脳出血で無職になった親父のブログ

株式投資に腕時計が好きなオッサンのブログです。年齢を重ねスピリチュアルにも興味を持ったお蔭で人生感も変わりました。

行方不明債権を初回収!どうやって、ここにいるのが?わかったんですか?

2015年09月24日 10時00分39秒 | わが半生
借金をして返済せずに居所を教えず姿をくらます債務者は決して少なくありません(・・;)こちらも本人探しに必死にさつつも結局は親兄弟、親族に対して本人に代わって支払いをしてもらうことが多かった時代でした。しかし?この離婚した主婦は身内も少なかったのです。お金を貸すとき、そう新規融資の時に申込書には実家や本籍地、親や兄弟の住所も記載してもらっていました。なんせ昭和50年代、現在のように個人情報保護なんかない時代でした。顧客も目先のお金欲しさに何でも書いてくれていたのです。その申込カードには別れた夫の実家が記載され連絡をすると、勿論、別れた嫁のことなど知らん!ですわ。住民票は変わらず結婚していたときのまま。意外にも手詰まりの早さに私は、一時は、やっぱり無理かな?と判断したとき新規融資の時に預かった健康保険証のコピーを何気なく見たのです。そこには、その女性か勤めていた会社の社会保険証で勤務先などが表示されてるのですが健康保険証には記号があります。私は管轄の社会保険事務所へ電話したのです。もちろん、普通に聞いても答えてくれません。そこで、病院の事務員になりすまし聞いたのでした。
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行方不明債権をいきなり回収した!

2015年09月23日 10時46分36秒 | わが半生
レ◯ク玉造支店で貸倒予備軍の債権回収をしていた私は、仕事を持っていた主婦多債務者になり離婚の後、行方不明で約1年近く未回収となっている台帳に何と無くですが引き込まれ調査をしていました。債権回収の基本的な流れである住民票に当時は戸籍謄本や附票を役所へ郵便で申請し取得、借入れ状態の確認で情報センターへの問い合わせをしました。情報センターには最近まで借入れ状態や登録されてる勤務先や住所、また長期延滞などの事故発生の有無がわかります。戸籍謄本は改正原戸籍や場合によっては除籍謄本なども取得することもあります。戸籍の附票は過去の転居状況もわかります。それらの書類は 、ほんの手始めで回収の本番は、その書類を揃えてからが勝負!話術、ネゴシエーション能力が、ものを言うのです。そして、新規契約の時に顧客から提示してもらった免許証や健康保険証のコピーを再度、見直します。そこに大きなヒントが、この債権にはあったのでした。
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やっぱり消費者金融へ

2015年09月22日 11時08分17秒 | わが半生
昭和58年3月私は業界第4位のレ◯クへ入社したのです。新店舗のため心斎橋支店にある延滞債権を回収することになったのですが内容を見て驚きました。なんと延滞日数300日以上の債権が100件以上あったのです。それも債務者本人が行方不明も多々あり回収が困難なものばかり。『◯◯君、ま、うちの支店もヒマやし、ゆっくり。やってくれたらええよ。あ、ほんでな、わからん事があったら聞いてや。見て、ビックリしたやろ?もう、今期に貸倒する対象債権やから取れなくても当たり前やし(・・;)』支店長は淡々と私に言いました。私は早速、台帳を、取り出し台帳ボックスの中へと整理したのです。中には、ややこしい方々の介入してるもの、債務者本人が反社会勢力の人と、まぁ、ホンマにバライティーに富んでました。そして、まず一件の債権に目をやり債務者との経過記録を読んでいると?その債務者は女性で夫と離婚。正社員で働いていた会社も当然、退職しておりました。住民票は離婚前のままでしたが当時は本籍地が記載されていたので本籍地住所を見ると奈良県になっていたのです。幸い地番表示の住所地で奈良支店へ電話し該当地番をコピーし玉造支店へ郵送をお願いしました。そこにはフルネームで氏名があり電話番号案内(104〕で調べたのです。当時は番号案内は無料のサービスで調査にはよく使いました(O_O)すると、その氏名で番号登録があり、かけてみたのですが昼間のためか誰も出なかったのです。ま、そんのもんやと、その債権は一旦、済ませながら次々と他の債権をみていきました。結果、数件ですが私なりに回収できそうな債権がありました。その数軒の中に1番最初に見た離婚した行方不明の女性顧客も、この時は、ただ何と無く回収できそう?としていたのです。この債権が私のレ◯ク入社直後の運命を変えた債権でもあったのでした。
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俺の働いた分のお金をください

