いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(103)「神様の祝福」

2014年01月02日 | 聖書からのメッセージ
創世記39章1節から6節前半までを朗読。

2節「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった」とあります。

旧約聖書は、イスラエルという一つの民族の歴史を通して、神様が御自身を証詞なさった記事であります。イスラエルの民を選んで、神様が今も生き働いていることを証明すると言いますか、証詞するものとして用いたのです。私たちも今は主イエス・キリストの救いにあずかって、信仰によって、神の民、イスラエルとされている者です。神様は私たちを御自分の栄光を現す、神様御自身の力と御業を明らかにするために選び召してくださいました。

イエス様は十字架に死んで墓に葬られました。しかし、三日目によみがえられたのです。何のためによみがえってくださったのか? それはイエス様が最後に言われたように「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)。イエス様がいつもどんなときにも私たちと共にいてくださるためによみがえってくださったのです。ペンテコステの出来事を通して、キリストの霊、キリスト御自身が今の私たちと共にいるのだと明らかにしたのです。イエス様が地上に肉体をもって、私たちと同じ形を取って生きていらっしゃる限り、それは限られたものです。その時代、その地域、ある特定の人と場所にしかイエス様は共におることができません。しかし、今は世界中、時代を超え、また人種を超え、地域を越えて共にいてくださる。神様が共にいてくださるとは、よみがえってくださったイエス様がいてくださることです。神様が共にいてくださるのがイスラエルです。神様は私たちを通して、神様の業を行おうとしてくださいます。そのために私たちは召され、生かされています。

今読みました記事は、ヨセフという人物を通して、神様がどのようなことをなさったかを語っています。ヨセフのお父さんはヤコブです。ヤコブの父はイサクで、イサクの父はアブラハムです。ですから、まず神様はアブラハムを選んで、御自分の民、神の民イスラエルとしました。それからアブラハム、イサク、ヤコブ、そしてヨセフと、時代を超え、あるいは年代を超えて何代にもわたってイスラエルと共にいてくださった。先ほど申し上げましたように、イスラエルというのは神様が共にいますということです。神様が私たちの所にきてくださって、共に住んでくださる。それは私たちがイスラエル、神の民となって神様の業を体験するためです。

ヨセフは12人兄弟で、彼の下にベニヤミンが生まれますが、父ヤコブの最も愛するラケルという奥さんの子供です。父ヤコブは他の子供たちよりもヨセフを大変愛しました。そのために兄弟からねたまれました。また、ヨセフは、自分がお父さんから大変愛されていることも知っていて、お兄さんたちよりも自分のほうが優れた者のように言いふらしていました。夢を見ては、その夢を語る。夢の中でお兄さんたちがみな自分に対して頭を下げているとか、小憎らしいことを言う。だから、兄弟から大変憎まれました。お兄さんたちは羊を飼う仕事で、お父さんから遠く離れてそれぞれ牧草地にいました。ヨセフはお父さんから頼まれて、兄弟のために食料を届けに行きました。彼が一人でやってくるのを見て、お兄さんたちは悪い心を起こし、ヨセフを懲らしめてやろうと、彼を捕えて、エジブトへのキャラバン、商人たちに奴隷として売り飛ばすのです。そしてヨセフの着ていた洋服には羊の血を付けて、「お父さん、途中でこれを見つけました。どうも弟ヨセフが猛獣に食われたか、何かにやられて死んでしまったようだ」と言って、お父さんもだましてしまう。

お父さんは大変失望し、悲しみました。一方、商人たちはエジブトへヨセフを連れて行って、「パロの役人で侍衛長であったエジプトびとポテパル」という人に売った。彼はポテパルの家の奴隷となったのです。考えてみますと、ヨセフは誠に不幸な、気の毒な境遇にあったというほかはありません。ところが、2節に「主がヨセフと共におられたので」とあるように、神様がすべての事柄を御計画の中に導いてくださったのです。それは誰にもわかりません。本人のヨセフすらもわからない。しかし、ヨセフは神様を畏(おそ)れる者であったことは確かです。神様を大切にし、神様に信頼していた。だから、お兄さんたちからひどい仕打ちをされ、奴隷としてエジプト人ポテパルの家に売られたからといって、彼はやけを起こし、博多弁で“ぐらぐらした”という言葉を使いますが、もうやっとれんわ、という状態になったのではありません。彼はポテパルの家にいても忠実に主人に仕えました。それは彼が神様を恐れ敬っていたからです。自分がひどい目に遭ったことで、確かに、お兄さんたちに対して恨みつらみ、言いたいこと、ののしりたいことはいくらでもあったでしょう。けれども彼は、今置かれたポテパルの家の奴隷としての境遇を甘んじて受けました。まず、これが第一です。神様が私をそこへ置いているのだと信じたのです。

