詩篇50篇1節から23節までを朗読。
7節に「わが民よ、聞け、わたしは言う。イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす。わたしは神、あなたの神である」。
ここには神様の裁きについて語られています。と同時に、神様が私たちに何を求めているかをも語っている。1節から5節までのところで、神様はすべての人をご自分の前に召し出して、すべての民を裁くとおっしゃっています。「神様の裁きにあうよ」ということです。そのときの神様の基準はどこにあるか、7節以下に述べている。
まず、神様が裁かれる第一の事柄は何かと言いますと、またこれがすべてでもあるわけですが、神様を神様として尊び、敬うことです。7節に「イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす」と言われます。イスラエルとは、神の民です。神様は父祖アブラハムを選んで、そのすべての子孫をご自分の民と定めてくださいました。いうならば、イスラエルの民は、神様を尊び敬う民、であるはずです。イスラエルと呼ばれるのは、その人々が神様を尊んでいる、大切にしていることの証詞です。ところがここには何とあるか? 「イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす」。その民に向かって、神様が証詞をする。つまりご自分を証明すると言いますか、自己紹介をする。ご自分がどのようなものであるかを現すと言われる。これは誠に奇異と言いますか、おかしな言葉です。なぜなら、イスラエルだったら、神様を知っている民なのです。神様に一番近い民であるはずです。そのイスラエルに向かって、「わたしはあなたにむかってあかしをなす」と神様は言われる。これは、誠に神様にとってつらいことだろうと思います。言うならば、人の親が自分の子供に向かって「私はあなたのお母さんよ」「私はあなたの父親ではないか」と言わなければおれない状況を考えてみてください。イスラエルの民をご自分が選び召して、荒野の旅路を持ち運んで、カナンの地にまで置いてくださったのは神様です。ところが、イスラエルの民が、神様を忘れてしまった、離れてしまった。だからこそ、今、神様はあえて「わたしは神、あなたの神である」と告白せざるを得ない。
ですから、この言葉を読むとき、このときの神様の思い、イスラエルの民に対してどのように深い嘆き、情けなさ、そのような思いをもって、語っていることかをしみじみと感じます。自分の民に向かって、「我が民よ、あなたは誰のものなのだ」。言うならば、息子に向かって「お前の親父は誰なんだ」と言っているようなものです。親のことを忘れて、親の恩も忘れて、自分勝手なわがまま放題、放とう三昧をしている息子に向かって言っているような状況なのです。そして7節に「わたしは神、あなたの神である」。私は神ではないか、と言われます。神様が、あえてご自分を神だと言わなければおれない。イザヤ書やエレミヤ書を通しても繰り返して「わたしは神である、今より後もわたしは主である」と言われます。何度となく、神様は「私がいるではないか。お前はどこを見ているのだ。何を頼りとしているのだ。お前は何を神としているのだ」と、繰り返し、繰り返し問いかけています。これは本当に申し訳ない姿です。だから「神はみずから、さばきぬし」、私はそのことを裁くとおっしゃるのです。神様の裁きとは、まず私たちが神様をどのような方と、信じているのか、神を神としている証詞がどこにあるかを神様は問うているのです。ですから「わたしは神、あなたの神である」。私は神であり、また誰のものでもない、実はあなたの神ではないかと。
それに加えて更に8節以下に「わたしがあなたを責めるのは、あなたのいけにえのゆえではない。あなたの燔祭はいつもわたしの前にある」と。イスラエルの民は神様を忘れて、全く神様のことなんかそっちのけになっていたわけではない。イスラエルの民は神様から命じられたように祭り事、お勤めは欠かしたことがない。ここにありますように、いけにえをささげ、燔祭をささげて神様の前に香をたき、さまざまな祭り事、神様を礼拝する行為として、業として、それを全うしていました。ところが、その心に、彼らの思いの中に神様を畏(おそ)れるものがなくなっていた。
これはイスラエルの民ばかりでなく、実は、救いにあずかっている私たちのことでもあります。私たちは神様の救いにあずかって、イエス様の尊い命の代価をもって買い取られ、神のものとされた。クリスチャンとは神の民です。信仰によって、私たちはイスラエルとされている。私たちの神となってくださった方がいる。その神様に対して、神を神として尊び、敬っているか、ということです。神様はこれを私たちに探られる。また私たちの裁きの一つの基準になります。私たちが礼拝を守り、また祈りを欠かさず、聖書を読み、一生懸命に、お勤めとして、日々に欠かすことなくしているかもしれない。では普段の生活の隅から隅まで、神を神として、すべてのものの創造者、造り主であり、またすべてのものをご支配くださる神様の前に、主を畏れて、神様第一にしているか? 案外とそうではない。聖書は読むけれども、読み終わったら「はい、今日の日課はおしまい」。お祈りも、「今日はこれだけお祈りしたから、もうよかろう。次に……」と。先日もある姉妹とお話をしました。その方はきちんと毎朝聖書をしっかり読む。ところが、読んではいるけれども、その御言葉が心にとどまらない。読むには読んだ。知識として理解はする。しかし、それが今、自分に与えられている問題、事柄の中に神様がどのような働きを、どのような目的を持ち、どのようなことを自分に求めているのかを知ろうとしない。お言葉はお言葉としてと、……。
だから、クリスチャンの集まりだから賛美の一つもし、お祈りも一人ぐらいしなければいけないだろう。聖書も読まなければいけないだろうと、取りあえずそれはする。そしたら、「はい、終わり。後は私たちの時間」となります。何か行事をしようとするときでもそうですけれども、クリスチャンが集まって、皆で話し合いをする。じゃ、話し合う前に、お祈りして、讃美して、み言葉を読む。終わって、さぁ、それではこの議題について話をしましょうとなると、そこに神様はいない。人がどうするか、あの人がどうする、私はそんなことはいやだとか、言うならば人の知恵と知識と力で何とかしていかなければ……。予算はどうするのだろうか?お金はどうする? あそこに寄付を頼もうか、こちらにこうしようと、そのような話ばかりが盛り上がって、神様はどこにいらっしゃるの? というクリスチャンが多い。
