フレッツカンパニー

ウクレレ、真空管アンプなどの修理調整、さらにウクレレ、ベースなどのレッスンをやっています。

むかしばなし 36

2008-07-29 15:58:24 | Weblog
2008年7月29日午後3時30分、昨晩、高橋さんから聞いた番号に電話してみました。

息子さんが取り次いでくれました。 わたしが知っている息子さんは赤ちゃんでした。

先生の声はいささか元気のないように聞こえましたが、3年前、心臓の手術をしたということでした。

ムード歌謡にスタイルを変えてから、レコードを13枚も出したそうです。

銀座タクトが変身する直前の三日間、大橋節夫&ハニーアイランダースと対バンで出演したそうです。

昔話に花が咲きました。 先生お元気で、また連絡します。 

むかしばなし 35

2008-07-29 00:06:56 | Weblog
はなしを むかしばなし 2 & 6 の 松原 隆 & 東京エコーズ にもどします。

2008年7月28日 夜10時ころ、高橋さんから連絡をいただきました。

高橋さんは当時、東京エコーズ のリードボーカルでウクレレを担当されていました。 マーチンの M-3 だったと思います。

おそらく45年ぶりくらいの会話です。 感激です。

わたしのHPをご子息が見つけて、内容に 松原 隆 & 東京エコーズ の名前がでてきたので、松原先生の連絡先を知らせてくれたのです。

高校2年生から3年生に変わる頃、ミュージックライフ という音楽雑誌のメンバー募集欄を見て、このバンドが出演している 上野の ニューコスモポリタン というキャバレーにいきました。

学校でハワイアンバンドの部活を終えてからでしたので、学生服で楽屋へ入りました。  オーディションというやつです。

サイドギターを担当しているメンバーが抜けるということで、わたしともう一人のプロの方がはいることになりました。

その前の年、舟木一夫 さんの 高校3年生 が大ヒットして、はじめてステージで歌った曲は 舟木一夫さんの第二弾 学園広場 でした。

ハワイアンがやりたくて入ったはずなのに、どうしてこの曲を歌わなくてはならないのか、内心不満でした。

しばらくして松原先生と高橋さんが私の母に会いに来てくれました。

夜の世界で働くことにいささか不安をもらしていた母でしたので、その日を境にそれらしいことは言わなくなりました。

高校3年生の7月、バンドは沼津の 沼津会館 というキャバレーに移動してしまいました。

夏休みに入って、メンバーの宿舎に居候させてもらいながらバンド活動しておりましたが、学校が始まって東京にもどるとともに、このバンドとも行き来がなくなりました。

写真は当時、使用していた アメリカ製 KAY K-326 です。

わたしのつり  5

2008-07-24 14:37:29 | Weblog
写真は 村松 昭 さんの書かれた 日本の川 たまがわ です。

最上流部から河口まで、多摩川を絵地図と文章で解説した素晴らしい本です。 偕成社から発行されています。

わたしはこの本の宣伝マンではありませんが、いいと思ったから作者の了解も得ずに載せてしまいました。

数年前から多摩川の水質が良くなった、鮎がたくさん遡上するようになったと役所関係のニュースに取り上げられております。

三日に一度のペースで二子玉川 二子橋から第三京浜道路の間に釣行して感じたのは、あまり鮎はいないということです。

小田原の酒匂川も同じですが川床の石が10年前にくらべるとかなり小さくなってしまったことです。
小砂利ならまだしもほとんど砂というところがかなりあります。

石のサイズはほとんどが握りこぶし程度で、居付きの鮎がなわばりを持ったら、ほかの小鮎は垢を求めて移動せざるをえないでしょう。

堰を改修して遡上できる魚道を整備したと報道されていますが、秋川や奥多摩川までは遡上できてないと思います。  いたとしてもわずかでしょう。

堰の手前には遡上できずに少ない垢を求めて無数の小鮎が右往左往しております。

川面が波打っている場所などさがすのが大変なくらいです。
自然のすることですから、どこへぶつけるわけにもいきませんが、上流域で行われている何かの作業が影響しているのでしょう。 

