フレッツカンパニー

ウクレレ、真空管アンプなどの修理調整、さらにウクレレ、ベースなどのレッスンをやっています。

くちぐせ

2008-11-19 05:46:44 | Weblog
高校一年生の終わりころ、始めた楽器がスチールギターでした。

聞きまくった音楽はハワイアンです。

ここ数年遅ればせながらジャズにはまっております。

そのきっかけを作ってくれたのが、写真の鈴川先生です。

Gibson-175 を使用しております。


数年前ギター片手に我が家においでくださいました。

コーヒーをすすりながらジャズ、ハワイアン界の昔話に花を咲かせておりました。

あまりにハワイアン界の事情に詳しいので尋ねますと、もうびっくり!

お姉さんは ハワイアンシンガー 浜れいこ さんだったのです。

銀座タクトで ポス宮崎&コニーアイランダース をバックに歌ったのを幾度か聞いたことがありました。

幾人ものシンガーを聞いた中でダントツでした。

当時、僕は 浜れいこ さんのフアンでした。

そして 大久保英明&ヒロハワイアンズ の 尾崎紀世彦 さんのフアンでもありました。


先生の携帯電話の着信音が流れ始めました。

一瞬びびりました。 「海ゆかば」 です。

もしかして先生って 右翼 の方?

先生の生きがいはジャズがひとつ、もうひとつは大東亜戦争で戦死した方の軌跡をたどり、それを本にまとめ上げることだったのです。

すでに書き終え、出版した本もあるそうです。

一度お宅にお邪魔した時、戦争関係の書籍の多さにたまげました。

そんなわけで先生と居酒屋へ入ると、ジャズ、戦争、政治 のはなしとなるわけです。


先日も デューク・エリントン の 「Don't Get Around Much Any More 」の話になって、さらに1930年代、1940年代のジャズの曲の内容の話になって、
やがて先生の口から必ず出る言葉が・・・・・

「こんないい曲、すごい曲を演奏しているアメリカ人と、戦争やったって勝てっこねーよなー」。

これが先生の くちぐせ です。


ちょっと横道に入ります。

ニュースは昼と夕方、必ず見るのですが、それ以外は、録画したサスペンスも含めて深夜から朝6時ころの間にみます。


つい先日、4時ころ某テレビ局で硫黄島玉砕の番組をやっておりました。

生きて帰った元兵士の話を交えながら、米軍が撮ったものと思われるフィルムも映っておりました。

元兵士の会話の一部に、「硫黄島に送り込まれた兵士はろくな戦闘訓練も受けてない人が多く、中には鉄砲の弾の入れ方さえ分からない兵士もいた」 ということでした。

所々、涙ぐみながら見入っておりましたが、一転、ばかばかしく思わず笑ってしまったのが・・・・・。

武器、弾薬をなんとか補充してほしいと連絡を続け、やっとのことで 大本営 から送られてきたのが、ななななんと 「竹やり」あんど「花火」 だったそうです。


はなしをもどします。

先生のもうひとつ くちぐせ が・・・・・

「政治家、役人、ろくなもんじゃねー」 です。

同感です。

モズライトのフレット

2008-11-17 05:49:24 | Weblog
どんな楽器でもそうですが、モデルごとに多かれ少なかれフアンがいます。

古いモズライトの場合、何年の、何とかのモデルは、何県のなんとか市のだれだれさんが持っているなんて言うのが、マニアの間では分かっているらしい。

修理の店を出してしばらくして、モズライトのフレット交換の依頼がありました。

独特のうすっぺらいフレットを手に入れることは困難で途方に暮れておりました。

ある輸入本の音楽雑誌に 「ギターパーツならなんでもあります」 という宣伝が載っていて、藁をもつかむつもりでパーツ類のカタログをとりよせました。

その会社はイギリスにあって、細かい字で両面に書かれたリスト10枚ほどを送ってくれました。

その中にモズライトのフレットも書いてあって、いくらで購入したかは定かでありませんが5メートルくらいでしたか、送ってもらいました。

品物を見てガックリです。

確かに平らでうすいのですが、実際に打ち込まれているフレットより厚いのです。

フレットは演奏すれば当然すり減ってきますから、遅かれ早かれ交換しなくてはなりません。

当時はすり減ったフレットだけを取り寄せたものと交換して、他のフレットとの高さ調整をしたものでした。

そのフレットの残りは今でも使いやすい長さに切り刻んで、パーツの引出しに入っております。

近年、モズライトのフレットはどうしているのでしょう?