どうして私のところに来て求め、私を信じ、信頼して、神としてあがめようとしないのか。8節に「わたしがあなたを責めるのは、あなたのいけにえのゆえではない」。神様にささげものが足らないとか、あるいはその仕方が未熟であるとか、不足しているとか、そのようなことで神様が責めているのではない。「あなたの燔祭はいつもわたしの前にある」。絶えずいけにえをささげて、神様の前に燔祭をささげてはいる。しかし神様のためにこうしている、こんなささげ物をした、犠牲、献身をして、こうした、ああしたと、そのようなことを誇りとして生きている間は、神様を大切にしているのではありません。
9節以下に「わたしはあなたの家から雄牛を取らない。またあなたのおりから雄やぎを取らない。10 林のすべての獣はわたしのもの、丘の上の千々の家畜もわたしのものである。11 わたしは空の鳥をことごとく知っている。野に動くすべてのものはわたしのものである。12 たといわたしは飢えても、あなたに告げない、世界とその中に満ちるものとはわたしのものだからである」。私たちは何をもって神様を喜ばせようか、神様のために何をしようか。犠牲、献身、いろいろなものをささげて、神様、あなたはこれが足らないでしょうから、私がしてあげましょうと。神様はそのように人から助けを求めなければできないような方ではない。私どもは、気がつかないうちに神様を自分と同じものと思ってしまう。ですから21節に「あなたがこれらの事をしたのを、わたしが黙っていたので、あなたはわたしを全く自分とひとしい者と思った」。神様が責めているのは、ここです。神様を自分と等しい者、自分が養ってやらなければならない方であるかのように思う。これは私たちがいつも問われなければならない事です。私たちの生活の一つ一つの業、事柄の中に、神を神とした姿勢があるのか。人を見、あるいは自分の業を誇り、また自分の何かをもって神様を助けてあげたぐらいに思っているならば、とんでもない大間違い。私たちは気がつかないうちにそのようになっていく。
だから、神様のために私はこんなことをした、あんなことをしたと、そんなことは、神様は何も必要としていない。神様は不足しているわけではない。「石ころからでも、アブラハムの子を起すことができる」(マタイ3:9)とおっしゃる神様。12節に「世界とその中に満ちるものとはわたしのものだから」。だから、私たちに神様が求められるものは、献金が足らないとか、あるいは奉仕が足らないとか、あるいは何をしていないからだとか、これをしていないからとか、そのようなことを神様は私たちに求めているのではない。神様は「わたしは神、あなたの神である」。神様を神とし、尊び、敬う、この思いがすべてのことの中に徹底していること、これを神様が求めているのです。
ですから、13節に「わたしは雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか」と。神様は「雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲む」、そんな子羊をささげたり、あるいはいけにえとして燔祭のためにささげたりして、私はこれだけした、あれだけもしたと。そのようなことを神様は求めているのではない。神様は「わたしは神、あなたの神」、誰の神でもない、私の神様となってくださった。そして14節に「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き者に果せ」と。「いけにえ」とは、私たちの体を感謝のささげ物として神様にささげる。それは取りも直さず、私たちの日々の生活の一つ一つの業を神様からのものとして、神様に感謝することです。
年末になると「感謝セール」とか「感謝何とか…」という垂れ幕が商店街に掛かったり、デパートの売出しがあったりします。誰に感謝するのかなと思ったら、お客さんに感謝するという。だから普段より2割、3割、あるいは半額ぐらいにしてあげますという。そうしますと皆が買いに来る。結局狙っているのはお店がもうかるためにしている。感謝とは名ばかりで、感謝しているのは自分に対してです。そのような感謝がまかり通っていますが、私どもも、事情、境遇、事柄、人やそのようなものに感謝はするが、心から神様に感謝しているでしょうか。これが問われる。ここで「感謝のいけにえを神にささげよ」と言われると、何か自分のものを取られそうに思う。そうではない。「感謝のいけにえ」とは、ローマ人への手紙12章1節に「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」。これは取りも直さず、神様が私を造り生かし、そしてこの生活の中に置いてくださる。食べること、着ること、飲むもの一切のすべての必要を満たしてくださる。日を照らし、雨を降らし、生きるための糧を与えてくださっている。それらすべてのことについて感謝して、自分が神様のものであると証詞することです。これが「感謝のいけにえを神にささげる」ということ。だから、テサロニケ人への第一の手紙5章18節に「すべての事について、感謝しなさい」と、どんなことにも感謝するということです。これが私たちの大切なことです。神様に感謝する、しかも相手は誰かと言いますと、「わたしは神、あなたの神である」と言われる神様に感謝する。人に対して、何か良いことをしてもらった。「ああ、本当にありがとうね。あなたからこんなにしてもらって本当に申し訳ない」と繰り返し、繰り返し、その人に「ありがとう」と言うのではなくて、もちろん、してくれた人に対しては感謝します。「ありがとう」と言いますが、もっとそれ以上に、神様に対して「感謝のいけにえ」をささげているか? 確かにイスラエルの民は、そのように犠牲、献身、動物をささげること、燔祭をささげること、それには事欠かなかった。神様はそれを責めているわけではない。大切なのは、その心が本当に神様からのものとして、神様に感謝のいけにえとして、自分自身をささげていく。これは私たちが毎日、朝起きて、神様の前に感謝をして、そして自分を主のものとしていくことです。これは神様が私たちを裁かれる基準であると同時に、私たちに切に神様が願っていることです。
