格差階級社会をなくそう

平和な人権が尊重される社会を目指し、マスゴミに替わって不正、腐敗した社会を追求したい。

日本が米国の侵略にどう関わるかは米支配層が決めることで、安倍首相の約束

2015-08-14 20:02:32 | 杉並からの情報発信


日本が米国の侵略にどう関わるかは米支配層が決めることで、安倍首相の約束
は何の意味もない

2015.08.11

http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201508110000/

集団的自衛権が認められた場合、日本はアメリカの命令に従って戦争に参加し、
行動することになる。戦争に参加するかどうかはアメリカ支配層の都合 次第と
いうことで、安倍晋三首相の「約束」など何の意味もない。

そのアメリカは1992年に世界規模で侵略戦争を始めたが、思惑通りに進まず、も
がいている。日本が参加することになる戦争はこれから始ま るのではな く、そ
の侵略戦争にほかならない。集団的自衛権を議論するなら、そうした戦争、例え
ばユーゴスラビア、アフガニスタン、イラクへの先制攻撃、 リビアやシリ アで
の傭兵を使った体制転覆プロジェクト、ウクライナのクーデターなどを直視する
ことから始めねばならないということだ。集団的自衛権に反対 だと言いなが
ら、アメリカの侵略から目を背けている人が少なくない。

アメリカが展開中の侵略戦争は1992 年にアメリカ国防省で作成されたDPG草案、
いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」。これは中身が危険だということ
で草案 の段階でリークされ、書き直されているが、そのプランは生き残り、そ
の後の政策決定に影響しているのだが、この話を日本の政治家、学者、記 者、
編集者といった類いの人びとは取り上げたのだろうか?

このドクトリンが作成される前年、ボリス・エリツィンらを使った工作もあり、
ソ連は解体され、消滅した。西側の傀儡であるエリツィンが大統 領を務めたロ
シアはアメリカの属国になり、不正な手段で巨万の富を築いた「オリガルヒ」が
登場する一方、庶民は貧困化している。エリツィンは西側の巨大資 本だけでな
く、国内では犯罪組織、そして日本ではオウム真理教とつながっていた。

一方、中国の場合、支配層の子弟をアメリカへ留学させ、そこでアメリカ流の生
き方、つまり強欲を善とする考え方を叩き込んでいるので、自分 たちに逆らう
ことはないとアメリカの支配者たちは思い込んでいたようだ。

ロシアと中国を支配下におき、自分たちは唯一の超大国になったと認識したアメ
リカの支配層は、DPG草案で新たなライバルの再登場を阻止す ることを第1の目
標だと宣言、旧ソ連のほか、西ヨーロッパ、東アジア、南西アジアを警戒地域に
挙げている。

アメリカの好戦派はネオコン/シオニスト、戦争ビジネス、人道的軍事介入派、
東欧から移住してきた嫌ソ/嫌露派の4本柱。ネオコンの中心的 な存在である
ウォルフォ ウィッツは1991年の段階でイラク、シリア、イランを殲滅すると宣
言、嫌ソ/嫌露派は旧ソ連圏の制圧を目指した。戦争ビジネス は軍事的な緊張
が高まることが望みで、人道的軍事介入派は嫌ソ/嫌露派と近い関係にある。

2001年からアメリカはウォルフォウィッツ・ドクトリンに基づいて自立した国々
を侵略しはじめ、内政面では1980年代から始まった COGプロジェクトに基づいて
憲法の機能を停止させたが、ロシアが再独立、中国もコントロールできていなこ
とに気づく。

それでも、2006年の段階では楽観していたようで、例えば、キー ル・リーバー
とダリル・プレスはロシアと中国の長距離核兵器をアメリカの先制第1撃で破壊
できるとする論文をフォーリン・アフェアーズ誌 (CFR/外交問題評議会が発
行)に書いている。アメリカの好戦派はそう考えていたのだろう。この勢力の命
令に従っている日本の 「エリート」もそう信じたようで、日本の防衛省幹部の
中には、「オフレコの会」で「今なら中国に勝てる」と公言している人もいた。

その2年後、2008年8月にミヘイル・サーカシビリは南オセチアを深夜近くにミサ
イルで奇襲攻撃、軍事侵攻した。この攻撃を立案したのは イスラエルだ と推測
する人もいるが、その作戦はすぐに失敗だということが判明する。ロシア軍が素
早く反撃、侵攻作戦を粉砕してしまったのだ。

ロシアを属国だと認識していた時期にもアメリカの好戦派は支配システムを築く
努力はしていた。ウクライナを支援するために 1991年から50億ドルを投資した
とビクトリア・ヌランド国務次官補は2013年12月に米国ウクライナ基金の大会で
発言して いる。システムの構築にはNGOを利用している。

