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ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

主語と述語

2006年08月09日 | ことば・国語
夏期講習が終わり、ようやくいつものペースに戻りました。
今回はいくつか新しい試みも採り入れたのですが、その一つに中学生対象の「国語力増強講座」というのがありました。

国語のリスニング、おかしな日本語を直す、句読点の位置による意味の違いを考える...など、このブログでも話題にした題材の他、物語の続きを考えたり、漱石の「三四郎」を使って語彙を増やしたりという教材も作成し、幅広い面から国語力を鍛える講座です。

その中で、これはお決まりの「主語・述語を見つける」という問題もやらせたのですが、これがまあ、思った以上にできないのです。
使った教材自体も難しめなのですが...。

たとえばこんな問題です。
ためしに皆さんも主語と述語を答えてみてください。
なお、いずれも複数あったり、一つもない(省略されている)ものもあります。

1:モンゴルにはこんなことわざがある。
2:君こそ、この役にふさわしいよ。
3:激しい風に加え、雨さえ降り始めた。
4:こんなにたくさん、象だって食べられない。
5:生きているって、どういうことだろう。
6:私たちのクラスでは、ヒロミツ君しか休んでいません。
7:こんな遅くまでどこに行っていたんだ!
8:体にピッタリくっついているのに、蒸れないぞ。
9:今年の夏は、ハワイで休暇を過ごしたんだ、二週間。
10:虫歯予防には、食後の歯磨きをすすめます。
11:日本の郵便制度を始めたのは、前島密だ。
12:青森で有名な果物はリンゴだ。
13:ぼくはチャーハン!
14:聞こえるでしょう、ほら、笛の音が。
15:妹も姉も、かわいくてやさしい。
16:野球は、1872年にアメリカ人によって日本に伝えられた。
17:カエルには、ヘソがない。
18:おや、カズエさん、どちらへ?


さあ、いかがでしょう?スラスラできましたか?

生徒の書く文章を見ていても、主語と述語がねじれているためにおかしな文になっているものが少なくありません。
そして言うまでもなく、英語を学ぶ上で主語と動詞についての意識と理解度の差は、その上達を大きく左右しますね。

だからこそこれらの問題をやらせたのですが、多くの教材ではまず主語を見つける練習をするようです。
で、そのあとに述語を抜き出す練習...。

この順番ってどうなんでしょう?
実際に解いてみればわかりますが、難問になればなるほど、述語を先に見つけた方がわかりやすいような気がします。

たとえば1:の文では、「モンゴルには」を主語とする子が少なくないのですが、述語「ある」に対する主語を考えれば、自然と「ことわざが」が主語だとわかると思うんです。
9:でも、述語が「過ごしたんだ」だとわかれば、「夏は」が主語ではなく、省略されている「私は」が主語だと思い至るはずです。

13:や18:のように述語がない場合はどうしようもありませんが、一般的には述語を探し出す練習を先に徹底する方がいいように思います。

もう一つ気がついたことがあります。
主語や述語が省略されているものでは特にそうですが、>英語ではどう言うかを考えると日本語の主語・述語が明確になるのです。

10:ではIを補わないと英文にならないし、13:もwantなりlikeがないと意味が通じません(まさかamじゃないですよね...)。
主語も述語もない18:では、さらにそのことが実感できます。
これを英語で言おうとしたらyouやgoが必要ですよね...。

先にも書いたように、日本語で主語・述語を意識することは英語の学習にも役立ちます。
と同時に、どうも英語で考えると日本語の主述関係にも敏感になってくるということが言えそうですね。
そしてそのことで、日本語の難しさに比べて、いかに英語の構造が論理的でわかりやすいか実感できると思うのです。

英語で考えるという体験の第一歩を、こんな形で始めるのも悪くないかなと考えています。


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立秋前なのに...

2006年08月03日 | 日々雑感
塾の夏期講習で疲れ切っていて、新しい記事がなかなかエントリーできません。
今日は、生きているということだけご報告!