韓国語では「ありがとう」を「カムサ ハムニダ」と言うそうですが、私は詳しくは知らなかったのですが、ある方が説明してくれ、「カムサ」とは、「感謝」という言葉の韓国読みで「感謝します」という意味なのだそうです。それで私は覚えたのです。あ、そうだ、感謝するということなのか。「カムサ」と聞けば、感謝に聞こえますね。「ありがとう」は、存在しがたいこと、びっくり仰天、という意味です。「感謝」とはちょっと意味合いが違う。感謝とは、心に喜びを感じていること。それは神様に対して感謝することです。14節に「感謝のいけにえを神にささげよ」と。そしてその神は誰か? 「あなたの神だ」とおっしゃる。万物の創造者で、すべてのものを今も力ある御手をもって、私たちを支えてくださる神様に、感謝のささげ物をしなさい。「すべてのことについて感謝しなさい」。良くても悪くても、自分に都合が良くても悪くても、一切合財すべてのことです。自分の性情、性格をひっくるめて、家庭のこと、子供たち、孫たちのこと、すべてのことについて文句を言わない、感謝をする。まず私たちは神様の前にきちっと姿勢を整える。7節に「わが民よ、聞け、わたしは言う。イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす。わたしは神、あなたの神である」。誰の神でもない。私どもはどこかで他人ごとのように考えますね。
私も、子供のころ、まだ高校生ぐらいは、父の神様にちょっと間借りしている感じ、下宿人的な発想です。私の神様ではなくて、父や母が信じている神様にちょっと便乗して、付録として私もお祈りを聞いてもらいたい、そのような気持ちです。どうもしっくりこないのです。自分の神様ではない。と言うのは、横であまりにも、神様、神様と言い過ぎる人がいると、お株を取られた、本家をとられたような感じがしますから、私はもうここにはおられないと思いまして、出て行ったのです。それはそれでよかったと私は思います。そうやって親元を離れて、はじめて神様と一対一になる。私は一体何を神としようとしているかを問われる。そのとき、初めて、あなたは私の神、イエス様、あなたは私の救い主です、と言い得たのです。そのようにして信仰に導かれてきました。そうしますと、神様が実に身近なもの、誰の神でもない、私の神様。だから、人が何と言おうと動かない。動揺することがない。どうぞ、八幡前田教会の神様を信じていると思っては駄目です。私の神様です。皆さん一人一人のオーダーメードですから、デパートにぶら下がっている既製服を着ているのではない。皆さん一人一人に、神様は「わたしは、あなたの神である」。だから、私のことを隅から隅まで知っている。他人(ひと)の神様だったら、私のことをどこまで知っているのか分からない。ところが、私の神様ですから、私のことを知らないはずがない。だから、安心です。ほかの人の神様ではない、「あなたは私の神」、このことをはっきりと確信したいと思います。そのためには、まず日々の生活の中で私の神様に対して「感謝のいけにえをささげる」。今日も、神様、あなたがこのように恵んでくださいました。神様、あなたは私の神です、私はあなたに仕えていきますと心から主の前に自分をささげる。ささげると言うのは、「神様、すべてあなたの御心に従います」ということです。自分を捨てることですよ。どうぞ、そこまで徹底して「あなたは私の神」と言い得るまで、はっきりと神様に自分をささげて、感謝して生きるのです。毎日の生活で、神様に常に感謝していますと、いよいよ神様が身近なものになり、自分の神様となってくる。感謝が少ないと、感謝することがないと、私はあんなにしたのに、こんなにしたのにと、そのようなことばかりに心がいってしまう。だから、14節に「感謝のいけにえを神にささげよ」と言われる。
その後に「あなたの誓いをいと高き者に果せ」とあります。この言葉は、何のことを言っているのかな、と理解できなかった。ところが、祈っていると、神様が教えてくださいました。「あなたの誓いをいと高き者に果せ」、私たちの誓いとは何か? それはイエス様が私の罪のために十字架に命を捨てて、死んで、私どもをご自分の命を代価として払って、買い取ってくださったことを信じました。言うならば、私たちは神様の前に、私はあなたによってあがなわれた者です、と誓いを立てた者です。神様が、私たちを「お前を愛しているから、ひとり子をこの世に送って、お前のために罪を赦し、十字架に命を捨てたよ」と。それに対して私たちが「そうです。神様、あなたは私を救ってくださいました。私はあなたの民です」と告白した。これが主の前に果たさなければならない誓いです。イスラエルの民に神様が求められるのもそのことです。アブラハムを立てて、「わたしはあなたを祝福の基(もとい)とする」と約束して「わたしの言いつけに従いなさい」と約束したのです。それに対してアブラハムも答えて、「はい、私はあなたの民になります」と言ったのです。その誓いの言葉は、ただアブラハムと神様との間だけではなく、すべてのイスラエルの民の誓いでもある。神様に「私はあなたの民です」との誓いを果たす。言い換えると、神の民なら民らしい生き方をしなさい、ということです。だから、「私はクリスチャンです」と言うならば、そのクリスチャンとしての誓いを神様の前にちゃんと果たしているか、ということです。私はそんな約束したはずはない。神様が一方的に救ってくださっただけで、それで満足しているのに、どうして「誓い?」になるのだろうか、と思う。しかし、救いは神様との間の約束であって、誓約したのです。イエス様の十字架の血判をもって、私はこの世からあがなわれ、買い取られ、神様の所有となったという印を押され、そのことを誓って、洗礼を受けたのです。水のバプテスマを通じて、額に十字架の印を受けた者、神の子羊の印を受けた者です。言うならば、神の民です。ところが、神様は「あなたは神の民、クリスチャン、イエス様の救いにあずかったと言いながら、その誓いの具体的な姿はどこにあるのか」。「いや、私はちゃんと教会に行っております」。「確かに教会に行っている。燔祭はわたしの目の前にある。しかし、私が責めているのはそれじゃない」「何が? 」「感謝のいけにえを神にささげよ」と。そうです。神様の民として、神様を褒めたたえ、感謝賛美し、主をあがめることを求めているのです。
