「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『赤毛のアン』≪in a tour to PEI≫

2008年09月24日 | Yuko Matsumoto, Ms.
『赤毛のアン』(L・M・モンゴメリ・著、松本侑子・訳、集英社)≪in a tour to PEI≫
  「プリンスエドワード島へようこそ」 『赤毛のアン』の島に着いて初めて声をかけられた言葉は日本語だった。成田を発ってから十数時間、デトロイト経由での長旅を終えシャーロットタウンの空港に降り立ったとき、すでに陽は落ちて周囲は暗闇につつまれていた。日本で予想していた以上の冷気と緊張とでタラップを降りながら身震いした。デトロイトで乗り換えるとき一度アメリカの入国審査を受けるのだが、若い黒人女性係員*の怠惰と不審の入りまじったような表情はけっして気持ちのいいものではなかった。あの状況がまた繰り返されるのかと思い緊張感が高まっていたのだが、今度は年配の白人男性係員*が笑みを浮かべながら話しかけてきた。「今夜はどこに泊まりますか」、「何日滞在しますか」、「お酒は持っていますか」などたどたどしいながらも丁寧な日本語で質問された。それに対してこちらはたどたどしい英語で答えていたのだから、考えてみればおかしなやり取りだった。何はともあれ「プリンスエドワード島へようこそ」の一言がこころを氷解させた。自分はプリンスエドワード島に迎え入れられたのだ! この一言が旅の成功を約束してくれたように思えた。
  カナダでの、キッドレッド・スピリッツ・カントリーインのコテージでの初めての夜が明けた。割り当てられたコテージはスペースを十分にとったリビング、ダイニング、2つのベッドルーム、バス、シャワーなどが完備しており、その居宅を独身男性2人で3泊も占有したのだから日本ではおよそ考えられない待遇だ。時差の影響に興奮と期待が加わってあまり眠れない一夜だった。夜明け前の薄明かりの中、ベッドから抜け出し着替えてからコテージの前に出てみた。空は快晴。清涼な空気と静寂があたりを満たし、広々とした敷地にコテージが点在する。自分たちの(!)コテージの後方が朝焼けに染まり始めると、周囲の樹木や芝生も輝きを増していった。Here is Canada ! その実感が目や耳や肌を通してようやくこころに迫ってきた。他のコテージから旅の仲間もポツリポツリと現れはじめた。まだお互い名前は知らないもののごく自然に挨拶を交わした。一度コテージに戻った後、本館で早めに朝食を食べ、それから一人でグリーン・ゲイブルズへ向かった。場所は女性添乗員のTさんとNさんに伺ったので迷うことはなかった。本館の後方から広い芝生を横切るとすぐにグリーン・ゲイブルズに行きついた。グリーン・ゲイブルズはいわば『赤毛のアン』の聖地だ。聖地のすぐそばに3泊もするのだから、ファンにとってはこれまた贅沢な旅行というべきだろう。また一般論として、宿泊地を転々としないため比較的旅疲れしないという利点があるように思う。実は旅行を決心するにあたって、体力的に劣っている自分にとって宿の固定はかなり大きな意味があった。結果的にも同じ場所で3泊できたのは、時間的にゆとりがありとても良かったと思っている。
  青空を背景に立つ緑の切妻屋根の家―グリーン・ゲイブルズは写真や映像で見たままの佇まいだった。日本で何度も何度も見たその光景がいま自分の前に広がっていた。正直なところ期待していた以上のものは感じなかったが、逆にいえばグリーン・ゲイブルズの美しさは落ち着いた情景を醸し出しホッとさせられた。ふと白い柵に目をやるとリスがまさに朝食の最中だった。野生のリスを間近で見るのは初めてだ。デジカメをかまえて2メートルくらいまで近づいたが逃げようとしない。あっさりと写真に収めることができた。ちょうど食事を終えたのか、写真を撮り終えるのを待っていてくれたのか、リスは生垣の木々の間に姿をけした。数分にも満たない出来事だったが感動的なひと時だった。後日ハリファックスの市内で再び野生のリスを目撃し、やはり写真に撮ることができた。リスは人間をあまり恐れていないように見える。カナダの自然の豊かさとカナダの人々の自然に対する姿勢を象徴しているように思えた。
  グリーン・ゲイブルズのひとり散歩から戻ると本館前に参加者の方々が集まり始めていた。やがて赤色のチャーターバスが到着し「松本侑子さんと旅するカナダプリンスエドワード島の旅」の公式日程が開始された。まずグリーン・ゲイブルズのそばで『赤毛のアン』出版100周年の記念植樹を行った後、『アン』シリーズの舞台なった場所と作者モンゴメリゆかりの地を巡る旅が始まった。いうまでもなく『アン』はモンゴメリが創作した物語である。しかしファンにとって『アン』は実在しているに等しい。アンや登場人物のいきいきとしたキャラクター描写に加えて、松本侑子さんもたびたび書かれているように当時のカナダの社会や生活の様子が詳しく描かれているため、いわばノンフィクションのように思えてくるのだろう。それはモンゴメリの生涯が『アン』のストーリーに少なからず反映しているからでもある。今回の旅でも『アン』の舞台はモンゴメリゆかりの場所とたびたび交差し、フィクションともノンフィクションとも言えぬ不思議な感覚を味わった。松本侑子さんの場に応じた解説が旅の魅力を幾層倍にもしてくれたことはいうまでもない。さらに日本人女性で現地ガイドのMさんの解説も忘れることができない。カナダの政治・社会・生活などユーモアを交えて語る名調子はバスの旅をあきさせることがなかった。