2015年09月21日 09時49分04秒 | 裁判
平成27年9月上旬 私は代理人である弁護士を通じて割増賃金の請求を裁判所へ申し立てました。それは昨年、弁護士より『残業代・・ご請求されますか?』たまたま私が会社に対し損害賠償請求の準備中に退職すべきか否か相談した時のことでした。もちろん、弁護士は在職中である方がメリットもあり多くの依頼者は退職してないというので弁護士の意見を参考に退職を思いとどまった直後の投げかけだったのです。私は『はい。行うことで宜しくお願いします。』そう伝えた後、今年1月裁判所と弁護士2名が会社へ赴きタイムカード・日報等の証拠を徴求しました。そして9月上旬の某日、初回の口頭弁論となったのです。双方、代理人が出頭。そして双方の陳述となり次回は10月中旬。相手方からは私に対し管理職手当の支給・人事考課する立場で時間的にもしばられることなく幅広い裁量があるという・・こちらから、次回、その主張を具体的に提示するよう求めているとのことでした。弁護士より書面で報告と相手方の答弁書が送られてきました。(??幅広い裁量?)私は思わず笑ってしまいました。丁度、妻がキッチンから【おやつ&お茶】を運んできた時『何を笑ってるん?』・・『あ、この前の?』私は黙って頷きました。全て取締役である自身が決定・指示・命令しておりすべての事項に対し報告を求め、会社の社旗・社則は見たことなく各職位の決裁権限が社内で公にもなっていません。消耗品購入でさえ稟議申請し取締役のサインが必要な会社です。課長とは名ばかり・・社員を自分の道具としてしか見ていない・・私は次回、どのような主張をしてくるのか楽しみで仕方ありません。
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やっぱり消費者金融へ

2015年09月20日 09時49分55秒 | わが半生
昭和57年9月・・家電量販店に入社し、わずか半年で転職を考え就職情報誌を購入。そして応募しようとした会社は・・今では三井住友フィナンシャルの一員となったプ○○スと新生銀行フィナンシャルのレ○クでした。ほぼ同時に履歴書を郵送すると先に面接をしたいと回答が来たのがレ○クでした。私は大阪のビジネス街の中心である地下鉄本町駅を降りてレ○クの近畿支社へと足を運びました。当時、【サラ金】と言われながらも本町に本社ビル、近畿支社も自社ビルを構え消費者金融会社で自社ビルを持っているのはレ○クだけでした。また、もともとアコムもプロミスも大阪で創業されてますが本社は東京に移転してました。当時の業界大手4社で唯一、大阪を拠点にしていたのがレ○クです。私は面接を終えて自宅に帰るとプ○○スから面接の案内が来ていたらしく翌日、電話をして面接の日時を約束しました。すると、その翌日、レ○クの面接してくださった方より連絡が入り採用したいとの回答をもらったので、すぐさまプ○○スへ連絡し面接辞退をしたのです。そして昭和58年3月 レ○ク玉造支店に配属となりました。丁度、私が入社する少し前にオープンした新規店舗でしたが10店舗同時オープンだったらしく業界・・特に大手は出店競争をしていた時代です。ちなみに当時の金利は年率47・45%で10万円を借りると一か月3900円が利息でした。現在では考えられない高い金利でしたが、それでも当時では安かったのです。新規オープン店舗でしたので顧客数も少なく、やはり早朝のティッシュ配布や折り込みチラシでの集客。友人の紹介を促すことで来店を増やそうとしてましたが・・環状線の玉造駅・・かなり集客は厳しかったのです。支店はヒマで・・・そして私が入社して1~2週間した頃、支店長から『○○君・・回収業務をやってみる?ここ新店やし回収もない。この仕事は回収してわかって来ることも多いし・・』もちろん快諾しました。すると翌日、支店長は心斎橋支店に出向き100件前後の延滞顧客台帳を持ってきてくれました。『○○君・・これ遅れ客。えっと100人ほど持ってきたから・・』当時は今のようにデータ管理されておらず全てが紙ベースでの管理でした。なにせ支店にはソロバンもあったくらいでしたから。そして店長が持ってきた顧客台帳を見て驚きました。なんや、これ!!
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