「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『33個めの石』

2009年03月01日 | Masahiro Morioka, Mr.
『33個めの石』(森岡正博・著、春秋社)

  「33個めの石」という不思議なタイトルの森岡正博さんのエッセイである。一応ハードカバーとはいえ2時間もあれば読めてしまう。ページの余白も多いし、言葉遣いも難しくはないからだろう。だからといって内容も軽いわけではけっしてない。扱われているテーマはどれもこれも一筋縄ではいかないものばかりだ。いまの時代を生きる人間が日々の生活で意外と気付いていないこと、あるいは何となく変だなと思っていても、それを問い直したり深めたりしようとはしないことを眼前に示してくれる。すぐそばにある闇を教えてくれると言い換えてもいいだろうし、せっかく鎮めた痛みを再び覚醒させてくれるともいえるだろう。『草食系男子の恋愛学』のところでも書いたが、自分を棚上げせず自分の言葉で語るという姿勢も、もちろん抜かれている。哲学者や思想家といわれる人たちの名前や引用がほとんど出てこないのも同じだ。この世の闇や痛みも森岡正博という人間がナマで感じた経験をもとにして、森岡さん自身の言葉で語られている。だからだと思うのだが、いわゆるビッグネームの学者たちを経由せずに、森岡さんのナマの経験や感覚がこちらに直接伝わってくるような気がする。
  この道に進んだのは、直接お会いしたことはないものの、森岡さんの影響が大きいと前にも書いた。しかし、実際にその道を歩んでみると迷うことしきりだ。いや、迷うのはかまわない。敷かれたレールを走るのでなければ、自発的に歩く道に迷いはつきものだ。ただ、拭いきれない違和感に悩まされるのだ。一言でいってしまえば、何かを書こうとすればビッグネームに依拠するのが当然であるという“業界”のルールに馴染めないでいる。甘えだといわれるかもしれないし、自分が“業界”に向いていないのかもしれない。それでも、自分が“素で”感じたことや思ったことを何らかのかたちで―とりあえずは言葉によってだろうが―表現し伝えたいという衝動にも似た想いは捨てられない。森岡さんの研究スタイルに惹かれるのは素手で格闘しているところだ。しかし、素手で格闘した記録は―とくに名もない“若造”のものなどは―なかなか“業界”には受け入れられない。森岡さんはこの本の最後の方で「自分の頭ではもうこれ以上考え続けられなくなったとき、私ははじめて過去の哲学者たちの書いたものを読む」、そうすると「思いがけないヒントをもらえることが多い」と書いている。ところが、自分を含めてふつうの“業界人”は逆のことをしているように思える。過去の学者の業績に自分の考えを接ぎ木しようとするのだ。本体の木と接ぎ木の種類がちがっていたりして、接ぎ木はなかなかうまくいかないものだ。(だから枝葉末節を突かれるのだ、といってはブラックユーモアになるだろうか。) いやそうではなく、養分(ヒント)をもらっているだけで、その養分を自分なりに咀嚼して自分の木を育てているのだという人もいるだろう。しかし、自分から見ると、養分を丸ごともらって寄生しているようにも思えるのだが。森岡さんのスタイルを真似られるほど、自分には集中力も、思考力も、分析力もない。それでも、森岡さんが哲学への希望を語っているように、自分もまた森岡正博という人の研究スタイルに“業界”への希望を見ている。
  2007年、アメリカの大学で起きた銃乱射事件では32名が犠牲となった。それを追悼して32個の石がおかれたが、自殺した犯人を追悼して「33個めの石」をおいた学生がいた。その石はだれかに持ち去られたが、学生は再び石をおいた。日本でもあのような事件が起きたとしたら、われわれは「33個めの石」をおくことができるだろうか、と森岡さんは問う。2005年に起きたJR福知山線の脱線事故では運転士を含めて107名が犠牲となった。しかし事故後1周年の慰霊式では、遺族アンケートを踏まえて運転士を除いた106名が慰霊の対象となった。このニュースはおぼろげながら記憶にあり、何かイヤな気持ちがしたものだった。森岡さんはアメリカの事件の遺族感情や日本の運転士の責任に言及しながらも、どんな犯罪者であろうと、この世に生きたことの価値は誰によっても否定されるべきではないという。結局、事件後アメリカの大学も33個めの石を認めなかったという。しかし、公的な組織には認められず、純粋に自発的な行為にこそ「真の希望が宿っている」と森岡さんはいうのだ。
  森岡さんはいう、宗教の枠には入り得ない人々の「赦し」を探っていくことが現代の哲学に問われている最大の課題であると。われわれは「赦し」を求めて歩み続けるしかないのだろう。タイトルの「33個めの石」とともに帯に書かれた「とまどいながら、歩き続ける」が象徴的である。

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