だから、15節に「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」。14節と15節とのつながりは深い意味があります。14節の「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き者に果せ」とそこまでは分かります。その次の「悩みの日にわたしを呼べ」と、突然、「悩みの日にわたしを呼べ」と言われる。どうしてでしょうか? これは明らかに、苦しいとき、悩みの中、悲しみの中にあるとき、行き詰った絶望の中にあるときに、一番親しいもの、一番よりどころとなるものは誰なのか、と問うている。神の民であると言うならば、悩みのときにこそ、苦しみの中にあって、頼るべきものがないときにこそ、頼るべき方、神様がついているではないかと。
自分の一番信頼する人に打ち明ける。そうでしょう。苦しいことや、つらいことや、悲しいことを知ってもらいたい人は、やはり自分が信頼する、この人だけにはと頼る人がいます。神様がそのような方となっているかを問われる。15節に「悩みの日にわたしを呼べ」、なぜなら「わたしは神、あなたの神である」から。悩みに遇い、どうにもならないときにこそ、神様に先ず一番に頼る。これが神を神として生きることです。ところが、私たちは、悩みに遭ったら、教会なんか行っている暇はない。お祈りしている暇はない。あちらに走りこちらに走り、あの人にも、この人にも、頼るべきものが神様以外になっている。何をあなたは信頼しているか、それが明らかになるのは、そのような危機に出遭うとき、苦しいこと、災いに遭うときでしょう。だから、よく言われるように、突然夜中に火事が起こる。火事だ!そのときに一番大切なものを人は持ち出す。だから、生活の中で一番困ったことが起こったとき、真っ先に誰に飛んでいくか、それによってその人が何を信頼しているかが明らかになる。だから「悩みの日にわたしを呼べ」と。神様が私のよりどころとなっているか、その方が私の神となり得ているかが明らかになるのは、悩みに遭ったとき、苦しみに遭ったとき、絶望的な中に置かれたときです。「悩みの日にわたしを呼べ」、そうすれば「わたしはあなたを助け」とあります。神様は私の神ですから、私たちを放っておくわけではない。そして神様が私たちを助けてくださるのは、「あなたはわたしをあがめるであろう」とあるように、神様をあがめる、神様を尊び、神様を褒め称える者とならせるためです。
自分自身の歩みをもう一度振り返って、私は神様を神としているだろうか。「私はあなたの神」と言われる神様に対して、私は心から「あなたはわたしの神」と言い得ているだろうか。生活の中のすべてのことに神を神としている証詞があるだろうか。絶えずこのことを点検していきたいと思います。そして神様が、命をもって私を愛し、あがなってくださったその民にふさわしく、私は神のものですと約束し、誓ったごとくに、神のものになりきっていくことを神様は求めています。
詩篇16篇1、2節を朗読。
この2節に「わたしは主に言う、『あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない』と」。これは表題にダビデの歌とあります。イスラエルの王となりましたダビデは、神様を「わたしの主」と告白したのです。そして「あなたのほかにわたしの幸はない」と、この神様を抜きにしては、私の幸いはあり得ない。これはダビデの生涯を通して変わらない信仰です。どうぞ、このダビデと同じように、神様、あなたは私の主、私の神である。そして、私の幸いはあなたを抜きにしてはあり得ない。そのように言い得る者でありたい。神様はいなくても、私は幸いですと言うなら、それは本当の意味の幸いではない。ダビデは絶えず、あなたは私の主です、私の神ですと告白しました。それは口先ばかりではありません。すべてのことの中で神様を主として生きました。だから、自分の息子アブサロムに背(そむ)かれて、謀反(むほん)が起こって、エルサレムの町を離れて行くときもそうですね。サウル王様の遠縁であるシメイが、彼を呪(のろ)いました。「ざまをみろ」と。そのときに部下が「あいつを懲(こ)らしめてやろう」と言ったときに、ダビデは「神様が、彼をして呪わせているならば、それでいいではないか。あなたが何もすることはいらない」と言って止めました。どのようなことにも、そういう災いの中にも、ダビデは「あなたは主、神様がなさること。もし、神様がダビデを呪えとおっしゃってあの者を送ったのだったら、それはそれでいいではないか。それを甘んじて受けるべきだ」。私たちはそこまで私の主ですと信頼しているか? 私たちはつい己が出ます。なにくそ!いくら神様が許したといっても、私が許さん!と。気がつかないうちに、心に神様を離れていく。日々出会う一つ一つの事柄に、「すべての道で主を認めよ」と、神を神として生きるところに私たちの幸いがあるのです。
ですから、詩篇50篇7節に「わが民よ、聞け、わたしは言う。イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす。わたしは神、あなたの神である」。神様が今日、私の神となってくださった。この神様に対して感謝のいけにえとして一切をささげて、「主よ、あなたに感謝します」と、「命を与え、生活を与え、今日まで顧(かえり)みてくださった」と、感謝、賛美して、主を褒めたたえて、神様をあがめること。そして、悩みの時に、苦しみに遭うときに、問題の中にあるときに、まず、私たちがまず身近により頼む方は誰なのか? 夫でも妻でもない、子供でも孫でもない。神様、あなたですと言い切る。また、信頼しきっていくとき、「あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない」と、ダビデの大きな喜びと信仰につながっていく。また、神様は私たちに答えてくださる。15節に「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」。神様は私たちを助けてくださる。それは私たちをして神様を賛美し、褒めたたえ、神様の栄光を証詞する者と変えるためです。ここにあるように、「わたしは神、あなたの神である」と言われる神様に「はい、そうです。あなたは私の神です。本当にあなたは私の主です」と、常にどのようなことにも、神様を前に置いて、歩んでいきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
