私は、アメリカでの朝食で、これは「バイキングですか」と聞いた私がバカだった。
てっきり、食べ放題と思ってお腹を空かして、breakfastに行ったが何を言っているんだろうと、ホール受付の女性は一瞬しらけ鳥だ。
テレビの画面では、舟にのり、髭もじゃの裸の男たちがカイを漕ぎ、他の舟に乗り移り、物などを略奪して骨付き肉を豪快に食べていた。バイキングをそんな風に理解していた。
50年前、西の国から上京したので「おのぼりさん」と呼ばれた。北の国の入り口は上野駅、西の国は新橋・東京駅だ。
大阪の梅田駅からSLに揺られ12時間で東京に着いた。梅田駅の夜空に響く汽笛がオレンジ色に染まり、もう引き返せない寂しさを知った。
農家だった私は、作物を栽培するのも土に肥料をやり、土地を休ませることをしないといい作物が収穫出来ない。
ゲルマン人はそれを知らない為、毎年移動して新しい耕地を開拓しなければならない。人口も増えてくれば耕地不足が課題となってくる。
古代は紀元前~476年。中世は476年~1453年と書いてあった。からこの時期のお話だ。
もともとヨーロッパにはケルト
人が住んでいた。
ゲルマン民族の大移動とは聞き映
えはいいが、人がもともと住んで
いる土地によそ者が侵攻すること
のようだ。
バルト海沿岸にいたゲルマン人が寒冷で土地も瘦せていて農耕も困難になったため更に南下した。
ライン河・ドナウ河の両河を界に西ローマ帝国と接触するようになった。
そんなところに、東から遊牧民フン人が押し寄せてきてゲルマン民族を追い払おうとした。
ゲルマンの中の東ゴート民族がフン族にいじめられるや、ゲルマン民族は仕方なく、西ローマ帝国の国境を越え侵攻した。
これがゲルマン民族の大移動の始まりだ。
それぞれの民族はローマ帝国の地に国をつくった。
ゲルマン民族は同じキリスト教でも西ローマ帝国とは異教徒だったことも争いの火種であった。
最初は、西ゴート人が南下を始め、フン人もついてきたがローマ人と協力して追い払ったようだ。そして、カタラウヌムの戦いで西ローマ帝国を滅ぼした。
西ゴード王国はイベリア半島を、
東ゴード王国はイタリア半島に建国した。ヴァンダル王国、ブルグンド王国、アングロ=サクソン七王国、ランゴバルド王国、フランク王国と別紙のように建国した。
フランク王国以外の民族が建国した国々はみな短命に終わった。
フランク王国は広く、ついに3つに分裂されフランス、ドイツ、イタリアの原型ができた。
そのタイミングでまた第二次ゲルマンの一派のノルマン人が海を使って入ってくる。
フランク王国のカール大帝の死後ヴェルダン条約が結ばれて、領土が3つに分かれた。東フランク、西フランク、中部フランクと3国に分かれた。
東と西は中部に圧力をかけて、メルセン条約によって中部フランクの領土の一部を東西に譲渡した。
東フランクのザクセン家のオットー1世の時にアジアからマジャール(アジア系遊牧民)侵攻してきてオットー1世が撃退して侵入を防いで強さをみせた。
それを知った、当時のローマ教皇からローマ皇帝位を授与される。
最近、テレビで見たと思うが、イギリスのチャールズ国王の戴冠式で重そうな冠を被っている映像をみれた。
この後から、ドイツは神聖ローマ帝国と呼ばれた。
西フランクは、カロリング家が途絶えるパリの伯爵ユーグカぺーが王様に選出されました。
中部フランクはカロリング朝が途絶えてからコロコロ小国が分裂状態。
そして、ローマ教皇の地位を受け継いだのは東フランクに、神聖ローマ帝国と変わっていく。
北欧にいたノルマン民族は寒冷で舟で南下してきた。
ノルマン人、別名ヴァイキングは、入り江の人と呼んでいた。