「主がヨセフと共におられたので」と2節にありますが、神様がヨセフと共にいてくださったのは、取りも直さず、ヨセフもまた神は私と共にいますと信じたのです。この二つのこと、これは神様と私たちの関係もそうですが、主が私と共にいますことは、私たちもまた主がここにいますと信じることを通して、はじめて成り立つのです。一方的に神様だけが、「わたしはお前といるよ」と言われても、私たちがそれを信じなかったら、私たちが拒んで、「いや、そんなことはない、神様はどこにいるのだ。この生活は私が考えて、私がしているのだ」と、「私が主だ」と言い募(つの)っていれば、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われた言葉は実現しない、完成しません。だから、ちょっと誤解を招きやすいと思いますが、言うならば、私たちと神様の共同作業です。一方的に神様は「私たちを愛したよ」と言われる。それに対して私たちは「そうです、主よ、誰よりもあなたは私を愛してくださっています」と信じることによって、はじめて神様の愛は成り立つ。神様は一方的にすべての人に御愛を注いでくださっています。しかし、たとえ置かれた事情、境遇、事柄が愛される者にはふさわしくないと思われても、私たちがその御言葉に信頼して「そうです」と、御言葉を信じてい耐え忍ぶとき、神様の御愛を具体的に体験することができる。ですから、神様がヨセフと共にいた、言い換えると、ヨセフは「神様が私といつも共にいてくださる」と信じた。だからポテパルの家に置かれても、彼は忠実に主人に仕えた。神様が私をここに置いてくださったと信じたから。神様のやり方はむごいやり方かもしれません。お兄さんたちのねたみや怒りを通して、彼をそこへ置いたのです。

神様はこのようなことを私たちに対してもなさいます。今受けている困難や苦しみや、つらいと思える事柄も、後でどのようなことにつながってくるのか、私たちにはわからない。ただ、そこで信仰を持って、今、主がこのことを与えてくださった、この問題の中に私を置いる。このような事柄の中に主が愛をもって私を置いて、私のために備えてくださることがあるのだと信じるのか、信じないのか。これが大きな分かれ道です。ヨセフのように信仰を持って、神様の約束を信じて受けたいと思います。

このときヨセフは、神様が共にいてくださると信じていました。だから、彼は喜び感謝し幸いな者となりました。そして「その主人エジプトびとの家におった」とあります。考えてみると、自分の不幸を嘆きながら、「おれは本来こんなところにおるべきではない。あのお兄さんたちがこんなことをしたものだから、えらいことになった。自分はなんと不幸だろうか」と、毎日泣いて暮らすのと、「いや、そうではない、神様が私をここに遣わして、主がここに共にいてくださる。私は兄弟や両親と一緒にいるところでも、ここでも変わりがない、感謝しよう」という生き方と、どちらが極めてプラスか。それは明らかに、どこに置かれても喜び感謝して受けることができたら、その人の人生は倍も3倍も実り豊かになります。

私はこんなひどい目に遭って、なんと不幸な人間だろう。この原因はあの人だ、この人だと、悶々としながら、せっかく与えられた地上の日々の生活を暗く送るのだったら、誠に気の毒です。そこで心と思いを切り替えて、「そうだ、これは神様が私を愛して、私のために善かれかしと思って備えてくださったことですから、神様、あなたの手に委ね、感謝して、これを受けます」と心を定める。そして喜びと感謝をもって、積極的に真剣に取り組んでいくならば、神様はもっともっと素晴らしい恵みを与えてくださるに違いない。クリスチャン生活はプラス思考です。グジュグジュと10年前、20年前のことをいつまでも引きずって生きているなら、それは私たちの生き方ではない。ヨセフには嘆く理由はいくらでもあった。悔やめば悔やむだけの理由は十分にありますが、彼はそれを神様の手にささげている。ですから、神様は彼の業を祝福してくださる。