7節に「わが民よ、聞け、わたしは言う。イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす。わたしは神、あなたの神である」。
ここには神様の裁きについて語られています。と同時に、神様が私たちに何を求めているかをも語っている。1節から5節までのところで、神様はすべての人をご自分の前に召し出して、すべての民を裁くとおっしゃっています。「神様の裁きにあうよ」ということです。そのときの神様の基準はどこにあるか、7節以下に述べている。
まず、神様が裁かれる第一の事柄は何かと言いますと、またこれがすべてでもあるわけですが、神様を神様として尊び、敬うことです。7節に「イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす」と言われます。イスラエルとは、神の民です。神様は父祖アブラハムを選んで、そのすべての子孫をご自分の民と定めてくださいました。いうならば、イスラエルの民は、神様を尊び敬う民、であるはずです。イスラエルと呼ばれるのは、その人々が神様を尊んでいる、大切にしていることの証詞です。ところがここには何とあるか? 「イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす」。その民に向かって、神様が証詞をする。つまりご自分を証明すると言いますか、自己紹介をする。ご自分がどのようなものであるかを現すと言われる。これは誠に奇異と言いますか、おかしな言葉です。なぜなら、イスラエルだったら、神様を知っている民なのです。神様に一番近い民であるはずです。そのイスラエルに向かって、「わたしはあなたにむかってあかしをなす」と神様は言われる。これは、誠に神様にとってつらいことだろうと思います。言うならば、人の親が自分の子供に向かって「私はあなたのお母さんよ」「私はあなたの父親ではないか」と言わなければおれない状況を考えてみてください。イスラエルの民をご自分が選び召して、荒野の旅路を持ち運んで、カナンの地にまで置いてくださったのは神様です。ところが、イスラエルの民が、神様を忘れてしまった、離れてしまった。だからこそ、今、神様はあえて「わたしは神、あなたの神である」と告白せざるを得ない。
ですから、この言葉を読むとき、このときの神様の思い、イスラエルの民に対してどのように深い嘆き、情けなさ、そのような思いをもって、語っていることかをしみじみと感じます。自分の民に向かって、「我が民よ、あなたは誰のものなのだ」。言うならば、息子に向かって「お前の親父は誰なんだ」と言っているようなものです。親のことを忘れて、親の恩も忘れて、自分勝手なわがまま放題、放とう三昧をしている息子に向かって言っているような状況なのです。そして7節に「わたしは神、あなたの神である」。私は神ではないか、と言われます。神様が、あえてご自分を神だと言わなければおれない。イザヤ書やエレミヤ書を通しても繰り返して「わたしは神である、今より後もわたしは主である」と言われます。何度となく、神様は「私がいるではないか。お前はどこを見ているのだ。何を頼りとしているのだ。お前は何を神としているのだ」と、繰り返し、繰り返し問いかけています。これは本当に申し訳ない姿です。だから「神はみずから、さばきぬし」、私はそのことを裁くとおっしゃるのです。神様の裁きとは、まず私たちが神様をどのような方と、信じているのか、神を神としている証詞がどこにあるかを神様は問うているのです。ですから「わたしは神、あなたの神である」。私は神であり、また誰のものでもない、実はあなたの神ではないかと。
それに加えて更に8節以下に「わたしがあなたを責めるのは、あなたのいけにえのゆえではない。あなたの燔祭はいつもわたしの前にある」と。イスラエルの民は神様を忘れて、全く神様のことなんかそっちのけになっていたわけではない。イスラエルの民は神様から命じられたように祭り事、お勤めは欠かしたことがない。ここにありますように、いけにえをささげ、燔祭をささげて神様の前に香をたき、さまざまな祭り事、神様を礼拝する行為として、業として、それを全うしていました。ところが、その心に、彼らの思いの中に神様を畏(おそ)れるものがなくなっていた。
これはイスラエルの民ばかりでなく、実は、救いにあずかっている私たちのことでもあります。私たちは神様の救いにあずかって、イエス様の尊い命の代価をもって買い取られ、神のものとされた。クリスチャンとは神の民です。信仰によって、私たちはイスラエルとされている。私たちの神となってくださった方がいる。その神様に対して、神を神として尊び、敬っているか、ということです。神様はこれを私たちに探られる。また私たちの裁きの一つの基準になります。私たちが礼拝を守り、また祈りを欠かさず、聖書を読み、一生懸命に、お勤めとして、日々に欠かすことなくしているかもしれない。では普段の生活の隅から隅まで、神を神として、すべてのものの創造者、造り主であり、またすべてのものをご支配くださる神様の前に、主を畏れて、神様第一にしているか? 案外とそうではない。聖書は読むけれども、読み終わったら「はい、今日の日課はおしまい」。お祈りも、「今日はこれだけお祈りしたから、もうよかろう。次に……」と。先日もある姉妹とお話をしました。その方はきちんと毎朝聖書をしっかり読む。ところが、読んではいるけれども、その御言葉が心にとどまらない。読むには読んだ。知識として理解はする。しかし、それが今、自分に与えられている問題、事柄の中に神様がどのような働きを、どのような目的を持ち、どのようなことを自分に求めているのかを知ろうとしない。お言葉はお言葉としてと、……。
だから、クリスチャンの集まりだから賛美の一つもし、お祈りも一人ぐらいしなければいけないだろう。聖書も読まなければいけないだろうと、取りあえずそれはする。そしたら、「はい、終わり。後は私たちの時間」となります。何か行事をしようとするときでもそうですけれども、クリスチャンが集まって、皆で話し合いをする。じゃ、話し合う前に、お祈りして、讃美して、み言葉を読む。終わって、さぁ、それではこの議題について話をしましょうとなると、そこに神様はいない。人がどうするか、あの人がどうする、私はそんなことはいやだとか、言うならば人の知恵と知識と力で何とかしていかなければ……。予算はどうするのだろうか?お金はどうする? あそこに寄付を頼もうか、こちらにこうしようと、そのような話ばかりが盛り上がって、神様はどこにいらっしゃるの? というクリスチャンが多い。