  今回の「松本侑子さんと旅するカナダプリンスエドワード島の旅」は他の『赤毛のアン』ツアーとは大きく異なる点がある。松本侑子さんが講師をつとめ女優の松坂慶子さんも共演された「3カ月トピック英会話『赤毛のアン』への旅」(NHK教育テレビ)のロケ地の多くを訪れることができた。これも大きな特徴である。しかしそれ以上に、この旅は本質的に観光旅行を超える面があった。詳しくは書けないが、松本侑子さんご自身が見つけられたゆかりの地や建物を訪れ、ご自身も初めて目にされる稀有な品々などを拝見できたことだ。ありきたりな名所巡りの旅で終わらず、学術調査に同行させてもらったようなものである。完訳にあたって類書にはない詳細な訳者ノートを書かれ、『アン』に隠された謎を膨大な原典や緻密な調査から解き明かしてきた松本侑子さんならではの旅だといえる。松本侑子さんはわれわれ参加者に解説しながらも、けっして取材を怠ることがなかったのもその証拠といえるだろう。一眼レフのカメラを手にして現地の人と熱心に話をされている姿を何度も目にした。まさしくプロである。その一方で、われわれ参加者とともに気軽にカメラに収まってくださった。入れ替わり立ち替わりお願いしてもけっして嫌な顔をされず、いつもにこやかな笑みを浮かべて応じてくださっていた。もう一方の面―とくに言葉にすることもないと思うが―でもやはりプロである。
  その日は天気に恵まれたこともあって「恋人たちの小径」は写真で見たように木漏れ日がもれ、いかにもロマンチックな風情だった。小径は木立の中をぐるりと一周するようになっているが、途中で逆方向から入って来られたTさんとダイアナのような可愛い奥様に出会った。お互い挨拶をして写真を撮り合った。この小径は名前のとおり男女がペアで歩くのにふさわしい。お二人がうらやましくなったが、そこはアンに倣って想像力で補うことにした。自分を取り囲む木立が最愛のパートナーだと。晴天の日中だったからか「お化けの森」から「お化け」は出そうになかった。プリンスエドワード島が今回でちょうど10回目というベテラン男性添乗員のMさんによると、むかしとくらべて「お化けの森」がもっとも変わったそうで、以前はもっと深い森に見えたということだ。プリンスエドワード島の風土といえば、やはり忘れてならないのが赤土である。わざわざ赤土の表れた道路を通ってもらい写真撮影もした。しかし目に映るような赤色がデジカメの液晶には表れず残念な思いだった(後で書くが、Iさんのデジカメには見事な赤土が記録されていた)。赤い砂岩に覆われた海岸沿いの舗装された道路もバスで走ったが、当時は崖に沿った道を馬車で行き来していたという。海の迫る道を海からの風に吹かれながら馬車で歩む難儀さは想像にかたくない。「輝く湖水」では機内で隣席したKさんとNさんの仲良し二人組の女性たちと写真を撮り合った。「あまり輝いて見えませんね」と三人で異口同音の感想をもらしたが、アンが名付けたときは夕景だったのでやむを得ないだろう。それでも静かな湖面に映る周囲の緑を眺めているとこころが休まった。コテージでの3泊目が明けた早朝、同室(というよりはベッドルームが別々なので同居というべきだろう)のIさんがキャベンディッシュの海岸を見に行くと言った。空は雲に覆われていていつ雨が落ちてきてもおかしくない天候だったので、折り畳みの傘を持っていっしょにでかけた。Iさんはとても機敏な男性で、行きの成田から帰りの成田までマメに写真を撮り、マメにメモをとっていた。それに加えてIさんのデジカメの液晶がとても鮮やかだったので皆が注目し、ほとんどツアーの専属カメラマンのように活躍していた。最終的には松本侑子さんや添乗員さんを含めてツアーの参加者全員が、写真はIさんに任せておけば大丈夫と全幅の信頼を置いていた。そのIさんの後を追って海岸までは来たのだが、フットワークの軽さについていけず見失ってしまった。Iさんのことは心配ないだろうからまあいいかと思い、しばらく大西洋の風に吹かれていた。赤土の崖の上をときおり霧雨を含んだやや強い風が通り過ぎていった。どこへ向かうのか灰色の空を鳥たちが隊列を組んで飛んでいた。まだ残暑のきびしい日本から来たからだろうか、晩秋か初冬を思わせるセントローレンス湾の風景は別世界のように感じられた。