日ノ出町に埋めた大量のごみも、何年、何十年先には下流に流れ出すことでしょう。

最近、多摩川を取り上げた東京都の告知番組を見ました。

浄水所の水処理量に限界があって、定量をオーバーした分は何の処理もせず、そのまま流すということでした。

東京湾に流れ込む各河川の河口付近の濁り具合が空中写真に写っていました。
無色の水に絵の具を解いた水を流し込んでいるようでした。

下水道はいまだに完全ではなく、どこかのまぬけな工場の排水が原因でときどき魚が死んだと報道もされています。

湾内の水はけの悪いところは魚介類の」墓場になっている様子もうつされておりました。

がっかりです。 こんなこと書いてる自分にも・・・・・。


わたしのつり  4

2008-07-23 04:38:59 | Weblog
池上線 長原 近くの へら鮒専門釣り堀 小池 は夕方5時の納竿とともに検量を開始し、その量に応じて換金してくれるシステムでした。

7時オープンでしたが、いい場所に入りたくて4時には自転車をこぎ始めておりました。 30分ほどで到着するのですが、必ずわたしより早い方がおりました。

小池へ通いはじめて2年、小池ならではのポイントや釣り方をおぼえ、一日中コンスタントに釣れるようになりました。
検量して戻ってくるお金も増えました。

ある日曜日、何人かのグループで来たと思われる、そのなかのリーダー格の方がわたしの隣で釣りを始めました。


隣のお兄さんは離れて釣っている仲間に、隣にいる中学生にあおられていると冗談まじりに叫んでおります。

学生を中心にした会の会長であると自己紹介をはじめました。
もしよかったら会に入らないかと誘われました。

わたしは小池で使用している竿1本しかないので、返答に困りましたが、後日電話で入会の連絡を入れました。

中学2年生になったばかりで、小池ではかなり自信をつけたわたしでしたが、はじめての野釣り(佐原)では1枚も釣ることはできませんでした。

私が入会した会は 若竹へら研(若竹へら鮒釣り研究会)といいます。
会長は白金在住の 小川恵亮 さんといいました。
法政大学の4年生でした。

写真は2年後、高校1年の夏休み、わたしにとってはじめての精進湖です。
左端がわたし、中央左側、メガネをかけた方が会長、小川恵亮 さんです。

むかしばなし 34

2008-07-19 06:12:09 | Weblog
岐阜の K・ヤイリギター製作所 では5か月ほどお世話になり東京へ戻ります。

どこでもいいから修理専門店を出したいという一心でギターの弾き語りをはじめます。  下手なギターと歌で恥さらしてでもまずはお金です。

新宿歌舞伎町のクラブが最初でした。 3か月で銀座のクラブに移りました。
家からも近いし、30分ずつ二軒のクラブをかけもちできたからです。

カラオケが出回るまで、どの店にもバンドや弾き語りが入っておりました。
チェンジの時間になると譜面や楽器を抱えて店から店へ移動する光景が私を含めて見受けられました。

東京駅八重洲口から5分位に デラ というライブレストランがあって、昼間そこでも弾き語り、銀座が終わって六本木でも弾き語り、一日四軒の店をかけもちした時期もありました。

八重洲デラ には ビージーフォー 、アルフィー なども出演しておりました。
レジにはデビュー前の 多岐川裕美 さんの姿もありました。

稼いだお金で古いギターやベース、めずらしいものを手当たり次第買いあさっておりました。
新聞の不動産覧に載っていた 国立の中古物件 を購入します。

修理専門店 フレッツカンパニー オープンです。

わたしのつり  3

2008-07-17 12:20:25 | Weblog
小学6年生の頃、 へら鮒つり をはじめました。
家は大井倉田町、いまの1丁目、三つ又商店街の中ほど、露地を少し入ったところにありました。

隣の大井鎧町、いまは統合されて同じく1丁目です。
新世界プールというのがあって、中学3年生まで通っておりました。

プールに行く以外めったに行くことのない方向でしたが、11月のある日、頼まれたお使いで近くを通った時、そのプールが へら鮒 の釣り堀になっていることを知りました。

水面に波除の竹竿が浮いていて、幾人ものつり人が 9尺くらいの竿を振っておりました。  しばらく塀の隙間からのぞいておりましたが、私が見ていた間、釣った人はいませんでした。

義太夫の稽古に来ていたかたに、6本継ぎの鮒釣り用の竿をいただきました。
4本竿でまわりのつり人の釣り方をまねして1時間が過ぎました。
一匹も釣れませんでした。
この日から へら鮒釣り にはまります。

