ちょっと時期が遅れましたが、
「週刊朝日(=朝日新聞)」VS「橋下大阪市長兼日本維新の会代表代行」、
というものがありましたね。
朝日の完敗に終わりましたが。
「差別」と言えば、「ホンマに今でもそんなことあるんや」、
っていう印象があります。前時代的な感があるのですが。
学校で習いませんでしたか?「士農工商」。
実はこれ、正しくはないのです。
当時(江戸時代でしょうな)、実際に使われていた言葉は、
「士農工商穢多非人」、
なのです。
この、「(えた)」と「()」が、今でも続く、被差別民を指します。
こういうところを授業で取り上げないというのも、
「クレームが来そうなものは出さずにおこう」、「現代の子供たちには隠しておこう」、
といった意図が、教育関係の役人、教員の中にはあるのでしょう。
江戸時代、結局は商人が栄え、農民は苦しみました。
階級制度を作り、「農民」は、「「武士」の次に偉いんだ」、
と言いながらも、実際には農民たちは苦しみ、耐え忍びました。
耕作放棄をして、都市へと逃げ込む人々も多かったようです。
しかし、更に下の、「」「」と言う被差別階級を作ることで、
少しは農民たちの心を鎮めようとしたのです。
「俺らより下の奴がいる」。
これは現代に於いて、「勝ち組」「負け組」とか言いたがる人たちに通じると感じます。
「人間に、上下など無い」。
これが真実のはずです。
結局は皆、一人で生まれ、一人で死んでいきます。
真宗的にも、「御同朋御同行」と言う言葉があって、
「人間皆平等」、なのです。
親鸞聖人は、自身ではお弟子をとりませんでした。
皆、「御同朋御同行」、なのです。
等しく生まれ、等しく死ぬ。
未だに続いているからあんな記事が出たのでしょうが、
「被差別」というものは、ちょっと考えれば、何の意味もないことぐらいわかりそうなものです。
人為的に階級を作っただけで、職業制限、結婚制限、などといった、
理不尽なことが横行しているだけに過ぎません。
「被差別民」を未だに、「自分よりも劣る」等といった考えを持っている人たちは、改めるべきです。
似た例として、と言うかもっと凄いものとして、
インドのカースト制、があります。
これは一般的には数段階しかないように教えられてきましたが、
実際には、その中に、さらに細かい階級が存在し、職業制限や結婚制限などが、
事細かに決められているそうです。
ただ、皮肉なことに、それが功を奏した、とも言えるのです。
それは、「IT産業」です。
これはごく最近に出来た職業ですから、カーストの中での制限はされていません。
だから、どんなに身分が低かろうと、自身の力で、IT関連産業で腕を振るう事が出来ているのです。
インドの急成長、将来は中国をも抜き去ると言われているほどの力は、ここから出てきたのです。
これは、カーストをうまく逆手に取った、低い階級の人たちの「勝利」と言えるでしょう。
とにかく、未だに日本に於いて、「差別」というものが存在し、
有名人だからと言って、その出自までさかのぼって、「叩いてやろう」、
なんて考えがあることが信じられません。
橋下氏については、石原慎太郎氏との合流によって、
「維新」の内容がグラついてきた、と言えますし、
メディアの突っ込みどころはそこでしょう。
出自まで掘り返す、というのは、ちょっと行きすぎましたね。
「週刊朝日(=朝日新聞)」VS「橋下大阪市長兼日本維新の会代表代行」、
というものがありましたね。
朝日の完敗に終わりましたが。
「差別」と言えば、「ホンマに今でもそんなことあるんや」、
っていう印象があります。前時代的な感があるのですが。
学校で習いませんでしたか?「士農工商」。
実はこれ、正しくはないのです。
当時(江戸時代でしょうな)、実際に使われていた言葉は、
「士農工商穢多非人」、
なのです。
この、「(えた)」と「()」が、今でも続く、被差別民を指します。
こういうところを授業で取り上げないというのも、
「クレームが来そうなものは出さずにおこう」、「現代の子供たちには隠しておこう」、
といった意図が、教育関係の役人、教員の中にはあるのでしょう。
江戸時代、結局は商人が栄え、農民は苦しみました。
階級制度を作り、「農民」は、「「武士」の次に偉いんだ」、
と言いながらも、実際には農民たちは苦しみ、耐え忍びました。
耕作放棄をして、都市へと逃げ込む人々も多かったようです。
しかし、更に下の、「」「」と言う被差別階級を作ることで、
少しは農民たちの心を鎮めようとしたのです。
「俺らより下の奴がいる」。
これは現代に於いて、「勝ち組」「負け組」とか言いたがる人たちに通じると感じます。
「人間に、上下など無い」。
これが真実のはずです。
結局は皆、一人で生まれ、一人で死んでいきます。
真宗的にも、「御同朋御同行」と言う言葉があって、
「人間皆平等」、なのです。
親鸞聖人は、自身ではお弟子をとりませんでした。
皆、「御同朋御同行」、なのです。
等しく生まれ、等しく死ぬ。
未だに続いているからあんな記事が出たのでしょうが、
「被差別」というものは、ちょっと考えれば、何の意味もないことぐらいわかりそうなものです。
人為的に階級を作っただけで、職業制限、結婚制限、などといった、
理不尽なことが横行しているだけに過ぎません。
「被差別民」を未だに、「自分よりも劣る」等といった考えを持っている人たちは、改めるべきです。
似た例として、と言うかもっと凄いものとして、
インドのカースト制、があります。
これは一般的には数段階しかないように教えられてきましたが、
実際には、その中に、さらに細かい階級が存在し、職業制限や結婚制限などが、
事細かに決められているそうです。
ただ、皮肉なことに、それが功を奏した、とも言えるのです。
それは、「IT産業」です。
これはごく最近に出来た職業ですから、カーストの中での制限はされていません。
だから、どんなに身分が低かろうと、自身の力で、IT関連産業で腕を振るう事が出来ているのです。
インドの急成長、将来は中国をも抜き去ると言われているほどの力は、ここから出てきたのです。
これは、カーストをうまく逆手に取った、低い階級の人たちの「勝利」と言えるでしょう。
とにかく、未だに日本に於いて、「差別」というものが存在し、
有名人だからと言って、その出自までさかのぼって、「叩いてやろう」、
なんて考えがあることが信じられません。
橋下氏については、石原慎太郎氏との合流によって、
「維新」の内容がグラついてきた、と言えますし、
メディアの突っ込みどころはそこでしょう。
出自まで掘り返す、というのは、ちょっと行きすぎましたね。