風雅庵の日々

園芸、屋上、近所の散策を中心に記録します

風雅の意味

風雅とは、自然の中に趣や味わいを感じること・さま。
風雅を目指し、自宅を風雅庵、ダイニングを風雅亭と呼ぶことにしました。

浄妙寺、報国寺

2010-11-21 13:01:53 | 鎌倉33観音
第9番 稲荷山・浄妙寺(臨済宗建長寺派)【聖観音】

鎌倉五山第5位の寺格を持つお寺です。頼朝の忠臣であった足利義兼が
1188年(文治4)に創建、開山は退耕行勇(たいこうぎょうゆう)律師。
当初は密教系で極楽寺と称したが、月峯了然(げっぽうりょうねん)が
住職となって禅宗に改宗、ついでに浄妙寺と改称

このお寺、稲荷山(とうかさん)と号しており、右手の道の奥には鎌足稲荷があります。
藤原鎌足が稲荷大神(おおかみ)から鎌を授かり、大神の加護を得たとのこと。
大化の改新をなし遂げた後、授けた鎌を返納せよとの神告で
「鎌」を埋め、これが鎌倉の地名由来となったいう伝承があるそうです。


喜泉庵では抹茶をいただくことができます。
天正年間(1500年代)には喜泉庵で僧が一同に茶を喫したそうです。
よいお茶のようで、頭がしゃっきりしました。
平成3年に復興した建物ですが、ここの庭の眺めは大好きです


第10番 功臣山・報国寺(臨済宗建長寺派)【聖観音】

竹の寺として有名なお寺です。
鎌倉幕府滅亡の翌年(1334年)、足利家時は足利家代々の菩提寺として
この報国寺を創建、三代後の足利尊氏が天下を取りました。

時は流れ、永享の乱(1438年)では、室町幕府に破れた鎌倉公方
の足利持氏が永安寺で、その子の足利義久はこの報国寺で自刃、
関東の足利氏終焉の地になったとのことです。


本堂には、本尊の釈迦如来と札所本尊の聖観世音菩薩が
祀られているそうですが、遠くて見えません。

うーん、とうとう本日は、観音さまも本尊さまも、
一つもお姿を拝めずじまいでした。ちょっと欲求不満。


鐘楼の後ろには大きなイチョウ、黄葉がみごとでした。


いただいた御朱印です。本日は4つのお寺を巡りました。

大非殿は観音さまのいる場所の意味だそうです。
慈悲と言う言葉がありますが、慈(いつくしみ)と悲(あわれみ)は
本来は別々の単語で、他者の苦しみを救いたいと願う
「悲」の心を重視して「大非」と称し、観音さまを意味するようです。
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光蝕寺、明王院

2010-11-21 10:55:26 | 鎌倉33観音
第7番 岩蔵山・光触寺(時宗)【聖観音】

光蝕寺は鎌倉の東のはずれの十二所にあります
人がいるか不安になりながらインターフォンを押すと住職さんが出てきて一安心。

納経をお願いすると、普段は閉めきりの本堂を少し開けたままで、
御朱印を書いていただき、有り難いことに御朱印にお経を唱えていただきました


本尊は頬焼阿弥陀で知られる阿弥陀如来像、観音菩薩と勢至菩薩と
合わせて阿弥陀三尊です。秘仏ですので厨子に入って見れません。

厨子の扉が壊れそうで、10人以上で1週間前に予約しないと
開けることはできませんし、NHKでも撮影は許さないそうです。
札所本尊の観音さまは厨子の左とのことですが暗くて見えずでした。

本堂を後にしようとすると開山の一遍上人が拝んでいらっしゃいました


第8番 飯盛山・明王院(真言宗御室派)【十一面観音】

4代将軍の藤原頼経が発願、建立の場所を長年探し求めてここになったとか。
正面の茅葺き屋根が本堂で五大堂と呼ばれます。
本尊の五大明王(不動明王,降三世明王,軍荼利明王,大威徳明王,
金剛夜叉明王)が祀られ、毎月28日の縁日には公開されるそうです。

右側の茶室のような建物が観音堂とのこと、
隙間から覗いたのですが、厨子の戸が閉まってました

境内は写真撮影ができないので冠木門の前から

本日はまだ観音さまのお姿を拝めずですが、いただいた御朱印です
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