3節に「その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た」。主人ポテパルも感化されます。ポテパルは恐らくヨセフの様子を見ていたと思います。どのような事情があったか、どのような理由かは知らないけれども、この人も奴隷となってかわいそうな人だ、どんな生活ぶりか、どんなふうに仕事をやるか、つぶさに見ていたでしょう。ところが、どうもポテパルが思っていたこととは違う。すべてのことに忠実であるし、勤勉であるし、奴隷であるというひがみもない。彼を知るにつれて、この人は神様を畏れ、神様を信じている人だ。ポテパルは神様を信じていたかどうかは知りませんが、何かこの人は違うと思った。彼を信頼して一つ用事を言いつけてみる。そうすると、自分が求めた以上の素晴らしいことをしてくれる。ポテパルは彼を全面的に信頼するようになる。これは神様のなさる業です。

私たちもヨセフです。皆さんをそれぞれの家庭に、それぞれの地域や社会に遣わしてくださっています。それを忘れて、私はこんなはずではなかった、世が世ならばもっと違った人生があったはずだと、悔やんでいるならば大間違いです。私たちはそれぞれの家庭に神の民として、このヨセフのように遣わされているのです。そこで私たちがすべきことは何か? 神様を仰いで、絶えず主に仕えていく者となること。「コロサイ人の手紙」3章に「あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい」とあります。どんなことでも喜び感謝していなさい、これが私たちのすべてです。そうしますと、イエス様を知らない、神様を知らないご主人にしろ、奥さんにしろ、子供たち、孫たちにしろ、うちのおじいちゃんはどこか違う、おばあちゃんはどこか違うと思う。どこか違うぞと思わせることができれば最高です。それは自分が一生懸命に頑張ってもできないことです。三日坊主ですから、すぐに化けの皮がはげます。ただ、心から神様が共にいることを信じ続けることです。神様に私がどのように応えているだろうか。今私がしていることは神様が求めていることだから、人が見ていようと見ていまいと、褒められようと何されようと、私のすべきことはこれですと、忠実に忍耐強く神様に仕えていけば、神様のほうが驚くべきことを起こしてくださいます。それがこのヨセフの生き方です。3節に「その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た」。

4節以下に「そこで、ヨセフは彼の前に恵みを得、そのそば近く仕えた」。「彼の前に恵みを得」とは、主人がヨセフを大切にしてくれたという意味です。ですから、下働きではなくて、身近に主人のそばで仕える者として選ばれたのです。その後に「彼はヨセフに家をつかさどらせ、持ち物をみな彼の手にゆだねた」と。絶大な信頼を受けました。ヨセフに対してポテパルは自分の家の財産から何から、全部彼に任せきってしまいました。これは大変な信頼を受けたことです。共にいてくださるイエス様に信頼して、忠実に主に仕えていくならば、この世の人からも信頼されます。ノンクリスチャンの人たちからも喜ばれるのです。だから、「神に喜ばれるものは、同時に人からも喜ばれる」と「ローマ人への手紙」にありますが、世の人々から嫌われ者になるのがクリスチャンではない。といって、八方美人になる必要もない。ただ、ひたすら主だけを見上げて、主に仕えて熱心でありさえすれば、おのずから世の人からも尊ばれる。だから、日本の歴史を見ても、大きな働きをした人々の中に、かなりの数のクリスチャンがいます。クリスチャン人口が日本の総人口の1パーセント足らずと言われていますが、日本の指導者としてクリスチャンが果たした役割は、その比率から言うならばはるかに多いのです。それは多くのクリスチャンが忠実に主に仕えていった結果、神にもまた人にも喜ばれ尊ばれたからです。