大田区上池台、池上線長原駅から5分ほど坂を下りきったところに、小池 という釣り堀がありました。
野球のグランドが2面とおつりがくるくらいの都内にしてはかなりの池でした。

小中学生の入漁料は1日 150円、毎週日曜日には必ず行っておりました。
平日は隣近所のおばさんからお使いの仕事をもらって、入漁料を貯めておりました。

中学2年生の頃になると1日に10キロくらいつるようになって、検量してもらうと、お昼のラーメン代50円を差し引いても、さらに30円ほどお釣りがくるようになりました。

その年、梅雨のある日、しとしと雨に濡れながら釣りをしていると、いつのまにかわたしの後ろに親父がいるではありませんか。

「どうだい」と声をかけられましたが、そろそろ反抗期に入っていた私は、その声に返事もせず、ひたすら浮木に神経をそそいでおりました。

その年の暮れ、30日に親父は他界しました。
いまさらですが後悔しております。

写真は公園に作り替えるらしい水を抜いた小池です。
管轄は大田区か東京都か知りませんが、安い入漁料で老い先短い、釣り好き老人を楽しませてやろうなんて、そんな主唱な政治家も役人もいるわけねぇってか・・・・・。






わたしのつり  2

2008-07-16 04:12:29 | Weblog
故障したウォークマンの出来上がりを受け取りに行くくらいで、めずらしく予定のない一日でしたので、二子玉川へ向かいます。

日曜日のにぎわいとは大違い、静かな河原です。
世田谷区の職員が看板を立てていました。
子供の水死事故があったので、気を付けるようにということです。

東急電鉄の陸橋から100メートルほど上流でコロガシをはじめます。
午前11時から午後1時まで、なにも掛からず納竿です。

一つでいいんです、でも掛かりません。 おとり屋もありません。

底の石は平均してこぶしほどですが、どの石も真っ黒で20センチクラスの食み跡も見うけられます。

写真の川面はゆるやかそうに見えますが、底の流れはきついです。

わたしのつり  1

2008-07-15 00:28:54 | Weblog
幼いころから日頃の遊びの中に 釣り が入っておりました。
 
もちろん少年野球も夢中でやりました。 左利きでしたので ピツチャ― か 一塁 ときどき レフト も守りました。

巨人の監督が水原の頃、ハワイ フェリングタウン高出身の ウォーリィー・与那嶺(日本名 要) の大ファンだったからです。背番号7 左投げ 1951(昭和26年)から1960年(昭和35年)。

水原が 中日ドラゴンズ の監督になると同球団のコーチとなりやがて監督に就任します。 ぼくの背番号は 7 。永久に不滅です。

1964年(昭和39年)慶応から捕手として 巨人 に入団した 大橋勲 の背番号7 を見て巨人への関心はなくなりました。

話を戻します。 小学生の頃は大井競馬場のある勝島の岸壁や平和島でもっぱら はぜつり、多摩川の丸子橋、二子玉川で ハヤ、ヤマベ つりをやってました。

あるときいつも野球をやっている上級生が自転車で本牧岬のがけ下に釣りに行くと聞いて、どうにも我慢できず同級生に拝みこんで自転車を借りました。

私は4年生でしたので最後尾をくっついていくのがやっとでした。
都内と同様に横浜市内にも市電が走っていました。
横浜スタジアムは 平和球場 よばれておりました。
ここまで来ると 本牧岬 までわずかです。

本牧岬には三渓園という庭園があって、そこを通って目的の岩場に行けば一番安全で早くたどりつけたのですが、持っていったロープで崖を降りました。
入園料の30円が惜しかったのです。

小学生のお使い賃は1回、10円が相場でしたから。

またあるときは丸子橋のうえにある堰で、20センチほどの鮎を針を何本もつけた仕掛けで5匹ほど釣りました。

護岸には白い大きな字で禁漁と書いてありました。
5匹釣ったというのは、そのとき警官が来て、それ以上できなかったからです。
雨が降っていました。

近頃の多摩川は 鮎 の溯上が多いと評判です。
二子玉川駅近くの 飯田屋釣具店 ではじめて年間入漁券を購入しました。 ¥5000 です。 おとり屋はありません。

7月20日、午後4時 第三京浜の下流でコロガシ開始。
二匹掛け、コロガシの竿から友釣りの竿に交換しました。
水面の波打っているところを狙うのですが、底石は小さく、流れは見た目より強く、おとりが止まりません。