梅雨が明けて、さすがの信州も猛暑です。
それでも夕方にはぐんと涼しくなりますが...。

昨日、クマゼミやヒグラシに混ざって、1匹だけツクツクホウシが鳴いていました。
いつもこの蝉が鳴き出すと「夏も終わり」と感じるのですが、今年はまだ立秋前ですよ...。

いろいろなところで環境や生態が狂っているのでしょうか?
ま、1匹くらい変わり者がいても不思議はないですが...。

今朝もその鳴き声を確認...なんだか応援したくなりました...。

部活三昧

2006年07月25日 | 学習一般
私の塾は中学生は週2回か3回、時間は午後6時から10時までで何時間いても構わない。
教科数も関係ないので、やる気のある生徒は4時間ビッシリで5教科学習することも可能だ。

部活を終えてから来る生徒も多い。
9時近くに来て10時半くらいまで粘っていく高校生もいる。
みんな部活と勉強を両立させようとがんばっているのだ。

幸か不幸か、最寄りの中学校は長野市の中でもいろいろなスポーツが強い方なので、運動部に入っている子が圧倒的に多い。

部活に加えて地域のクラブにも加入している数名は、週2回も通えないとのことで、特例で週1回で受け入れている。
週1回ではとても5教科をバランス良くとは行かないので、やむをえず数・英・国を優先することになる。

中3の今頃、部活を卒業した子どもたちは、ようやく高校受験を意識し始める。
それまで週1回しか来られなかった子も、今までの分を取り戻そうと週3回通い出すことが多い。
夏休み前にその態勢に入ってくれれば、3月までに十分何とかなるのだが...。

当然、最後の大会で早々に負けた子ほど、早くその態勢に入ることになる。
毎年この時期は複雑な心境だ。
2年と少しがんばってきた部活の最後の大会だから、できるだけ勝ち進んでほしいという思いの一方、少しでも早く勉強に専念してほしいとも思う。

特に、それまで週1回さえまともに来ていない子に対しては、本人には申し訳ないが後者の気持ちが強い。
いい加減、部活から卒業してくれ!そんなことやっている場合じゃないだろ!というのが偽らざる心境だ。

塾に来られなくても学校や家で十分な勉強ができているというのならいいが、たいていの場合はそうではない。
中2までの範囲が覚束ないことが多いので、学校ではお客様状態のことも多かろうし、家に帰れば疲れ切って寝てしまうというのが標準的なパターンだろう。

皮肉なことに、そういう子(orそういう子がいるチーム)ほど勝ち進むことになるわけだから、勉強への切り替えが遅くなる。
9月なってから本格的に受験勉強に取り組もうと思っても、基礎を固め直すだけで今年が終わってしまう...。

以前見学に行った横浜の塾の先生は、週4日も5日も練習がある部活と勉強の両立は難しいと公言していたし、周りでは部活禁止の塾もあるという話だった。
全国ではどうなのだろう...。

勉強に対してだけでなく、部活は家族のあり方にも大きな影響を及ぼしている。
土曜も日曜も、練習だ試合だと駆り出され、家族揃って出かけることもままならない。
さらに送り迎えや応援にと、子どもの部活中心の休日に振り回されている親も少なくないだろう。


「たかが部活」が子にも親にもこれだけ大きなウェイトを占めていることが、私にはどうしても異常な状況に思われる。
以前にも書いたが、部活やスポーツに打ち込むのは良いこと、という根強い信仰にとらわれて思考停止になっていないか。
世の風潮は部活の良い面ばかりを強調しすぎているのではないだろうか...。


せめて週のうち3日は休みとか、土・日のどちらかは休みとかできないものだろうか。
「部活命」の教師がいては無理かも知れないが...。


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文の背景を読む

2006年07月19日 | ことば・国語
彼はこう言った。

これは事実だけしか述べていない。
話者の気持ちも、「彼」を取り巻く前後の状況もわからない。

なんと彼はこう言った。

これだと、「彼」が発言した内容が話者にとっては意外だったことがわかる。
単なる事実以上の情報が読み取れる。

やはり彼はこう言った。

今度は先ほどの逆で、「彼」の発言は話者の予想通りだったということだ。
たった一言で、話し手(or書き手)の心の中まで探ることができるのだ。

それだけでなく、「彼」が発言した前後の状況を推測することもできる。

ところが彼はこう言った。

これも話者の「想定外」のことが起こったことを意味している。
話の流れから行けば当然そうなる...と予測したことが外れたわけだ。
「なんと」ほど驚きはなく、客観的な意外性という感じがする。

ついに彼はこう言った。

ここから読み取れるのは、それまで「彼」が沈黙を続けていたか、少なくとも重要な発言はしなかったこと、そしてこれから決定的な発言をするということだ。
当然、このあとの「彼」の言葉には大いに注目する必要がある。

