中小企業診断士 福田 徹 ブログ

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御茶ノ水の渓谷

2008年08月14日 | 福田徹の街歩き・ハイキング
都心に深く刻まれた渓谷、川面に降りると驚くほどの「静けさ」があるそうです。



御茶ノ水のこの谷が人工のものだと知っていますか。これは江戸期に、神田川の流れを変え、武蔵野台地に掘り割りを作ったものです。

江戸市街地の建設時は、飲み水の確保、治水、水運、埋立による土地確保、江戸城の防衛が重要であったため、川、特に神田川をとことん改変、利用しました。

◇飲用水は
江戸川橋の上流の関口(文京区)で神田川から取水して、川の北側に水路を造り、下流の水道橋で水路を神田川の上を渡し(水道橋の地名の由来)市中に給水しました。(神田用水)

当初の神田川は平川(平河)と呼ばれ、水道橋駅西口付近からは現在の日本橋川が流路でした。この平河の氾濫で市中が被害に遭いやすかったのです。

◇洪水を避けるために
御茶ノ水付近の台地に谷(仙台堀:伊達家に作らせた)を掘り神田川の流れを北側に変えて、堤防を作り、洪水を避けました。
この堤防の一部は、飯田橋駅から水道橋駅間の中央線の路盤としてまだ残っています。

◇水運
この大工事により、飯田堀~隅田川をつないで水上運送のネットワークとしても活用しました。
今でも、飯田橋の周辺に「軽子坂」「揚場町」などの河岸にまつわる地名が残っていて当時が忍ばれます。
神楽坂の商店街は河岸のにぎわいが元であり、水運が台地上(新宿区側=牛込)の開発を促したといわれています。

◇埋め立てによる市街地確保
江戸初期は現在の東京都心部の大部分が海または湿地でした。そのため江戸城を支える城下町を作る土地が足りませんでした。
そのため、土地確保が重要課題の1つでした。そこで、御茶ノ水の谷を掘り出した残土や神田川より南側の台地を削った土を利用し、湿地だった神田周辺を埋め立てて市街地にしました。
埋め立てによる大規模な都市拡張はその後も続き、羽田付近などでは現在も行われています。

◇江戸城の衛を固める
江戸初期の徳川にとって、掘を有力な外様に作らせることが、敵の力を削ぎ、衛を固める、一石二鳥であったのは間違いありません。

徳川家は、1つの川をとことんまで利用したといえるのではないでしょうか。
現在の我が国の河川政策は、ダム+護岸工事のコンクリート依存型です。利権のためなら必要のないダム計画も見直されない。川が溢れるから堤防を高く強く、または川底を浚うという単目的の対処療法ばかりが目立ちます。
神田川の例を治水だとすると、現在のそれを治水と言うには、少し恥ずかしい気がします。


とまあ、幕府を褒めまくりましたが、封建期のことです。いろいろあったようです。

先程、洪水を避けるために北側に流れを変えて堤防を作ったと書きましたが、堤防で守ったのは江戸市中だけでした。
今ではあり得ないことですが、流れの南側だけの片堤防だったのです。洪水時には、北側の小石川などの地域では甚大な被害があったのです。このことも付け加えておきます。

件の堤防は、柳原の土手などと呼ばれ、隅田川へ注ぐ、神田川河口の柳橋付近まであったようです。