ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

鼻濁音が消えていく

2006年10月19日 | ことば・国語
長野県は「鼻濁音保有地域」なのだそうです。
先日の信濃毎日新聞で読みました。
え?そうかぁ?...というのが正直な感想でした。

仕事柄、子どもとの会話が多いわけですが、鼻濁音を使っていない子が100%に近いと思います。
いつも意識しているわけではないので、見過ごしているだけかも知れませんが...。

たとえば「午後」の場合、正しくは初めの「ご」と後の「ご」は違う発音になります。
1つ目は[go]ですが、2つ目は[ŋo]になるのです。

鼻に抜ける感じ...これが鼻濁音ですね。

本来は語頭以外のガ行音節は、共通語では鼻濁音になることが多いそうです。
「小学校」「はがき」「いそぎんちゃく」「はまぐり」「雪化粧」などなど...。
でも現状ではこれらの言葉、ほとんどが[g]で発音されていませんか?

[g]と[ŋ]では聞いたときに違いがあります。
[ŋ]の方がソフトな、優しい感じがしませんか?
気になり出すと[g]の連発ははものすごく耳障りです。

実は私自身も、以前に比べたら圧倒的に鼻濁音の使用が少なくなっています。
普通に喋っていると[g]になっていることがほとんどです。
これはいったいどうしてなんでしょう?

テレビやラジオで鼻濁音を耳にする機会が減っているのかも知れません。
きちんとした訓練を受けたアナウンサーならともかく、いわゆるタレントや芸人の喋りには[g]音があふれているような気がします。
大声でわめくには、上品な[ŋ]より[g]の方がインパクトがあっていいのでしょう。
ひときわ音量が大きくなることが多いCMも、一役買っていると言えそうです。

さらに、日常会話に外来語が増えたことも、鼻濁音減少の一因となっていると思います。
たとえば「エレキギター」「プレイガイド」「オウンゴール」などは、日本語では一つの熟語のように扱っていますが、元はもちろん two words です。
従って、英語で考えれば当たり前なのですが、日本語では語頭でないのにすべて[g]音になっていると考えられるわけです。
この言い方が本来の日本語にも波及してきたとは考えられないでしょうか...。

かくして大人から鼻濁音が消えていけば、自然の結果として子どもも使わなくなります。
初めから[g]音だけで育つ子が増え、やがて鼻濁音は絶滅へ...。

共通語の母胎は東京であり当然鼻濁音も普通に使われていたはずですが、今では衰退が著しく、高年齢層に残るのみだそうです。
信州も同じようなものでしょう。
感情的には残したい思いですが、この流れは変わりそうもありません。

ちょっと皮肉な提案ですが、英語の発音指導で[ŋ]を復権させるというのも手ですね。
king や thing、ping-pong など、普通に読ませれば間違いなく[g]で発音します。
日本語には無頓着でも英語のリスニングや発音には熱心な子もいるので、ここで[g]と[ŋ]の違いを意識させるのはどうでしょう。

皆さんの地域ではどうですか?
ご自身は?お子さんは?
...各地の情報をお待ちしています。


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語彙を高める教材

2006年10月12日 | ことば・国語
語彙を豊かにするために最も有効なのは読書だと言われる。
確かに本を読んでいる子はそうでない子に比べて言葉を知っている。
しかし中には、本は好きだが語彙は貧弱という子も存在する。
読書の対象が狭い範囲に限られている場合が多いようだ。

従来のように読書を勧めるだけでいいのだろうか?
たとえ本が好きでも、言葉の微妙な使い分けを会得するまでに至るためには、幅広いジャンルの膨大な量の読書が必要になる。
まして本を読む習慣のない子に対しては、スタートラインに並ばせるだけでひと苦労であり、道のりは長いと言わざるを得ない。

既存の教材でも語彙力アップを謳ったものはある。
しかしその多くは単に短文の穴埋めをする、あるいは短文作りをするといった形式で、肝心の言葉の意味についてはお座なり程度の説明があるだけだ。

