いきなりピンボケ(ToT)
ぶらり・・・2回目。
天気はいまいちだけど、久しぶりの自由時間。思い切って出かけました。自宅から最寄りの苦楽園駅まで自転車で。駐輪場に自転車を止め、改札でピッとするも反応しないので、財布おなかを見るとPiTaPaがない。慌てているところに電車が到着する気配。券売機に戻って行き先も決まらないまま慌てて220円券を買い電車に飛び乗りました。西宮北口まで一駅。それまでに決定すればいいかと。
さて、どこに行こうか・・・
行ってみたかったところ・・・子供の頃住んでいたところ、訪ねてみようか!そうだ「塚口駅」
ということで今回は「阪急塚口駅」。
阪急神戸線 梅田ー中津ー神崎川ー十三ー園田ー塚口ー武庫之荘ー西宮北口・・・・・三宮
塚口駅からは阪急伊丹線が延びています。伊丹の人々は伊丹駅から塚口駅に向かい、神戸線に乗り換えます。しかし、伊丹市も尼崎市も市バス阪急バスが縦横無尽に走っているおかげで、わざわざバスで伊丹駅に行かなくとも、多くの人は直接塚口駅行きのバスにのってやってきます。ですから、塚口駅のメインロードは伊丹市民と尼崎市民の玄関口として賑わっているのだと思います。
そのメインロードは、幼い頃は広い道だと思っていましたが、今日降り立ってみるとほんとに狭い道で、こんなところをバスが通っていたのかと驚かされます。また人通りも記憶の通り大変多く活気のある土地でした。
さて、
いきなり画が甘い…やはり50mmのF1.4は、ポートレート用かもです。
塚口駅に到着する。神戸線の上り下り、そして伊丹線の三線が合流する駅なので、ホームが広い。ホームになんか魅力的なお店もあって、通勤に使っていると絶対買って帰ると思う。しかし、昔あった阪急そばは今はなく、鰹の匂いがしないのが残念。
昔、住んでいたのは駅の北側。改札の向こうに50年以上前の記憶が・・・
駅前にロータリーがあるでもなく、細いメインロードが続く。ちょっと歩いたところにバス停があって、そのバスに乗って小学校時代に住んでいた伊丹の家まで帰っていたことを思い出します。駅を出るとなぜか、
ローゲンマイヤー。ここでも駅前に進出していました。炭水化物を制限している今は、見ないふり。
絞り回すのわすれてた・・・
大きなショッピングセンターは駅の南側にあるのに、ここはすごい人通りです。昔の記憶の通り。
駅前のマクドナルドは長蛇の列。何があったのでしょう?
駅をでて左に折れると線路の南側に出る踏切がある。その手前には商店街があって、その入り口のお肉屋さんのコロッケがとてもおいしかったのを覚えている。残念ながらその商店街はすでになく、コロッケやさんのあったところは、CoCo壱番屋のカレー屋さんがある。
この踏切の向こうには、昔電話ボックスのような小屋があって、電車が通るのを電話で連絡し合い、手動で踏切をあげる駅員さんがいたのを思い出す。遠い昔、この駅員さんの様子をずっと見ていたように思います。この踏切を渡って西に行くと大きな服屋さんが…などと古い景色がよみがえる。
さて、きびすを返してメインロードに戻る。一人の警備員がいる。何をしているのだろうと見ていると、思い出した。狭い道を大型の市バスが転回するのに交通整理と誘導をするための警備員。そういえば数人でさばいていたような記憶がある。
実に頼もしい姿であります。
バス停の向こうによく行ったスーパーがある。有名な「いかりスーパー」本店。
人に、「小さい頃よくいかりスーパーに行ってたんだよね。」って話すと、きまって、「お金持ちだったんだねぇ。」なんて言われて、何でだろうと思っていたけれど、近くの芦屋や西宮のいかりスーパーに行ってみると、レジには必ず二人のレジ係がいて、丁寧に紙袋に入れてくれたり、売っているのものはよいものだが値段も高い。いわゆる高級スーパーだった。でもここは表に自転車が並び、庶民的な香りがするけれど違うのだろうか。
隣には、大衆理容のお店。きれいな店内なので機会があれば刈ってもらおう。
庶民的な風景
辺りを見回すと、令和の時代にはない風景が見られる。昭和記念通りですな。懐かしさ満点です。
いかりスーパーを眺めて、幼い頃の風景に出会いに行きます。駅の北側、伊丹線の踏切を渡って東側に向かいます。もう50年以上も前の記憶をたどります。
いきなり、
