フレッツカンパニー

ウクレレ、真空管アンプなどの修理調整、さらにウクレレ、ベースなどのレッスンをやっています。

むかしばなし 17

2008-03-31 03:01:15 | Weblog
田植えもまだ先の農閑期ということもあって、会場はお年寄りでいっぱいでした。

入浴を終え、我々のステージが始まるまで、飲み食いしていた方々のなかにはすでにできあがっている老人も見受けられました。

リードボーカルの笹木さん、田中さん、住吉さん、それぞれ何曲か歌って私の番です。
このときの持ち歌というと ディック ミネ さんの 夜霧のブルース 千 昌男 さんの 星影のワルツ でした。

もともとポップス系であり、21歳の私にはいささか抵抗はありましたが、ムード歌謡コーラスグループの一員ですし、ベースを弾きながら歌うということに、早く慣れなくてはと神経をつかいました。

1ステージ目、初ステージということで一応拍手喝采で終わり、2ステージ目の中頃、同期の桜 を平均年齢20歳の私たちが歌い始めると、幾人かの老人が直立して、泣きながら歌いだしたのです。

ほかのメンバーの顔はうかがい知れませんでしたが、戦争を知らない僕の目にも涙があふれ、声も震えてどうにもなりませんでした。

直立し泣きながら歌っていた老人の握りこぶしの中には、戦地での恐怖、飢え、悲しみ、憎しみ、どうにもならない悔しさが詰まっていたに違いありません。

あれからどれほどの時間がすぎたでしょうか。

いまどきの若い役者が演じる戦争映画の封切り宣伝を見ても、戦争に対する想いなど何も浮かんでこなくなりました。

それより突然立ち上がり、泣きながら歌い始めた老人たちの姿それだけで、戦争という渦潮の中でもがき苦しんだ、いろいろな人たちのいろいろな思いが、まるで戦争を体験したかのように、あの時ぼくのからだ全体に伝わってきたのです。

涙がとまりません・・・・・。

むかしばなし 16

2008-03-30 03:41:42 | Weblog
ラブリーコールズなんて、いまどき大笑いするような名前だけど、このときも決まるまでえらく時間がかかりました。 

暫定ということで、一応納得しましたが、私をふくめてこの名前を気にいっているメンバーはいなかったと思います。

合宿の場所は千葉県外房、上総興津駅から山の方へ車で20分くらい走ったところにありましたが、この クアハウスに到着したのは、夜10時を過ぎていました。

携帯電話なんてない時代です、すでに到着しているマネージャーやボーヤがほっとしたように出迎えてくれました。

新宿を出発する時、外房線と内房線を間違えて乗車してしまったからです。

千葉駅を出て小一時間してそれに気がついて、別の電車に乗り換えたら、その電車も違っていて、結局そんな時間になってしまったわけです。

おまけにわたしはというと、新宿駅で買った駅弁にあたって、一晩中、嘔吐と下痢のオンパレードで一睡もできませんでした。

翌日、午後から練習が始まり、夜7時から初めてのステージです。
お年寄りが多いとは聞いてますが、どんな雰囲気の会場なのかまったくわかりません・・・・・。

むかしばなし 15

2008-03-24 00:39:57 | Weblog
箱根、小涌園に3月1日から入った山田さんのバンドは3月15日のステージを最後に抜けることができました。

午前10時からのミーティングは、1階ロビーの脇にある完全防音の応接室で、毎日続けられておりましたが、並行して練習も始まりました。

日にちは未定ですが、外房の 今でいう クアハウス での合宿が決まったからです。
そこでは昼間、練習、夜、ステージという具合で、プロダクションとしても、 そうそう特別扱いはしませんよ  というところでしょうか。

お年寄りのお客様が多いということで、ボーカル組は流行りの歌謡曲と懐かしい歌謡曲をレパートリーに入れることになりました。

グループの名前も、各自いろいろ持ち寄って、とりあえず ラブリーコールズ にきまりました。  

最初の衣装はもうなくなってしまいましたが、有楽町の そごうデパート で作りました。 かたちが決まるまでえらい騒ぎでした。
わたしは口はだしませんでした。 

それよりこれから何をするにもメンバー6人分の費用がかかるのかと思うと、会社もたいへんだなぁー なんてボーッと考えてました。

わたしが使用するベースはすでに購入されていました。
ドイツ へフナー社製 バイオリンベース とよばれていた代物です。
フェンダー ジャズベース であれば申し分なかったのですが、しかたありません。

このベースは ビートルズの ポール マッカートニー が使用して一躍有名になりましたが、重い、堅い音質がでないので好きになれませんでした。

いまならベース専用に開発されたスピーカーとイコライザーでどうにでもなるのでしょうが・・・・・。

4月初め、20曲ほどのレパートリーを用意して、合宿に出発です。

むかしばなし 14

2008-03-21 04:28:48 | Weblog
コロムビアレコード本社の2階か3階かわすれましたが、島方さんを先頭に制作部に入ります。
部内のひとりひとりに、おはようございます の連発です。

わたしたちの担当ディレクターは東元さんという、当時売れっ子の歌手をかかえておりました。
ちあきなおみ さん、ジュディ オング さん、島 和彦 さんなど、みなさんレコード大賞をはじめ数々の大賞を受賞された方々です。

