いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(108)「いかに生きるか」

2014年01月07日 | 聖書からのメッセージ
詩篇90篇1節から17節までを朗読。

12節に「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」とあります。
詩篇90篇は、告別式や人の死にあたって読まれる詩篇でもありますが、大切なことが語られています。5節以下には「あなたは人を大水のように流れ去らせられます。彼らはひと夜の夢のごとく、あしたにもえでる青草のようです。6 あしたにもえでて、栄えるが、夕べには、しおれて枯れるのです」とあります。人の命のはかなさを語っています。地上での生涯は限りがあり、決していつまでも続くものではない。しかし、その終わりがいつであるかを知らないから、まだ先だと思う。世間でも “光陰矢のごとし”と言うように、時は一瞬の間に過ぎ去っていきます。また自分を振り返ってみると、今の年齢になるまで、何十年と長い月日があったのですが、過ぎ去ってみると一瞬ように思います。

私にとって、今年は結婚して39周年です。39年前の9月にこの教会で結婚式をしました。それから39年間、過ぎてみるとあっという間です。皆さんもそうだと思います。また、先に召された人たちのことを考えてみても、5節に「あなたは人を大水のように流れ去らせられます」とありますが、まるで鉄砲水に押し流されるように過ぎていきます。毎日の生活は悠久のようにゆったりと一日が過ぎているようですが、考えてみますと、激流のごとく過ぎ去っているのです。
最近、教会の古い写真を保存するために、デジタルに変換する作業を少しずつしていますが、10年前の写真を見ると、大体3分の1くらいの人がいない。20年前を見ますと半分近くの人が、時には3分の2くらいの人々が天国にいっています。新年の記念写真がありますが、あれを20年分くらい並べてみてご覧なさい。あの人もこの人も、この人もあの人もいない。瞬(またた)く間にいなくなって、生きている人間はその人のことを忘れている。私の両親も数年前に召されましたが、召されたころは、十年くらいは悲しみが残るかなと思ったがそうではない。三年くらい過ぎますと、現実の生活のほうが忙しくて、召された人のことは忘れる。人は死んで消えていきます。

5節に「彼らはひと夜の夢のごとく、あしたにもえでる青草のようです。6 あしたにもえでて、栄えるが、夕べには、しおれて枯れるのです」。一瞬の間にこの地上を去っていきます。そのことを考えると、地上の生涯、八十年であろうと百年であろうと、本当に短い。神様の永遠の時間からするならば、ほとんどゼロに等しい。人は何十年長生きしたと自慢します。先日もお母さんが百一歳になり、郷里でお祝いをする。郷里の県知事さんと市長さんが、もちろん代理の方でしょうが、表彰状を持って来られる。表彰状には“健康は宝です。あなたが百一歳を迎えられたことは県民の誇りです”と書いてあった。なるほど、世の中の人は、そのように健康さえあれば、健康が宝だ、長生きさえすればあなたは誇りだと思う。世間では百歳以上が何人とかいわれますが、過ぎ去った年月は無きに等しいものです。

神様を知らないと、そこにしか価値を見いだすことができない。生きているのが値打ち。死んだらおしまい。そのように言われると、生きていることが大切だと思ってしまう。しかし、問題はどのように生きるかです。自分はまだ長生きすると思っているが、気がついたら天国だったと。それならまだいいですが、天国が間近になって気がついたときは遅い。だから、今、どういう時にあるかをよく知っておかなければなりません。

9節に「われらのすべての日は、あなたの怒りによって過ぎ去り、われらの年の尽きるのは、ひと息のようです」。「ひと息」、フーッとため息をつく。その瞬間が一生なのです。10節に「われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです」。私たちは今飛んでいる。足が悪くて歩くのもおぼつかない、どうして飛べるかと思いますが、私たちは終わりに向かって落下している。考えてみると、健康で生きていると実感できる時間は、七十年から七十四,五年ですね。それから先は必ず持病や何かで苦しみながら、十年、二十年と過ぎる。だから八十歳を過ぎると、何か病気がある。だから、八十歳を超え、八十五歳になって、あそこが悪い、ここが痛いと言ったときは勲章だと思ったらいい。どうしてこんな病気になるのか、もっと若いはずなのだと思ったら悲劇です。むしろ年齢にふさわしい人間になったのだと感謝したらいい。ここにあるように「あるいは健やかであっても八十年」です。だから九十年生きた人は、八十年から九十年の十年間は健やかではないと思ったらいい。また、それから百歳まで生きた人は、その間いろいろな病気の中を戦いながら生きることでもあります。これはどうにもしようがない、神様が定められたことです。しかし、神様がそれぞれに与えられた使命がありますから、命が長く与えられるなら、たとえ病気であろうと、寝たきりであろうと、生きなければなりません。

