「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『グリム・アンデルセンの罪深い姫の物語』

2007年01月31日 | Yuko Matsumoto, Ms.
『グリム・アンデルセンの罪深い姫の物語』(松本侑子・著、樋上公実子・挿画、角川文庫)
  中高生のころは、いずれ自然科学を専門的に勉強して優雅な研究職に就きたいと考えていた。一方、家庭では美しくて優しい“処女”の女性と結婚し、二人くらいの子どもをもうけて、小さな一軒家で幸せな生活を営みたいと思っていた。その後、身近に大学教授や大学院生を見ることになり、研究職が優雅さからは程遠いことを知った。それはさておき、研究で疲れて帰ってくると、妻と子どもたちが夕食の準備をして待っていてくれるという夢も、早々に破綻してしまった。虚弱な自分の身体のことを考えると、自分自身を養い、身体をいとうだけで精一杯であると思い始めたのだ。自分には妻子を養っていく能力や余裕はないように思えた。
  同時に、男は結婚して妻子を養っていくものだという社会的な規範にも、うすうす気づき始めていた。裏を返せば、妻子を養えない自分は男として一人前ではないというレッテルを貼られたということだ。そんな思いは自分の心を鬱屈とさせた。その一方で、北陸という土地柄なのか、男性(夫)に伍して働いている女性(妻)たちも身近にたくさんいた。彼女たちは仕事をしながらも、家事や育児を立派にこなしているように見えた。それでも、夫たちは妻たちに対して男性としての権威を振りかざし、偉そうに振舞っていた。女性や妻が政治や選挙の話に口をはさむのは論外という雰囲気もあった。女性たちもまた自分と同じように一人前として扱われていないのではないか。自分の鬱屈とした気持ちに沿うようなかたちで、そんな疑問をもった。男であろうが女であろうが、結婚していようがしていまいが、人間一人一人が自立して、お互いを尊重し気遣えるような、そんな気持ちのよい社会を築けないものだろうか。一人前の男というステレオタイプの夢とは異なった理想を求め始めていた。女性の“処女性”を偏重することが醜悪に思い始め、ある意味一面的ではあるが、専業主婦よりも仕事をもってイキイキと働いている女性が魅力的に見えてきた。そんな思いがしぜんと自分を「フェミニズム」に近づけてくれた。そして、短絡的な発想とはいえ、田舎にいることが息苦しくなってきていた。
  そんなとき落合恵子さんの本に出会った。まだ「フェミニズム」という言葉は知らなかったと思うが、落合さんの本には、よくいわれるように「風通しのよさ」を感じて、何冊かの文庫本を立て続けに読んだおぼえがある。難しくてろくに理解できないにもかかわらず、上野千鶴子さんの著書やフェミニズム関係のアンソロジーのようなものも買った。そしてさらに、松本侑子さんという当時としては新人の作家に出会った。松本さんのエッセイや小説には「風通しのよさ」と同時に、その知的な雰囲気に魅せられて一気にファンになった。同じ日本海側の生まれということで、松本さんの書かれたものには郷愁に似た匂いが感じられ、その点でも惹かれているのだが、ファンとしての原点はやはり「フェミニズム」の流れのなかにある。
  フェミニズムとは一般的に女性の自由・平等・人権を求める思想のことである。そんなフェミニズムを文学作品の解読に用いたものがフェミニズム(文学)批評である。本書はフェミニズム批評(もっと広く捉えれば、マイノリティ批評)の手法でグリムとアンデルセンの童話を読み直したものである。童話は本来、多様な差別性や残虐な表現を含むものであるといわれている。しかし、外国の事情は知らないが、少なくとも日本の子どもたちが読む童話は、そういった部分は脱色されて無色で無害なものになっている。いや、無色というよりは「ハッピーエンド」という特定の色に染め上げられているというべきかもしれない。(余談だが、女性が主体的に関わって「ハッピーエンド」を迎える『アリーテ姫の冒険』という創作的な童話を知ったのも、たしか松本さんのエッセイがきっかけだったと思う)それに対して、本書では残酷な場面や性的な表現も隠すことなく語られている。子どもの頃からなれ親しんできた“お話”こそが童話だと思い込んできた人がこの本を読めば、少なからず衝撃を受けるかもしれない。不愉快に思う人もいることだろう。しかし、世の中のあらゆる言説がけっして中立的ではなく、その多くが男性中心的な視点で抜かれている。文学作品もその例外ではない。むしろ文学は人の心の奥底を反映するがゆえに、その性質がより色濃く表れているように思われる。その意味でいえば、神話や童話はより象徴的な言説といえるかもしれない。
  いずれにしても、あとがきを含めて本書を読めば、フェミニズム批評の入門書として好適なように思う。松本さんはホームページで本書について「グリム、アンデルセン童話は(中略)東洋人や女性に対する偏見が満ちていて衝撃を受ける。そうした点を皮肉ってパロディとしながら、しかし、童話のロマンティックさを活かして、美しい日本語で優雅な小説を書いてみました。社会的・政治的な視点を持ちつつ、文体は美しく優雅に‥‥」と書かれている。そういえば本文の印刷書体も柔らかなものが用いられている。ともあれ、松本さんの試みは成功していると思う。だからこそ、フェミニズム批評などという小難しいことを考えなくとも、十分に楽しく読めるはずだ。しかし、それでも、物語を楽しんだ後、あとがきを読みながら少しは考えてほしいと思う。「風通しのいい」世の中について。とくに「マッチ売りの少女娼婦」などは童話を超えて現実を映す社会批評のようだ。少しむずかしいことを書けば、自分を含めてポストモダンを気取る男たちが、ここに描かれたマルクス主義者たちを本当に笑えるのかどうか、あらためて自らに問い直してみるべきだろう。
  ところで、この本の挿画も樋上公実子さんが画かれている。いつもながら妖しく艶やかな画風は本書にマッチして、独特な雰囲気を醸しだしている。松本さんと樋上さんとの出会いは、読者にとっても実に嬉しいことだ。個人的なことで一つ不思議なのは、本書を単行本で買っていないことだ。単行本としては1996年に発行されたとのことだが、ちょうどその頃は田舎から東京へ脱出することばかり考えていた。あまりこころの余裕がなかったのかもしれない。人にしても本にしても、出会うべき必然性や時期というものがあるにちがいない。それが人生の妙というものなのだろう。
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