ダライ・ラマ著『幸福論』を読みました。
その「15章、宗教にできること」に以下の文章がありました。
これです、これ・・・と思ったので、引用
「宗教をほんとうの意味で実践することがなによりも大事である証拠に、自分の宗教とまじめにとりくんでいないと、別の宗教の価値を理解していない場合と同じく、結果として宗教間の協調を妨げることになります。わたしたちは宗教の教えを自分の生活に取りこむどころか、ともすると自分の身勝手な態度を増長させるために利用しがちです。まるで宗教が自分の持ち物であるかのように、自分には信仰があるから他の人よりも偉いのだなどと思ってしまいます。これが間違いでないと言えるでしょうか? 宗教のありがたい教えを生かして自分の心や頭の汚れをきれいにするどころか、まるで自分の誤った思考や感情によって宗教のありがたみを汚しているようなものです。
とはいえ、ここにはもうひとつの問題が反映されていることも事実です。しかも、その問題はどんな宗教にも潜んでいます。宗教というものは、いずれもわれこそが「本物」であると言い張るものです。たしかに、信者の立場からすれば自分の信じる宗教だけに専心するのは当然のことです。それができるのも、自分の信仰が真実にいたる唯一の道であると確信しているからでしょう。しかし現実に、同じような主張をしている宗教はいくつもあります。わたしたちはどうにかして、その現実と自分の信念との折り合いをつけねばなりません。大切なのは、それぞれの信者が自らの信仰に従い、同時に他の宗教からもその価値を認められるようにすることです。各宗教が主張しているように、その信仰によってほんとうに真実に到達できるのかどうかは、言うまでもなくその宗教の内部の問題なのですから。
わたし自身を例にとれば、わたしは仏教がなによりも自分のためになると確信しています。愛や思いやりを育て、精神性を養っていこうとするとき、わたしにとって最高の指針となるのはやはり仏教です。しかし、仏教がわたしにとって最善の道であるのと同様に、キリスト教の信者にとってはキリスト教が最善の道なのでしょう。わたしの性格、気質、文化的背景には仏教がもっとも合っているように、キリスト教の信者にとってはキリスト教が最適の教えなのでしょう。したがって、わたしがいかに仏教を信じていようと、仏教がすべての人にとって最高の教えであるとは言えないのです。
わたしはときどき、宗教とは薬のようなものではないかと思うことがあります。使い方や患者への適性を無視して、この薬は絶対に効くと断言することはできません。これこれこういう成分が入っているから、この薬はたいへんいいのだと言うわけにもいきません。さまざまな症状の患者に同じ薬を与えても、全員に効果があるとはとても考えられません。それよりも、この患者はこういう病気なのだから、この薬がもっともよく効くだろうと言うのが筋ではないでしょうか。宗教の場合も同じです。さまざまな宗教のなかから、この人にはこれがもっとも効果的だと言うことはできます。しかし、この宗教があの宗教よりも優れていると言うことはできません。重要なのは、その人にとって効くのかどうかということです。
各宗教が「唯一の真実、唯一の宗教」を主張していることと、現実に多くの宗教があることとは一見矛盾しているように思われます。しかし、わたしに言わせればこれは別に矛盾ではありません。ある人にとっては実際にそれが唯一の宗教なのでしょう。しかし人間社会は多くの人で成り立っているのですから、それに比例して、「多くの真実、多くの宗教」があって当然なのです。先ほどの薬の例に即して言えば、ある人にとって効く薬はたったひとつしかないでしょう。でも他の患者には他に効く薬があると考えるのが当然ではありませんか。
わたしに言わせれば、さまざまな宗教のあいだに違いがあるのはたいへん好ましいことです。わざわざ理屈をつけて、つきつめるとすべての宗教は同じだなどと考える必要はありません。道徳的な訓練を通じて愛や思いやりを育てなければならないと強調している点では、どの宗教も同じでしょう。だからといって、すべての宗教が本質的に同じであると言うわけにはいきません。世界の始まりについての考え方は、仏教、キリスト教、ヒンズー教、あるいはそれら以外の宗教でもそれぞれ違っています。したがって、実際の共通点がいくつあろうと、その教義の上で最終的に各宗教は別物なのだと考えなければなりません。こうした違いは、おそらく宗教を実践しはじめたばかりの段階では、さして重要な問題にはならないでしょう。しかし自分の宗教をきわめていけば、いずれどこかの時点で根本的な違いを認めざるをえなくなります。たとえば、仏教やインドの古代宗教にある生まれ変わりという考え方は、最終的に、キリスト教の救済という考え方と相容れないものであるかもしれません。だとしても、落胆する必要はありません。同じ仏教のなかにさえ、その哲理の面でまったく相容れない考え方があるくらいです。こうした違いは、要するに人間にそれぞれ適性があるということです。道徳的な訓練をし、精神的な資質を伸ばそうとするのは同じでも、その指針となるものは人によってさまざまなのでしょう。だから、わたしは最高の宗教を主張するつもりも、新しい世界宗教を提唱するつもりもありません。そんなことをすれば、各宗教のもつ独自の性格が失われてしまうだけです。」
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