12節に「われらにおのが日を数えることを教えて」とあります。なるほど、人生を数える。八十年とありますが、八十年は生まれてから何日になるかと計算した。そうすると二万九千二百日です。八十歳を超えた人は、すでにその日数を生きたのです。なんだかたくさんのようですが、ここに言われている「おのが日を数えること」とは、計算することではない。「おのが日を数える」とは、私たちの終わりのときが間近であることを知ることです。そのことを自覚すること。自分のよわい、地上での寿命、終わるべき時が必ずあることを認めることです。そして、終わる時があるから、それに対してどのように生きるか、これが「おのが日を数える」ことの二つ目です。まず大切なことは、自分の終わることがくることを知っておく。誰でも終わる時がくることを知っています。しかし、気がつかないうちに、それを忘れている。忘れることはもちろん幸いなこと。年中、自分の死ぬことばかりを考えたらノイローゼになります。いつ死ぬのだろうか、明日死ぬのだろうかと。しかし、逆に忘れていいはずはない。

マタイによる福音書25章1節から13節までを朗読。

この世の終わり、イエス様が再び裁き主としてきてくださる再臨のときはいつであるのか、それはわからないけれども、同時に私たちの地上の生涯もいつ終わるかわからない。「その日その時が、あなたがたにはわからない」と13節に記されています。私たちは自分の死の時がわかりません。もし、これがわかっていたら、生きる力を失います。死刑囚の人たちが、自分の死刑の執行日はいつなのか聞いていない。これは決して知らせません。知らないのはある意味でその人たちにとって幸いなことです。もし、知ってしまったら、指折り数えて発狂するに違いない。だから、いつその時がくるかわからない。死刑囚は朝になると、係官が自分の部屋の前に止まるのではないかと、廊下を通る足音を気にする。午前中に自分の所に来たらおしまいだと思っている。ところが、足音が通り過ぎると、ホッとして、今日も一日生きられると思うそうです。そのような話を聞いたことがありますが、理にかなっていると思います。言うならば、私たちも死刑囚のようなもので、死の時が定まっているのだが、それがわからない。だからといって、ないのではありません。聖書に「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」と、「へブル人への手紙」にあります。これは絶対に間違いのない事実です。ただ、私たちは終わりの時がわからないから、「まぁ、いいか」と好き放題、自分の思いどおりのことをやっている。私たちはこの地上に命を与えられた神様の目的があるはずです。殊に、死を前にして考えるならば、死んでどこへ行くのか? 消えてなくなって、雲散霧消、無に帰してしまうのだったら、どのような生き方をしても、問われないに違いない。しかし、ひょっとしたら、造り主である神様の所に帰っていくならば、どうなるでしょうか? そんな造り主、神様などいるものか、おれは死んだら、消えてなくなっておしまいだと信じている人でも、ほんのわずかでも心の隅っこに、ひょっとしたらそうでないかもしれない。自分がこうやって生きてきた背後に、造り主がいたとしたら、その神様の前に帰ったときどうなるだろうか。考えたら、おそらく心配になって、不安になり、恐れを感じて、眠れなくなるかもしれない。いくら自分に「おれは無になるのだ、無になるのだ」と言い聞かせても、本当にそうなるという約束はどこにもない。