ここは僕が遊んでいたところ。今はフェンスで囲まれているけれど、当時はフェンスはなく、このホームの下のスペースに潜り込んで遊んでいたのです。僕の住んでいたアパートは散髪屋と金物屋が一階にあって、散髪屋の家族はその二階に、僕らは金物屋の上に住んでいた。散髪屋の息子は「しんちゃん」といって、ぼくと近い年の男の子だったと思う。僕の名前も「しんちゃん」で、よく一緒に遊んでいたようだ。となりのしんちゃんの家にもおじゃましていて、おっちゃんたちがお布団で寝ている横を僕が歩いている景色も思い出される。そのしんちゃんと僕はこのホームの下に潜り込んで、線路に釘をおいてぺったんこにしたり(記憶のお話です)していたらしい。当時はたばこの吸い殻がたくさん落ちていて、それを拾っていたような記憶もある。何してたんでしょうねぇ。
たしか踏切がこの向こうに・・・
あれだ。
とうとう帰ってきた、そんな気がした。道を進むと昭和の時代に戻ったような景色。
ばあちゃんの焼くたこ焼きは本当においしそうで、炭水化物を制限している今どうしようかと迷ったけど、後でいただくことにした。そんなレトロな景色を見ていると、もしかすると、あの散髪屋があるかもしれないと思い出した。しかし今から50年も昔の建物が残っているものか?半分期待しながら進んでいると・・・ 見えました。たぶんあの建物です。昔は雨がたまるようなブリキでできた箱形の看板でしたが、今は青色のテント地の看板に代わっています。昔、父親が吸ったたばこの吸い殻をブリキの看板の箱の中にぽいぽい捨てていたのを思い出します。子供ながらに、たばこの吸い殻を捨てる父親が嫌いでした。
ブリキ屋にはたくさんの品物が所狭しと置いてありましたが、今は陳列台に少しだけおいてありました。時の流れには逆らえないのでしょうが、よくぞ今まで続いていると感心しました。散髪屋では、土曜の昼だというのに客待ち顔で店主がドアの中で座っています。年の頃は僕と同じぐらいの男性。きっとあれがしんちゃんなのでしょう。声をかける勇気もなく通り過ぎました。
目的地はもう一つあります。この道をずっと行くと、僕の通っていた「こひつじ幼稚園」があります。そこまで行ってみます。
手ぶれ(T_T)
懐かしさのあまり途中シャッターを押すのを忘れていました。しかし、しばらく突き当たりまで行くと、茶色の大きな門こそありませんでしたがまぎれもない幼稚園の姿。今は協会として残っていました。
園庭は、売却されたと見え住宅が建っておりましたが、なつかしい形のドアがそこにありました。50年以上も前なのに覚えているものです。くりはら美子先生元気でしょうか。
幼稚園から帰る道をたどります。もう一つ記憶に残っていることがあります。
帰り道、その日は一人で帰っていたのですが、電信柱になぜか黄色と黒の虎ロープがぶら下がっていて、しんちゃん少年はその虎ロープにぶら下がったのです。そのころ「ターザン」というテレビドラマが人気でしんちゃん少年も見ていました。だからなのでしょうか、しんちゃん少年ロープにぶら下がってターザンのようにロープをぶら下がり体を振ります。
「あーあぁーーー。」
とターザンは叫ぶのですが、しんちゃん少年の
「あーあぁーーー。」
と叫びます。どうなると思いますか?無残にも電信柱に激突します。そりゃそうですよね。しんちゃん少年は、顔面を強打して鼻血を出します。顔中、いや上半身血だらけになりながら泣いて帰っていたのです。
その姿を、迎えに来た母親は、路上駐車している車の陰から我が子が血らだけの姿で泣きながら現れるので、びっくりしたそうです。
笑い話のレパートリーの一つですが、電信柱を眺めながら思い出していました。途中公園を見つけました。
この公園覚えています。あのらくだに跨がった記憶。かわいかったのでしょうね。僕は。
思い出に浸りながら、たこ焼き屋の前に。5こ100円ですよ。今時。
後で気がついたのですが、5こ100円だったのですが、実は6こ入っていました。店の前のベンチに座っていただきましたが、入れ物を返すとき、「お茶も飲むかい?」なんて尋ねてくれます。昭和の香りぷんぷんです。
このたこ焼き、少し小さめのたこ焼きで昔サイズ。外側カリカリ中は柔らかい、とても懐かしくおいしいたこ焼きでした。久しぶりに食べた昭和のたこ焼きでした。また食べに来ようかと思います。
【撮影機材 撮影後記】
撮影機材 Nikon D700 Ai NIKKOR 50mm f1.4 フィルター kenko PRO ND-8
50mmレンズは標準レンズと呼ばれますが、実は50mmだけ持ち歩くのはあまりなく、寄ったり引いたりしながら画角をカバーしました。写真は足で撮れという言葉が身にしみました。天候は曇り。光が少ないのが残念。
技術的には、ピンボケ量産でした。光が少ない上近眼でピントの山を見つけられなかったり、人混みの中でシャッターを切る度胸がなく手ぶれ量産したり、残念な結果になりました。晴れた日にもう一度連れて行きます。