どうして私のところに来て求め、私を信じ、信頼して、神としてあがめようとしないのか。8節に「わたしがあなたを責めるのは、あなたのいけにえのゆえではない」。神様にささげものが足らないとか、あるいはその仕方が未熟であるとか、不足しているとか、そのようなことで神様が責めているのではない。「あなたの燔祭はいつもわたしの前にある」。絶えずいけにえをささげて、神様の前に燔祭をささげてはいる。しかし神様のためにこうしている、こんなささげ物をした、犠牲、献身をして、こうした、ああしたと、そのようなことを誇りとして生きている間は、神様を大切にしているのではありません。
9節以下に「わたしはあなたの家から雄牛を取らない。またあなたのおりから雄やぎを取らない。10 林のすべての獣はわたしのもの、丘の上の千々の家畜もわたしのものである。11 わたしは空の鳥をことごとく知っている。野に動くすべてのものはわたしのものである。12 たといわたしは飢えても、あなたに告げない、世界とその中に満ちるものとはわたしのものだからである」。私たちは何をもって神様を喜ばせようか、神様のために何をしようか。犠牲、献身、いろいろなものをささげて、神様、あなたはこれが足らないでしょうから、私がしてあげましょうと。神様はそのように人から助けを求めなければできないような方ではない。私どもは、気がつかないうちに神様を自分と同じものと思ってしまう。ですから21節に「あなたがこれらの事をしたのを、わたしが黙っていたので、あなたはわたしを全く自分とひとしい者と思った」。神様が責めているのは、ここです。神様を自分と等しい者、自分が養ってやらなければならない方であるかのように思う。これは私たちがいつも問われなければならない事です。私たちの生活の一つ一つの業、事柄の中に、神を神とした姿勢があるのか。人を見、あるいは自分の業を誇り、また自分の何かをもって神様を助けてあげたぐらいに思っているならば、とんでもない大間違い。私たちは気がつかないうちにそのようになっていく。
だから、神様のために私はこんなことをした、あんなことをしたと、そんなことは、神様は何も必要としていない。神様は不足しているわけではない。「石ころからでも、アブラハムの子を起すことができる」(マタイ3:9)とおっしゃる神様。12節に「世界とその中に満ちるものとはわたしのものだから」。だから、私たちに神様が求められるものは、献金が足らないとか、あるいは奉仕が足らないとか、あるいは何をしていないからだとか、これをしていないからとか、そのようなことを神様は私たちに求めているのではない。神様は「わたしは神、あなたの神である」。神様を神とし、尊び、敬う、この思いがすべてのことの中に徹底していること、これを神様が求めているのです。
ですから、13節に「わたしは雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか」と。神様は「雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲む」、そんな子羊をささげたり、あるいはいけにえとして燔祭のためにささげたりして、私はこれだけした、あれだけもしたと。そのようなことを神様は求めているのではない。神様は「わたしは神、あなたの神」、誰の神でもない、私の神様となってくださった。そして14節に「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き者に果せ」と。「いけにえ」とは、私たちの体を感謝のささげ物として神様にささげる。それは取りも直さず、私たちの日々の生活の一つ一つの業を神様からのものとして、神様に感謝することです。
年末になると「感謝セール」とか「感謝何とか…」という垂れ幕が商店街に掛かったり、デパートの売出しがあったりします。誰に感謝するのかなと思ったら、お客さんに感謝するという。だから普段より2割、3割、あるいは半額ぐらいにしてあげますという。そうしますと皆が買いに来る。結局狙っているのはお店がもうかるためにしている。感謝とは名ばかりで、感謝しているのは自分に対してです。そのような感謝がまかり通っていますが、私どもも、事情、境遇、事柄、人やそのようなものに感謝はするが、心から神様に感謝しているでしょうか。これが問われる。ここで「感謝のいけにえを神にささげよ」と言われると、何か自分のものを取られそうに思う。そうではない。「感謝のいけにえ」とは、ローマ人への手紙12章1節に「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」。これは取りも直さず、神様が私を造り生かし、そしてこの生活の中に置いてくださる。食べること、着ること、飲むもの一切のすべての必要を満たしてくださる。日を照らし、雨を降らし、生きるための糧を与えてくださっている。それらすべてのことについて感謝して、自分が神様のものであると証詞することです。これが「感謝のいけにえを神にささげる」ということ。だから、テサロニケ人への第一の手紙5章18節に「すべての事について、感謝しなさい」と、どんなことにも感謝するということです。これが私たちの大切なことです。神様に感謝する、しかも相手は誰かと言いますと、「わたしは神、あなたの神である」と言われる神様に感謝する。人に対して、何か良いことをしてもらった。「ああ、本当にありがとうね。あなたからこんなにしてもらって本当に申し訳ない」と繰り返し、繰り返し、その人に「ありがとう」と言うのではなくて、もちろん、してくれた人に対しては感謝します。「ありがとう」と言いますが、もっとそれ以上に、神様に対して「感謝のいけにえ」をささげているか? 確かにイスラエルの民は、そのように犠牲、献身、動物をささげること、燔祭をささげること、それには事欠かなかった。神様はそれを責めているわけではない。大切なのは、その心が本当に神様からのものとして、神様に感謝のいけにえとして、自分自身をささげていく。これは私たちが毎日、朝起きて、神様の前に感謝をして、そして自分を主のものとしていくことです。これは神様が私たちを裁かれる基準であると同時に、私たちに切に神様が願っていることです。
