑怪奇でねじくれていますから、そればかりを見ていましたら、それに似たものに変わってくる。そうではなくて、それは見ないで「主の栄光を鏡に映すように」、十字架の主を見上げていく。よみがえってくださったイエス様の赦しにあずかって、今日も主が私と共にいらっしゃる。主を喜んでいくとき、目の前の問題や事柄を越えていく。
使徒行伝7章54節から60節までを朗読。
これは、ステパノの殉教の場面です。彼は神様の救いのご計画について、ユダヤの人々に語りました。7章の初めから大祭司の前に引き出されて、彼はアブラハムから始まってイエス・キリストに至るまで、歴史を通して語っている。素晴らしいメッセージですが、それを聞いていた多くの人々は、ステパノに対していよいよ怒りを抱き、54節に「人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした」と。「何をこいつが!」。「あなた方は、こんな神様の恵みにあずかりながら、どうして神の民であるのに神様を忘れて、罪を犯したのですか!」とステパノは問うたのです。彼らは「いや、おれたちはアブラハムの時代から神の民だ。どこに罪があるのか。私たちは義人だ」と言ったのです。その彼らの憤りにステパノは立ち向かった。55節に「しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた」。このとき、ステパノは何を見ていたのでしょうか? 目の前に歯ぎしりをし、目をむいて憤って石を持って、自分を殺そうとやってくる群集を見ていたら、到底耐えられなかったでしょう。彼はそれを見ていない。何を見ていたのか。その向こうに神の栄光を見ていたのです。私たちも絶えず、日々の生活のすべてに、罪のおおいを取り除かれて、「主の栄光を鏡に映すように」、主を見上げていくことです。このときのステパノはまさに、神の栄光を目の当たりに見ながら、目の前にそのような怒り狂ってくる群集がいますが、目に入っていない。全然それに頓着しない。ただひたすらに神の栄光だけを見つめている。
私たちの生涯もそうです。日々の生活、いろいろなことが起こってきます。また起こってきました。ところが、ついそれに捕らわれて、目の前のことや、事柄ばかりを一生懸命に追い求めて、そのために右往左往し、また大嵐に翻(ほん)ろうされるような日々を送る。楽しいはず、喜ぶべき事柄を闇に変えてしまう。これが私たちの姿です。そうならないために、絶えず心のおおいを十字架の主によって取り除かれて、罪を赦された喜びと感謝をもって、主の栄光を仰ぎ見つつ、どのようなことの中にも、それだけを見ていこうではありませんか。このときのステパノは、そのように主の栄光を見ていました。56節に「そこで、彼は『ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える』と言った」。すごいですね。よみがえってくださったイエス様をステパノは目の当たりに見ている。そのとき、彼は石を投げられて、殺されてしまうけれども、60節に「こう言って、彼は眠りについた」。死んだ、召されたと書いていません。神様は彼を瞬時にして栄光の御国へ引き上げてくださいました。そして終わりのとき、よみがえりの日まで主の懐に休みを与えてくださいました。眠ることができました。
私たちも、この栄光の主を日々仰ぎながら、この方に心と思いを向けて、主の光に満たされて日々を歩みたい。目の前の問題や事柄ではなくて、その背後に絶えずいらっしゃる神様の赦しと、また神様の命の光を受けていきたい。
「コリント人への第二の手紙」3章18節に「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」。いよいよ聖化されると言いますか、潔められた者となって、キリストの姿かたちにまで造り変えられ、神様の御前に立つことができるようになりたい。最後にもう一つ「これは霊なる主の働きによるのである」とあります。私たちが努力しなくていいのです。努力しなくていいとは、誤解を招きやすいのですが、私たちがすべきことは、常におおいを取り除く主に心を向けること、それに努めていくときに、主の霊が私たちの内に宿って、霊が私たちを造り変えてくださる。私たちは自分で努力して変わろうとしても変われない。自分がしようとしてもできない。しかし、神の御霊が、神の霊が内に宿ってくださるとき、御霊が私たちをすっかり新しくして、神様がくすしき業を実現してくださいます。ですから、絶えず心に掛かってくる罪のおおいを十字架に持ち出して、主の赦しの中に自分を置いていくこと、これが最善にして最高の生涯です。今日も主の赦しにあずかり、喜び感謝して、主の御業を待ち望んでいこうではありませんか。そうするときに、主の霊が私たちを導き、造り変え、栄光の主と同じ姿に変えてくださるからです。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。