一昨日のことだけど

2008-11-14 04:57:49 | Weblog
運転が大嫌いで、車に乗るのは夜間もしくは深夜です。

鮎釣りにいくときは別ですけど!
事故や渋滞のことを考えると、多少は不便でも電車が一番、なんたってお酒が飲めて居眠りができる。


大森から蒲田に抜ける東邦医大通りを夜10時過ぎに走っておりました。

その道路が環八にぶつかる交差点を左折しようとしました。

横断歩道の信号も青ですが、それにきずいてか否か、どんな角度から見てもあきらかに 「極」 のつきそうなヤンキーなあんちゃん二人が、自転車を止めて立ち話をしていました。

二人の様子では左折しても大丈夫かと思い、アクセルを踏みました。

信号の点滅にきずいて、二人が自転車をこぎ始めます。

急ブレーキ!

こちらを見て、申し訳なさそうにきちんとしたお辞儀をして、横断歩道を渡って行きました。

見かけとはぜんぜん違うヤンキーでした。

その夜の運転はなんとなく楽しかったです!


むかしばなし  45

2008-11-10 03:18:57 | Weblog
カラオケボックスでウクレレ教室を始めたあたりから、店にときどき寄ってくれるようになりました。

二十歳のころ、コロムビアレコードからデビューしたとき、私たち J・シャングリラ のマネージャーを担当してくれた 菅原潤一氏 です。

私をはじめメンバーと同年代でしたので、マネージャーというより仲間いう感じでした。

私たちのグループが解散後しばらくして、コロムビア音楽芸能者を退社し、独立、その後は結構有名なプロダクションで活躍しているというところまでは知っておりました。

その後、独立して TUBE というグループが所属するプロダクションの社長をやっているというのは、昔のメンバーから聞きました。

ある日、ボードとウクレレを 「飾れば」 といってわざわざ届けてくれました。

それまで TUBE というグループに興味もなかったし、どんな曲を歌っているのかも知りませんでした。

何軒かの中古レコード店をまわって、彼らのレコードを数枚さがして、我が家のプレーヤーで聴きました。

どの曲も聞いたことあるメロディーだし、店のお客さんの中にも結構歌う人がいて、それ以後、どうして TUBE のボードやウクレレが飾ってあるのか、尋ねられるようになりました。

へっ、へっ、へっ、へっ です。

深く関わっているわけではないのですが、なんとなく嬉しい気分です。

改装してハワイアンのライブをやったときは、当時のリーダー住吉英二、リードボーカルの佐々木日出男、マネージャーの菅原潤一が来てくれました。

私たちのフアンだった娘(昔は)も来てくれてクラス会のようなひと時でした。

それから数ヶ月後、カラオケボックス 「ハッピーバレー」 は閉店と相成りました。

任期が切れてなければ、現在プロダクション協会の会長は 菅原潤一氏 のはずです。

むかしばなし  44

2008-11-08 03:42:36 | Weblog
三軒目のカラオケボックスは東急大井町線の荏原町駅、1分も離れていない場所にオープンしました。

そのころはどこでやってもお客さんは来てくれると思いあがっておりました。

2年もしないうちにバブルがはじけて売上は急降下、家賃50万円と人件費は、わずかな蓄えを少しずつ減らしていきました。


パープルシャドウズの古いメンバーや取り巻き連中で、毎月1回ハワイアンやジャズのライブをやっておりました。

ところがそのビルもバブルがはじけて消滅、何とかしなけりゃなんて気が起きてしまいました。

ボックス10部屋のうち、小部屋4部屋をつぶしてライブができるように改装しました。

工事の請負業者もよくやってくれたのですが、防音に関してはトウシローでした。

開店以来一度もなかった音漏れの苦情がばんばん来るようになってしまいました。

改装して半年ほど営業しましたが、閉めることにしました。

この店だけで12年、一軒目から数えるとおよそ18年間、カラオケボックスにかかわっておりました。


閉店する2年前、長年ウクレレの指導をしている 大橋英比個氏 の勧めでわたしもウクレレを教えることになりました。

初仕事は川崎市教育委員会主催の講習会です。


1クラス30名、10回のレッスンです。

20歳くらいから70歳くらいの方がいました。

ほとんどの方が初心者で、見よう見まねで覚えた私のウクレレでもどうにかなりそうと胸をなでおろしたのもつかの間。

1日目、最後にある年配の方がウクレレソロのリクエストを要求されました。

毎回最後に何か一曲ということです。

ダチョウ倶楽部の 「聞いてないよ~」 です。

とりあえず高校生の時おぼえた、大橋節夫作曲の ハワイアンマーチ を弾いてその場はしのぎました。

さー大変、そのころわたしが弾けるウクレレソロはこれ1曲だったのです。

あと9曲、譜面なんか見ないでさらっとやらなきゃなりません。

なんたって先生ですから、とんでもないことになってしまいました。

その日の夜から特訓開始です。

写真は改装後、ライブをやった部屋です。


ふるさと

2008-11-03 04:00:03 | Weblog
数日前の深夜、テレビにミュージシャンの福山雅治さんが出ていて、田舎のあぜ道を散歩したり、水源の水を飲んだりしながら故郷 長崎 の話をしてました。

チャンポンは長崎で食べないとダメだとかね!