韓国語では「ありがとう」を「カムサ ハムニダ」と言うそうですが、私は詳しくは知らなかったのですが、ある方が説明してくれ、「カムサ」とは、「感謝」という言葉の韓国読みで「感謝します」という意味なのだそうです。それで私は覚えたのです。あ、そうだ、感謝するということなのか。「カムサ」と聞けば、感謝に聞こえますね。「ありがとう」は、存在しがたいこと、びっくり仰天、という意味です。「感謝」とはちょっと意味合いが違う。感謝とは、心に喜びを感じていること。それは神様に対して感謝することです。14節に「感謝のいけにえを神にささげよ」と。そしてその神は誰か? 「あなたの神だ」とおっしゃる。万物の創造者で、すべてのものを今も力ある御手をもって、私たちを支えてくださる神様に、感謝のささげ物をしなさい。「すべてのことについて感謝しなさい」。良くても悪くても、自分に都合が良くても悪くても、一切合財すべてのことです。自分の性情、性格をひっくるめて、家庭のこと、子供たち、孫たちのこと、すべてのことについて文句を言わない、感謝をする。まず私たちは神様の前にきちっと姿勢を整える。7節に「わが民よ、聞け、わたしは言う。イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす。わたしは神、あなたの神である」。誰の神でもない。私どもはどこかで他人ごとのように考えますね。
私も、子供のころ、まだ高校生ぐらいは、父の神様にちょっと間借りしている感じ、下宿人的な発想です。私の神様ではなくて、父や母が信じている神様にちょっと便乗して、付録として私もお祈りを聞いてもらいたい、そのような気持ちです。どうもしっくりこないのです。自分の神様ではない。と言うのは、横であまりにも、神様、神様と言い過ぎる人がいると、お株を取られた、本家をとられたような感じがしますから、私はもうここにはおられないと思いまして、出て行ったのです。それはそれでよかったと私は思います。そうやって親元を離れて、はじめて神様と一対一になる。私は一体何を神としようとしているかを問われる。そのとき、初めて、あなたは私の神、イエス様、あなたは私の救い主です、と言い得たのです。そのようにして信仰に導かれてきました。そうしますと、神様が実に身近なもの、誰の神でもない、私の神様。だから、人が何と言おうと動かない。動揺することがない。どうぞ、八幡前田教会の神様を信じていると思っては駄目です。私の神様です。皆さん一人一人のオーダーメードですから、デパートにぶら下がっている既製服を着ているのではない。皆さん一人一人に、神様は「わたしは、あなたの神である」。だから、私のことを隅から隅まで知っている。他人(ひと)の神様だったら、私のことをどこまで知っているのか分からない。ところが、私の神様ですから、私のことを知らないはずがない。だから、安心です。ほかの人の神様ではない、「あなたは私の神」、このことをはっきりと確信したいと思います。そのためには、まず日々の生活の中で私の神様に対して「感謝のいけにえをささげる」。今日も、神様、あなたがこのように恵んでくださいました。神様、あなたは私の神です、私はあなたに仕えていきますと心から主の前に自分をささげる。ささげると言うのは、「神様、すべてあなたの御心に従います」ということです。自分を捨てることですよ。どうぞ、そこまで徹底して「あなたは私の神」と言い得るまで、はっきりと神様に自分をささげて、感謝して生きるのです。毎日の生活で、神様に常に感謝していますと、いよいよ神様が身近なものになり、自分の神様となってくる。感謝が少ないと、感謝することがないと、私はあんなにしたのに、こんなにしたのにと、そのようなことばかりに心がいってしまう。だから、14節に「感謝のいけにえを神にささげよ」と言われる。
その後に「あなたの誓いをいと高き者に果せ」とあります。この言葉は、何のことを言っているのかな、と理解できなかった。ところが、祈っていると、神様が教えてくださいました。「あなたの誓いをいと高き者に果せ」、私たちの誓いとは何か? それはイエス様が私の罪のために十字架に命を捨てて、死んで、私どもをご自分の命を代価として払って、買い取ってくださったことを信じました。言うならば、私たちは神様の前に、私はあなたによってあがなわれた者です、と誓いを立てた者です。神様が、私たちを「お前を愛しているから、ひとり子をこの世に送って、お前のために罪を赦し、十字架に命を捨てたよ」と。それに対して私たちが「そうです。神様、あなたは私を救ってくださいました。私はあなたの民です」と告白した。これが主の前に果たさなければならない誓いです。イスラエルの民に神様が求められるのもそのことです。アブラハムを立てて、「わたしはあなたを祝福の基(もとい)とする」と約束して「わたしの言いつけに従いなさい」と約束したのです。それに対してアブラハムも答えて、「はい、私はあなたの民になります」と言ったのです。その誓いの言葉は、ただアブラハムと神様との間だけではなく、すべてのイスラエルの民の誓いでもある。神様に「私はあなたの民です」との誓いを果たす。言い換えると、神の民なら民らしい生き方をしなさい、ということです。だから、「私はクリスチャンです」と言うならば、そのクリスチャンとしての誓いを神様の前にちゃんと果たしているか、ということです。私はそんな約束したはずはない。神様が一方的に救ってくださっただけで、それで満足しているのに、どうして「誓い?」になるのだろうか、と思う。しかし、救いは神様との間の約束であって、誓約したのです。イエス様の十字架の血判をもって、私はこの世からあがなわれ、買い取られ、神様の所有となったという印を押され、そのことを誓って、洗礼を受けたのです。水のバプテスマを通じて、額に十字架の印を受けた者、神の子羊の印を受けた者です。言うならば、神の民です。ところが、神様は「あなたは神の民、クリスチャン、イエス様の救いにあずかったと言いながら、その誓いの具体的な姿はどこにあるのか」。「いや、私はちゃんと教会に行っております」。「確かに教会に行っている。燔祭はわたしの目の前にある。しかし、私が責めているのはそれじゃない」「何が? 」「感謝のいけにえを神にささげよ」と。そうです。神様の民として、神様を褒めたたえ、感謝賛美し、主をあがめることを求めているのです。
