最近はひと昔前のように
カルチャースクールとかは廃れ、
「学ぶ」事が資格のためなどのような
勉強に時間を割く人が増え、
また「学ぶ」と「勉強」がごっちゃになってるよう。
「学ぶ」とはズバリ言って
『真似ぶ』事である。
真似ぶ、文字通り「真似」をする事なのである。
その為にはよく見ること、
それが長じて「観察眼」が備わって来るのである。
これはどの道でもスタイルでも一貫しているものである。
まさに「一芸に秀でるものは百芸に通ず」とはこの事である。
なぜかというとどの世界でもまず習得するには、
その道のトップのモノ、
または自分の目指す人の真似をする事である。
自分が習っていた古武術は江戸時代には入門しても三年は見るだけで、あとは道場の掃除しか出来なかったようだ。
それは見ることによって「観」を養ったのであろう。
観る目というのがないとやはり上達と言うのは難しい。厳しいようだが、それはそれで諦めて違う世界を探すしかない。
稽古でもレッスンでも出席すれば何か授かれる、
と思うのは「受け身」であって入門レベルであろう。
その場に通う皆んなや雰囲気に慣れる、それくらいしかメリットはない。
それは明確な目標がなければ、これを何年もやっていてもいいとは思うが、、、
目が出来たらあとはひたすら猿真似のように自分の体に写していくのである。
例えで言えば、書道において何回も何回もお手本のように書けるように書き写すようなものである。
理論で分かったつもりでも、実は人間頭はいいけど体にはそう反映されない。
頭だけで分かったつもりになる。
例えば練習で何回も休んで復活しても、
頭はやった記憶は残るけど残念ながら体は忘れているものである。
それだけ体は忘れっぽく出来ている。
「自転車に一旦乗れたらずうっと乗れる」と一緒と思うのは、ある程度のレベルでの話である。
現代はテクノロジーも発達しているのだから、ビデオなども撮りやすい。
それは先生を映すのでなく、自分を映すのである。
先生の動きは脳に入っているはずである。それが自分の体に写せないのは自分が描いている動きが、実は出来ていないのである。
自分の姿は見たくないと思っている人いたら、それ以上に周りの人も見たくないと思っている事を考えるといい。
そして、結局習い事は「守破離」なので、追求していくうちに自分のスタイルが生まれて来るのである。
これは最初のうちに出ていた『癖』とは全然違うものである。
癖ならば習い癖を付けれるといい。
というのは何かあるとサボってしまう癖、大人にはよくある。
子供時代は親に尻を叩かれながらも嫌々行く。
だから結局子供の方が習得するのは多かったりするのである。
習い事は植物なんかを育てるようにゆっくりゆっくり成長していくものである。しかも水をあげないと枯れてしまうものである。
何でもすぐに手に入るインスタント時代な今こう思うのは難しいかもしれないが、一回一回が単位でなく一年一年が一単位だと思って欲しい。

ZOUKはじめブラジルダンスはこちら
棒術はこちら
カルチャースクールとかは廃れ、
「学ぶ」事が資格のためなどのような
勉強に時間を割く人が増え、
また「学ぶ」と「勉強」がごっちゃになってるよう。
「学ぶ」とはズバリ言って
『真似ぶ』事である。
真似ぶ、文字通り「真似」をする事なのである。
その為にはよく見ること、
それが長じて「観察眼」が備わって来るのである。
これはどの道でもスタイルでも一貫しているものである。
まさに「一芸に秀でるものは百芸に通ず」とはこの事である。
なぜかというとどの世界でもまず習得するには、
その道のトップのモノ、
または自分の目指す人の真似をする事である。
自分が習っていた古武術は江戸時代には入門しても三年は見るだけで、あとは道場の掃除しか出来なかったようだ。
それは見ることによって「観」を養ったのであろう。
観る目というのがないとやはり上達と言うのは難しい。厳しいようだが、それはそれで諦めて違う世界を探すしかない。
稽古でもレッスンでも出席すれば何か授かれる、
と思うのは「受け身」であって入門レベルであろう。
その場に通う皆んなや雰囲気に慣れる、それくらいしかメリットはない。
それは明確な目標がなければ、これを何年もやっていてもいいとは思うが、、、
目が出来たらあとはひたすら猿真似のように自分の体に写していくのである。
例えで言えば、書道において何回も何回もお手本のように書けるように書き写すようなものである。
理論で分かったつもりでも、実は人間頭はいいけど体にはそう反映されない。
頭だけで分かったつもりになる。
例えば練習で何回も休んで復活しても、
頭はやった記憶は残るけど残念ながら体は忘れているものである。
それだけ体は忘れっぽく出来ている。
「自転車に一旦乗れたらずうっと乗れる」と一緒と思うのは、ある程度のレベルでの話である。
現代はテクノロジーも発達しているのだから、ビデオなども撮りやすい。
それは先生を映すのでなく、自分を映すのである。
先生の動きは脳に入っているはずである。それが自分の体に写せないのは自分が描いている動きが、実は出来ていないのである。
自分の姿は見たくないと思っている人いたら、それ以上に周りの人も見たくないと思っている事を考えるといい。
そして、結局習い事は「守破離」なので、追求していくうちに自分のスタイルが生まれて来るのである。
これは最初のうちに出ていた『癖』とは全然違うものである。
癖ならば習い癖を付けれるといい。
というのは何かあるとサボってしまう癖、大人にはよくある。
子供時代は親に尻を叩かれながらも嫌々行く。
だから結局子供の方が習得するのは多かったりするのである。
習い事は植物なんかを育てるようにゆっくりゆっくり成長していくものである。しかも水をあげないと枯れてしまうものである。
何でもすぐに手に入るインスタント時代な今こう思うのは難しいかもしれないが、一回一回が単位でなく一年一年が一単位だと思って欲しい。

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zoukjapan.yamato@gmail.com