風雅庵の日々

園芸、屋上、近所の散策を中心に記録します

風雅の意味

風雅とは、自然の中に趣や味わいを感じること・さま。
風雅を目指し、自宅を風雅庵、ダイニングを風雅亭と呼ぶことにしました。

西御門来迎寺

2010-11-03 11:55:36 | 鎌倉33観音
鎌倉三十三観音の巡礼です。

第5番 満光山・来迎寺(時宗)【如意輪観音】
西御門の来迎寺は(らいこうじ)と読みます

1293年(正応元)に一向上人により開かれたと伝わります。
関東大震災で本堂が倒壊、1994年(平成6)に新築されたそうです。

藤沢の遊行寺を本山とする時宗のお寺ですが、
かつて西御門にあったいろんな宗派の仏像が集まってます。

鎌倉33観音5番の如意輪観音さまと、鎌倉24地蔵2番の地蔵菩薩は、
1868年(明治元)の神仏分離で廃された法華堂から移されたそうです。
また本尊「阿弥陀如来」は鎌倉13仏10番札所になってます。
継続は力というか、ある意味ラッキーなお寺かも

本堂では、林学善・住職から説明をいただき
間近で仏像を拝むことができました。
うっとりとするような姿に、清楚な雰囲気、「鎌倉で最も美しい仏像」とか

↑如意輪観音さま、学研ムック「鎌倉仏像めぐり」より
幸せそうなお顔です、見ているこちらも幸せな気分になりました。

6本の腕を持った六臂像です
右第一手は優美にほおづえ、右第二手には如意宝珠を大事そうに乗せ、
右第三手は数珠をつまみ、左第一手は大地に触れ、左第二手には蓮の花、
左第三手の人差し指の先に法輪がピッと発現!カッコイイ

右膝を立て、左右の足裏を合わせた輪王座で座ってます。
台座の蓮の花びらも美しい、丸い光背の淡い赤色も何かキレイ

衣服のレース文様は土紋で立体的に装飾されてます。
鎌倉独特の技法で、漆で練った地の粉を型抜きして貼り付けてるそうです

現在、鎌倉では土紋を残す仏像は九体のみとのこと。
①西御門来迎寺の如意輪観音、②覚園寺の鞘阿弥陀、
③宝戒寺の歓喜天、④浄光明寺の阿弥陀如来、⑤浄智寺の韋駄天、
⑥東慶寺の聖観音、⑦伝宗庵の地蔵菩薩、あとは個人蔵や部分



頼朝の作った幕府は「大蔵幕府」と呼ばれ、鶴岡八幡宮と荏柄天神の間にありました。
西御門は大蔵幕府の西の門に由来します。

西御門には、7つの寺があったと言われます
①来迎寺、②太平寺:来迎寺裏手のテニスコート、
③高松寺:太平寺の跡地、④報恩寺:第二中学校、
⑤保寿院:第二中学校、光福寺?あとは法華堂?

この石碑が建ったころには来迎寺と高松寺の2寺残ってたのに、
今では来迎寺1寺です。



太平寺(たいへいじ)
源頼朝が池禅尼の恩義に報いるため、その姪の願いを聞き入れて建立した尼寺。
足利基氏の未亡人・清渓尼が中興し、鎌倉尼五山の第一位になりました。
1556(弘治2)年、安房の里見義弘の水軍が鎌倉を攻めた時、
住持の青岳尼を連れ去り、住持を失った太平寺は廃寺になったとか。

本尊の聖観音は、安房に運ばれた後に鎌倉に戻され、東慶寺に安置。
また、円覚寺の国宝・舎利殿は、太平寺の仏殿を移したものです。

高松寺(こうしょうじ)
1644年に、紀州徳川家の家老水野氏が太平寺の跡地に建てました。
1931年(昭和6)に宮城県栗原郡へ移転、山門は鎌倉山「らい亭」へ移築

報恩寺(ほうおんじ)
1371年(応永4)、宅間上杉家の能憲によって建立されました。
来迎寺の地蔵菩薩は、胎内銘札から1384年(永徳4)に作られた宅間浄宏作とみられ、
跋陀婆羅尊者像とともに、報恩寺に安置されていたもの考えられてます。

保寿院(ほじゅいん)
鎌倉公方足利基氏の母の菩提所。開山は報恩寺と同じく臨済宗の高僧義堂周信という

光福寺
ほとんど不明だが、如意輪観音はここから法華堂に移されたとか

本日いただいた御朱印です

コメント
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