或る、統合失調症患者の独り言

Version 23,31. Jeder findet Liebe im Ende. - 宇多田ヒカル(私的ドイツ語訳)

「老子」の今読んでいる箇所

2013-06-17 00:49:45 | 日記
今私は、「老子」を読んでいる。

実際に老聃が存在したのかは、はっきりしていないが、

色々と示唆されて、自らが痛い部分や、世間に対する考え方が、

似ていたりするところがある。


書き下し文にすると、ちょっと難解なので、現代語訳を一部を抜粋しておこう、と思う。

ちなみに、岩波文庫版である。


第二十七章

「善人は不善人の教師であり、不善人は善人の手助けである。

 その教師を貴ばず、その手助けを愛惜しなければ、

 どんなに智者であっても、大変な愚か者である。」


第二十八章

「剛強なあり方を知りながら、柔弱の立場を守っていくと、

 世の人々が慕いよる谿(たに)となる。

 世の中の谿となれば、恒常の徳は身から離れず、

 純粋な嬰児(あかご)の状態に立ちかえる。

 賢明なあり方を知りながら、暗愚の立場を守っていくと、

 世の中の人々が仰ぎみる模範となる。

 世の中の模範となれば、その身は恒常の徳と違(たが)わず、

 極まりなき道の世界に立ちかえる。

 栄誉あるあり方を知りながら、汚辱の立場を守っていくと、

 世の中の人々が慕いよる谷となる。

 世の中の谷となれば、恒常の徳はその身に満ち足りて、

 素朴な樸(あらき)の状態に立ちかえる。」


第二十九章

「世の中の人々には、自分から行くものもあれば人の後に随うものもあり、

 おだやかに温厚なものもあれば、激しく性急なものもあり、

 自愛するものもあれば、自棄になるものもある。

 そういうわけで聖人は、極端なことは止め、ぜいたくなことは棄て、驕ったことは行わない。」


第三十一章

「いったい、武器というものは不吉な道具であり、人々は、たいがいそれが嫌いだ。

 だから、道を身につけた者は武器を使う立場に立たない。

 君子は平時には左側を上位とするが、戦時には右側を上位とする。

 武器は不吉な道具であり、君子が使う道具ではない。

 やむをえず用いる場合には、あっさりと使うのが最上である。

 勝ってもそれを賛美はしない。もし賛美するならば、

 それは人殺しを楽しむことである。

 いったい、人殺しを楽しむならば、自分の志を天下に果たすことなどできないのだ。

 吉事の場合は左側を上位とし、凶事の場合は右側を上位とする。

 副将軍は左側に位置し、上将軍は右側に位置する。

 喪礼のきまりによって位置するということである。

 大勢の人を殺すので、悲哀の気持ちで戦に臨み、

 戦に勝っても、喪礼の決まりによって位置するのだ。」


何か全部が重要なことに思えて、抜粋、どころの騒ぎではないかもしれないが、

個人の振る舞いだけでなく、国家の長たる人の心構えとしても、

心にとめておく、あるいは実践する、基本的なことではないだろうか。