これではその場では解けても、本当にその言葉のニュアンスを掴んでいるとは言い難いのではないか。
前後の文脈との関係で、ここではこういう言葉が適切だというレベルまで持って行けないものか...。
さらに以前の記事「辞書に頼る前に」でも触れたように、すぐ辞書を引くのではなく、ある程度意味を推測する力も育てたい。
そうすれば、辞書を引いたときにもその場に適確な意味を見つけやすいはずである。


ずっとそんな観点から、新しい語彙増強教材が作れないか考えてきた。
まだ試作の段階だが、今日はその一部をご紹介したい。

著作権の関係で漱石の「坊っちゃん」を題材にしている。
今の子どもたちには難解な表現も多いかと思う。
自分から読んでみようという子は少ないのかも知れない。
しかし、だからこそ、半ば強制的にでも名作に触れさせたいという思いで採用した。

以下はよく知られている「坊っちゃん」の冒頭部分についての教材である。
問題の前に1000字ほどの文章を読ませている。

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a・親ゆずりの無鉄砲で子供のときから損ばかりしている。 

問1:「無鉄砲」とはどういう意味だと思いますか。前後の文脈から想像してみましょう。
   次の中からイメージに近いものに○を付けなさい(いくつでも可)。

 ( 慎重な  かわいい  むちゃくちゃ  よい子  ガキ大将  行動的 )  

では、辞書で意味を確認してみましょう。

〈辞書の定義〉無鉄砲 =「どうなるか先のことをよく考えず強引に事を行うこと。
                また、そのさまや、そのような人。」



問2:言葉の意味がわかった上で、aの文を言い換えてみましょう。
   できるだけ別の言葉を使うこと。

 (                                    )


問3:次の語群の中で「無鉄砲」とほぼ同じ意味のものはどれでしょう。
   また、ほぼ反対の意味(相反する意味)の言葉はどれでしょう。
   それぞれ二つずつ選んで(  )の中に書きなさい。

   用意周到・向こう見ず・慎重・まじめ・無謀・凶暴・無意識

   同じ意味 (       )(       )
    反対の意味(       )(       )


問4:次の各文の空欄に当てはまる、最もふさわしい語を語群から選んで書き入れなさい。
   なお、「無鉄砲」以外の語句の意味は〈辞書の定義〉欄のいずれかです(順不同)。

   ア・若さに任せて(       )する。

   イ・あいつは(       )だから、何をしでかすかわからない。

   ウ・いい大人なのに(       )な行動を取る。

   エ・悪に対して(       )に立ち向かう。


     無分別  無鉄砲  勇敢  猪突猛進  

  〈辞書の定義〉

   ・「一つのことに向かって、向こう見ずに猛烈な勢いで、つき進むこと。」
   
   ・「分別がないこと。思慮がなく軽率なこと。また、そのさま。」

   ・「 勇気があり、危険や困難を恐れないこと。また、そのさま。」
 


問5:次のそれぞれの語句を使って、三十字以内の単文を作りなさい。

  ア・勇敢

    (                                         ) 


  イ・命知らず(「死を恐れないで事をすること。その人。」)

    (                                         )

------------------------------------

ざっとこんな感じである。
言葉を鍛える問題もまだ続くが、せっかく名作を使っているので、語彙を高めるためだけに用いるのはもったいない。
後には文章の背景を読む問題も登場する。
ご要望があればまたご紹介したいと思う。


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敬語の新分類

2006年10月04日 | ことば・国語
これは黙ってはいられない。
...昨日の新聞記事を見てそう思った。

文化審議会国語分科会の敬語小委員会(長い!)が、現在「尊敬・謙譲・丁寧」と三分類されている敬語を、新たに五つに分類する指針案をまとめたという。
え?!五つも種類があるの...?!