この手法はロナルド・レーガン政権が始めた「プロジェクト・デモクラシー」か
ら始まったもので、その中心にあるのが1983年に創設された のが NED(民主主
義のための国家基金)。そこから資金はNDI(国家民主国際問題研究所)、
IRI(国際共和研究所)、CIPE(国際私企業セ ンター)、国 際労働連帯アメリ
カン・センターへ流れ、USAID(米国国際開発庁)もCIAの資金を流す上で重要な
役割を果たしている。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日航ジャンボ123便 生存者は自衛隊員がアーミーナイフで殺害していた

2015-08-14 07:15:18 | 阿修羅


日航ジャンボ123便 生存者は自衛隊員がアーミーナイフで殺害していた
http://www.asyura2.com/09/lunchbreak27/msg/669.html
投稿者 愉快通快 日時 2009 年 9 月 10 日 20:39:29: aijn0aOFbw4jc




司会:それでは、Mさんよろしくお願いします。Mさんは事故当夜、現場に向かわれたそうですが、まず、そのいきさつを教えてください。


M氏[1]:私の実家は、事故現場から見て西側、長野県の方にあります。当時は大学を卒業して社会人になったばかりで、事故当日はお盆ということもあり、たまたま実家に帰省していました。

事故の速報を知ったのが、12日夕方の7時過ぎ頃だったと思います。その時は墜落現場は(長野県の)北相木村付近という報道でした。そこで、北相木村やもっと南に位置する川上村に住む知り合いに電話を掛けて様子を尋ねたところ、どちらも墜落は確認できてないとのことなので、残るは南相木村の山間部しかないと思い、そちらに向かいました。たまたま高校時代の友人2名と一緒だったので、事故現場に行ってみようということになりました。まだ、若かったですから、その時はただ、何としても現場に1番乗りしてやるぞ、インタビューされてテレビに映ってやるぞ、ぐらいの本当に軽い気持ちしかありませんでした。

オフロードバイクにまたがり、友人2人(それぞれオフロードとオンロードバイクを使用)と共に南相木村に向けて出発し、おそらく21時頃までには南相木村からの林道に入っていたと思います。ただし、オンロードバイクの友人は途中でこの行程から抜け、林道から先を進んだのは、オフロードにのったボクたち2人だけです。

司会:その時刻はまだ、墜落地点は判明してませんでしたよね(公式発表は翌朝5時以降)。そこからどこに進めばよいか、どう判断したのですか?


M氏[2]:そんなの訳ないですよ。上空で戦闘機が、それもおそらく2機がぐるぐる旋回している音がしてましたから、墜落現場はその(旋回)音の中心付近だなとすぐに分かりました。そこで、バイクで可能な限り近くの林道を進んで、そこから先は徒歩で山に入ることにしました。

司会:ええっ?じゃぁもうその時点で墜落地点はわかっていたと・・・

M氏[3]:はい。当然、警察も分かっていたはずですよ。だってボクたちが南相木村へ向かってるその後ろから、警察の白バイが着いてきましたから。でも、普通のバイクなので切替しの多い山道に難渋していて、オフロードに乗ったボクたちは簡単に振り切っちゃいましたけど(笑)。

林道の終点から山に入ってからは、途中、山の頂きへ登る度に、ヘリの音がする方向を探して、墜落地点を確認しました。ヘリは同じところを一晩中飛んでいたので、墜落地点は当然分かっているものと思いました。

司会:すると、林道から先は、徒歩で夜の山に分け入ったのですか。危険だと思わなかったのですか?

M氏[4]:あの辺の山の持ち主(の息子)とか知ってますし、一緒に山に入って遊んでましたから、どんなところかは大体わかっていました。松の木と岩が多い所なんですよ。もちろん、急峻で険しい所だとも知ってますから、この先へ進むのは中々たいへんだなと思いましたよ。

とにかく、墜落現場に向かってまっすぐ進むことしか考えていませんから、きつい傾斜や時にはオーバーハングを超えて、山道なんか関係なく、強引にいくつも尾根を跨いで行きました。ですから、直線距離でわずか7,8キロの行程なのに、山に入ってから現場に着くまで6~7時間くらいかかりました。着いたのは、午前4時前後だったはずです。

司会:午前4時という時刻はどうやって確認したのですか

M氏[5]:当時は、時計を身に付ける習慣はなかったのですか、着いた時に山の尾根付近が白み始めていたので、おそらくそれぐらいの時間だと思いました。
(管理者註:夏の山頂付近は明るくなるのが早い)

司会:そこで何を見ましたか?