今読みました十人のおとめの記事に、「その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった」と2節にあります。では、「思慮が浅い者と思慮深い者」とは、何が違っていたのでしょうか。ここでは迎えに出るために油の用意をしていたと記されています。油の用意をするとは、取りも直さずいつ花婿が来るかわからないから、いつ来ても大丈夫なように用意していた。しかも、自分たちが花婿を迎えるという、与えられた使命、役割、これを完全に果たすために必要なことは何なのかを考えた。「思慮深い」とはそういうことです。五人のおとめは、自分たちが何のために外へ出て待っているのか、その使命を果たすために必要なことが何なのか、そのようなことを細かく考えたあげく、油の予備を持っていこうと思ったのです。ひょっとしたら、足(た)らないかもしれない。今ともし火が明るく光っているけれども、限りがあることを知っているから、これでは足らないかもしれない。そのことを考えたのです。もう一方の思慮の浅い人たちは、あまりそこまで深く考えない。取りあえず油があるからいい。そのうち来るだろうと、自分の与えられた使命、自分がしなければならない事の役割をしっかりと考えなかった。そして、花婿が来るのが遅れ、彼女らは寝てしまった。やがて、花婿が来たぞ、という声とともにハッと気がついたときには、ともし火が消えかかっていた。慌てて思慮深い人は予備の油を足して花婿を迎えました。片や予備のなかった人は、火が消えかかっているから、急いで買いに行った。ところが、その間に花婿は到着して、扉が閉ざされてしまった。10節に「彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた」。ここに「用意のできていた女たち」と記されています。何の用意ができていたのか? 迎える準備をしていた。確かに予備の油を備えていたから良かったと思われるが、必ずしもそうではない。この言葉を読みますとき「用意のできていた」と言われています。花婿を迎えるための備えがちゃんとできていたのです。それはただに、消えかかった火をともすための油を用意したというばかりではなくて、花婿が来るのにふさわしいように自らを整え、すべてのものを準備していたことにほかなりません。表面的には、明かりが消えかかったから、予備の油さえ持っていればいいように見えますが、そればかりではありません。ここに言われているように、「用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり」と、花婿と共にお祝いの席に連なるべき準備が、もちろん明かりも含めて、そのほかの事柄も用意ができていた。彼女たちは自分の果たすべき使命を全うして、婚宴に連なる完全な準備が整っていたのです。ですから、「花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた」のです。私は「戸がしめられた」という言葉と関連していつも思い起こすのがノアの箱舟です。箱舟に入って、やがて大洪水になりました。ノアとその家族が箱舟に入ったときに「主は彼のうしろの戸を閉ざされた」とある。それはノアが閉めたのではなくて、「神様が戸を閉ざされた」のです。外側からも、内側からも、誰も開けることができない扉だった。花婿が婚宴の部屋に入ったときにもその戸が閉められました。

その後11節に「そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った」。まだ用意ができていなかった人たちが戻ってきました。そして声をかけて開けてくださいと言った時、12節に「はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない」。これは厳しいですね。知らないはずはない。ご主人の命令で花婿を迎えに出ていたのですから……。だから「ご主人様、どうぞ、あけてください」と。ところが中から「あなたがたを知らない」。これはまさに、私たちがやがて直面するべき事柄です。イエス様は13節に「目をさましていなさい」と言われた。目を覚ます、それは「おのが日を数えることを教えて」、自分の終わりの時が近づいていることをよく知る。ただ知って闇雲に恐れたり心配したり、不安になることではない。終わりの時を知るならば、今は何をすべきなのか。残された地上のよわい、時間がどれほどあるのかわかりません。長いか短いかわかりませんが、いずれにしても必ず終わりの時がくるならば、そのときまで私はどのように生きるべきなのか、このことをしっかりと自分自身が自覚していかなければならない。これが「おのが日を数えることを教える」ことです。

詩篇の90篇12節に「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」。私たちにこの地上に残されたよわいの日、それがいつまでであるかわからないけれども、必ず終わりのときがくる。しかし、それまでの間、この残された地上の日々をどのように生きればいいのか。この一週間を振り返って、このような生き方をしてきたけれども、果たしてこれでよかったのだろうか。今日、今この瞬間、神様の前に召されたならば、本当に喜んで、地上の生涯を終わることができましたと言って神様の前に立ち得るか。どうでしょうか、皆さん、自信がありますか? ちょっと不安になりますね。これは困った、どうしたものかなと、あれもできていない、これもできていない。こうもしなければいけないといろんなことを考えて今晩眠れなくなるかも分かりません。