だから、ヨセフもポテパルに大変信頼を受けるのです。5節に「彼がヨセフに家とすべての持ち物をつかさどらせた時から、主はヨセフのゆえにそのエジプトびとの家を恵まれたので、主の恵みは彼の家と畑とにあるすべての持ち物に及んだ」。これは神様の素晴らしい祝福です。ただヨセフが恵まれて、幸せになったというだけではない。このときポテパルが全財産をヨセフに委ねたのです。そのときから、今度は神様がポテパルの持ち物、家庭のすべてを祝福して、恵んでくださいました。ですから、私たちは大変大きな使命を与えられています。私たちが遣わされていく所はイエス様を知らない、神様を知らない人たちの集まりであるかもしれない。しかし、そこへ遣わされて行って、そこで神様に仕えていくとき、多くの人からの信頼を受けるようになれば、神様は私たちをして、その社会を、その周囲にある人々をも祝福してくださる。

だから、私はクリスチャンに、信者に大きな使命があると思います。会社に勤めて、「先生、うちの会社はこういうことで、ああいうことで、神様を畏れることをしない。こんな仕事をして自分はいつまでもおるわけにはいかない。早くやめたいと思います」と言われる。「そんなことを言っちゃ駄目ですよ。あなたがその会社に遣わされて、あなたがいればこそ、神様の祝福があるのだから…」と答えます。私たちは神様の祝福を運ぶ者でもあるのです。だから、こんなところは嫌だとか、好きだとか嫌いだとか言って逃げたら、残された人たちはどうなるかわからない。どうぞ、5節にありますように、「彼がヨセフに家とすべての持ち物をつかさどらせた時から、主はヨセフのゆえにそのエジプトびとの家を恵まれた」と、「ヨセフのゆえに」とおっしゃいます。皆さんのゆえに、ご家庭を神様が顧みてくださり、そのすべてのものに祝福を与えて、恵んでくださいます。だから「主の恵みは彼の家と畑とにあるすべての持ち物に及んだ」のです。神様が祝福してくださって、ヨセフは大変幸せな生涯を送りましたと終わりそうなのですが、その後、とんでもないことになります。

それほど尽くしてきたポテパルの家の奥さんが、よこしまな心を起こして、彼を誘惑します。そればかりか、ありもしない罪を彼に着せて、主人の怒りを買うのです。どうして神様が共にいるのに、こんな目に遭わなければならないのでしょうか。「先生、お祈りもしているのに、教会にも熱心に行っているのに、献金もちゃんと忘れずにしているのに、どうしてこんなことになるのでしょうか!こんなんだったら、教会なんかに行かんほうがよかった!」と言われたことがあります。彼は何の悪いこともしていない。ポテパルの家で一生懸命に仕えた。ところがとんでもないことになった。とうとう牢屋に入れられてしまう。

創世記39章19節から23節までを朗読。

彼は捕らえられて、王様の囚人をつなぐ牢屋に入れられました。ところが21節に「主はヨセフと共におられて」と。これも先ほど申し上げたように、牢屋にも主が共におられると信じました。神様を信頼しました。そのとき神様は「彼にいつくしみを垂れ」、愛を施してくださいました。愛があるなら神様はそんなにケチらないで、早く牢屋から出してくれたらよさそうなものをと、私どもはすぐ自分の都合のよいように考えます。ところが、これには神様の大きな更に深い御計画がある。ここを通らなければならなかった。私たちはその先のことがわかりませんから、目先のことだけで、なんとか神様の恵みをと思いますが、神様のなさることはもっと広大無辺(はてしなくひろい)です。そのことをいつも心に置いておきたい。私にはわからないけれども、神様はもっと大きなことをしようとしているのだ。今私はここに置かれているから、ここで神様に仕える以外にない。このときヨセフはそのような思いだったでしょう。ありもしない罪のゆえに、自分が罪びととされ、今までせっかく一生懸命に働いて尽くしてきたご主人からも怒りを受けて、これほど悔しいことはない。あまりのむごい仕打ちに、死んで復讐をしてやるというくらいになるかもしれない。ところが、ヨセフはそう言わなかった。