北欧は氷山で海岸線が削られギザギザで入り江が深く人々は舟に食べ物をたくさん積んで暮らしていた。
氷山が流れてくる時期は海にも出ることが出来ない。
ノルマン人はデンマーク王国、ノルウェー王国、スウェーデン王国を建国した。
そして、ロシア方面はリューリクがルーシーを率いてノヴゴロド国を建国(862年)。ドニエプル川流域にキエフ公国(862年)を建国した。スラブ民族、ロシアの原点だ。
次に、北フランス方面は、ロロによってノルマンディー公国が建国された。
イギリス方面は、すでに、一回目のゲルマン民族移動の時にイングランド王国がすでに建国されていて、アルフレッド大王がノルマン人の一派(デーン人)を撃退するのですが、アルフレッド大王の死後、クヌートがデーン人を引き連れ再び侵入を試みイギリス、デンマーク、ノルウェーを支配する北海帝国を建国する。
クヌートの死後、デーン人の王朝が崩壊し再びアングロサクソン系の王朝が復活する。
さて、地中海、南イタリア方面では、両シチリア王国が建国された。
ノルマン人が舟で移動することで古代ローマ以来の商業ルートが徐々に復活することになった。
西ローマ帝国はゲルマン民族の大移動の影響で崩壊もして復活もした。東西にローマ帝国が分かれることになるが民族・宗教で争いが絶えない。
イエスの処刑の頃だと思うが、一神教のキリスト教とイスラム教の登場で、ヨーロッパの世界もまた争いがつづく。十字架の長さも、縦が長い十字架・正十字架の違いもあるようだ。
日本人は単一民族ではないものの、大和民族とほとんど単一民族だ。
宗教も神様仏様と八百万(やおよろず)と多神教だ。国民も礼儀正しく静かだ。
4世紀後半のフン人の圧迫や寒冷化と耕地不足などを主因とした、ゲルマン諸族の西ローマ帝国への移住は生きる道なのだろう。
旧ソ連、ロシアも凍らない港を求めて南下しようと幾度もトライ、今も求めている。
てっきり、食べ放題と思ってお腹を空かして、breakfastに行ったが何を言っているんだろうと、ホール受付の女性は一瞬しらけ鳥だ。
テレビの画面では、舟にのり、髭もじゃの裸の男たちがカイを漕ぎ、他の舟に乗り移り、物などを略奪して骨付き肉を豪快に食べていた。バイキングをそんな風に理解していた。
50年前、西の国から上京したので「おのぼりさん」と呼ばれた。北の国の入り口は上野駅、西の国は新橋・東京駅だ。
大阪の梅田駅からSLに揺られ12時間で東京に着いた。梅田駅の夜空に響く汽笛がオレンジ色に染まり、もう引き返せない寂しさを知った。
農家だった私は、作物を栽培するのも土に肥料をやり、土地を休ませることをしないといい作物が収穫出来ない。
ゲルマン人はそれを知らない為、毎年移動して新しい耕地を開拓しなければならない。人口も増えてくれば耕地不足が課題となってくる。
古代は紀元前~476年。中世は476年~1453年と書いてあった。からこの時期のお話だ。
もともとヨーロッパにはケルト
人が住んでいた。
ゲルマン民族の大移動とは聞き映
えはいいが、人がもともと住んで
いる土地によそ者が侵攻すること
のようだ。
バルト海沿岸にいたゲルマン人が寒冷で土地も瘦せていて農耕も困難になったため更に南下した。
ライン河・ドナウ河の両河を界に西ローマ帝国と接触するようになった。
そんなところに、東から遊牧民フン人が押し寄せてきてゲルマン民族を追い払おうとした。
ゲルマンの中の東ゴート民族がフン族にいじめられるや、ゲルマン民族は仕方なく、西ローマ帝国の国境を越え侵攻した。
これがゲルマン民族の大移動の始まりだ。
それぞれの民族はローマ帝国の地に国をつくった。
ゲルマン民族は同じキリスト教でも西ローマ帝国とは異教徒だったことも争いの火種であった。
最初は、西ゴート人が南下を始め、フン人もついてきたがローマ人と協力して追い払ったようだ。そして、カタラウヌムの戦いで西ローマ帝国を滅ぼした。
西ゴード王国はイベリア半島を、
東ゴード王国はイタリア半島に建国した。ヴァンダル王国、ブルグンド王国、アングロ=サクソン七王国、ランゴバルド王国、フランク王国と別紙のように建国した。
フランク王国以外の民族が建国した国々はみな短命に終わった。
フランク王国は広く、ついに3つに分裂されフランス、ドイツ、イタリアの原型ができた。
そのタイミングでまた第二次ゲルマンの一派のノルマン人が海を使って入ってくる。
フランク王国のカール大帝の死後ヴェルダン条約が結ばれて、領土が3つに分かれた。東フランク、西フランク、中部フランクと3国に分かれた。
東と西は中部に圧力をかけて、メルセン条約によって中部フランクの領土の一部を東西に譲渡した。
東フランクのザクセン家のオットー1世の時にアジアからマジャール(アジア系遊牧民)侵攻してきてオットー1世が撃退して侵入を防いで強さをみせた。
それを知った、当時のローマ教皇からローマ皇帝位を授与される。
最近、テレビで見たと思うが、イギリスのチャールズ国王の戴冠式で重そうな冠を被っている映像をみれた。
この後から、ドイツは神聖ローマ帝国と呼ばれた。
西フランクは、カロリング家が途絶えるパリの伯爵ユーグカぺーが王様に選出されました。
中部フランクはカロリング朝が途絶えてからコロコロ小国が分裂状態。
そして、ローマ教皇の地位を受け継いだのは東フランクに、神聖ローマ帝国と変わっていく。
北欧にいたノルマン民族は寒冷で舟で南下してきた。
ノルマン人、別名ヴァイキングは、入り江の人と呼んでいた。
北欧は氷山で海岸線が削られギザギザで入り江が深く人々は舟に食べ物をたくさん積んで暮らしていた。
氷山が流れてくる時期は海にも出ることが出来ない。
ノルマン人はデンマーク王国、ノルウェー王国、スウェーデン王国を建国した。
そして、ロシア方面はリューリクがルーシーを率いてノヴゴロド国を建国(862年)。ドニエプル川流域にキエフ公国(862年)を建国した。スラブ民族、ロシアの原点だ。
次に、北フランス方面は、ロロによってノルマンディー公国が建国された。
イギリス方面は、すでに、一回目のゲルマン民族移動の時にイングランド王国がすでに建国されていて、アルフレッド大王がノルマン人の一派(デーン人)を撃退するのですが、アルフレッド大王の死後、クヌートがデーン人を引き連れ再び侵入を試みイギリス、デンマーク、ノルウェーを支配する北海帝国を建国する。
クヌートの死後、デーン人の王朝が崩壊し再びアングロサクソン系の王朝が復活する。
さて、地中海、南イタリア方面では、両シチリア王国が建国された。
ノルマン人が舟で移動することで古代ローマ以来の商業ルートが徐々に復活することになった。
西ローマ帝国はゲルマン民族の大移動の影響で崩壊もして復活もした。東西にローマ帝国が分かれることになるが民族・宗教で争いが絶えない。
イエスの処刑の頃だと思うが、一神教のキリスト教とイスラム教の登場で、ヨーロッパの世界もまた争いがつづく。十字架の長さも、縦が長い十字架・正十字架の違いもあるようだ。
日本人は単一民族ではないものの、大和民族とほとんど単一民族だ。
宗教も神様仏様と八百万(やおよろず)と多神教だ。国民も礼儀正しく静かだ。
4世紀後半のフン人の圧迫や寒冷化と耕地不足などを主因とした、ゲルマン諸族の西ローマ帝国への移住は生きる道なのだろう。
旧ソ連、ロシアも凍らない港を求めて南下しようと幾度もトライ、今も求めている。