これまでの三つの他に、新しく「美化語」が登場!
「お酒」「お化粧」など「上品さを表すための言葉」をそう呼ぶそうだ。
すでに一部の教科書にも採用されているという。
ま、これはわかりやすいからいいだろう...。

何だかわからないのがもう一つの新分類。
これまでの「謙譲語」が二つに分かれ、「謙譲語Ⅰ」「謙譲語Ⅱ(丁重語)」となっている。
区別は、Ⅰが「動作の対象となる相手への敬意を表す」言葉、Ⅱが「自分の動作などを丁重に表現する」言葉である。

例として挙げられたものを見てみよう。

<謙譲語Ⅰ>
「伺う」「申し上げる」「存じ上げる」「拝見する」「頂く」「(相手に対する)お手紙、ご説明」

<謙譲語Ⅱ>
「参る」「申す」「存じる」「いたす」「小社」「愚見」



違い、わかりますか?
私はわかったような、わからないような...。
「伺う」に対する「参る」、「申し上げる」に対する「申す」などは理解しやすいが、では「拝見する」をⅡではどう言うのか、「いたす」をⅠでは何と表現するのか...。
両方あるとは限らないのか...。

そもそも、なぜ細分化する必要があるのかがわからない。
敬語の使い方の指針だというが、かえって混乱することになるのではないか。
尊敬語と謙譲語さえ満足に使い分けられない若者(とは限らないが...)が、謙譲語ⅠとⅡを自在に操れるとは考えられないのだ。

今回の指針案には、いわゆる「マニュアル敬語」や上司に対する「ご苦労様」「お疲れ様」などについての意見も盛り込まれていて、それなりに評価できる部分もあるようだが、やはりこの五分類化には抵抗がある。

近い将来、テストで「次の謙譲語をⅠとⅡに分けなさい」などという問題が出るようになり、「覚えなきゃいけないこと」がさらに増えたりしないよう願うばかりである。


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迷惑をかける

2006年09月27日 | ことば・国語
よく親が子どもに「人に迷惑をかけないようにしなさい」などと言いますね。
これがインドでは、「人に迷惑をかけていることを自覚して生きなさい」となるそうです。

考えてみれば、人間生きている限りは誰かのお世話になっているもの。
誰にも迷惑をかけずに生きることなんて不可能です。
みんながお互いに迷惑をかけ合っていると言ってもいい。
だったらインドの言い方の方が現実的かも...。

開き直っているようにも見えますが、この考え方なら「俺は誰にも迷惑をかけていない」という不遜な態度も戒められますね。

何より、「迷惑をかけないように」と小さくまとまってしまうより、周りにお世話になっているという感謝の気持ちは忘れずに、迷惑をかけつつ人生を切り開いていく方が前向きな感じがします
さすがにインドの言葉は奥が深い...。

ところでこの「迷惑をかける」という言葉、なかなか面白い表現です。
まずは「かける」から...。

「かける」にはいろいろな漢字がありますが、この場合は「掛ける」でしょう。
「掛ける」は「時計を掛ける」「腰を掛ける」「はかりに掛ける」などにも使いますね。
辞書には「あるものをあるところに支えとめるように置く」とあります。
「迷惑」の場合はこれとはちょっと違いますね。

で、「掛ける」のもう一つの使い方を見てみると、「あるものごとに作用や影響を及ぼす」とあり、例として「迷惑を掛ける」の他に「保険を掛ける」「わなに掛ける」「2に5を掛ける」などが載っていました。

なるほど、かけ算の「掛ける」と同じ意味だったんですね。
用法のさらに詳しい分類では「人に精神的な作用・影響を及ぼす」とあり、「心配を掛ける」が挙げられています。
「期待を掛ける」もこれですね。
イメージ的には「水を掛ける」「唾を掛ける」などとも同じだと思います。