彼は牢屋の看守から大変気に入られて、模範囚でした。彼は牢屋に置かれても、やけを起こさずに、きちんと神様に仕える。これがクリスチャンの生き方です。私たちもヨセフと同じです。どのような境遇に私たちを置いてくださるかわからない。しかし、その置かれた所は主が共にいる所。イザヤ書43章に語られているように、火の中、水の中、川の中を行くとも、害を及ぼすことがない。「わたしはあなたとともにおる」と、繰り返されています。このときもヨセフと共に主がいてくださいました。ですから獄屋番は「すべての囚人をヨセフの手にゆだねた」。いい助手がやってきたと、喜んで自分の仕事を彼に委ねました。23節に「獄屋番は彼の手にゆだねた事はいっさい顧みなかった」と。すごいですね。任せきって報告も何もいらない。もうお前が好きなようにやってくれと、そこまで信頼していました。なぜなら、23節の後半に「主がヨセフと共におられたからである」、「主は彼のなす事を栄えさせられた」。どこにあっても、神様は彼の業、彼のなすこと一つ一つを祝福して、栄えさせてくださいました。

イエス様が5千人以上のたくさんの人々に食事をさせた記事がありますが、あのとき弟子たちは夕暮れになったから、そろそろ解散させて食事をしに行かせてくださいとイエス様に言いました。イエス様は「あなたがたの手で食物をやりなさい」と、とんでもない難題を出された。しかし、解決方法がないので、「五つのパンと魚二ひきしか持っていません」と言いました。イエス様は「それをここへ持ってきなさい」と言われました。たったこれだけで足るわけがない、しかし、仕方がない。ほかに方法がないから、弟子たちはそれをイエス様の手に渡したのです。「主はそれを手に取り」とあります。そのわずかな食事をイエス様が手に握ってくださった。「天を仰いでそれを祝福して」と記されています。イエス様が天を仰いで祈って祝福してくださって、今度はそれを分けなさいと、もう一度弟子たちの手に返してくださった。彼らがそれを配ると、なんと5千人以上の人たちが満腹して、更に残ったものを集めると12のかごにいっぱいになったと記されています。そのくすしき業、驚くべきことの原因は、わずかなものだけれども、イエス様の手に委ねて、主の祝福が与えられたのです。神様の祝福を受けること、これが何よりも幸いなことです。主が共にいてくださって、すべてのわざを祝福してくださる。「神様、どうぞ、この者を用いてください。主よ、私はあなたに従いますから、何をお命じになられますか」と、へりくだって神様の手に委ねる。共にいてくださるイエス様の手に捧げ、握っていただいて、祝福を受けるとき、私たちがやってもできなかったことができる。私には無理だと思えたことも、もっと大きな驚くべき結果に神様が変えてくださる。箴言を読んでおきたいと思います。

箴言10章22節を朗読。

ここに「主の祝福は人を富ませる」とあります。神様の祝福にあずかることが私たちの恵みです。神様が私たちを祝福して用いてくださる。神様がヨセフを祝福して、彼のなすところを豊かに恵んでくださった。それゆえに彼はポテパルからの信頼を受け、また獄屋番からの信頼を受けたのです。22節の後半の部分は文語訳では「人の労工(ほねをり)はこれに加ふるところなし」とあります。人が一生懸命に努力しても神様の祝福にプラスすることはできない。人の努力は実にむなしい小さなものでしかないことを語っているのです。口語訳では「主はこれになんの悲しみをも加えない」とあります。主が恵んでくださるとき、悲しんだり嘆いたりつぶやいたりすることがいらない。私たちは神様の祝福にあずかる日々でありたいと思います。そのために、ヨセフのように、共に居給う神様に自分をささげていくのです。今日も、主よ、あなたの祝福をお与えください。これが私たちの求めていく事です。