さらに彼はこう言った。

「ついに」と違って、すでに「彼」は中身のある発言をしている。
しかし、このあとの言葉に重みがある点は同様である。
それまでいくら喋っていようが、これから発せられる言葉が結論に近いものになる可能性は高い。

それでも彼はこう言った。

ここまでの「彼」の立場を想像してみよう。
形勢不利、孤軍奮闘という感じが伝わってこないだろうか。
そんな中でなお主張を貫こうとする、「彼」の必死な態度が伝わってくる。

すると彼はこう言った。

これはなかなか面白い。
「すると」自体の意味を辞書で引くと、次のように載っている。

 (1)前の事柄に続いて次の事柄が起こることを示す。
  「ドアの前に立った。―ひとりでに開いた」
 (2)前の事柄の当然の結果として次の事柄が導かれることを示す。
  「―あなたは会議には出なかったのですね」


「すると彼はこう言った。」のニュアンスは少し違うようだ。
(2)の「当然の結果として」ではもちろんないし、単なる時の経過を示す(1)とも異なる。
どちらかというと、これも話者にとって意外な発言だったときに使われることが多いのではないだろうか。

同じ文の先頭に付いた言葉が少し変わっただけで、その裏に読み取れるものがこれだけ違ってくる。
こういった短い文の比較をすることは、文章を読んだり書いたりするいい練習になるのでないか。
そんな教材も作りたいと思っている。


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「ただ」の功罪

2006年07月13日 | 日々雑感
過去に2回ほど、救急車を呼んだことがある。
自宅に1回、塾に1回。
特に塾で生徒が倒れたときは、到着までの時間がずいぶん長く感じられた。

テキパキと対応してくれる救急隊員の態度に、ようやくホッと一息つけたことを思い出す。
半分パニックになっているときには、彼らの落ち着いた行動が実に頼もしい。
救急車のありがたさが身に染みる瞬間だ。

そんな大切な救急車を、タクシー代わりに利用するケースが増えているそうだ。
そのために、本当に緊急性の高い出動要請に支障を来すこともあるという。

「指を切った」とか「歯が痛い」、あるいは軽い風邪...。
中には「病院の場所がわからない」というふざけた理由まで、お気軽に救急車を使う例が各地で報告されている。

自力で、あるいは家族の協力で病院に行ける状況か否か、考えもせずに119番する...。
一度でも緊急で救急車のお世話になった経験があれば、こんなマネは絶対にできないし、許し難い行為だと思うに違いない。

つまるところ、「ただ」だから気軽に使ってしまうのだろう。
1回の出動で何万円もの経費がかかるそうだが、日本では何回呼ぼうが、何km走ろうが、公共の救急車は無料である。

税金を払っているのだから当然の権利だと言われるかも知れないが、他の国の例を見るとそうでもないことがわかる。
金額はそれこそ何万円という国から何百円程度の国まで様々だが、救急車は有料という国が多いようだ。

たとえわずかな金額でも、有料となればよく考えてから要請する人が増えるのではないか。
もちろん、そのために躊躇して手遅れになるようなことがあってはならないが、現状を打開するには有効な方法であろう。
すでに、自治体単位で有料化を検討するところも出始めている。

「平等」という観点からすれば、無料が一番であろう。
しかし、「ただ」であることは「ありがたみを感じない」という面も合わせ持つ。
サービスが「あたりまえ」になってくる。
だからこそ上述したような例が横行するわけだ。

日本では義務教育の間は教科書は無償提供される。
これだって同じことが言えないだろうか?
教科書を大切な物として扱っている生徒は、学年が進むにつれ少なくなるように思う。
ひょっとしたら親もそうかも知れない...。

原則有料にすれば、ずいぶん意識が変わるのではないか。
経済的理由で購入できない家庭は、申請をすれば無料で貰えるようにしてはどうか。
本当は子どもの小遣いから100円でも50円でも支払って購入する形にすれば、学習に対する真剣みも変わってくるのだろうが...。

今もあるのかどうか知らないが、昔公文に勤めていた頃、会費の全額免除制度というのがあった。
経済的理由で会費(月謝)が払えない生徒のための制度だったが、多くの場合、この制度の適用を受けた子どもは長続きしなかった。
「どうせ無料だから」という意識が親の深層にあると、子どもが気分が乗らないと気軽に休ませてしまったりしがちなのだ。

「ただ」には良い面と悪い面がある。
いろいろな場面でそのことを再認識し、無料を続けるべきか否か、基本的人権との兼ね合いの中で考えていくべき時代なのではなかろうか。


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