ここに「知恵の心を得させてください」とあります。まず、大切なことは、神様が与えてくださった地上の日々があることを知る。神様は私どもにこの地上で生きることを求めていますが、それをどのように生きれば良いか、私たちにはわからない。だから、このままで主の前に立てるだろうかと問われると、自信がないと思われるのは当然です。自分で考えて自分の好きなこと、自分の思いのままで生きてきた。果たしてそれで良かっただろうかと心に引っかかるものがあるから、神様の前に立てないと思う。それは、当然といえば当然です。なぜならば、自分に与えられた地上の日々をどのように生きれば良いか、知恵がない。考えても考えられないのが私たちです。だから、ここで「知恵の心を得させてください」と祈っているのです。言い換えますと、この地上にあって、神様、あなたの求められるところに従って生きることができる知恵を与えてくださいと。これはまた私たちの日々の祈りです。毎日、朝起きて夜寝るまでの時間、神様が私に何を求めているのかを問わなければ生きられない。すべての業、一つ一つの日々の事柄は、神様の御旨なのだろうか、これは神様が今「せよ」と言われることなのだろうか、神様は何を私に求めているのだろうか。そのことをしっかりと問わなければ、「知恵の心を」得ることができません。また、神様はそのように求める者に、御霊によって教えてくださる。

エペソ人への手紙5章15節から21節までを朗読。

15節に「歩きかたによく注意して」と勧められています。「歩きかた」とは、今申し上げました私たちの生き方、日々の生活のあり方です。それを「賢い者のように歩きなさい」と言われます。「賢い者」とは、神様を畏(おそ)れ敬い尊ぶ者のことです。決して成績が良いとか、学校で優秀であったとか、そんなこととは関係がありません。神様を畏れて、神様の御思いを求めて生きる人のことです。これが「賢い者」です。だから、17節に「主の御旨がなんであるかを悟りなさい」。神様の求めていること、これは一人一人違います。あの人がこうしているから私もこうしようとか、この人が神様の御旨だと言っているから、私もそうなろうというのではない。神様は一人一人に備えている思いがある。だから、それを「悟りなさい」というのです。「主の御旨がなんであるかを悟りなさい」。これは毎日です。また、残された地上にある日々、私たちのすることなすこと、ことごとに神の御旨をしっかり求めて生きようではありませんか。これが「おのが日を数える、知恵の心」です。神様が私たちに、御霊によって、御心を、御旨を教えてくださるから、それを聞き分けていくこと。これが残された地上の日々を生きる生き方です。だから18節に「むしろ御霊に満たされて」と記されています。神様の霊に満たされること。そのためには祈り深い日々を送りたいと思います。絶えず祈りつつ、主を求めて、主の霊に満たされ、そして今、今日、私がすることなすこと、語ること歩むこと、一つ一つどんなことの中にも、主が私にこのことを託している。神様が今私にこのことを求めている。これは主が喜ばれることだからと、主の御思いに従って生きているかどうか。これが「おのが日を数え、知恵の心を得る」ことです。御霊によって神様の御思いを知ることです。

そして19節に「詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい」と。心から神様を褒めたたえ、感謝して、日を過ごすことです。残された地上の日々をどのように生きるか、その一番大切なことは、私たちを造り、生かしてくださった神様のところに帰っていくにふさわしく、与えられた使命を果たし得ることができるように、御霊に満たされて「知恵の心」を得ることです。私の使命とは何だろうかと考えます。それは、今置かれている立場、持ち場、与えられた事柄が、まさに主が与えくださっている使命です。今、置かれている場所、今与えられている問題や事柄です。信仰をもって神様から頂いたこととして、受けることが大切です。いや、こんなはずではなかった。もっとああなりたかった、こうなりたかったと、常に不満があり、つぶやく思いが心にあって生きているならば、それは大間違いです。そうではなくて、そこで主の御旨は何であるかを問う。もし不満な思いがあり、納得できない、こんな私であるはずがない、私はもっとこうなるべきであった、ああなるべきであったと、思うならば、謙遜に神様の前に出ていただきたい。「おのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」と。神様、私の使命は何でしようか? もう一度謙遜になって、神様の御旨を求める。そうしますと、台所の仕事であろうと、あるいは、嫌だと思う、思いもしなかった状況の中に置かれているようであっても、神様が私に与えられた使命であることをしっかりと信じて、信仰に立って生きるとき、喜びに変わります。また、神様は豊かに恵んでくださる。