M氏[6]:既に自衛隊員が7~80人、いや100人位は来ていました。それを見て、自分たちは一番乗りできなかったと思いましたね。同時に、事故犠牲者の呻き声が谷にこだまし、響き渡っているのがはっきりと聴こえました。

司会:ええっ?その時に生きて声を出している人が居たのですか?どれくらいの人が生きていたのでしょう。

M氏[7]:全部を数えた訳ではありませんが、声の響き方からすると少なくても4~50人は居たと思います。実際に、苦しそうに声をあげている人を私も間近で何人か見ています。自衛隊の人たちがいる以上、自分たちができることは、負傷者のいる場所を教え、早く救助してもらうことだと思い、呻き声のするあたりを探しては、その場所を隊員さんに伝え、早い手当を頼んでいました。

ただ、隊員さんの対応には不信感を覚えましたね。「へたに動かすと危険なので、後から来る部隊が手当することになっている」と言うだけで、何もしようとしない。手にした4~50cm 位の丸いバッグに、地面から拾った物を黙々と入れ続けている。

司会:自衛隊員は何を拾っていたのでしょう。

M氏[8]:まだ暗くてよく見えなかったので、それが何かまではわかりませんでした。ボイスレコーダーとか、何か貴重な物なんだろうと思っていました。私が覚えている隊員さんの装備は、バッグの他に、片手に抜き身の大型アーミーナイフ、目には暗視ゴーグル、また、靴はつま先の短い短靴を履いており、傾斜のきついこの山のことをよく調べて入っているなと思いました。

ちょっとひどいなと思ったのは、斜面を登り、尾根の反対側に出たら、向こうの谷ではヘリコプターがホバリングしているじゃないですか、ヘリが来ているならさっさと救助しろよと思いましたね。しかも、ヘリの下では、さっき隊員さんたちが何かを入れていたバックを10数個まとめ、ネットに入れて吊り上げていました。何度も吊り上げていたので、全部で70個くらいのバッグが回収されたと思います。

司会:現場にはどれくらい滞在したのですか。

M氏[9]:到着してから1時間後くらいに、自衛隊の次の部隊が続々と到着してきました。また、暗視スコープを装着していた最初の部隊も引き上げる体制に移っていたので、もうこれで大丈夫と思い、この時に下山を始めました。なお、次の部隊は、山で歩きにくいブーツ姿だったので、これで大丈夫なのかなと思いました。

セミナー参加者からの質問

Q1:4~50人居たという、呻き声の人たちはどうなってしまったのでしょう?

M氏[10]:それはボクもずっと不思議に思っていたのですが、下山を開始する朝の5時過ぎ頃には、谷の呻き声がピタリと止んでいました。


Q2:この事故の生存者は4人の女性でしたが、その他にも助かりそうな人はいませんでしたか?

M氏[11]:ボクが見た負傷者の中に、指先が1本ちぎれただけの男の人がいました。「この程度なら死ぬことはないな」と思い、救助活動(隊員への声かけ)を後回しにしたのをはっきりと覚えています。あの人がどうなったのか、ボクにも分かりません。

Q3:事故調査委員会が、当夜、墜落場所発見が困難だったと報告しています。しかし、Mさんは夜を徹して現場に到達している。この報告をどう思いますか。

M氏[12]:日頃から遭難者の多い現地周辺にはCB無線による救助網が敷かれています。無線機を持った人員を担当箇所に登らせて無線を交わせば、夜間に炎上しているような目立つものなら訳なく見つけ出せるはず。どうしてこんなに時間がかかったのか分かりません。
(管理者註:というか、本当はとっくに見つけ出していますが・・)


Q4:大型アーミーナイフは何に使われていたのでしょう?

M氏[13]:それは見ていないので分かりません。

Q5:現場で身の危険を感じたり、二人を排除するような動きはありませんでしたか?

M氏[14]:そういうことは特に感じませんでした。

Q6:機体が激しく衝突し炎上した墜落現場に木立が残っているのは不自然だとよく指摘されるのですが、実際に見てどうでしたか?

M氏[15]:言われてみたら、確かに変ですよね。林立している木の間に機体の破片や、遺体(の一部が)飛散していましたから。それに、あの辺りは針葉樹が多い山ですから、機体から火が出たらあっという間に周囲に燃え広がるはず。それにしちゃ、あまり燃えてなかったなぁ、変だなぁ。

Q7:事故調査委員会が、生存者4人の発見を奇跡的だと報告しています。しかし、Mさんは生きてきる何10人もの声を聞いている。この報告について改めて感想を聞かせてください。

M氏:報告は嘘だと思います。明らかにもっと多くの方の命を救うことができたはずです。

Q8:その他、現場で見て、何か変だと思ったことを教えてください。

M氏:山で遭難して遺体になると、狐や狸など、山の動物にひどく食い荒らされるのですが、現場で見た遺体には、奴らが手をつけた痕跡がまるでない、それは山を知る者としてはたいへん不思議な事です。

司会:ありがとうございました。  






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする