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ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

一人でできるもん!

2006年07月07日 | 学習一般
子どもが小さい頃、自我が芽生えて何でも一人でやりたがることがあった。
親が手出しをしようとすると、「じぶん!」と言い放って拒否したものだ。
少しの寂しさと、我が子の成長に対する嬉しさが入り交じった思いだった。

子どもが狙われる犯罪の増加に伴い、登下校時に親などが通学路に立っている姿を見ることが多くなった。
これだけ異常な世の中になっては、他人事と思えない気持ちはよくわかる。
田舎だからといって安心などしていられないのだ...。

先日も塾の近くの横断歩道で、地区の安協役員と覚しきおじさんが下校の小学生を見守っていた。
子どもたちが横断歩道に差しかかる。
と、おじさんが通りかかる車を止めて、小学生を安全に渡らせた。

一見、何でもないようなことだ。
大人がいるのだから当然そうすべきと考えられる方もあろう。
でも、私にはよけいなお世話のように思われた。

その横断歩道にはこれまで大人は誰もいなかった。
それでも子どもたちは安全に渡っていた(と思う...)。
上級生が下級生の面倒を見ながら、自分たちで安全を確認して渡っていたはずだ。
子どもたちなりに危機意識が育っていたのではなかろうか。

大人が車を止めてやって何の心配もなく渡らせるという行為は、一見子どもたちのためのように見えるが、実は子どもの自立を阻んでいることにならないか?

もしかしたら私が知らないだけで、その横断歩道で最近事故があったのかも知れない。
しかし仮にそうだとしても、そのあと短期間だけ大人が誘導することに大きな意義があるとは思えないのだ。

四六時中待機しているわけではなかろうし、同じくらいの危険度で誰も付いていない場所もいくらでもあるだろう。
大人がいなくても自分で判断して安全に渡れる力をつけてやることが、真に子どものためなのではないだろうか。

大人が付いていてもいい。
せめて「見守る」とか「声をかける」程度にしてもらえないだろうか。
テレビの「はじめてのおつかい」のスタッフのように、危険がないように注意は配りながら決して手出しはしない、という具合にはできないものだろうか。

勉強も同じである。
学校や塾が手取り足取りお膳立てし、つまずかないように、わかりやすく...ばかりで接していては、子どもは決して自ら学ぶ人間にはなれない。
一見不親切のようでも、将来自分の力で問題を解決していける力を育てることを念頭に置いた指導が成されなければならない。

自分から積極的に学ぶ姿勢ができ、自らの力で調べたり考えたり表現したりすることを楽しめる。
そしてつまづいたとき、疑問を持ったときにそれらを解決する術(すべ)を知っている。
...そんなレベルになってくれれば、いつ塾を卒業しようと大歓迎だ。

もう君は一人でやっていける。
たまに相談でもあれば顔を見せればいい...。
すべての塾生をそんなふうに送り出したいものだと思っている。




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「傘かしげ」の心

2006年07月02日 | 日々雑感
長野は雨の少ない所です。
雪国でありながら、年間降水量は県別でも県庁所在地別でも一、二を争う少なさ...。
全国平均のほぼ半分、最多の所の4分の1から3分の1しか降りません。

加えてほとんどの所に車で出かける生活を余儀なくされているため、傘をさすという行為が極めて少なくなっています。
一応車にも傘は積んであるのですが、めったに使いませんね...。

もちろん、東京にいた頃はよく傘を使いました。
なくした(置き忘れた)本数も数知れず...。

満員電車にみんなが濡れた傘を持ち込む、あの不快感は思い出すのも嫌です。
デパートなどの入り口でくれるあのビニール袋、駅でも配ってくれればいいのにといつも思っていました。
最近の事情は全く知りませんが、どうなんでしょう?

「傘かしげ」という言葉をご存知ですか?
狭い道で傘をさした人同士がすれ違う際に、互いの傘がぶつからないように自分の傘を外側に傾ける所作のことをこう呼ぶのだそうです。
自分が多少濡れても相手に雫がかからないようにそうするんですね。

先日地元紙の投稿で知り、調べてみたら「江戸しぐさ」という知恵の一つだということがわかりました。
これがなかなか面白いんです。
格言集のようなものですが、「傘かしげ」の他にも「肩引き」「こぶし腰浮かせ」などの作法を説いています。
詳しくはコチラ→江戸の賢者の知恵「江戸しぐさ」

どれもたいそうなことではないですが、相手を思いやるちょっとした気配りが素敵ですね。
そういうことがさり気なくできるのが、江戸っ子の「粋」とされたのでしょう。

今のギスギスした世の中に一番欠けている精神ではないでしょうか。
街を歩けば点字ブロックの上に平気で置いてある自転車、障害者用の駐車スペースに堂々と駐車している車、詰めればもう一人座れるのに電車の座席を2人分占有している若者...。
自分さえよければ、という人間ばかりが目につきます。

小学校で英語を教えるより、愛国心をたたき込むより、「江戸しぐさ」を教える方が先決だと思いますよ。


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ジーコが残したもの

2006年06月26日 | 学習一般
ドイツW杯、日本は予選リーグで敗退という残念な結果に終わった。
あとは純粋に、世界のトップレベルの試合を楽しみたい。

そしてジーコが日本代表監督の座を去る。
最後は今回の結果を受け、その指導力に対する疑問の声が吹き荒れる中、きわめて簡単に交代劇が進められようとしている。
マスコミの注目は次のオシムに向かうばかりだ。

ジーコの采配については、私も選手起用などで納得の行かない面もあった。
しかし彼がかかげた「選手が考えるサッカー」という理念には、大いに共感するものがあった。

私はサッカーに詳しいわけでは決してない。
戦術面の細かいことはわからない。
だから、これはあくまでも教育論としての意見である。

前代表監督のトルシエのサッカーを表す「管理」「組織」というキーワードに対し、ジーコのそれは「自由」「個人」であった。
ジーコが就任してしばらくは思うような結果が出なかったが、W杯最終予選では彼の考えるサッカーが結実したという評価が多かった。

今回のW杯の惨敗で彼の理念が全否定され、一億総バッシングのようなムードが出始めていることに少々うんざりしている。
また管理型のサッカー待望論が主流になってくるのでは?と懸念しているのだ。
その方が、もともと「和」を好む日本人の気質に合っているのかも知れないが...。

ジーコの理念そのものは間違っていなかったと思う。
監督の指示のままに選手が一つの駒になって動く組織としてのサッカーは、一時的には強くなるかも知れないが、底力は育たないのではないか。
チーム競技である以上、組織としての動きが大切なのは当然である。
しかし、選手個人が思考を停止し、「指示待ち族」に成り下がってしまっては勝てるわけがない。

刻々と変わる状況に、何が最善か自分で判断して対処できる力を選手ひとり一人が持っている、それが結果として組織としての強さにも繋がっているというのが理想のチームだろう。
決して先に組織ありきではないと思う。

ビジネスの世界ではとっくにそういう方向へシフトしているのではないか。
先行きの不透明な時代には、トップの指示に従うだけの社員は要らない。
臨機応変に、自分の頭で考えることのできる人間が不可欠なのだ。

日本では伝統的に「和」が重視され、自分を主張することの大切さが軽んじられてきた。
こう書くと「主張ばかりでいいのか」という意見が必ず来る。
実際、果たすべき義務も果たさずに主張ばかりしている困った輩もいるが、だからと言って、批判を恐れて主張を自己規制するのも間違っている
(このあたり、失敗を恐れてシュートをしないフォワードにも関連...。)

つまり、きちんとしたルールに則って個々人が自分の考えをぶつけ合うディベイトのような練習が必要なのだ。
こういう訓練が最も不足しているのが、学校教育とスポーツの現場ではないだろうか。

自分たちで考えて勝つ経験を積み重ねることで、選手が育ちチームは強くなる。
進化したチームは、たとえ監督が替わろうと強さを維持できる。
本当に優れた上司とは、自分がいなくなった後も組織が好結果を残せるよう、部下ひとり一人を育てる人物であろう。
その人がいたときだけ強くても、名監督とは言えないのではないか。

日本が勝てなかったのは、選手個人の技量や精神の問題である。
ジーコの理念自体は正しかったのだ。
日本の教育のあり方を変えるためにも、ジーコ流が正しかったことを証明してほしかった。
それが一番残念である。

オシムがどんなサッカーを目指しているかは知らないが、やはり日本には管理型の指導が合っているのだという、時代に逆行するかのような声が高まらないことを期待している。
あくまでも子どもたちのために...。


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句読点の重み

2006年06月20日 | ことば・国語
中学で初めて英語を習った子どもたち。
大文字と小文字の区別がつかなかったり、単語同士がくっついてしまったり、英文を書くという作業に苦労している。

中でも目立つのがピリオドの脱落である。
口を酸っぱくして注意しても直らない子がいる。
日本語の「。」と同じで、それがないと文が終わらないと強調しているのだが...。

そういう子の日本語を見てみると、案の定「。」がない。
「、」さえなかったり、あってもいいか加減な所に打たれている。
字数制限のある要約問題で、最後のマスぎりぎりまで文字で埋めてくる。
文中から該当箇所を抜き出す問題でも、平気で句読点を落として写す。

中2や中3になると、うるさく言われるせいか、英語のピリオドの脱落こそ少なくなってくるが、日本語の「。」「、」に関してはあまり改善されないように思う。
より大切な母国語を書くときに、句読点の付け方を考えている子がどれくらいいるだろうか。

そもそも教える側も、句読点の付け方について十分な指導をしていないのではないか。
小学校で作文の書き方的なことは機械的に教わっても、点一つで変わってしまう文の意味やニュアンスについて、十分な時間を割いた指導がなされているとは思えない。
国語のテストでは、「、」や「。」について英語ほど厳しく減点されないのではないだろうか...。

西洋ではプラトンの昔から句読法が盛んに研究されてきたという。
ピリオドやカンマの他にも、コロン、セミコロン、ハイフンなど種類も多い。
かたや日本語は、平安時代にはまだ句読点がなかった。
元になった漢文にそれらがなかったためであろう。

それがいつ頃から今のような「。」「、」が使われ出したのか。
明治期には、「国文にもきちんとした句読法を確立せよ」という動きもあったそうだが、未だに「法」と呼べるものはできあがっていない。

日本語の場合、多くの言語と違って単語ごとの分かち書きをしない。
また、文法による語順の制約も少ない。
その分、読みやすくする、あるいは誤解を避けるために、特に読点が果たす役割は大きいと言えよう。

句読法を確立するのは難しくても、いろいろな例文を題材に、句読点をどう駆使すれば読みやすくなるのか、また意味がどう変わるのかなどを学ぶ機会はもっとあって然るべきだと思う。

「私は父と、母の墓参りに行った。」
「私は、父と母の墓参りに行った。」


読点の位置一つで「父」が健在か否かまで変わってしまうことの重みを、中学生や高校生にじっくり味わってもらいたい。
それは「伝える力」(6月10日記事参照)を磨くことにもつながるはずだから...。


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学校で朝ご飯

2006年06月15日 | 日々雑感
朝食を食べない子どもが増える中で、やむにやまれず学校で「朝ご飯給食」を出す動きが出始めているそうです。
先日の朝日新聞で読みました。

記事には岡山県と高知県、東京都八王子市などの例が載っていました。
中でも岡山県美咲町では、5月から全小中学校で、1時間目終了時にヨーグルトやチーズなどの乳製品を出していると書かれていました。
1200万円の予算を組んだそうです。

過疎化で小学校が統合され、スクールバスに乗るために午前6時台に家を出なければならない児童もいるという地域事情もあるようですが、町の調査では小中学生の2割が朝食を食べて来ず、お腹がすいて勉強に集中できないという子も多かったとのこと...。

目の前の子どもたちを見て、直接的な対策を取らざるを得なかったということでしょう。
ただ、校長も言っている通り、「町がこんなことまでするのは、本来の姿ではない。家で朝食を食べなくてもいい、となったら本末転倒。」ですね。

「愛国心」を採り上げたときにも書きましたが、人間を育てるという大きな意味での「教育」の基本は家庭、家族にあります。
学校や塾はその補完作業しかできません。

その家庭や家族がおかしくなってきているのは、昨今の日本のニュースを見るまでもなく、皆さん先刻ご承知の通りですね。
で、年齢や経験を考えたときに、これはやはり子より親の問題が大きいという結論に自然に導かれます。
子の側に存在する問題だって、結局は親に起因することが多いはずですから...。

私も小さな塾の長として、親の側に問題があるのでは?と思う例にも多く接してきました。
教科学習の理解度は別として、子どもの学習態度ややる気、集中力、粘り強さなどは、今までの家庭での教育、躾に負うところが大きいはずです。
学校や塾に預ければ何とかなる、あとはお任せというのは責任放棄と言ってもいいでしょう。
家庭でも改善すべき所は改善し、共に子どもを育てていくという態勢を作ることが重要なはずです。

というわけで、何とかそういう親の意識を変えようと努力しましたが、結局徒労に終わることも多かった気がします。
考えてみれば、自分なりの価値観を確立した一人前の大人を変えようとすること自体、無理があるようにも思います。
自分の意見で人を変えようなんて、傲慢な考えだとも言えます。

でも自分で気づけば、自らの意志があれば、大人になっても変わることができるはず...。
そのためには、大人より先に子どもを変えた方がいいのかも知れません。
子どもが変われば、その変容を目の当たりにした大人も成長できるのではないでしょうか。

冒頭の記事中でも、最後に女子栄養大の足立名誉教授がこんな発言をしています。

「朝食を学校で補完するより、家庭の努力を促してもらいたい」
「でも、作らない親に言ってもなかなか変わらないのが現実。
だったら、子ども自身で朝食を作る力を育てるよう、発想の転換も必要な時代ではないか。
小学校低学年でもご飯の準備はできる。
親が変わるのを待つより、子どもを変える方が早いかもそれない。」


それでもやはり、親を変える努力も並行して続けるべきだと思います。
あたりまえのことを粘り強く訴えていくべきだと思います。
なんと言っても子どもに一番影響力を持っているのは、間違いなく母親であり父親であるはずですから...。


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