彼は今年、40歳くらいになったらしいのですが、「二十歳前、もう故郷に求めるものは何もないと思って東京に出てきた」なんて言ってました。

この頃になって東京にはなくて、故郷にあるものが沢山あると、感じ始めたそうです。

わずかな空いた時間でも故郷に帰りたいと言ってました。

「そんな甘っちょろいこと、言ってられるかい」なんていう人もいるかもしれないけど、僕に故郷があったらとっくに帰っていると思う。  
 

神奈川県の平塚と厚木の中間にある 大神 というバス停の近くに母方の親戚があります。

小学生の頃の夏休みは当たり前のように、世話になっておりました。

家から相模川まで、寄り道しなけりゃ子供の脚でも5分ほど。

草がボウボウの土手があって、その向こうに平地だけど森があって、そこを抜けると河原に出るのです。

家の前の道路をはさんで向かいに、同じ年の子がいたけど、四六時中一緒に遊んだわけでもなく、東京から母が弟を連れてきたとき以外は、一人で遊んでおりました。

私よりひとまわりも上のお姉さんとお兄さんが二人いて、休日とか仕事から帰ってからアユ釣りに行く時、一緒にくっついて行くことがどれほど待ちどうしかったか。

土手や森や河原には、私ひとりじゃ遊びきれない、それこそ都会にはないものばかりで、このまま親戚の家に残りたいと、ぐずったこともありました。

井上靖さんの作品に「夏草冬涛」というのがあります。

おそらく井上先生が幼少のころ過ごした伊豆での思い出を、小説にしたものと思われますが、僕はすごく好きです。

というか僕が主人公に入れ替わってしまうのです。


ここ数年は遅ればせながらジャズのベースばかり勉強してますが、もともとはハワイアンをやってました。

もちろん今もやってます。

見よう見まねで覚えた ウクレレ や スチールギター なんかも教えたりしていますが、ハワイには行ったこともないし、行きたいと思ったこともありません。

一度行ったら人生観が変わるよなんて言われたこともあります。

稲穂の揺れる棚田や里山、軒下のつるし柿、鮎の泳ぐ川、そんな景色があれば十分満足です。

は~や~く~、こいこい2009年6月1日!


2008-11-01 05:35:14 | Weblog
たぶん絶版になってるとおもうけど、八切止夫さんの書かれた 「姓入門」 によると 「落合」 という家系は 農耕民族に属しているらしい。

名前を ひらがな とか カタカナ で書いて、最初の文字の母音(アイウエオ)で 五つの民族に分類するのです。

戦国時代のころから人と人とのつながりを研究したもので、ちょっと強引な分け方かなと思うけど、納得できるところも随分ありました。

相性占いに、星座とか血液型とかいろいろあるけれど、母音のつながりも結構面白いです。

五角形の各頂点に母音の「あ」から順に「お」までかきます。
両隣はそこそこの親しみがあるけど、対角線の二つとはいまいちしっくりこないなんてことが、結構当てはまるわけです。

たとえば 父は「落合」で 母は「小俣」、それぞれ母音は「お」です。

リーダーシップとるのは「あ」と「う」が多い。
縁の下の力持ちは「お」が多いとかね!

誰に貸したか定かでありませんが、行方知れずです。


そうそう話を本題に戻さなくっちゃ!

5年ほど前、家を建て替え、庭なんていう空地はないのですが、真裏(東側)に幅1メートルほどの隙間があるのです。

塀にさえぎられ、真昼の小一時間しか陽があたりません。

それでも雑草たちは元気に育っております。

一昨年、去年と死んでしまった猫を埋めるのにスコップを使用したのですが、整地の際に混ざった石などで、穴を掘るのにえらい苦労しました。

数日前、とてもいい香りのする白い花の咲いた苗木をもらいました。

できるこたならもっと草木を植えるつもりで、この際石やガラクタを取り除こうと決心した次第です。

馬込の ケンマート という日曜雑貨店にありました。 税込3129円です。

想像してたより安いです。

備中鍬、三本刃、柄は樫の木、明治三十年に創業した会社が作っている、本格的な道具です。

小石やガラクタが楽に掘り出せます。

それにしてもどうしてこんなに石やガラクタが多いんだべ。

まさかこんな所掘り起こすことないだろうなんて、思ったかどうか知らないけれど、僕が業者ならもう少し心をこめた整地するね。

高額な建設料とってるんだから!