少しずつ引いて17センチが掛かります。 空中キャッチは成功、わたしはかなり興奮しております。
河原に座り込んでいた二人の外人が驚いていました。 
こんな釣りは見たこと無かったのでしょう。

おとりを交換、竿を立てます。 おとりがのぼります。 二つ目が掛かります。
まるまると肥えた18センチ。

おとりを交換します。 さーこれから入れ掛かり。
と、思ったのもつかの間、肥えた鮎は泳ぎません。
コロガシ二匹、友釣り二匹 計四匹 傷みが少ないので放流。

写真は オレンジが 小田原 酒匂川、 ピンクが 多摩川の入漁券 です。
下流は 大田区 ガス橋、上流は 調布市 多摩川原橋 までが入漁可区域です。

大井町の自宅から30分で鮎釣りができるなんて、今年は多摩川がホームグランドになりそうです。



むかしばなし 33

2008-07-12 01:04:25 | Weblog
名古屋、千種区の 安間ギター製作所は 社長夫妻、息子兄弟、古くから務めている2名の従業員そしてわたしの7名で作業を分担しておりました。

輸出用の中級ギターが主でしたが、いろいろな仕事を覚えることができました。
そのころ使用した工具は今でも愛用しております。

ギターの塗装は近くの塗装専門業者に委託しておりました。
昼間の仕事を終えてから、そこでも仕事をさせていただきました。

数か月後、安間社長の計らいで、岐阜の K・ヤイリギター製作所 を紹介して頂きます。

こちらでは個々のポジションに専門の技術者がいて、わたしなど未熟者の及ぶところではありません。
かなりの従業員が働いておりました。 塗装は専門の方が担当しておりました。 外注ではありません。

わたしの担当は最終段階のペグを取り付けたり、弦をセットして高さ調整したり
バフをかけて艶だししたり、箱詰めして荷作りしたりでした。

5時の終業後、残業しているポジションの作業を見学させてもらったりして、少しずつ技術を学んでいきました。

意外に感じたのは、現在はわかりませんが、当時安間ギターでもヤ入イリギターでも休憩時間などにアコースティックギターを弾いている従業員は一人も見受けられませんでした。

クラシックギターを弾く方は数名いらっしゃいましたが、ヤイリギターに到着するなり、マーチンの D-45 のコピーモデル のチェック、そして結果をレポートで報告するよう命令を受けました。 特注以外、このギターが一番高額でした。
感じたことは表裏なく、すべて報告しました。

就寝前の数時間はこれといった娯楽も無かったので、ギターを弾いたり、いろいろな図案を書いておりました。

カントリーが趣味というわけではありませんが・・・・・。

写真はそのときの一枚です。 駒は設計ミスで脚の両方がひび割れました。

むかしばなし 32

2008-07-07 03:35:02 | Weblog
川原さんのバンドは3か月の付き合いで、その後シカゴで開催された楽器の見本市(NAMMショー)を見学に行きます。

実際の目的は、 フェンダーの創立者 レオ・フェンダー その相棒 ドク・カフマン に会うことでした。 

カフマンは修理工具をいろいろと考案し販売もしていて、音楽雑誌でそれを知った私は何が何でもかれに会って、いくつかの工具を手に入れたかったのです。

幸い カリフォルニア州 サンタ・アナ にあるカフマンの工房にたどりつくことができて、作業場を案内してもらったり、若いころ初めて作ったギターを見せてもらったり、欲しかった工具も手に入りました。

東京に帰り、知人の紹介で 名古屋の 安間ギター製作所、岐阜の K・ヤイリ ギター製作所 でしばらく勉強させていただくことになります。

楽器弾いて、レコードだして、テレビ出てなんていったって、工場に入ればただのど素人です。
寝るところと食事だけ用意して頂ければと思っておりました。
ところがどっこい毎月給料までいただいて、恐縮の限りです。

今と同じ オイルショック のころです。

写真は 弦メーカー GHS の初代社長ご夫妻、そして若かった私です。