ですから、20節以下に「そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、21 キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである」。ここに「キリストに対する恐れの心をもって」、イエス様に絶えず心を向けて、キリスト第一、神様第一にしていくことです。主が喜ばれるならば、どんな犠牲もいとわない。主が求め給うならば、私はどんなことでもしよう。しかし、主が駄目だと言われるなら、たとえしたくても、願っていることであっても、夢がかなえられることであっても、キリストが、主が喜んでくださらないならば、それはしない。この一線をきちっと引くとき、神様の御前に立つ備えが出来ていきます。やがて、生涯が終わるときに、十分にあなたの使命を果たすことができましたと、心から神様に感謝することができる。悔いのない生涯とよく世間でも言います。「短い人生、悔いのないように生きようではないか」と。世の中でいう、悔いのないというのは、自分の思いどおり、したいように、わがまま放題に自己満足しようではないかというのでしょう。これでは決して満足しません。主婦の皆さんにとっては、毎日三度三度、おさんどんばかりさせられて、家族は私に感謝の一言もないし、世話ばかりさせられ、人生を台無しにしていると嘆きます。時に、ひとつわがままをしてやろうと、ご主人や家族がいないとき、出かけて思う存分散財して、楽しんで帰ってきてご覧なさい。その瞬間はしてやったり、満足と思うかもしれませんが、後でしまった、余分なお金を使い過ぎて、あれはもったいなかった。あんなことをしなければ良かったと、悔やむことになる。ところが、自分のへそくりを投げ出して、家族にごちそうをしてご覧なさい。その瞬間は、しまった、貯めたへそくりがなくなったと思うかもしれませんが、何日かすると、良かったな、家族を喜ばして良かったなぁ、と思う。自分の思いを遂げる、自己満足するのは悔いが残る。神様がこのことを「せよ」と言われるから、喜んでさせていただきますと、自分を空っぽにして犠牲を払う。すると、後で「神様、あなたに従うことができました。神様、あなたの願いを実行できて感謝です」と喜び、満足がある。だから、21節に「キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである」。神様を畏れる思いを絶えず持ち続けて、主に喜ばれることが何であるかを知りたい。同じ「エペソ人への手紙」5章10節には「主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい」とあります。私どもに残された月日は短い。大水の流れ去るごとくに消え去っていきます。しかし、たとえ私たちがこの地上から消えて、誰にも覚えられなくても、神様は私たちのすべてをご存じで、神様は報いてくださるのです。

コリント人への第一の手紙15章58節を朗読。

ここに「いつも全力を注いで主のわざに励みなさい」。「主のわざ」と言うと、何か特別のわざのように思いますが、そうではない。「ヨハネによる福音書」を読みますと、神様のわざは、神様から遣(つか)わされた主イエス・キリストを信じることだとあります。イエス様を信じるとは、私たちがイエス様によってあがなわれ、神のものとされたことを信じて生きることです。主のわざは自分を神様のものとしてささげ、日々の生活で今与えられた事柄を神様からのものとして頂くのです。預かるのです。そして、そこで神様の御旨に従って生きることが主のわざです。私たちは神様によって生かされている。神様が「生きよ」と、使命を与えてくださった。神様の御思いを絶えずわきまえて、神様のわざに励む。遣わされ、置かれている家庭であり、社会です。また、この世の仕事に携わるかもしれません。会社勤めをしたり、社会にあって仕事をしたりいたします。だからといって、その会社のためとか、あるいは、何か組織のために生きているのではなく、そこでもこれは主から出たこと、神様が私に備えられたことですと信じて、その仕事の中にも主の御旨を求めていく。神様の御心を求めながら生きるとき、主のわざを果たしていくことになる。

ここに「いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはない」とあるように、決して無駄に終わらない。やがて神様は、私たちのすべてのことをご存じで、ねんごろに顧(かえり)みてくださいます。また、報いてくださるときがきます。どうぞ、そのことを望み、あと何年であるかわかりませんが、お互いそのことを自覚して、神様の前に全力を尽くそうではありませんか。

詩篇90篇12節に「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」。3節にあるように、いつどんなときに神様が、「あなたは人をちりに帰らせて言われます、『人の子よ、帰れ』と」言われるかわかりません。主が帰れと言われたとき、喜んで私の使命は終わりましたと、神様の所に帰っていくことができる者でありたいと思います。たとえ、それが自分の思いや願いと違うことであっても、主の御心でした、神様、私はあなたに従う生涯でしたと感謝することができれば、何よりも最高の生涯であります。そのために日々祈り深く主を求めて、絶えず大きなことも小さなことも、主の御心はいかにと、 御旨に従っていこうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。