  オプションのミュージカルもまた楽しかった。オプションとはいえ参加者のほとんどの方々が見たのではないかと思う。とくにリスニングが苦手で英語のセリフや歌が理解できたと言いがたいが、雰囲気は十二分に楽しめた。『赤毛のアン』を前半と後半とを合わせて2時間あまりに凝縮してあるためか、原作とはややストーリーの異なる部分もあったようだ。ギルバート役が総じて女性たちに不評だったことも、ある意味おもしろかった。お腹が引き締まっていなかったとか、踊りで足の上げ方がたりないというきびしい指摘もあった。ミュージカルのあった夜はシャーロットタウンのホテル、ザ・グレートジョージに宿泊した。シャーロットタウンの最高級ホテルとのことで、聞きまちがいでなければ遊説に訪れたカナダの首相も泊まったそうである。いよいよもってセレブな旅をしているように思えてきた。ミュージカル終了後、たまたまホテルのロビーで知己のYさん(とてもさわやかな奥様とごいっしょに参加されたのだが、Yさんの存在は今回の旅行で大きな安心感を与えてくれた)、あのダイアナのご主人Tさん、Iさん、自分の男性4人でミュージカルの感想などを話していた。それを女性のSさんたちに目撃されて「あやしい」と言われてしまった。謀議や「雨夜の品定め」をしていたわけではなかったのだが。
  女性がギルバートに思い思いの男性像を重ね合わせたりするように、読者は『アン』の登場人物の誰かに何らかのかたちで感情移入して読むことが多いようだ。この歳になって自分という男性が『赤毛のアン』を読み始めると、マシューの立場になってしまうのは自然なように最初は思えた。しかし必ずしもそうではなかった。マシューの年齢よりもむしろ、人嫌いでとくに女性とはろくに口もきけないマシューの性格が自分の内面を映し出しているように思えてきた。だからマシューだったのだ。自分を知る人はそうは思っていない節もあるようだが―少々大げさにいえば―とくに女性と話すときは内心緊張の糸が張りつめている。だから臨機応変な態度が取れなかったり、ついつい「KY」(空気が読めない)的な言動や行動をしてしまったりする。旅行中にも何度か失敗を犯し、いま思い返すと身が縮む。それでも今回の旅行は自分的に大成功だったと思っている。旅行に関わるトラブルが皆無だっただけでなく、他人から嫌な思いをさせられることがなかったからだ。それは参加者全員が『アン』という共通の話題で結ばれていたことがやはり大きかったと思う。読者は『アン』を読むことで心の広さが試され、陶冶されていくからのようにも思える。安っぽいキャッチフレーズをまねるわけではないが「『アン』が本当に好きな人に悪い人はいない」といえるだろう。それを思えば「プリンスエドワード島へようこそ」の一言を聞く以前に、この旅行は成功が約束されていたというべきかもしれない。
  実のところ、今回の旅行は初めての海外旅行だった。出発前からその不安をたびたび口にしていた。松本侑子さんは「何の心配もありませんよ」とこころを鎮めてくださった。その言葉にウソはなかった。シャーロットタウンやハリファックスの街中を、簡単な地図とかたことの英語だけを頼りに1時間以上も一人で散策した。何の不安も感じないどころか、見知らぬ街並みを歩くことでワクワクしていた。もちろんカナダという国の治安の良さが幸いしたのだろう。そうであるならばいっそうのこと、初めての海外体験として今回の旅行は幸運にして好機だったといえる。庶民にとって海外旅行はけっして安くない。しかし、この「松本侑子さんと旅するカナダプリンスエドワード島の旅」は類似のツアーと比較して、その内容や宿泊先などから見てもけっして高くはないと思っていた。実際に旅してみて、独自の価値が実感できた。さらに貴重な経験も上積みできた。こんな旅ならば何度でもしてみたい! そう思ったからこそ帰国してさっそく次なる旅の算段を始めた。現実のしばりを考えると実現は難しそうだが、夢見ることは自由だ。「夢を見る、そこから人生の扉はひらかれていく」のであり「そして夢見る心の中に、幸福がある」(「訳者あとがき」)のだから。

『アンの青春』≪in a tour to PEI≫に続く(予定)

*この対応のちがいは、もちろん係員の性・人種・年齢の差によるものではなく、デトロイトが乗り換えを主とした空港であり、一方プリンスエドワード島が観光地―とくに近年は日本人が多く訪れる場所であることによるものだろう。 

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2 コメント

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初めまして (Unknown)
2008-10-12 23:13:43
昨年侑子先生のツアーでPEIに行った者です。
読ませていただいて文中に出てくる風景、添乗員さんとのやり取りが思い浮かびます。
私にとってのPEIの旅は、とてもステキな出会いがあり(アンを身近に感じた事を含め)一方向だけの人生でなく違う世界を見つけました。
以来侑子先生のフアンになりました。
PEIに行くことが出来た事に感謝する私です。
ステキな旅行記を有難うございました。

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世界が変わる (euler)
2008-10-16 20:39:41
こちらこそ素敵なコメントをありがとうございました。私にとっては初めての海外旅行でしたが、本当に行ってよかったと思っています。素敵な旅の経験は世界を見る目を、そして自分の周りの世界までも変えるような気がします。またそんな旅がしたいものです!
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