一方、「迷惑」という漢字の意味は「迷う」「惑う」であり、どうしていいかわからない状態が浮かびます。
そういう面もありますが、どちらかというと「迷惑」の実態は不快感、嫌悪感であるような気がします。

「語源由来辞典」によると、昔はその原因が他人の行為でも自分行為でも「迷惑」と言っていたようです
それが次第に、相手の行為によって自分が困惑する意味が強くなり、現在の使われ方に変化してきたとのこと。
何だか自分のことは棚に上げ、他者に責任を押しつけているようで面白いです。
考えてみれば、相手の行為に原因があっても、自分がそう思わなければ「迷惑」じゃないですもんね。
冒頭のインドの言葉もそうですが、まさに考え方次第です

そう言えば、「惑」の字が入った「惑星」は、惑うような動きをすることからその名が付いたものです。
ご存知のように冥王星が惑星から降格し、来年の教科書からは記述が消えることになりましたね。
で、事のきっかけとなったいわゆる「第10惑星」の名前が決まったそうです。
その名を「エリス」
これはギリシア神話の「不和や争いの女神」だそうです。
お騒がせの原因星にこんな名を付けるところが何ともシャレていますね。

p.s.「惑星」には「その能力・人格の程度が一般の人に知られていないが、有力そうな人。ダーク・ホース」という意味もあるそうです。知らなかった...。


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噛みくだく力

2006年09月20日 | ことば・国語
食事の際に食べ物をよく噛むことの大切さは、今さら言うまでもない。
体にいいだけでなく、口の周りの筋肉を発達させることで表情も豊かになって発音もよくなる。
さらに、噛むという機械的な刺激が脳の活動を活発にするという。
詳しくはこち→「噛むこと」

ところが現代では、時間に追われて食事の時間も短くなった。
手軽に食べられる物、柔らかい食べ物が多くなった。
その結果、昔と比べて噛む回数は激減しているようだ。

これも上記のサイトによれば、おこわが主食だった弥生時代は食事に1時間近くもかけ、噛む回数も約4000回だったという。
その後、主食にうるち米や麦、副食に煮野菜や焼き魚という食生活に変わってからも、戦前までの長い間、食事時間は20~30分、噛む回数は約1400回とほぼ一定していたそうだ。

これが現代では、食事時間も噛む回数も戦前の半分以下に減ってしまったとのこと。
パンやハンバーグ、ラーメン、グラタンなど、あまり噛む必要がない柔らかい食べ物が主流になっていては当然の結果であろう。
そのうち、センベイやスルメを食べようとしたら歯が欠けたとか、顎が外れたなどという子どもが出てくるかも知れない...。


先日の新聞に、テレビと新聞による情報を食物に例えて「噛みくだく力」の重要性を訴えたコラムがあった(by高橋庄太郎)。
曰く、テレビによる情報は映像や音によっておいしそうに加工された流動食。
活字中心の新聞のそれは固形食である
という。

なるほど、そうなるとラジオは両者の中間、お粥とか離乳食に相当するか...。
さらに、活字情報である新聞記事や本は、その内容によって固さが変わってくることになる。

流動食なら誰でも、大した努力も要らずに摂取できるが、固形食は噛みくだく必要がある。
高橋氏は、この噛みくだく力を発達させることが「考える力」にも通じると主張する。
簡単に飲み込める流動食ばかりを求めていては、思考力は衰えるばかりであろう。

前にも書いたが、私は丁寧にわかりやすく教えることが理想だとは思っていない。
生徒がつまずかないよう手を取り足を取り教え込むのは、せっかくの固形食を十分に噛んでやってから与えることに他ならない。
これでは子どもの噛みくだく力は育たない。
柔らかい物ばかり欲しがる指示待ち人間を作り出してしまう。

わからないときでも自分で何度も噛んで飲み込むことができる、クルミの殻なら道具を使って割る知恵が働く...。
今の子どもたちにこそ、そんな逞しい思考力を育む事が急務だと考えている。


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