「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

知的体力を試す―『運命論を哲学する』

2020年06月10日 | Masahiro Morioka, Mr.
☆『運命論を哲学する』(入不二基義・森岡正博・著、明石書店)☆

  昨年、出版と同時に買ったがツンドク状態だった。予想どおり、この本はおもしろかった。そして何より日本語が読みやすい。カントだのヘーゲルだのというビッグネーム哲学者の著書(翻訳書)に比べればはるかに読みやすいと思う。しかし、読みやすいからといって議論のレベルが低いことにはならない。二人の日本人哲学者が日本語を用いて自らの思考を展開し、お互いの思考をさらに深化させていく。海外からの輸入物ではない哲学を日本語で語ることは意義深いことである。
  二人の日本人哲学者、すなわち入不二基義さんと森岡正博さんによる実際の対談(まず入不二さんが講演し、それに対して森岡さんが質問する)を軸として、その後の応答などを含めて再構成されている。そのため、読者からすれば哲学的議論の応酬をナマに近い感覚で味わうことができる。しかし、本物の哲学者による哲学的議論に併走していくというのは、自分の知的体力が試されることでもある。知的体力とは、もちろん知識量やいわゆる頭の良さを意味するのではなく、自分なりに理解しようとする意欲のようなものというか、肉体的な体力の限界に挑戦する感覚に近いようにも思う。本書は三四晩くらいかけて読んだが、毎晩読み終えた後、満足感とともに実際に疲れも感じた(たんなる老いのせいかもしれないが)。
  本書で議論されているのは、運命論を切り口とした「現実とは何か」や「偶然と必然」である。一般的に運命論は「因果的決定論」、「神学的決定論」そして「物語的運命論(解釈的運命論)」が知られている。「因果的決定論」とは原因と結果を因果関係で結んだものであり、科学(自然科学)と相性が良い。「神学的決定論」は今の状況は神が決めたとする考えである。この二つは「今の状況」が「今の状況以外のもの」によって決められている(何かが別の何かを決めている)と考える立場であり、これを入不二さんは「二項性」と呼ぶ。また小説のストーリー展開のように、過去のちょっとした出来事がきっかけとなってその後の人生が広がり、いま人生の結末を迎えていると考えるのが「物語的運命論(解釈的運命論)」である。ナラティブ的な考えとも言えるだろう。この立場も、何か(多くの何か)が人生を決めていくので「二項性」以上の「複項性」と呼べるだろう。
  これらに対して入不二さんは「論理的運命論」の立場から思考を展開していく。「論理的運命論」とは「ただそれだけでそう決まっている」と考える立場であり、「二項性」や「複項性」ではなく「単項性」がその特徴である。「論理的運命論」と呼ばれるのは「排中律」という論理を利用しているからである(※)。さて「物語的運命論(解釈的運命論)」では「偶然」が解釈(物語)を介して「必然」化していく。人生において「こうなる運命だったのだ!」と嘆く場面がそれであろう。それに対して「論理的運命論」は排中律から単項性が導かれ、そこから「偶然でも必然でもある」という無様相な「現実」が論じられ、さらに「絶対現実」と「相対現実」の拮抗へと話は進んでいく。
  入不二さんの話に対する森岡さんのコメントもまた興味深い。例えば、全一性(「こうなったからこうなった」)の「現実」はどの視点から語られているのかという疑問、入不二さんの言う「無としての未来」(つまり「到達不可能物」?)についての疑問などなど。数年前に読んだ森岡さんの『まんが 哲学入門』の内容からも多く言及されていた。また「論理的運命論」と自由との関係についても触れられていたが、本格的な議論は今後を待たなければならないようである。
  かりに運命が存在するとして、いま運命論を哲学したとしても運命が変わるわけではあるまい。多くの人はそう考えるにちがいないし、自分もまたそう思う。新型コロナウィルスによるパンデミックの収束が見通せない中、人々は役立つ情報を求めて彷徨っているかのように見える。哲学や哲学者もその任にあやかろうとするならば、それはまちがっている。こんな時こそ哲学や哲学者は超然としていてほしい。「無用の用」という言葉もあるではないか。お二人のディスカッションの司会を務めた田中さをりさんが本書の「あとがき」で以下のように書いている。本書を読む価値はそこにあると思う。

「日曜の午後、月曜からの仕事を前に憂鬱な気分から逃れられない時があったら、またこの本を開いてみて欲しい。読み返すうちに、戸惑いを感じたり、思い出し笑いをしたりできるはずだ。そしてそんな時間を過ごしているのは、恐らくきっと、あなた一人ではないと思う。」

(※)
「排中律」とは「論理学において、任意の命題Pの対し、Pであるか、またはPでないか、が成り立つことを主張する法則であり、具体的には、入不二さんの「スライド」から引用すると以下のようである。
―どんな出来事も、「起こった」か「起こらなかった」かのどちらかである
―「起こった」とするならば、起こった現実は変更不可能
―「起こらなかった」とするならば、起こらなかった現実は変更不可能
―どちらの現実も変更不可能であることに変わりはない
―どんな現実の出来事も、ただそれだけでそう決まっている

  



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