1階のロビーの脇にある応接間兼レッスン室に移動し、グループ結成の趣旨を聞かされました。  
わたし以外のメンバーは大まか知っていたようです。

グループサウンズの平均年齢20歳、ムード歌謡コーラスグループの平均年齢30歳、そして今回レコードデビューさせる ムード歌謡コーラスグループの平均年齢21歳。

この企画の内容を聞いて、いままで感じたことのない緊張が心地よく体中を駆け巡っております。

期待と不安、これから数か月後、どうなっちゃうんだろう・・・・・ってね。

むかしばなし 13

2008-03-17 23:37:12 | Weblog
3月に入り、山田さんのバンドは箱根の小涌園に移動しました。

コロムビアレコードのグループには参加の返事はしたものの、まだメンバーは見つかりません。

今後の方針とか、リハーサルの打ち合わせとか、毎日午前10時集合でした。
7時頃、小涌園の前を出るバスで小田原まで行き、東海道線で新橋へ、地下鉄 銀座線で赤坂まで。徒歩7分位でコロムビアレコード本社に到着です。

小涌園での演奏時間は夜8時から午前3時まででしたので、ベットに入るのはどうしても朝4時ころになってしまいます。
そして7時のバスに間に合わせるという日課がとても辛いことでした。
自分で決めたことですから、よわねははけませんし、迷惑もかけられません。

グループはコロムビア音楽芸能社所属ということで、まずは地下一階にあるこの事務所へ行き、社員ひとりひとりに挨拶回りをしてから、その日の予定が開始されます。

リーダーの住吉英二、リードボーカルの笹木日出男、サブリードボーカルの田中二郎はコロムビアの養成科に席を置いていて、それぞれ歌唱力は私なんかより数段上でした。

グループのいろいろな段取りを仕切ってくれたのは、島方さんというとても誠実そうな方で、若い頃は 近鉄バッファローズ で セカンドを守っていたそうです。
ある日、島方サヨナラホームラン という小さい新聞の切り抜きを嬉しそうに見せてくれました。 
島方さんはすでに他界されております。

これから担当ディレクターに挨拶に行くぞ と島方さんの号令ともとれるきびしい声が聞こえました。  緊張がはしります・・・・・。

むかしばなし 12

2008-03-11 00:04:35 | Weblog
グアムへ発つ数日前、コロムビアレコードの関係者から連絡があって、グループを作るのでテストを受けてみないかということでした。

グアムから戻ったバンドは2月1日から1か月 蒲田のキャバレー ハワイ と契約していました。

2月中旬、コロムビアの関係者から連絡があって、新橋の喫茶店で会い、その脚で内幸町の古いビルのなかにあるコロムビアのスタジオに行きました。

そこにはすでにリーダーとなっている住吉さん、リードボーカルの笹木さん、田中さんなどのメンバーがいて、オーディションの段取りができておりました。 
わたし以外に2,3名の方がテストを受けていたと思います。

歌唱に関して言えば、みんな私よりはるかに上手でしたし、外見も良かったとおもいました。 わたしも一応のテストを受けて帰りました。

数日後、連絡をもらってメンバーと会いました。 ベースをやってほしいといわれました。  コントラバスは高校在学中に大橋英彦さんのバンドで担当していたので、電気ベースでもなんとかなるだろうと、そのグループに参加することを了解しました。

山田さんのバンドを抜けるには、自分で次のメンバーをさがして穴埋めしなくてはなりません。  それまではそのまま、このバンドに付き合うことになります。

困ったことに 3月 から 箱根の ホテル 小涌園 です。 かわりのメンバーはまだ見つかりません。 見つかったとしてもOKが出るとは限りません。

どうしよう・・・・・。 


むかしばなし 11

2008-03-05 05:08:46 | Weblog
今でこそ観光の島ですが、当時、大きいホテルなど一軒もなく、ホリデイ・インのオーナーが気を使ってくれて軍の関係者が使用している宿舎を用意してくれまし
た。

初日である24日の夜の店内には、日本から来た観光客が多く、その中には大橋巨
泉さんや田辺靖雄さんなんかもいたと記憶してます。
そんな人たちの前で歌うなんてことは過去になかったし、テレビで見聞きしてた田辺さん歌のうまさは知っていたので、いささかあがってしまいましたが、2ステージ目からは平常心で歌うことができました。

丘の上の宿舎からおよそ1時間のところに、グアムに一軒しかない 楽器店 はありました。   ほかのメンバーは興味がなかったのでしょうか、僕は熱い太陽に突き刺されながら、てくてくと歩いて真昼の丘を下っていきます。

小さいお店でしたが、さすがアメリカの楽器店です。   ギター、ベース、アンプなどなど フェンダー、ギブソン ばっかり。   滞在した1ヵ月の間に3回行きました。  そのたびに店内の楽器を1時間ほど眺めておりました。

二回目に行った時は主人が話しかけてきて、身振り手振りでホリデイ・インに出演していることがわかってもらえると、こころよく楽器を弾かせてくれました。

夕方、5時ころになると、真っ黒い不気味な B-59 爆撃機がベトナムの空爆を終えて、何機も何機も帰ってきます。  中には薄黒い煙吐きながらなんていうのもありました。  直接、戦闘の現場を見たわけでないので、アメリカの兵隊さんが戦争やってるんだななんて、実感はありませんでした。  

びっくりしたというか、面白いというか、不思議というか、演奏が終わる頃になると、夜間の巡回中の警察官が店に立ち寄って、ウイスキーのみながら バクチ をやることでした。  拳銃をテーブルのわきに置いてね。 いったいこの国はどうなってるんだなんて思ったりして。

どういうルートで話が来たのか知りませんが、ホームパーティーにも3回ほど招かれ、演奏しました。  これといったトラブルもなく、東京へ戻ることになります。