創世記39章2節「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった」。主がヨセフと共におられて彼を豊かに恵んでくださいました。祝福の中に置いてくださいました。ヨセフはその後、王様に仕える二人の人が同じ牢屋に入れられて、この二人の夢の解き明かしをしました。一人はもう一度元の職に戻って王様のそばに仕え、もう一人は死刑になってしまう。一人の人が釈放されるとき、ヨセフは「王様に頼んで牢屋から出してくれるように言ってください」と頼みました。ところが、忘れられて、数年の間、放置されました。あるときパロ王様が夢を見て、その夢の意味なのかわからなくて悩んでいた。王様の給仕役をしている人が、かつて牢屋にいたときに、そういえば私の夢を解き明かしたヨセフという人がいたが、まだいるかもしれないと。それではじめて呼び出されて、王様の夢を解き明かしました。そしたら、そのとおりになって、やがてヨセフは王様の信頼を受け、宰相になります。

やがて飢饉となり、自分の郷里であったカナンの地も飢饉に見舞われ、十人のお兄さんたちが連れだって、エジプトに食糧を買いに来る事態になりました。かつてエジプトに売った弟に会うのですが、三十年以上の長い期間、離れたままでしたから、見てもすぐにはわからない。ところが、実は、それは深い神様の御計画だったのです。

創世記45章4節から8節までを朗読。

その間、いろんないきさつがあり、とうとうヨセフが兄弟たちに自分の身分を打ち明けます。4節に「わたしに近寄ってください」と。エジブトという大国のナンバー2ですから、お兄さんたちはそうやすやすと近くに寄れない。大広間で遠く離れて平伏して顔も上げられない状態。そこでヨセフが「こちらへ近寄りなさい」、そして「わたしはあなたがたの弟ヨセフです」と告白したのです。これはドラマチックですね。大感激と同時にお兄さんたちはびっくり仰天、これはえらいことになった。昔売り飛ばした弟が、しかも、権力者になっている。何をされても抵抗のしようがない。これは大変と思ったときに、5節、ヨセフが「しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです」。すごいですね、ヨセフという人は。皆さんだったらこう言えるでしょうか。自分をヨセフの立場においてご覧なさい。嫌味の一言、二言どころか、罵りたくなる。しかし、ヨセフは言わない。あなたがたが私を売ったのではない。神様がこの日、このときのために、私を先に遣わしてくださったのだから、何一つ心配しないでください。私たちもこのヨセフです。私たちもこのように神様を信頼するものとなりたい。神様が私を遣わされた。今、私にこのことをさせてくださるのは神様なのだ。ところが、現実は確かに兄弟があんなことをしたからとか、ポテパルの奥さんがあんなことをしたからとか、あるいはあの人がこうしたからという、きっかけになる人や事柄が見えます。しかし、実はその背後に見えない神様の遠大な御計画があったのです。ポテパルに売られたときから兄弟に出会うまで、何十年という歳月がたっている。でも神様はもっと先のことまで見通して、すべてのことをしているのです。

私たちは、神様の壮大なドラマのほんのわずかな一コマの中に、今日も生きているのです。神様が何をなさるのか、先のことはわからないけれども、神様に期待して、今というとき全力を尽くして、主に仕えていこうではありませんか。置かれた所、遣わされた所で。7節以下に「神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。8 それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です」。これはヨセフの生涯を通して変わらない信仰です。私たちもどのような中にあっても、神様がご存じだから、神様が今このことをしてくださるのだから、私は神様に仕えているのだ。この姿勢を貫いていこうではありませんか。今していることがどのようなことになるのか、将来なんの役に立つのか、これはわからない。神様がそれを決めなさる。

創世記39章2節に「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった」。置かれた所に、それがエジプト人の奴隷の身分として置かれた場所であっても、彼はそこに居たのです。「エジプトびとの家におった」という言葉、これは実に重い一言です。彼は積極的にそこを神様が与えられた所として受けたのです。嫌々ながら押し付けられたものとしてではない。主がそこへ置いてくださったと彼は信じた。そうでなければ、後になって神様がここへ遣わしたのですと、言い切れなかったに違いない。彼がいろいろな中を通ることを通して、ヨセフの信仰をしっかりと固めてくださった神様は、やがて後の大きな出来事に用いてくださるのです。あなたにとって「エジプトびとの家」はどこですか。

ここは神様が私を置いてくださった場所、主が私を遣わしてここで訓練してくださる場所であることをしっかりと受け止めて、主にお従いしていきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。