だから、15節に「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」。14節と15節とのつながりは深い意味があります。14節の「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き者に果せ」とそこまでは分かります。その次の「悩みの日にわたしを呼べ」と、突然、「悩みの日にわたしを呼べ」と言われる。どうしてでしょうか? これは明らかに、苦しいとき、悩みの中、悲しみの中にあるとき、行き詰った絶望の中にあるときに、一番親しいもの、一番よりどころとなるものは誰なのか、と問うている。神の民であると言うならば、悩みのときにこそ、苦しみの中にあって、頼るべきものがないときにこそ、頼るべき方、神様がついているではないかと。
自分の一番信頼する人に打ち明ける。そうでしょう。苦しいことや、つらいことや、悲しいことを知ってもらいたい人は、やはり自分が信頼する、この人だけにはと頼る人がいます。神様がそのような方となっているかを問われる。15節に「悩みの日にわたしを呼べ」、なぜなら「わたしは神、あなたの神である」から。悩みに遇い、どうにもならないときにこそ、神様に先ず一番に頼る。これが神を神として生きることです。ところが、私たちは、悩みに遭ったら、教会なんか行っている暇はない。お祈りしている暇はない。あちらに走りこちらに走り、あの人にも、この人にも、頼るべきものが神様以外になっている。何をあなたは信頼しているか、それが明らかになるのは、そのような危機に出遭うとき、苦しいこと、災いに遭うときでしょう。だから、よく言われるように、突然夜中に火事が起こる。火事だ!そのときに一番大切なものを人は持ち出す。だから、生活の中で一番困ったことが起こったとき、真っ先に誰に飛んでいくか、それによってその人が何を信頼しているかが明らかになる。だから「悩みの日にわたしを呼べ」と。神様が私のよりどころとなっているか、その方が私の神となり得ているかが明らかになるのは、悩みに遭ったとき、苦しみに遭ったとき、絶望的な中に置かれたときです。「悩みの日にわたしを呼べ」、そうすれば「わたしはあなたを助け」とあります。神様は私の神ですから、私たちを放っておくわけではない。そして神様が私たちを助けてくださるのは、「あなたはわたしをあがめるであろう」とあるように、神様をあがめる、神様を尊び、神様を褒め称える者とならせるためです。
自分自身の歩みをもう一度振り返って、私は神様を神としているだろうか。「私はあなたの神」と言われる神様に対して、私は心から「あなたはわたしの神」と言い得ているだろうか。生活の中のすべてのことに神を神としている証詞があるだろうか。絶えずこのことを点検していきたいと思います。そして神様が、命をもって私を愛し、あがなってくださったその民にふさわしく、私は神のものですと約束し、誓ったごとくに、神のものになりきっていくことを神様は求めています。
詩篇16篇1、2節を朗読。
この2節に「わたしは主に言う、『あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない』と」。これは表題にダビデの歌とあります。イスラエルの王となりましたダビデは、神様を「わたしの主」と告白したのです。そして「あなたのほかにわたしの幸はない」と、この神様を抜きにしては、私の幸いはあり得ない。これはダビデの生涯を通して変わらない信仰です。どうぞ、このダビデと同じように、神様、あなたは私の主、私の神である。そして、私の幸いはあなたを抜きにしてはあり得ない。そのように言い得る者でありたい。神様はいなくても、私は幸いですと言うなら、それは本当の意味の幸いではない。ダビデは絶えず、あなたは私の主です、私の神ですと告白しました。それは口先ばかりではありません。すべてのことの中で神様を主として生きました。だから、自分の息子アブサロムに背(そむ)かれて、謀反(むほん)が起こって、エルサレムの町を離れて行くときもそうですね。サウル王様の遠縁であるシメイが、彼を呪(のろ)いました。「ざまをみろ」と。そのときに部下が「あいつを懲(こ)らしめてやろう」と言ったときに、ダビデは「神様が、彼をして呪わせているならば、それでいいではないか。あなたが何もすることはいらない」と言って止めました。どのようなことにも、そういう災いの中にも、ダビデは「あなたは主、神様がなさること。もし、神様がダビデを呪えとおっしゃってあの者を送ったのだったら、それはそれでいいではないか。それを甘んじて受けるべきだ」。私たちはそこまで私の主ですと信頼しているか? 私たちはつい己が出ます。なにくそ!いくら神様が許したといっても、私が許さん!と。気がつかないうちに、心に神様を離れていく。日々出会う一つ一つの事柄に、「すべての道で主を認めよ」と、神を神として生きるところに私たちの幸いがあるのです。
ですから、詩篇50篇7節に「わが民よ、聞け、わたしは言う。イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす。わたしは神、あなたの神である」。神様が今日、私の神となってくださった。この神様に対して感謝のいけにえとして一切をささげて、「主よ、あなたに感謝します」と、「命を与え、生活を与え、今日まで顧(かえり)みてくださった」と、感謝、賛美して、主を褒めたたえて、神様をあがめること。そして、悩みの時に、苦しみに遭うときに、問題の中にあるときに、まず、私たちがまず身近により頼む方は誰なのか? 夫でも妻でもない、子供でも孫でもない。神様、あなたですと言い切る。また、信頼しきっていくとき、「あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない」と、ダビデの大きな喜びと信仰につながっていく。また、神様は私たちに答えてくださる。15節に「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」。神様は私たちを助けてくださる。それは私たちをして神様を賛美し、褒めたたえ、神様の栄光を証詞する者と変えるためです。ここにあるように、「わたしは神、あなたの神である」と言われる神様に「はい、そうです。あなたは私の神です。本当にあなたは私の主です」と、常にどのようなことにも、神様を前に置いて、歩んでいきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。